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江戸城の無血開城が実現して、江戸が火の海にならなかったのは誰のお蔭ですか?
昨年の大河でもありましたが、篤姫の手紙は本当に効果があったのでしょうか?

A 回答 (7件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>篤姫の手紙は本当に効果があったのでしょうか?

(1)鳥羽伏見の戦いは、幕府軍が破れ、慶応4年(1868)1月12日千代田城に敗軍の将として戻って来た慶喜に、天璋院は祖母の立場で、また、和宮は養母の立場から、朝廷に対して「異心」がないことを告げる嘆願書を書かせたりしています。しかし、勢いに乗った討幕軍(薩長連合)は、
「慶喜の首を取らねば、幕府軍の息の根は止められない」
と、にべもなく断り、ついに、2月9日、倒幕軍は錦の御旗を押し立てて、(錦の御旗=みはた、とは、朝廷が幕府を倒すようにと「許可」したしるし。)京都を出発。東海道軍と中山道軍、北陸道軍と3つに分かれて進軍開始。倒幕軍の総大将は西郷隆盛。これを受けて幕府の意見は「徹底抗戦」の主張が多かったが、静寛院宮(和宮)が老中を大奥に呼び、
「ただただ神君家康公以来の徳川家の家名が立つよう謹慎を続けるように。抵抗さえしなければ徳川家が滅びることはないのです」
と、諭したと言われています。

(鳥羽伏見の戦い)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD% …

(2)倒幕軍の、東海道軍は3月6日に駿府に到着。さらに、3月11日には多摩川を渡ったところで、中山道軍の到着待ちで進軍停止。中山道軍は3月13日板橋宿に到着し、北陸道軍と合流すべく進軍停止。千代田城総攻撃は3月15日と決定。千代田城まであとわずか2里半(10Km)の地点でした。

(3)そんな慌しい中、天璋院は一通の書状をしたためています。
「・・・勝った方にも家族はありますが、負けた方にも家族はあります。徳川家が永らえるよう、私の一命にかけて、なにとぞお願い申し上げます・・・」。
宛名は、敵の総大将西郷隆盛。
天璋院が家定に嫁ぐ時、次期将軍に慶喜を押し立てるよう島津斎彬の命を受けて、天璋院(当時は篤姫)と一緒に画策したのが当時江戸藩邸詰めであった西郷隆盛。その西郷が、今は、慶喜を討とうとしている。そして、自分(天璋院)をも討とうとしている。天璋院は1300字余りにも達する長い巻き書状で切々と訴えました。西郷はそうした竹馬の友とも言うべき同士からの手紙をどんな気持ちで読んだのでしょうか。

*天璋院の手紙は「徳川美術館」に、実際に残されています。

(4)3月14日。西郷隆盛は単身で千代田城を訪れ、勝海舟と会談。
そして、「その時、歴史が動いた!」
西郷隆盛は勝海舟に総攻撃中止を伝えたのです。

(5)慶応4年(1868)4月11日、千代田城無血開城。

(6)静寛院宮は、すでに4月9日には清水邸に身を寄せていましたが、天璋院は4月11日、倒幕軍が千代田城受け取りに正門から入る直前まで城内に残り、徳川家代々の宝物すべてで城を飾りつけ、江戸幕府の終焉の幕引きをして、身一つで一橋邸に向かいました。

私は、天璋院の功績を大きく評価しています。
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個人的にはイギリスのパークスのおかげだと思います。


江戸総攻撃の前に西郷はイギリスのパークスに
負傷者が出た場合、横浜の病院で治療してほしいと
要請しましたが、逆にパークスに
「すでに恭順している者を攻撃する事は国際法に反している」と
言われたそうです。
国際的な非難を避けたい薩摩は
これにより江戸攻撃を断念したといいます。
おそらくイギリスが反対しなければ、
たとえ篤姫の嘆願があっても
強行していたと思います。

もちろんイギリスは人道的立場で反対したわけではなく、
これ以上内戦がつづいて、
イギリスの日本国内での利益に悪影響を与えるのを避けたかったのが
本音だったみたいですが。
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黄門さまのおかげですよ^^。



彼が藩の財政を傾けてまで、編纂した「大日本史」は尊皇思想という当時では異様な考えを藩に蔓延させ、幕末のイデオロギーの支柱となりました。その影響を濃厚に身につけていた水戸斉昭の息子の慶喜は、偽錦旗ごときにびっくらこけて逃げ帰り、忠臣小栗を退け、自身の命と後世の評価のみを助けようと薩長の走狗である(と知っているからこそ)勝に全てを任せ、逃げ隠れたわけです。彼がもそっと骨があれば、大阪での負けそのものがない。
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篤姫の手紙、なかったでしょうね。


誰のおかげか?
フランス、イギリスでしょうね。判断をあやまったようですね。
内乱こそ最善なんですから。
勝の作戦勝ちでしょう。西郷もしてやられというところでしょう。
勝はフランス(幕府側)と手を切ることを見せて、イギリス(薩摩側)から西郷へ圧力をかけさしたようです。また、交渉決裂なら総攻撃に対して江戸の町火消しが火をかけて、丸焼けにする段取り。篤姫等の大奥の者も千葉へ脱出させる手はずもととのえていたようです。そのうえでの
会見を段取りしたもようです。
江戸の庶民の天皇の認知度はないでしょう。賊軍の感覚もない。
将軍のみ。大河は読み物の映像化、資料文献を追いかけてみては。
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将軍慶喜が恭順の意思を示し、山岡鉄舟が勝海舟と西郷隆盛を会談させた。



http://www.geocities.jp/ikiiki49/page007.html
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だれのお蔭かといえば、やはり勝海舟と西郷隆盛でしょう。


当時世界最大の人口を誇る江戸を焼き討ちした場合、その民衆の恨みを誰が受けるのか、勝がその愚を説き、西郷が理解したということだと思います。
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勝海舟です。

 西郷隆盛と会見し、江戸城を血の海になることから救った。                   
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