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我が家に昔からある小判なのですが、表の真ん中に三つ葉葵の刻印があります。いろいろ調べたのですが、この様な小判は見つかりません。裏にある刻印とかは、本物のようですが・・・
この様な小判が実在するのかどうか、お分かりの方がいらっしゃいましたら宜しくお願いします。

「不思議な小判」の質問画像

A 回答 (6件)

再び#1です(素人)


以下、素人意見として読んでください・・・あくまでも可能性として。

もしかしたら、
1.記念コインみたいなもので、功績のあった家臣への褒美用だったのでは。
2.幕末の財政難の頃に金の含有量を下げて造幣されたのでは。

売るのではないのなら、良い方にとらえて大事にされるのが一番ではないでしょうか。
価値より、あなたの手元にある事を喜ばれてはいかがですか。
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この回答へのお礼

祖父の形見(?)なので大切にしたいと思っています。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/11/11 22:52

No.2です。

   画像添付され判り易くなりました。
残念ながら、本物ではないと考えられます。
理由の1.は全体の形が小判の俵型と少し違います。
その2.は肝心な点ですが、裏面の中央の「光次」の花押(デザイン化されている)が本物(時代により少し変化がありますが、そのどれとも)と異なるようです。
その3.表中下の「光次」のサインもやや不明瞭ですが、違うようです。   とくに下の光の字。
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こんばんわ。


NO3.です。

>>画像を添付しましたので、ご覧いただいて、ご意見を頂けると幸いです。

画像を拝見いたしました。
非常に「精巧」にできていますね。
ただ、NO1.の方が貼ってくれたサイトの小判をクリックすると「拡大」されたものが見られます。
あなたの小判の下の方の桐紋の扇形(特に、最下部)が、若干、違うような気がします。
桐紋を打刻する時は、その位置や何ミリ単位での打刻する場所が決まっています。失礼な言い方ですが、あなたの小判はちょっと「雑」な打刻のようにも見えます。
また、保存状態にもよりますが、金の輝きが「鈍い」ような気もします。金の含有量が少ないのかも知れません。

残念ながら、私も古銭の鑑定家ではないので、「本物」か「偽物」かは分かりかねます。

ただ、私の史料の中では、葵・・・特に、「三つ葉葵」の打刻された小判は「なかった」としかありませんので・・・。

お役に立てずに申し訳ありません。
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この回答へのお礼

「お役に立てずに申し訳ありません。」
とんでも御座いません。丁寧なご意見ありがとう御座いました。

お礼日時:2009/11/11 20:04

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>表の真ん中に三つ葉葵の刻印があります。いろいろ調べたのですが、この様な小判は見つかりません。裏にある刻印とかは、本物のようですが・・・

残念ながら、「偽物」の可能性があります。

(1)葵の紋は、京都賀茂神社の神紋であり、賀茂神社の神主、氏子、信仰者に葵紋が広がりました。

(2)三河から伊豆にかけて「賀茂」という地名が残っており、賀茂神社の社領が多くあった名残です。

(3)三河に居た松平氏、伊那氏、島田氏が葵紋を使っていたが、徳川家康が天下を取ると、葵紋の独占を図り、他家での使用を禁止しました。

(4)ただし、本田氏のみが賀茂神社神官の出自であったため、徳川家の独占に対して、
「殿こそ、新田の出であるのであれば、丸に一の「一引紋」に変更されたらいかがでしょう」
と、断り、家康もそれにはさすがに「理の当然」と考え、本田氏も葵紋を使用することを許可しました。

(5)賀茂神社の葵紋は、(写真を添付してみます)。
そこで、徳川家では丸に三つ葉葵に変形させて、現代で言う「三つ葉葵」の紋を将軍家の紋所としました。

(6)さて、小判についてですが、秀吉の時代から、京都の後藤家が代々小判を製造することを許されており、秀吉の命で小判に「五三の桐」紋を入れるよう指示されていました。

(7)後藤家では、後藤庄三郎光次は、本家の後藤徳乗の次女で2歳年上の出戻り娘のお亀と一緒になり、婿養子として後藤家に入り分家をしました。

(8)庄三郎は冶金に優れた腕を持っていたため、本家の徳乗は、分家の庄三郎に大判、小判製造を分担させることとしました。
それに対して、庄三郎は以下のような証文を入れています。
1.大判の墨書き、刻印打ちは本家が行うことを守る。
(大判は本家のみで製造し、分家は大判には手を出さない)。
2.小判の桐紋(裏面)は子孫まで守り通す。
3.後藤の苗字は代々受け継ぎ、苗字の変更はしない。
4.黄金3枚を毎年本家に贈る。
5.これらに背いた場合は、小判製造の収入を残らず本家に返上し、役儀も返上する。

(9)慶長3年(1598)、後藤庄三郎は家康に請われて、関が原での戦いの軍資金の調達を命じられる。

(10)その後、徳川家康の時代となったが、家康は、後藤庄三郎に大きな借りを作ってしまい、また、後藤家では、秀吉以来の「五三の桐」紋を打刻することを守り通したため、家康は「葵」の紋の打刻を打診はしたが、後藤家が「伝統を守る」と言ったため、それ以上の命令という形での強制はしなかった。

(11)家康は遺訓に、「後藤の桐紋」と称して、
「後藤の桐紋、永代に渡って許すものなり」
と、言い残しており、
幕府も一時、
「葵紋の大判を与えれば、賜った者に恩賞効果がある」
との意見も出されたが、後藤家では、
「神君(家康)より許可された後藤の桐紋は変えるわけにはいかない」
と、反対したため、音止みとなった。

(12)従って、江戸幕府約270年の間に、幕府公認としての「葵紋」の大判、小判の製造は一切なかった。
ただし、金の産国を表すものとして、小さな丸の中に「佐」(佐渡)とか「石」(石見)を刻印したものはある。

(13)また、幕末の老中稲葉正邦の「淀稲葉家文書」に、慶応3年(1876)銘の一両コイン(丸い、現代の500円硬貨ぐらい)の企画図らしきものがあり、葵の紋を中央に配し、その周りに慶応三年と文字を巡らせ、裏面には六角形の中に「一両」、その周りに「量二文目二分五厘」の文字を巡らせたものを造ろうとした形跡はあるが、実際には製造されなかった。
この(13)は利光三津夫著(前日本貨幣協会長)の「古貨幣七十話」の第38話による。

さて、あなたのお持ちの小判は???
「不思議な小判」の回答画像3
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。小判一枚にも様々な歴史的背景があるのですね。画像を添付しましたので、ご覧いただいて、ご意見を頂けると幸いです。

お礼日時:2009/11/11 19:01

小判の表の中央には、裏に刻印された「後藤家」の「光次」の変形サインが薄く裏字になって出ています。


不明瞭なもので、使い古したものでは、殆ど消えています。
座興でそこへ何か、刻印する人がいたかも知れません。   他の部分が本物なら通用したでしょう。
正規な通用小判では、中央に明瞭な刻印はありません。
コイン店で見て貰ったらどうですか。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
当方、地方なもので、近くにコイン店のようなお店がないもので・・・

お礼日時:2009/11/11 18:53

素人なので勘違いしているかも知れませんが・・・たしかこのような理由だったかと



現在もつかわれている五七桐が昔から小判に使われていたが、徳川家康の時、家康が五七桐を嫌い、三つ葉葵の小判を作った。

現物を見たことはないですが、古銭商のHPでは真ん中に印がある物が沢山ありましたけど、参考URLに似たのありませんか?
マウスを重ねると裏の画像にかわりますよ。

参考URL:http://www.kosen-moriyuki.com/annai04_4.html
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この回答へのお礼

早速のアドバイスありがとうございました。
HP確認してみます。

お礼日時:2009/11/11 18:45

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