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質問のとおりなのですが、過去や現在にわたり、虐待(言葉、態度、身体的な虐待すべて)を受けている事実、心や体に与えられた影響への対策は本などでは多く「加害者を許す」ことが自分への救済だ、と述べられていますが、実際簡単なことではないと思います。可能なことなのでしょうか?そのような心境になった経験者の方のご意見もうかがいたいです。

A 回答 (4件)

こんばんは。


許すと言う事は、その加害者達から心が離れると言う意味で、必要な事なのでしょうね。
忘れ去る事に通じているかも知れません。
いつまでも心、穏やかになれないのは、あまり自分に取って良くないので、もう関係ないと思う心でしょうか。
それを許すと言ってるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

許すというのは、出来事と事実と認め、そのとき味わった負の感情や、加害者への怒りを直接ぶつけるなど、現実と直視することから始まると思います。そして加害者との話し合いや対決などがあり、お互いの気持ちがわかり、謝罪を得て相手を許す…それが理想なのかもしれませんが、現実難しいです。
加害者自身も自己防衛からその事実や自分の非を認めないわけですし。
となると最後は自分との闘いですね。

>いつまでも心、穏やかになれないのは、あまり自分に取って良くないので、もう関係ないと思う心でしょうか。

私もそれを許しだと思います。
罪を憎んで人を憎まず、ということになるのでしょうね。「ことわざ」は高尚なものの喩えだと思いますが、ことわざどおりになれれば、それはもう人格者です。
ただ潜在意識はすべてを覚えているわけで、それが心身に影響を与え続けているのなら、忘れる=抑圧することは逆効果になると思います。また頭でキレイごとばかり心に言い聞かせても同じことです。

心が離れるというのは、執着しないということだと思います。無理やり忘れたり引き剥がすのではなく、許すか許さないかの葛藤の外で、自己治癒力や成長や、「気づき」などの自然作用で、結果として許すことができたら本当の許しなのではないかと思っています。

お礼日時:2009/11/10 05:13

こんばんわ。


たいへんな思いをされたのですね。

さて、私は加害者を絶対に許すことはできません。
確かに自分だけの話なら許せる可能性もあるでしょうが、職場でのイジメがうつ病の発病となって襲ってきました(しかも転勤後2年ほどたって希死念慮、自殺未遂まで起こしました)。

その結果、迷惑を被ったのは
・自分(未だに病院通いが続いています)
・自分の家族(心配して電話がかかって来て、たまに様子を見に来ます)
・転勤先の上司、同僚(本当に気を使わせています)
・本社役員及びその部下(何かしら気にしてもらっています)
・見合いの相手及び仲を取り持ってもらった方々(すでに30代後半でしたので)
など、広範囲に及びます。
このことを考えると、とても許す気になることはできません。

ですので、正直言って、まず迷惑をかけた他者へ謝罪が終わってから考えたいのが正直なところです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご回答者様も大変だったですね。また温かい周囲の方に恵まれてうらやましく思います。

これは私の率直な意見ですが、許すか許さないかの葛藤があるように思いました。
確かに迷惑をかけた周囲への気遣いは必要なことですし、本来加害者側が当人へは当然、関係者へも謝罪すべきですが、haisenさんの気持ちの上では直接関係ない彼らとhaisenさんの問題と切り離して考えた方がよいと思いました。大切なのは当事者であるhaisenさんの気持ちであり、他の方への迷惑を考えるから許さないのは最後にも書いてあるように「考えたい」=本当は許せるかもしれない気を他の問題にそらしているように感じられます。またそれは周囲の本意でもないでしょう。haisenさんが周囲の方に迷惑をかけた旨を伝えるのは、あなたの気持ちの解決があってからでよいのでは?と思います。

お礼日時:2009/11/10 04:49

虐待ではありませんが、犯罪被害に遭ったことがあります。



「加害者を許すこと」ができるのだとしたら、加害者に心からの反省と謝罪の気持ちがある場合かもしれません。
さだまさしさんの「償い」という歌をご存知でしょうか。
加害者が、あの歌詞のような態度を取り続け、被害者にその気持ちが通じたとき、やっと「加害者を許す」気持ちになれるのではないでしょうか。

私は、「加害者を許す」=「過去にとらわれないで生きること」だと思います。
加害者のしたことは決して忘れることはできませんし、許すこともできません。
だから、加害者を自らの手でこの世の暗闇の中へ、地獄の火の中へ放り込むのです。
自分と同じ人間とは思わず、下等動物にして忘れ去ります。
私は、加害者の反省の態度がひとかけらも見られなかったので、このようにやりました。

『「加害者を許す」ことが自分への救済だ』
この言葉は、過去にとらわれずに前に進むため、前向きに生きるために必要な言葉なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>私は、「加害者を許す」=「過去にとらわれないで生きること」だと思います。

確かにそのとおりです。
私もいろいろな本を読んできましたが、自分への救済方法のひとつに相手を「許しなさい」とあります。ですが「毒になる親」という本では「許さなくてもよい」とあります。
また読者も「許さなくてよい」という言葉の方を選んでいる場合もあります。
しかし心理学の方面では怒りというのはさらなる怒りをよび、医学的にも体の方への悪い影響もあるそうです。
とはいえ、心身に染みついている怒りをはがすのは難しいですが、lafeuilleさんはそれができている。
人を変えることはできません。反省はしていても謝罪する気持ちがおきなければ相手の気持ちは変わらず、逆に謝罪されても心から反省していなければこちらの気持ちも変わらず。
容易に人を変えることはできません。でもこちらが変わればいい。人の成長の原動ってそういうところにあるのかなと思います。

ちょっとひっかかったことが。
>下等動物にして
下等動物という呼び方をあえてするのなら、人間の方が下等動物だと思います。動物は食べるためにしか襲いません。しかし人間は欲望のために悪行を平然と自分に許すことができる生き物です。

お礼日時:2009/11/10 05:00

許すことができる「可能性」はあると思います。


時間はどれくらいかかるかわかりません。
一生許せないかもしれません。
加害者が亡くなって初めて許すことができるかもしれません。
未来はどうなるのか誰にもわかりません。
ただ、「許さなければ・・・」と強くどんなに思ってもそう簡単に許すことができないのは事実です。
また、加害者を許すことで自分自身の回復に繋がるとは言い切れません。
加害者を許さずとも、本人は回復することもあるのですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね、可能性は私もあると思います。
本などには許しなさいとありますが、それも頭で考えていることです。

加害者の死亡はもちろん関係ありません。相手が死んでも心に当時の映像や感情が生々しく生きていたら、相手と共にまだ生きていることになります。
許せるという可能性をめざし、それに至るまでの可能性(方法)を試してみる、しかありません。その過程でいろいろなこともまた見えてくるかもしれません。それが成長というものであれば、被害を被ったことも意味があるのかもしれません。

お礼日時:2009/11/10 05:22

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