親鸞上人は比叡山で厳しい修行を積むも悟りを開くことができず下山。
六画堂に参篭したところ、夢枕に久世観音の化身である聖徳太子がたち
「今まで僧侶は結婚してはいけないという戒律があったが、
今こそそれを破るべきです。
私は玉のように美しい女性となってあなたを生涯助けます。」
と告げたのでしたね。
で、結婚して多くの子宝に恵まれたようです。
伝説では聖徳太子の夢のお告げがあったので妻帯したということになっていますが
実際のところはどうだったのでしょう。
自説、トンデモ説も大歓迎します。
ぜひ意見を聞かせてください。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
親鸞聖人の夢の話は、
「親鸞夢記」という短い夢の記録に記されています。親鸞聖人が見た、三つの霊夢を記録したものです。参考URLもご覧ください。
これは、親鸞自筆かどうか意見が割れているようですが、真筆かどうかはさておいて、ともかく親鸞在世のころにはすでに存在した話であったことはほぼ間違いありません。
ところで、親鸞の夢の通りだとすると、親鸞聖人の奥さんは、観音様の化身ということになります。これもその通りで、夫婦は互いに互いを観音菩薩として敬愛します。奥さんである恵心尼は、娘への手紙(恵心尼文書)に夫が観音であり、法然上人が勢至菩薩である、という夢を見たと書いています。参考URLもご覧ください。
ここからは私の憶測も含みます。当時、僧侶の妻帯はそれほど珍しいことでもなかったようです。隠棲しつつも、家庭を持ったような隠者も結構いたようです。彼らは、一応出家しつつも、半僧半俗と呼ばれる生活形態をしていて、奥さんがいる場合もあります。念仏の聖と言われたような人たちのことです。現在の宗派の解釈は別として、親鸞聖人の「聖」も、もとは一応ここから来てるのだと思います。
出家者と在家者の区分も、意外に不明瞭だったような気がします。たとえば、平清盛だって途中から出家者ですよね。でも、事実上在家生活していますよね。源氏物語に出てくるような尼公も、普通に貴族生活やってますよね(たいてい、夫が死んだ後の供養目的で出家してますので、結婚生活は確かにありませんけどね)。
ただ、貴族のような単なる隠居とも違い、おおっぴらに妻を迎えることは、やはりできなかったようで、親鸞聖人もこっそり奥さんを迎えることは、いくらでも可能だったのだと思いますが、そういうやり方にも、何か要領ばかり良いようで釈然としないものがあったのではないかと思います。
性欲などの煩悩が盛んで、その処理と仏教の整合性をどうつけるか、というのは、もちろん内面の問題として第一に悩まれたことだとは思いますが、結婚そのものをしたいだけなら、こっそりすればできました。
参考URL:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku2/j2sh …
回答ありがごうございます。
親鸞聖人の夢の話は「親鸞夢記」の記録に基づくものなのですね。
参考URL拝見いたしました。
たいへん興味深い内容でしたが、古い言い回しに苦労し
(申しわけありません!)
No.6のURLのほうをじっくりと読ませていただきました。
日本には類似した話が多いと思います。
例えば、
後白河天皇が頭痛持ちだったのは、
前世の髑髏に柳が生え、風が吹くたびに髑髏をこするためだ
などという伝説があります。
また小野小町の髑髏にも薄がはえ、風がふくたびに
小町の霊が「あなめ、あなめ」とないたなどという話もあります。
このように類型的な物語は当時の思想を伺いしるようで面白いですね。
『親鸞夢記』と『覚禅鈔』の四十九・如意輪下の文章の類似性も
当時、このような思想がもてはやされていたことを表しているのではないかと
個人的には思いました。
No.6の筆者は『親鸞夢記』は真仏のでっちあげ、だと言っていますね。
しかし、この筆者の考証だけではでっちあげとまでは言えないと思いました。
>真筆かどうかはさておいて、ともかく親鸞在世のころにはすでに存在した話であったことはほぼ間違いありません。
という回答者さまの考えに同意します。
>当時、僧侶の妻帯はそれほど珍しいことでもなかったようです。
たとえばそれを示すような史料はありますか。
(申し訳ない、この時代のことは勉強不足でして・・・)
No.10
- 回答日時:
明かな間違いがありましたので、再登場で失礼します、訂正します。
承久の変ではおかしいですね。
出家したのは、だいたい1181年頃です。
治承5年、養和元年くらいのことですので、政治的な混乱(あるいは経済的に破綻した?)がもとで一族が没落したのではないか、とか言われているわけですね。
訂正をありがとうございます。
私はこだわりがあるわけでなくて
【説明に納得できない】のだということを申し添えておきます。
仮説をたてるのは自由でありましょう。
別に本を出版するわけでなし。
また批判を下さるのはうれしいのですが
こだわりがどうこう、とか
仮説をたてるのは早い、
というのは質問と全く関係ありません。
仮説をたてて、検証していくというスタイルでも
別にいいと思いますが。
説明がつかなくなったら、そのつど仮説を変更していく、ということで。
私の仮説を覆すような回答を期待していました。
ただ、回答者様にいただいた知識は大変参考になりました。
No.9
- 回答日時:
こだわりがあるんですね^^
知識の洗い直しからしないと、まだ仮定を立てるにはちょっと早いような気もします。
五位・皇后宮大進、日野ありのりの子と伝えられる親鸞ですが、実はその出自は全然分かってないのです。その出自はきわめて疑わしい。これは、浄土真宗の学者さえも認めることで、ただ真実なんてほとんどどうやっても探りようがないので、不明のままにしているだけです。
何らかの事情、たぶん承久の変かといわれますが、一家離散の危機的状況にあったということくらいは、想像されているだけです。ですので、高貴な家柄か分かりません。たぶん違うでしょう・・。比叡山に登った親鸞が堂僧という低い身分の僧侶をしているところを見ても、さほど高貴の家柄ではないと見た方が自然ではあるのです。後の本願寺教団は、大織冠鎌足の子孫として、盛んに伝記に家柄を書き立てますが・・。
二九才で死ぬというのは、親鸞夢記の第一の夢です。
一)建久(けんきゅう)二年九月十四日の夜
聖徳太子がわたし(善信)に告げて(告勅して)言うのに、
我が三尊は塵沙(じんさ)の界を化(け)す
日域は大乗の相応の地なり
諦(あきらか)に聴(き)け諦に聴け我が教令を
汝(なんじ)が命根は応(まさ)に十余歳なるべし
命終りて速(すみやか)に浄土に入(い)らん
善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩(ぼさつ)を
ここが親鸞求道の出発点です。この夢の通りだとすると、たしか二九才あたりに寿命が尽きることになっています。この夢が実話かどうか分かりませんが、親鸞の行状をうまく裏書きしてる形にはなってますね。そこに全部ではないにしても、部分的にでも、偽作の香りを感じる人がいるのは分かるような気はします。
本尊と唱名の関係については私は何も言えません。奈良時代から阿弥陀仏信仰があった、と言ったのは、歴史的経緯から見て阿弥陀仏の信仰は十分に九世紀にはあったから教信伝の偽作をする必要が見あたらないということを言いたかったからです。ただ、唱名と本尊の関係については、現代的な感覚で固定的に考えてしまうと先入観になるかな、という気はしました。
私からはこれで最後にさせていただきます。ありがとうございました。
何度もありがとうございます。
>比叡山に登った親鸞が堂僧という低い身分の僧侶をしているところを見ても、さほど高貴の家柄ではないと見た方が自然ではあるのです。
なるほど、そうなのですね。
参考にさせていただきます。
二九才で死ぬというのは、親鸞夢記の第一の夢なのですね。
よくわかりました。
>唱名と本尊の関係については、現代的な感覚で固定的に考えてしまうと先入観になるかな、という気はしました。
ですから、同じような事例があれば納得できるんですが
私が知る限りでは六波羅蜜寺だけなんです。
>こだわりがあるんですね^^
知識の洗い直しからしないと、まだ仮定を立てるにはちょっと早いような気もします。
ここはQandAサイトなので、あえて思ったことを書かせていただきました。
おかしい点があればご批判いただけると思ったので。
知識も確かに大事でしょうが、考えるということも大事だと思います。
いろいろとありがとうございました。
No.8
- 回答日時:
後世は、「ごぜ(ごせ)」と読み、来世を意味する仏教語としての用法の方が、昔は一般的だと思います。
後生も同様で、「こうせい」ではなくて、「ごしょう」と読みます。意味はやはり「来世」生まれ変わった後の生のことです。「後世安穏」というのは、決まり文句のようなものですので、通常は、来世の安穏を願ったというような意味で解釈します。決まり文句のようなものですので、具体的に何を祈ったのかは、分かりかねるところもありますが、子孫の繁栄を祈ったというのは新説ではありますね。強引な感じは免れませんので、うーんそれはちょっと・・・という解釈ではあるんです。
京都・六角堂参籠のころ、親鸞聖人は、二九歳で死ぬという妄想にとりつかれていたそうで、二九歳でも死ぬことが普通の時代でもありますし、死の恐怖を取り除こうとして、参籠し、その後その目的を達するために法然上人に会いに行ったということで、面白みはないのですが、通常はそのように解釈されています。
ご存じかもしれませんが、阿弥陀仏の信仰は、奈良時代には入ってきてはいますね。奈良時代には、元興寺の智光が本格的に信仰をしていますし(智光曼荼羅)、法隆寺の阿弥陀仏(橘夫人念持仏)、伝説にはなりますが当麻寺の中将姫で知られる当麻曼荼羅もそうですね。
比叡山には、慈覚大師円仁が阿弥陀仏を本格導入しています。これは、中国天台宗の『摩訶止観』に説かれる修行法に基づく念仏(阿弥陀)ですので、観相念仏です。現在も、比叡山の常行堂で行われる念仏、常行三昧ですね。ですので、九世紀の時点には、阿弥陀仏の信仰は、それなりにはあったわけですね。それが、一〇世紀末になって、源信の『往生要集』や、『日本往生極楽記』の登場となって、念仏の大流行となっていくわけですね。現在主流の口称念仏ではないので、念仏は平安末期というイメージができてしまっていますけれども、阿弥陀仏信仰自体は別に新しくはありません。
立川流という特定の派閥については、直接、影響があったのかどうかよく分かりませんが、当時は天台本覚論の盛んな時代でもありますから、聖と俗の境界線が曖昧というか、性欲でも悟りでも、全部等号で結んでそして肯定してしまうような乱暴さのある時代ではありますね。考え方の方向性としては、同じ系統のものです。性とどくろが、あまりに際だっているために立川流だけが目立ちますが、左道的なものなら、比叡山にもあると思います。
比叡山にいた親鸞が、あるいは時代の風潮として、「性」についての考え方を、どこかで取り込んでいる可能性はあると思います。たしか、途中の書き込みのURLの人も、親鸞の夢を分析する過程で、そういうことを想定して言っておられたと思います。
親鸞が、性的な見方を、どこかで拾ってきたというのは、おそらくですが、さして特異な考え方ではなくて、専門の研究の世界には、一定の蓄積があるような見方ではないかと思います(が私は知りませんし、宗教研究は、いろいろ難しいですからね・・親鸞が立川流の影響を受けていたなんて言ったら、激しく食ってかかる人がいることは覚悟しないといけませんね・・)。
何度もありがとうございます。
後世は、「ごぜ(ごせ)」
後生も同様で、「こうせい」は「ごしょう」なのですね。
勉強不足ですいません。
おっしゃるとおりと思います。
ただ、そうであったとしても
私は親鸞が子孫繁栄を祈ったのではないかとどうしても思ってしまいます。
理由は、彼が名家の出であるにもかかわらず兄弟全員出家しなければならなかった、という点です。
昔は家というものを大変重んじていたと思いますので。
まあ、これは私の勝手な推測にすぎませんし
これだけでは説得力もないでしょう。
回答者さまが強引な感じがするとおっしゃるのはもっともです。
まちがっているかもしれませんが、納得できるまで調べてみるつもりです。
なぜ、親鸞聖人は、二九歳で死ぬという妄想にとりつかれていたといえるのですか。
なにかの文献にそう記されているのでしょうか。
確かに阿弥陀仏の信仰は、奈良時代には入ってきてはいます。
ただ、十一面観音に対して南無阿弥陀仏、と唱えるのは一般的だったんでしょうか?
また空也は南無阿弥陀仏と唱えておどる踊り念仏を創始したといわれているのになぜ阿弥陀仏でなく、十一面観音を刻んだのでしょうか。
私は六波羅蜜寺で南無阿弥陀仏と唱えるようになったのは
一遍が六波羅蜜寺を訪れて以降ではないか、と考えます。
左道的なものは比叡山にもあるのですね。
すると、おっしゃるとおり、立川流は特別な信仰ではなく
当時としては当たり前の信仰だと考えられていたということになるか、と思います。
現代人である我々は、とかく現代の価値観で昔を見がちですが
時代によって価値観は変わると思います。
>親鸞が立川流の影響を受けていたなんて言ったら、激しく食ってかかる人がいることは覚悟しないといけませんね・・
まあ、そうでしょうね。
私は宗教を信仰していません。
この質問も史学として立てさせていただいたものです。
宗教と科学は相反するものですから。
しかし、こんな匿名サイトで素人がいい加減な発言したからって、
問題になるとは思えません。
たいへん参考になりました。
心よりお礼申し上げます。
No.7
- 回答日時:
補足に足るかどうか分かりませんが・・。
>たとえばそれを示すような史料はありますか。
僧侶の結婚については、おおっぴらにしたものではありませんので、どの程度それがあったのか、史料があるかないのかはよく分かりませんが、親鸞がモデルとした人物に、教信という沙弥がおりますね。
参考URLをご覧ください。この人は、念仏聖の前触れともなる人です。「半僧半俗」とされる内実に、家庭生活がどの程度入っていたかは分かりませんが、ある程度モデルがあったのではないか?と思います。これと関係あるのかどうか、同じような思想的系譜にある、空也上人も神泉苑の狐とセッ○スなさいますね。
また、平安後期から末期にかけて、最澄に仮託されて書かれた『末法灯明記』には、僧侶が子供を作り、肩を並べて酒屋に入るなどと堕落した世の中が訪れ、それでも名目の僧侶であっても尊ぶべし、という思想が説かれます。こうした書物が仏教界擁護の理論として現れることにも、当時の僧界の乱れが見られます。ある程度の現実を映したものと見られます。
もっとも、この書物が偽作だというのは多数派の説ですので、最澄が書いていた可能性も否定できません。最澄が書いたという説にもそれなりに妥当性があるようです。なぜかというと、奈良時代から平安時代初期にも、私度僧の取り締まり、戒律の乱れが問題になっていたからで(鑑真和上の弟子か誰かが嘆いていたと思います)、『末法灯明記』に書かれている内容と歴史的背景とがとくに矛盾しないからだそうです。
そう考えると歴史上厳密に戒律を守った時代がどれだけあったのか?という疑問もわいてきます。
>「後世を祈らせ給いける」
これは、来世を祈る、の意味だと思います。
前世に対する後世の安穏。ですので、ここは極楽に行きたいと思った、というほどの意味ではないかと思います。
京都の東西本願寺は、おっしゃる通り世襲です。現在では、皇室とも親戚筋になる日本有数の名門です。しかし、これは親鸞の意図したことではなくて、やはり親鸞没後に血縁のものを中心にした信者集団と、信者だけを中心に集まったグループがありました。関東の真仏の系統(真宗高田派)は、親鸞没後は、京都の本願寺とは一定の距離を置くようになります。現在でも、この派閥は同じ宗派とはいっても、京都の本願寺とは微妙な距離感があります。
京都の本願寺でも、江戸初期の東西分離はもちろんのこと、本願寺としてまとまる以前に、大谷の廟堂の管理権をめぐって争いが起きていました。親鸞の遺骨まで持ち去れてしまいます。現在のような世襲体制が完成するのは、親鸞没後しばらくしてからのことです。
参考URL:http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/34379a31e33543b …
この回答への補足
再々回答をありがとうございます。うれしいです!
それなのに、お礼が遅くなってしまって本当に申しわけありません!
(1)『末法灯明記』の話も興味深いですね。
確かに現実を映したものといえるかもしれません。
教信沙弥という人物のことは初めて知りました。
空也上人の話は聞いたことがあります。
「空也誄」にある話ですね。
なるほど、これらの話を伺うとこっそり妻帯していた僧侶は存在していたと思えます。
(2)>「後世を祈らせ給いける」
これは、来世を祈る、の意味だと思います。
辞書で調べましたら、後世と書いて「ごせ」と読み、来世を意味する、とありました。
また、浄土教は西方浄土におられる阿弥陀仏に対する信仰なので、おっしゃるとおりかもしれません。
親鸞は僧侶なので、仏教用語として用いた言葉だと考えたほうがいいかもしれませんね。
(3)>現在のような世襲体制が完成するのは、親鸞没後しばらくしてからのことです。
たしかにそのとおりですが、それが「親鸞が子孫を残したいと思った」ことを否定する理由にはならないと思います。
もちろん「親鸞が子孫を残したいと思った」が正しい、ということにもなりませんが(汗)。
また新に次のような疑問もわいてきました。
a.平安時代に阿弥陀仏に対する信仰は本当にあったのか。
あったなら、なぜ空也を開祖とする六波羅蜜寺の本尊は十一面観音なのか。
951年京都で疫病が流行った際、空也は十一面観音を自ら刻んで京の町をひきまわしたと伝えられています。
先日、その六波羅蜜寺の隠れ念仏を見てきましたが、十一面観音に対して「南無阿弥陀仏」と唱えるのは不思議でした。
すなわち、空也や教信の話はのちに阿弥陀仏に対する信仰が広まって以降に作られたものではないのか。
b.教信・空也の思想は立川流の影響を受けていないか。
ダキニ天は辰狐王菩薩、貴狐天王などとも呼ばれているので、狐とはダキニ天のことなのか、と思えます。
空也の時代、立川流は成立していませんがそれに通じる思想はあったと思います。
空海が最澄に理趣釈経を貸すことを拒否したというのは有名な話で、立川流では理趣経を経典としていたと思います。
c.「肉食妻帯」を許している浄土真宗も立川流の影響を受けていると考えるのが自然ではないか。
(浄土真宗で髑髏本尊を作ったりはしていないでしょうが。)
立川流の創始者である仁寛の生年は不祥、没年は1114年で、その後立川流は広まり『受法用心集』には、真言密教の僧のうち、9割が立川流の信徒となっていたとあるそうです。
一方、親鸞の聖没年はは1173年- 1263年なので、このころ、立川流はかなり世の中に浸透していたのではないでしょうか。
d.親鸞には教祖と持ち上げられるにたるカリスマ性があった。
親鸞がカリスマ性をもちえたのはなぜなのか。
などです。
仏教のことを無知であるがゆえ、このような疑問を持つのかもしれませんが
納得がいくまで調べてみようと思います。
ほんとうにいろいろ教えてくださってありがとうございます。
心より感謝いたします!
No.6
- 回答日時:
追加URLです。
少し専門的内容を含みますが、こちらの方がよくまとまってるかもしれません。
なお、私自身は「親鸞夢記」が親鸞の自作かどうかは別として、恵心尼の手紙の記述や、「親鸞夢記」が比較的早い段階でできていることから、それっぽい体験はあったのだろうと解釈しています。
参考URL:http://www.propatent.jp/WEBLOG-NAME/2009/07/post …
再回答ありがとうございます。
文字数オーバーでNo.5のお礼が書ききれなかったので
続きをこちらに書きます♪
>ただ、貴族のような単なる隠居とも違い、おおっぴらに妻を迎えることは、やはりできなかったようで、親鸞聖人もこっそり奥さんを迎えることは、いくらでも可能だったのだと思いますが、そういうやり方にも、何か要領ばかり良いようで釈然としないものがあったのではないかと思います。
おっしゃるとおりとおもいます。
No.6のURLに
●親鸞は九歳で出家し、また親鸞の兄弟は全員出家した。
●九歳で家庭が崩壊し、他人に預けられるという運命を経験した。
●山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに(恵心尼が娘にあてた手紙)
とありました。
日野家といえば藤原北家にルーツを持つ名家で、親鸞はその長男でしたが
家庭崩壊によって兄弟全員出家。
これでは血筋が絶えてしまいます。
「後世を祈らせ給いける」とは
親鸞が「どうか血筋を絶えさせないで下さい」
と祈ったということなのかな?
と思いました。
昔は今のような個人主義の世の中ではなく、家というものを重要視する世の中だったと思います。
実際本願寺の門主って世襲されているのではなかったでしょうか。
もちろん、そのために親鸞は相当悩んだことでしょうし、流罪も経験しています。
そして、親鸞の行動が結果的に仏教を広く民衆のものにしたことは間違いないと思います。
ご紹介いただいたサイトはとても参考になりました。
心よりお礼申し上げます。
もしも批判等ありましたらご意見を聞かせていただけるとありがたいです。
No.4
- 回答日時:
これはあくまでも私見ですが、宗教の歴史は、人間性を宗教に導入する、いわば小さな革命の連続の歴史のような気がします。
例えば初期の宗教は殆どと言っていいほど禁欲的な生活を送る「プロ」によって継続されて行ったように思います。 vitae patrum はその例でしょう。瞑想とか、座禅とか、托鉢とか、砂漠をさまよい歩くとか、それじゃ普通の生活をする人には到底出来ないことばかり。
今のカトリックが直面していることは今の男だけの組織(尼僧院などありますが男子禁制です)では跡継ぎが出来ないことです。
親鸞は、妻帯肉食を導入して、それまでの男子だけの世界に、女性も成仏できるという男女同権への道を開き、宗教をプロの手から一般市民に解放しようとした、面もあったのではないでしょうかね。
回答ありがとうございます。
たしかに、妻帯を許すと誰でも仏教を自分のものにできるという側面がありますね。
また肉食をしていたために親鸞さんは長生きできたのかも。
カトリックは跡継ぎ問題が深刻なのですね。
たいへん参考になりました!
No.1
- 回答日時:
はじめまして。
日本人のファジーな国民性(?)がなせる技だと思います。
結局、「男」だったって事ですよ。
Hがしたくなったのです。女性の柔らかな優しさや温もりが欲しくなったので、適当な理由をつけて実行したのだと思います。
これが悪いとは言いませんが、いわゆる人の出来ない「我慢」を自らに課してこそ、宗教者は崇められるべきだと思います。
いい加減なんですよ。
早速の回答をありがとうございました。
Hがしたい。
これ、人間の基本ですからねえ。
生物には子孫を繁栄させたいという自然な欲求があるということですよね。
うん?
ということは「Hがしたい」と思った親鸞は自分の子孫を繁栄させたいと思ったのかもしれませんね。
そういえば、親鸞は日野有範の長男ということですね。
長男が出家して子孫を残さないなんて
ちょっと不思議ですね。
たいへん参考になりました!
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