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時代劇の考証で?になったこと。

こういうストーリー。
『奉行所の同心の娘が、岡っ引き(町人)と結婚する。同心は、引退して同心の地位を娘の婿に相続しようとする』

同心(侍)の娘と町人が結婚できるのか?
同心の娘と結婚したからといって、元は町人が、同心の地位を相続できるのか?
町人と結婚した娘は、武家の娘のままでいられるのか?

エンターテインメント時代劇の細かな点に目くじら立てるのも大人気ないが、まあ、ご存知の方がいたら、本当はどうなのかお教えください。

A 回答 (8件)

同心が公然と使い、奉行所にも通じているものを「小物」。

そうでないものを「岡っ引き」といいます。岡っ引きは公的なものではなく、同心がいくばくかの金や飲み食いなどで私的に雇用してるものであり、別に仕事を持っています。料理屋、茶屋、湯屋などですが、その収入で下っ引きを養っていました。

同心の収入は三十俵二人扶持と安いですが、そこはそれ役得があってそこそこでしたが、どう考えても岡っ引きのほうが、収入は多かったようです。彼等が安い駄賃程度で下っ引きまで養って、岡っ引きをするのは、十手を使った役得が莫大だったからにほかなりません。

御家人格(騎乗の資格はありましたが、お目見えはできませんでしたので旗本ではありません)の与力、またその下の同心は原則的には一代限りの地位ですが、そこはそれ世襲で子が無ければ養子もとれました。しかし、前述のことを考えれば、岡っ引きが同心になりたいと思ったかどうかは疑問ですね。

また、私的な雇用関係ということで幕府はたびたび、岡っ引きの禁止令もだしていることを考えれば、与力・同心の任免権を持っていた町奉行が、岡っ引きの養子による相続を認めることは考えずらいかな^^

ただ、根岸肥前守という人物がいます。もとは町人でしたが、金をためて御家人株を買い、幕臣となり勘定奉行から町奉行にまで出世しています。よって、絶対に無理とは言えないか^^;
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この回答へのお礼

岡っ引き禁止令なんてものがあったとは。

ご回答感謝します。

お礼日時:2009/11/12 18:33

こんばんわ。


NO5.bungetsuです。

>>歴史作家ということは、何か本でも出されているんでしょうか。

次のサイトを参考にしてください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4663639.html
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この回答へのお礼

上記サイト見ました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/13 18:39

話は少し脱線するが


http://www.fsinet.or.jp/~yukio/ishis/kuma.htm
金納郷士の例。
「誠に公明正大で買位ができるのである。飽田郡と詑間郡において寸志の者は一四三八名にものぼっており、少々の数ではない。」引用終わり。

お江戸の武士の意外な生活事情: 衣食住から趣味・仕事まで
Google Bookで全文閲覧可能です。
P171あたりに、農民→御家人→旗本の実例 1700年代初頭なので、江戸時代末期の身分制の崩壊によるものではなく、江戸時代の普通のことと考えられます。
1600年代に関しては http://www.bk1.jp/product/02908053 この本で確か、井伊家での例をとって、下層武士層と富農層の身分の流動性を説明しています。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000450608/
この辺をちゃんと読めば、明快なのだが、ネットでは閲覧できないようだ。
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この回答へのお礼

ご回答感謝します。

お礼日時:2009/11/12 18:33

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>同心(侍)の娘と町人が結婚できるのか?

これは、まず、不可能に近いです。
昔は、全て、武士や大店の娘などは、親が決める「許婚(いいなずけ)制度」でしたので、娘の自由恋愛などは全くと言って良いほどありませんでした。
まあ、町人同士の場合は、自由恋愛も多々ありましたが・・・。

江戸時代は「儒教」の精神が重んじられましたので、身分を越えての結婚はできませんでした。

特に、娘(女性)は、厳格に育てられました。

また、どうしても好きな相手で「駆け落ち」などした場合には、親からは「勘当」されて、二度と家には足を踏み入れられませんでした。

また、与力、同心は「不浄役人」と言われ、旗本や御家人などと気安く付き合うこともできませんでしたし、結婚も許されませんでした。。

従って、明治になるまでには、同心240人(北120人、南120人)の全部と言って良いほどが親戚になっていました。

>>同心の娘と結婚したからといって、元は町人が、同心の地位を相続できるのか?

できません。

ただし、どなたかが言っておられるように、御家人(お目見え以下)の場合には、相続者が居ない場合、「御家人株」を売って、買った者に扶養されることはありました。

しかし、これも幕末に近い頃ですし、かなりの「値段?」でしたので、おいそれと、分けのわからない「町人」などが、簡単に買えたわけではありませんでした。

また、同心も一応は「御家人」ではありましたが、あえて「不浄役人」の株などを買う人はおらず、同心の家に跡継ぎが居ない場合は、同じ同心の家から婿をもらって跡継ぎとしました。

>>町人と結婚した娘は、武家の娘のままでいられるのか?

これは、先にも述べましたが、「駆け落ち」でもして町人と一緒になった場合は、「縁切り」と言われ、二度と家には戻れませんでしたので、町人として暮らすしかありませんでした。

(よもやま話)
(1)与力はいずれも京橋の八丁堀に屋敷を与えられていた。しかし、俗には「横町代官屋敷」とか「どぶ棚代官屋敷」と呼んだ。そして、不思議の一つに「奥様ありて殿様なし」というものがある。これは、与力は旗本なので通常ならば「殿様」と呼ばれるのだが、不浄役人であったため、「旦那様」と呼ばれていた。しかし、妻には関係がなかったので「奥様」と呼ばれた。ちなみに、同心の妻は「御内儀(おないぎ)」と呼ばれ、「奥様」とは呼んではいけない。二つ目は「女湯の刀掛け」である。男湯には、当然、刀掛けがあったが、八丁堀の銭湯には女湯にも刀掛けがあった。これは、与力や同心が朝の混み合った男湯をさけて、ガラ空きの女湯に入ったためである。御用繁多を理由にした特権であった。

(2)両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。

(3)南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。

(4)与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人(ふじょうやくにん)」と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。

(5)「目明し」は正式には「岡っ引」と呼んだ。与力や同心が犯人を引っ張るのを「本引き」といい、目明しは横から引っ張るので「岡引き」と呼ばれた。なぜ「岡」が付いたかというと、当時は「岡惚れ」とか「岡目八目」というように横からちょっかいを出すことに「岡」が使われたためである。これには岡に登ればあらゆる方角が見え、何でも手を出したがる。というところからきているようだ。公的な地位はなく、同心の下でプライベートに聞き込みなどをした。犯人逮捕で大立ち廻りをするようなことは、ほとんどなかった。TVドラマの「銭形平次」では子分と一緒に聞き込みをして、子分と一緒に犯人を逮捕したりしていたが、実際は、岡引きだけで犯人逮捕はできなかった。必ず、与力か同心に逮捕させた。しかし、今も昔も「緊急逮捕」という仕組みがあり、現代でも犯人逮捕は警察官に限ったことではない。もう少し詳しく話すと、実は、警察官も犯人逮捕の特権を持っているわけではないのである。正式には裁判所から許可された「逮捕状」を示して、はじめて逮捕できるのだ。しかし、緊急時には一般市民も逮捕することができるのだ。何も警察官だけが逮捕できるわけではない。警察官が逮捕するのも一般市民と同じように「緊急逮捕」に過ぎないのである。さて、話をもとにもどして、岡引きは同心から月に一分か二分(20,000~30,000円くらい)しかもらっていなかっので、当然、食べてはいけない。そこで、飲み屋や寄席などを妻にやらせて生活すると同時に、人が多く集まればそれだけ情報も集まったというわけである。原則的にはお互いに縄張りがあったが、はみ出して働くこともあった。子分を二~三人くらい抱える者もいた。子分は町の噂を集めてきて、親分に話す。そうすると親分は同心に話して、犯人逮捕となるのであった。しかし、この子分連中は食事は親分からありつけたが、小遣いなど何もなかった。そこで、御用風を吹かせて、事件の関係者を「何もなかったことにする」替わりに金をせしめたりしていた。これを「引合いを抜く」といった。また、情報が種切れしないよう、それぞれの親分に仕える子分連中が情報交換所をつくって、お互いに融通しあったりもしたという。  
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この回答へのお礼

いや~ずいぶん書いていただきました。

歴史作家ということは、何か本でも出されているんでしょうか。

ご回答感謝します。

お礼日時:2009/11/12 18:35

町人と武家の結婚はちょくちょく行われていたようですね。



しかし、おそらくは武家の下の階級と
上流町人という組み合わせになるのでは?

同心の娘と岡っ引きの身分は釣り合うのかどうか
がみそでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/12 18:36

すでにNo2の方も書かれておられますが、江戸中期には、すでに株の売買が見られるようです。


ここで言う「株」は、その人の身分証のようなものです。
もともとは、殿から「何の役職で何石あたえる」とか、そうした書状が家に与えられているのですが、それが時代とともに「株」になりました。

よく「家督を相続する」などと言いますが、それは、家財だけでなく、株や家系図を引き継ぐことなのです。

江戸後期には、町人が株や家系図を武家から買い取ってしまう事もあったそうです。

嫁をとるのに、武家同士の家柄が問題になるのはよくある話ですが、それは長男が家督を相続するとか、そうした事情が強いのです。
逆に、兄弟が多く、家も継げずに自立させられる男も大勢いて、こうした男性は家柄にこだわると結婚できないという面もあります。
この人たちは、おおっぴらに外には言えませんが、武家以外から嫁をとる事にもなります。
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この回答へのお礼

ご回答感謝します。

お礼日時:2009/11/12 18:36

同心を御家人の一種と考えれば血縁だなんたなんて関係なく、御家人の後は継げます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E8%B0%B7% …

買えばいいわけなので。
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この回答へのお礼

ご回答感謝します。

お礼日時:2009/11/12 18:41

その頃の身分制度は、インドのカースト制に似ています。



先ず。無理です。どうしてもの場合は、身分が略、同じものに養子縁組してからとなります。

最近の時代考証を信用してはいけません。度素人が、チョイ知ってるだけで権威だなんてふざけるなです。
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この回答へのお礼

ま~なんですよね、エンターテインメント時代劇は、庶民のささやかなレジャー、お酒を飲みながらお気楽に見てひと時の楽しみとする、そういうものであって、なんだかんだ考証までこだわるものではないのかもしれませんね。時代劇以外のテレビドラマにもいえることですよね。お堅いものもありますけどね。

ご回答感謝します。

お礼日時:2009/11/12 18:41

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