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タイトル通りの内容です。
現実として宗教=神(仏)は多様に存在していることに関して、信仰を持つ人間はその本質としての絶対性といかにして折り合いをつけるかという問題を考えたく、質問致しました。
結局のところは、原理主義と多元主義のいずれかに落ち着くと思われますが、前者の場合、原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらすという、救済との矛盾がいかにして克服されるか、後者の場合、ではそもそも神の多元性の原因は何か、というような疑問があります。

A 回答 (25件中1~10件)

NO20ですが、補足します。


NO20におきましては、選挙の例を用いた上に、更に信者の側からの視点で言及した面もありましたので、私の説明に不充分な面もあったかと思いました。

NO20の管理職の例を用いて補足しますと、
選挙では仮にBさんが管理職として選出されたとしましょう。
この場合、実際の実力はCさんが1番、ということはありえるわけです。
選ぶ側の見識が不足していた、ということはありえるわけです。
ですから、霊界においては、本来の序列というものがあると思いますが、この世においては結局は選ばれた結果で勢力分布が分かれる、という形になる、と思います。
ただもちろん、この世での選出の結果が、霊界での本来の序列のとおりとなる、ということはありえますので、そうした理想の形が実現すれば望ましいなあと思う次第です。
ともあれ、各人がしっかりと各派の内容を吟味して、その都度、最善と思われるものを選べばいいと思います。
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この回答へのお礼

厳格に見える宗教でさえ
結果的に「ユルい」考えでもって回っている。
思いの外気楽で前向きな解釈が出るものですね。。
適当にまとめてしまいましたが、ともかくありがとうございました。

お礼日時:2009/09/23 23:25

>私の考えでは、繰り返しますが、信者自身にとっては「拠り所」ではなく「真理」でなければ成り立たないはずです。



ご質問のジレンマは、「真理」という絶対的な物を信者と言う多様で広範な物に落とし込もうとしているから発生するのだと考えますね。信者と言うものが一様に等しければ、dansunflux さんが言われる様な帰結に至るでしょう。しかし、現実はそうならない。そうならないのには根拠があります。信仰心であれ信ずる人であれ、強さと種類があります。絶対性を持つ教義に対してどう接するか?それは人それぞれで一様ではありません。そのため

>ダブルスタンダード的に神の絶対性を留保する力が働いているか、もしくは実は真面目に信じてはいないかでしょう。

というのも極端な一例に過ぎない訳です。
絶対性を認識しつつも等の本人の解釈が異なれば、絶対性が失われると言う事にも気付くと思います。

しまり絶対的ではあるが、一人一人にその絶対的な物を落とし込もうとすると、解釈、信仰心その他精神性の違いにより、その時点で実のところ絶対性は失われてしまっているのです。
つまりそこでジレンマが発生している。とは、考えられませんか?
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この回答へのお礼

>相反する気持ちが同時にあるのが人として正常な状態
非常に示唆に富んだご意見です、
私もそう思います。
なぜ人間はこうにも非合理的か。
しばらく、考えてみたいと思います。

>絶対性を認識しつつも当の本人の解釈が異なれば、絶対性が失われる
信仰はテキトーでもよい、
(しかしテキトーな宗教は認めない。)
解釈には何かしらの基準はあるが、絶対的でなくても良い
ということになるでしょうか。
科学的・宗教的・夢・日常的etcの世界の多重性が、人間の主観世界において折衷され統一されるためだろうか。
そのまま現象学ですね。。

お付き合い頂き、ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/23 23:17

>sugartaxさんは、上の回答に示される考えと信仰心が両立すると思われますか。



間違いなく両立すると思います。信仰心にも段階と言う物があります。
何となくあるんではないか?という漠然とした物から、厳然と従うべきものというまさに原理主義的な信仰心まで様々でしょう。当然原理主義的な宗教でも、我々日本人のように漫然と従っている(とあえず従っておく)という人は少なくない。
そして『拠り所』は気休めなどという安い物ではありません。

例えば、ある意味『弱い信仰』として、あなたはこの哲学的な思考を考え方の規範とされている。しかし、「宗教」として原理主義的な規範とまではされていない(ように見える)。例が逸脱し過ぎましたか?
他に面白い例としては、ある場所が立ちションベンの被害に悩まされていたのですが、そこに小さな鳥居の絵を描いた所ピタリと被害がなくなったという事実があります。これを宗教と言うかどうかは悩むべきところですが、これも一種信仰心です。
正月にイベントとして詣でる神社の鳥居という、ただのシンボル的なものにさえションベンをひっかけることを躊躇するのです。人とはそういうものです。

押し並べて全員が同等レベルの信仰心をもつ訳でなく、さらに言えば偏った信仰をもった人だとしてもによってどのような意味でその信仰を成り立たせているのか『精神的な利害』が異なる場合が多い。当然、『教え』に対してどこに傾倒するかも信者により異なってくる。そして、信者は信者同士で派閥やグループを形成し、教えに対する精神的な利害とはまた別の利害から、闘争や結託が生まれるでしょう。人である以上、同一の宗教でさえ多様化はまぬかれない。

そういう意味で言えば、ある程度拡大した原理主義はもはや原理主義を維持できなくなる筈です。その中枢には私は立ち入った事がないので分かりませんが、中枢の意志を末端にまで届かせようとしたら間違いなく『弾圧』が起こるでしょう。まさにオウムのように。

それからダブルスタンダードという言葉は詭弁です。
例えば「リンゴよりナシの方が美味いじゃん」と言いながらリンゴは体にいいよと言いながら販売するのはダブルスタンダードですか?どこぞのチャンネルならダブスタ扱いでしょうね(笑)あまりにも多くが見えていない。まさに ch が言うところの「思考停止」です。(思考停止という言葉自体が思考停止ですが。笑)
アンビバレントな「相反する気持ちが同時にある」状態が人として正常な状態です。
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怒ってはいません。

ポケモン(ユニコーン)は,
実際問題として存在しないというのが私の回答です。個人的・主観的には正しい解答だと思いますが…

質問者様の主張は、

☆『神は多様である。』ということです。

この主張は、神の存在を前提としています。

質問者様のおっしゃりたいことは=
☆『タイトル通りの内容です。』

また、
☆『現実として宗教=神(仏)は多様に存在していることに関して』
主張しておられますが、根拠がありません。

★神は存在しません。質問者様の思い描く、「一般の神」をモディファイした「改良版の神」も存在しません。ないものは改良できませんので。

☆『信仰を持つ人間はその本質としての絶対性と折り合いをつける』

というのも主張。いるとしても、かなり少数の人間だと思われます。

★この項目の「回答者」の中には、このようなことを本気で信じている知能レベルの低い人もいるかもしれませんが、少数派、もしくは、たったひとりでしょう。

☆『結局のところは、原理主義と多元主義のいずれかに落ち着くと思われます』

この主張も根拠がないのではないでしょうか?

ケース1
☆『宗教が原理主義を伴う場合、原理主義と原理主義の対立が殺戮や「荒廃をもたらす」。』

★一神教の批判は、それを信じている人を対象として実践してください。

★ここは哲学カテゴリーのQ&Aです。この哲学カテゴリーで、一神教を広げようとしている人は、哲学者ではありません。信者です。

普通なら、くだらない質問で『☆荒廃をもたらす』のは極力避けていくべきでしょう。質問者様も信者ではないという自覚があるのであれば慎むべきです。(それでもあえてくだらない質問をするのが狂信者です。そんな人が一体存在するのか、よく観察してみてください。)

☆『救済との矛盾』がいかにして克服されるか?

是には回答が出来ます。

★「神の救済はありません。」矛盾以前の問題です。

この人たちは、「信じてみればわかる」とか「貴方に共感します。時(トキ)がくればわかるのですよ!」とか「可能性ですよ!」とかキモいことを言ってくる… 詭弁です。

「死んだあとには救済されているのですよ」ということ。
( 救われるか救われないかはわからないが、更にそう信じなさいということ。救いようがありません。)

自白は絶対しない。(それでも他人をだましとおす!余計なお世話です…)

最期までうそを突き通すことです。

★でもお葬式は、親の宗派の葬式(浄土真宗www)です。「本当にくだらないこと」だと思いませんか?

さもなくば
オ=ムのように世界を破壊してみればわかるとか敵を根絶やしにしてみればわかるとかと言い出します。でも行動すべきは、常に「他者(自分以外の人)」であるということに注目してほしいのです。言いだしっぺは、壁の中に隠れています。

兵士が戦うべき
手下ががんばるべき
信じていないものが信じるべき
平社員が働くべき
若者が行動すべき

という主観的「べき」論です。自然法・組織の法制・法規を度外視した「オレ様が基本」の権威主義=独善主義です。

★プロジェクトチームには、ミッションがあります。
家父長的社会には、庇護と忠誠があります。
成果主義の社会には、透明性があります。

★一神教の社会に存在するのは、「教義」のみです。

この人たちのやっていることは、
「聴衆よ!お前はオレの手下だ!まずは信じることだ!次は俺の言うことを信じろ!俺の書いた言葉を読め!ということです。」他人にどうしろといっているだけ・議論ではありません。

★組織のない一神教(水による洗礼を受けないwww) には、それさえもありません。存在するのは、ヘリクツと虚言のみです。

「5年後には富士山が爆発する」と主張する自称「預言者」が、その当日になると雲隠れしているという事実に似ています。(2000年前後の実話)
「なぜ逃亡したのか」と問い詰められると、「この世の終わりだと思ったので避難していた」と一聴 「なるほど」と思わせる回答ですが、ヘリクツもいいとこ… 

前提が虚言だからです。土地の登記が終わっていない農地に家を建てるのと同じです。

★存在論は、「読み物」ではないのですから、「存在しないものの存在」について議論するのは、かなり厄介です。滅相もないと断じることが出来ます。

★こいつらは、自分の主張に関して、「間違っていたから責任をとる」なんてことは夢にも思っていません。

ヘ理屈はいつでも・どこでもこねられます。無駄話です。個人的には文学・国語でやってほしいのですが…

(慕って訪れる孫もいないのでしょうから、そういうかたがたは、自分の住んでいるところで大好きな聖書の読書会をやってればいいのです。他人の迷惑を考えるべきです。)


ケース2
☆『宗教が多元主義を伴う場合…』

★意味が不明です。

☆『後者の場合、ではそもそも神の多元性の原因は何か、というような疑問があります。』

もう一度繰り返します。

★神の多元性は存在しません。神は存在しないのですから。

「神はいない」と見れば、議論が完結しています。始まりさえもしません。

つまり、
★質問者様がお探しの「回答」とは、「そもそも存在しない」か「ヘリクツwww」かのどちらかです。


果たして、「ポケモン(見えざるwww)」は。存在する可能性があるのでしょうか?どうでしょう。(回答・経験者・自身あり)


「だからぁ ナイ っつーの!www」(アドバイス・一般人・参考意見)

この回答への補足

お礼への補足ですが
もしあなたが仏教の人でしたら「煩悩」は捨てるべきでしょう。
あなたの批判は一理あると思いますが、批判を越えて中傷になるのは避けるべきです。

補足日時:2009/09/23 09:16
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この回答へのお礼

繰り返しますが私は
「信者にとって」の問題提起
をしているのです。
ですから当然神(仏)は存在するという仮定の上での話になります。

お礼日時:2009/09/23 09:03

No12 です。



>噛み合わないやりとりを強要しているようで申し訳ありません。。

いえいえ。なるほどそういう事でしたか。

>要点として
>宗教は全て絶対的でなければならないのではないか、ということがまず一つ。

まず、この帰結自体がどこから来たのか私には定かではありませんし、アニミズムを許容しつつ「宗教は全て絶対的でなければならない」という結論に至るには、アニミズムを宗教として認めていないのかな?とも思ってしまいますが、それはこの際置いといて・・・。

宗教をなんと定義されているかによってその絶対性は変わると思います。
一般人として見るならば宗教のありようは、ただの拠り所です。そして宗教は権威ではなく大衆より始まる。大衆が原点です。
詰まるところデーモニズムであっても良いし、拝金主義でも構わない。
ただ、そこに人格を投影したに過ぎない。そう考えれば、絶対的である必要はなく当然原理主義である必要もない。

そして原理主義は「宗教が絶対でなければならない」のではなく「宗教に絶対性を求めた」のです。
それ故にキリスト原理主義は多くの苦悩と闘争を抱える事になった訳です。
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この回答へのお礼

sugartaxさんは、上の回答に示される考えと信仰心が両立すると思われますか。
私の考えでは、繰り返しますが、信者自身にとっては「拠り所」ではなく「真理」でなければ成り立たないはずです。少なくとも「気休め」で「天国」や「輪廻」を信じ、宗教生活を実践しようとは思わないのではないでしょうか。ある人において、他の宗教と多元的に成立可能な、気休めとしての宗教が成り立つとすれば、何かしら彼の内には、ダブルスタンダード的に神の絶対性を留保する力が働いているか、もしくは実は真面目に信じてはいないかでしょう。初めの質問に戻ってしまいましたが、sugartaxさんの文脈においてはこのように質問内容は詳細化されると思います。

お礼日時:2009/09/23 08:12

原理主義が複数存在していること自体、既に客観的には多様である、という現実実態を表していると思います。



多元性の原因は、現実的に、信者から見ても、一定の神と認めてもいいレベルの方々が、多数いらっしゃるからである、とも言えるでしょう。
会社だって、平社員から見ても、AさんもBさんもCさんも管理職として一定の力量を備えておられることはわかる、ということはあります。
それが宗教においてもあるのは自然なことのように思えます。

あとは選挙に似たような感じでしょうか。
AさんもBさんもCさんも、自分こそが最も適任である、とPRすること自体は自由ですし、
選ぶ方も、Dさんは管理職適任者はAさんしかいない、と思い、
EさんはAさんもBさんも管理職としての力量は備えているけど、順位をつけるとすればCさんが最適、と思う、
ということがあるわけです。

最大のポイントは、
立候補者の発言自体は制限できなくても、
結局は選ぶという行為で決まる、
ということではないでしょうか。

すなわち、
選挙で言えば政策内容ですが、つまりは宗教の内容を見て、
最もいい、と思うところを選ぶ、
ということで決まるわけですから、
殺戮につながるところを選ばなくなる、ということはありえないわけではないでしょう。
また、日本国内であれば、殺戮行為に関しては別途法律で取締がありますので、この点最低レベルの問題はクリアしていると思います。
ただ、国際レベルで見ると、一日本国内のようなわけにはいっていない実態があります。
ただ、それは宗教に限らず、イデオロギーや民族や利権等々の面でも同様です。
ただ、世界史を見てみると、改宗、ということ自体は多々ありますし、
また、宗教に限らず、戦争行為自体も、例えば第二次大戦後、その反省から例えばGATT(関税貿易一般協定)等々を設けたりして、戦争を極力回避しようと様々な取り組みがなされて来ています。
ですから、世界レベルにおいても、日本国内のようなあり方に持って行くこと自体は、不可能ではないということは言えるでしょう。
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この回答へのお礼

鋭い指摘に思えます。

候補者である神(仏)同士言っていることが矛盾し合っている場合、ある神(仏)が「ポスト」に就いた時点で、他は「天下る」しかないように思えます。例えば大日如来がポストに就くなら、大日如来は文字通りアラーよりも天照大神よりも「偉く」なるはずですが、これは無限大の数字に大小関係を付けるような矛盾に陥っているのではないでしょうか。

さらに問題はなぜ信者はその神(仏)を選んだかということで、もし「感性に合うから」程度の理由しかないのなら、自らがその神(仏)を信じるという理由でもってのみ「救済」を信じるに至るのなら、神(仏)による「救済」はあみだくじのようなもので、結局「外れ」という可能性が避けられないはずです。

かなり良い所まで来られた気がします。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/09/23 08:52

なぜ理解できないの?



現実は、
「神は、存在する」か
「神は存在しない」かのどちらかです。
 理解することではありません。

キリスト教の神(主観的改造/海賊/改良版の「かみ」)

リアルは、様態
リアリティーは、オブジェクトです。
神と仏性は、どちらがどちらに属するのでしょうか?

回答=手続きの問題です。

くそ(みそ)
馬(鹿)
宗教(哲学)
原理主義(多元主義)
神(仏)
絶対(主観)
私見(情報源)

質問(自分の主張)

同様の誤謬
AあるいはB
Aの質問あるいはBというふざけた質問

Aを訊きたい
といいながら
 Bを主張する

Aというの(うわさor自分の主張したいこと)は、本当ですか?と疑問系で信憑性の印象を刺激する。

Aであるのは、なぜ
 と質問しながらAと言う主張を正当化する

全部週刊誌のタイトルと記事内容の焼き直しです。

船乗り・漁師でもないのに
 「船と船乗りの物語」を書く無知な散文家とおなじ。

なぜこんな本を書くかというと、「だって編集さんが、旅をしたくなる本を書いてください。たすきのコメントも、すでに出来ています。といってたんだもん。」という理論です。


この種の本・散文は、購入された後、「くだらネ」と一蹴され、
数日でリサイクルショップゆき…

新品100円均一のアサリ台で「売れ残る」くだらない散文です。

取材の「ねた」となった船乗りさんには、「取材に当たって一言の挨拶もなかった」・「レポート完成後、感謝のかの字もなかった」というのも秘密です。

もっと正確な質問を国語・文学のカテゴリーで提起するようにしましょうネ!

!?の文化は、某チャンネルだけで勘弁してください。
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この回答へのお礼

nananisseさんが怒っておられる理由は分かりませんが、ともかく私としてはいかに仏教が私のいうところの「宗教」から独立しているかについて、あなたの議論を待っているところです。
一応明言しておきますが、今回の回答中の批判の大部分は私の意図とは無関係に思えます。

お礼日時:2009/09/23 00:54

>実際には、"なぜかなあなあのままに"宗教宗派が乱立する状況があり、宗派を越えて人間は分かり合うことができている。


このダブルスタンダードはなぜ成り立つのか、ということです。

調停というよりは超越的地平という問題になってくるのでしょうか。

つまり世界は多様における統一をその本質とする、という考え方ですね。

その可能性のお話でしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>調停というよりは超越的地平という問題になってくるのでしょうか。
この表現を借りると、あくまで「調停」であると思います。「多様における統一をその本質とする」ということは、少なくとも宗教者にとっては彼の神において究極の本質に至っているのであり得ないはずです。
質問とは離れますが、私にとっては非常に興味を掻き立てられる命題ですね。

お礼日時:2009/09/23 00:24

No.12 です。



>少し誤解があるように思います。
>私の質問は、神を信じる人にとっての話とお考えください。

はい。私もそのつもりでした。

>>取り込みと破壊です
>神の意思による神の取り込みと破壊、とまるで人間のような争いを必要とする神は、他でもなく人間の、天に映る巨大な影だったのではないか、という疑問に対し、宗教者はいかに応えうるでしょうか。

取り込みと破壊は、人の側で起こります。
私は宗教間の問題として「神の意志」と称して信者が、他の宗教の神を「悪魔」として取り込んで「破壊」すると解釈しています。
また、仏教では融合してしまうようにも見えますね。

ひょっとして、ギリシャ神話のような神々や日本の神話のような神々が、(同一の思想の中で)争う事に関して言っておられるのかなぁ?
「他でもなく人間の天に映る巨大な影」という dansunflux さんの表現には人(とその宗教)に対して否定的な意識を感じますが、人がもとめる拠り所は人もしくはそれ以上の存在でなければならない訳です。ある程度段階を踏むとは思いますが、人が自らを投影した物が人臭くなるのは、ごく自然なものだと思います。
なんでしょうね。拠り所を求める心に弱さや欺瞞を見るのも良いですが、その必然性にまで視野を広げるのも良いかと思います。

>多元性が発露しているに過ぎません。
信者にとって神は絶対的だとすると、そこで神の絶対性と多元性は相容れないのではないか、というのが私の問題とするところです。

何をもって絶対的、多元性とするかですね。
宗教(神)と広範にくくり過ぎている気がしますね。キリスト教とアメニズムは、宗教ではあるが全く別物です。
実際、日本の一般の意識では絶対的な神はいませんでした。
神とは畏敬の対象でしかない。そこには多元性しかない訳です。

また、キリスト教では唯一絶対神になる?のでしょうが、これは先の通り、他の神を神として認めない事でその絶対性を維持しています。
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この回答へのお礼

噛み合わないやりとりを強要しているようで申し訳ありません。。

要点として
宗教は全て絶対的でなければならないのではないか、ということがまず一つ。
そして、宗教はその絶対的であるがゆえに、原理主義を避けられないのではないかということがもう一つ。
そして、それなのに現実として原理主義は、少なくとも先進国家においては一派閥に留まっているのはなぜかということが一つです。

私自身八百万の神については「あり」だと既に言っているように、
アニミズムは特に問題としていません。
確かにここも微妙だと思いますが、経験世界を超越した根拠において価値判断を下すか否かでもって区別しています。

お礼日時:2009/09/23 00:12

 No.4&7&11です。


 dansunflux さんとわたしとの異同の異のほうも分かったかと思います。その点を述べます。
 ★ (No.11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 なるほど、確かに「無記」としておくのが良いかもしれません。
 しかし私としては「見えざるユニコーン」について、その可能性を前提において語ることは避けたいところです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 神について不可知でもなく可知でもなく 無記とすると 《見えざるユニコーン》だという規定がはびこるというお考えでしょうか?
 ★ ユニコーン
 ☆ という規定が 非思考の信仰を表わすのに似つかわしくないかどうかの問題だと思います。想像上のものだとしても 動物として形を持つものだとしたら その表象が成され得ることになります。すなわち 観念の偶像だということになりませんか?
 ですから 《見えざるユニコーン》という表現で――おそらく人のもっとも主観的である部分としての信仰をほかの人間が判断して規定したり指導したりする宗教を批判しようとしているのでしょうが そのときしかしながら―― 信仰を揶揄するとなれば 問題は違ってきています。
 おそらく 信仰を 宗教と同じように可知だと規定する部分と 一部の科学と同じように不可知だと規定する部分とを 同時に備えているのが この《見えざるユニコーン》説だと思われます。つまりそれぞれ《ユニコーン》と《見えざる》とです。

 ですから
 ★ 「見えざるユニコーン」について、その可能性を前提において語る
 ☆ というとき 《その可能性を前提にお》くこと自体が 信仰から逸脱しているのではないでしょうか?

 繰り返しになるかも知れませんが 記します。たしかに わたしは
 ○ 信仰者が 神を《見えざるユニコーン》だと表現するところまでは 自由だ
 ☆ と言いましたし その矛盾を指摘し批判するのも自由だと言い添えていますが 問題点はふたつあると考えます。問題点というよりは やはり信仰の可能性もしくは現実性という盲点のようなところです。

 1. 見えざるユニコーンだと言ったからといって その偶像が神そのものだと言っているわけではない。この可能性を捨ててはいけない。――主観は そこまでは とうとばねばならないですね。
 2. 《見えざる》という不可知と《ユニコーン》という形としての可知とのあいだに矛盾があるという指摘は ひょっとすると 《神の臨在》を言おうとする表現であるに過ぎないかも知れません。――そしてこれも 主観の内なる出来事としては そこまではそのままを人は受け取らねばならないと考えるのですが どうでしょう?

 付け足しのようなことですが 一般にどうも信仰と宗教を一緒にして議論している場合が見られるのではないでしょうか? ひとの信仰がほかの人間の発言などによって生まれたり左右されたりすることを宗教の教義なり組織なりがゆるしているとすれば それは 個人の信仰の自殺行為だと考えます。そのように神は可知だと規定したかたちを採る諸宗教による神の多様性は 多様でも何でもなく 神でさえないということだと思います。
 そしてそれは 神を不可知だと規定するそういう科学の場合も同じ間違いを侵しているのではないでしょうか? 要するにどちらも 神の上におのれの主観が乗っかっています。おのれが《絶対》に取って代わっています。信仰がおのれの主観の外に出かけてしまうからだと思います。

 * 補い直します。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ですから
 ★ 「見えざるユニコーン」について、その可能性を前提において語る
 ☆ というとき 《その可能性を前提にお》くこと自体が 信仰から逸脱しているのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この場合はけっきょく このこと自体がすでに信仰のいわば相互の査定をゆるしてしまう宗教の問題になっていたようです。だとしたら dansunflux さんのご見解も同じだとなります。
 つまり わたしの見方も すでに同じだったのですが それを違うと捉え別の見解だというふうにコメントされたものですから この仕儀に及びました。書いたあと読み返して気づきました。
 ですから このわたしからの応答は No.11までのところ互いに見解は同じだと思いますよという趣意だったようです。書きなおさずにそのままを回答とします。あしからずご了承ください。(ただし ご見解が違うようでしたら 明らかにしておおしえください)。
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この回答へのお礼

繰り返しありがとうございます。
見解はおおむね一致しています。
ただ私は、「かもしれない」「どうか分からない」ことについて話す必要はないと思う、ということです。
この点に関し、誤解があれば済みません。
質問の扱う領域を既に大きく超える話になっているということもあります。

お礼日時:2009/09/22 23:31

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