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「植物の葉は、ほとんどが緑色をしています。」
と思ってた。
しかし、よく考えると、その言い方はおかしい。
なぜなら、太陽光は(赤、青、黄色、緑、ピンク、紫・・・ect)
と、様々な色を持って、地球上に振り注ぐいるのだ。

植物の葉が「緑」色に見えるのは、「緑」の色を反射・散乱させているからだ。
つまり、植物の葉は、「緑」の色を嫌いっているのだ。
故に、「食物の葉は、緑じゃない」と言えるのではないか?
(これは、海や空が「青い」のも同じ理屈だ。)

ちなみに、黒い着物が黒く見えるのは、ほとんどの光を吸収しているからだ、これは正しい。透明も、同様に正しい赤色表現だ。

植物の葉が緑色じゃないのは、言葉場の遊びか、パラドックスか?
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A 回答 (41件中1~10件)

>>> クロロフィル 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD% …
光の吸収 [編集]

クロロフィルa(緑)およびクロロフィルb(赤)の吸収スペクトルクロロフィルは、構造中のテトラピロール環に由来する強い色を持ち、多くはその名の通り緑色に見える。テトラピロールは 450 nm 付近と700 nm付近 に特徴的な鋭い吸収帯を持ち、それぞれ B帯(またはソーレー帯)、Q帯と呼ばれる。吸収波長域はテトラピロール環の種類によって大まかに決定されるが、置換基や結合タンパク質、溶媒の種類など、環境によってシフトする。
<<<

>>> 可視光線 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AF%E8%A6%96% …
紫 380–450 nm
青 450–495 nm
緑 495–570 nm
黄色 570–590 nm
橙色 590–620 nm
赤 620–750 nm
<<<
すなわち、植物の葉の緑色の元となるクロロフィルが青領域の色と赤領域の色を吸収するので、吸収され残った緑色付近の色が「見える」ということです。「見える」緑色は、おっしゃるように反射・散乱されていますが「透過」もしています。

>>>
透明も、同様に正しい赤色表現だ。
<<<
は、どうですかねぇ。。。

「透明」という概念について考えるほうが面白いと思うのですが、「赤」だけに限定するのは「?」です。

透明とは、あらゆる波長の光を透過するでしょうから、「無色」とかでしょうか?

この回答への補足

 
透明については、ガラスを例に上げて「物理カテ」で質問しました。
鉄の板は光を通さず、ガラスは何故光を通すのか・・・と、

考えて見れば当然なのですが、高度な物理で説明されました。
トホホ・・・物理の勉強が必要な様です。

#7、#14で、黒色は無色であるとの説明を受けました。
いままで、無色透明を信じていましたが、無色黒色なんですね。
これは、パラドクスなのでしょうか?

話は変わりますが、同物理カテで、「電子は何故見えないか?」という質問スレを立てました。
そこで、詳しい内容は見ていただくとして、「神が見えない様に作った」との返事もあり驚きました。
哲学カテで「神」を持ち出せば「思考停止」と責めるのですが、物理カテでそう言われると、そんな難しい問題なのか、神の領域の問題なのかと思ってしまいます。
カテが違うと、同じ「神」でも、自分の印象はこんなに違うのかと、驚いた次第です・・・・
(蛇足でした)
 

補足日時:2010/01/16 21:58
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この回答へのお礼

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透明については、僕も正確な表現じゃなかったかもという思いもあり、
物理カテで「透明」について、質問しています。
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お礼日時:2010/01/14 07:04

理念を思想でつかみ、哲学で論理付けて実際の活動とし、それらの経験と考察、から理念を作り、以下繰り返し。



 理念・思想・哲学のうち、どれがレベルが上であるという問題ではありませんが、バランスよくいきたいところです。特に、現代人は色々な制約が多いので、実際の活動があまりできていないように感じます。

この回答への補足

 
「理念」「思想」「哲学」の区別は何ですか?

さあ~わからない。と言わないで下さいね。

自分で、使っている言葉なのですから。
 

補足日時:2010/01/29 10:44
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この回答へのお礼

 
あなたは、哲学の本を(入門書でもいいです。)一冊まともに読み通した事がありますか?
論理思考法の代表である・帰納法・演繹法を複数見て、その概要から意味を考えた事がありますか?

そんな事もせず、哲学を非難するのですか?

お礼日時:2010/01/29 09:50

>これの、どこに、「思想、理念」が入っていますか?



 どうやって 「動物はいつか死ぬ」などということが証明されたのですか?思想、理念以外にないですよね、それらを前提としています。

 私は既に哲学をほとんど必要としていないかもしれません。

 哲学が、必要な人もいるでしょう。否定はしませんが。
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この回答へのお礼

 
それほど言うのなら、「動物はいつか死ぬ」といのが、「理想、理念」である、ソースを示して下さい。
あなたには、その責任があると思います。

「哲学」と「空想・想像」の区別はなんだと思いますか?

それが、答えられないのに、
>私は、既に哲学をほとんど必要としていないかも知れません。
の、発言は、意味をなさない事をあなたもわかるでしょ。

それにしても、つくづく残念なのは、帰納法・演繹法・について
ネットでいくらでもヒットする、簡単に見つけ考えられるのに、
あなたは、それをした様子が感じられず、あまりにも軽薄に答えを
出そうとしている事です・・・・
 

お礼日時:2010/01/29 09:43

 演繹法で考えた論理的な思考を呼んだ観想としては、「既に正しいものとして定義づけされた内容に則って答えている」だけであり、本当に有意義な、創造的な思考は出来ない。

と感じました。

 
 演繹法による哲学 は、思想理念を元にして、組み立てているだけのような気がします。
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この回答へのお礼

 
>動物はいつか死ぬ
>人間は動物である
>故に、人間もいつか死ぬ

これの、どこに、「思想、理念」が入っていますか?
数学の、証明は、全て演繹法で行われているんですよ。
数学に、思想、理念が入って証明がされると思いますか?
一つ一つの、証明された事実を積み重ねて、新しい問題を証明するんですよ。

とにかく、演繹法の本をのぞいてみて下さい。ネットでも沢山検索できるんですから・・・それから、結論を出しても、遅くないですよ。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1038970.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%94%E7%B9%B9

ネットをのぞくぐらいの、努力はできるでしょ!
 

お礼日時:2010/01/28 09:02

No.33です。


>すべての、サヴァン症候群がそうでは、無いようですが・・・

そうですね・・・。「彼らの中には」と表現すべきでした。

サヴァン症候群の例に当たったのは、自閉症やダウン症など、先天的
な脳の機能障害のことを個人的に勉強しているときでした。
偶然NHKでサヴァン症候群と思しき方の特集がされており、書店で
同様の症例に関する書物を探していたときに、この「サヴァン症候
群」と言う言葉と出会いました。
このときにNHKで見た番組の印象が強かったため、あたかも全ての
サヴァン症候群と呼ばれる皆さんに当てはまるかのような表現をして
しまったこと、ご容赦くださいませ。

物理学的な表現を交えながら、少し哲学的なお話をしてみます。

上記の障害について調べている折、別件で私は「虚数」という数字に
付いて非常に関心を持つ機会がありました。

これは、恐らくアスペルガーであると思しき、当時小学校6年生の少
年より投げかけられた言葉。「虚数って存在するん?」という問いか
けがきっかけでした。

結果、この世にある全てのものを説明する際、この「虚数」が存在し
なければ「虚」ではない、「実」の世界が存在することを証明するこ
とができないという、正しくパラドックスのような現実に出会いまし
た。

この世にある、ありとあらゆるものは全て、「量子」と呼ばれる超ミ
クロの粒でできています。「量子」の世界は「虚数」の世界であると
いっても過言ではないかも知れません。

この視点から見ると、私たち一人ひとりの人間が、存在するのかしな
いのか、ということすら、非常に曖昧で、あやふやなものとなってし
まいます。

前記した、いわゆる高次機能障害を持つ子どもたちの世界に接する
と、例えば遺伝子の世界についても同様な疑問がわいてきます。

遺伝子は、TCAGと言う、たった4種類の物質で全て構成されてい
るにも関わらず、ちょっとだけその文字列の並び方が人と異なってい
るだけで、大多数の同じ種類の生物とは全く異なった現象が現れてし
まいます。

彼らの世界で、彼らが見ているもの、感じているものは、本当に、私
たちが見ているもの、感じているものと同じものを見て、感じている
のか、非常に疑問に思います。

視覚は本当に視覚なのか、ひょっとすると別の感覚と錯覚を起こして
いて、たまたま我々には視覚として認識されているだけじゃないの
か(幻肢痛という症状があります。体に張り巡らされている神経の
一部が混線を起こし、熱を痛みであると錯覚したり、痛みを精神的な
苦痛であると錯覚したり、恐らく中には目から受ける刺激に痛みを覚
えるような現象もあるのではないでしょうか)。

高次機能障害の子どもたちは、私たち大多数の人間が用いる脳とは違
う脳を用いて様々なことを考え、判断します。

私たちが見ている緑は、ひょっとすると緑であって緑ではないのかも
しれない。色覚異常という症状もあります。視覚障害者(全盲の
方)は、例えば何らかの治療が功を奏して視覚を取り戻したとして
も、しばらくは視覚ではなく、触覚で物を見ようとします。
彼らにとっての目は目ではなく、手なんです。

kunobouさんは別にも質問されていますね。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5602605.html

たまたま、わたしはこちらにも回答させていただいたのですが、ここ
で私がお伝えした「唯識」という考え方も、この論理に通ずるものが
あります。

参考URLは、私がこのように深く考えるきっかけの一つともなった、
「1/4の奇跡」というドキュメンタリー映画の主役である、山元加
津子さんのHPです。

おすすめは
・「もくじへ」→「宇宙の秘密」→「ペルーの秘密」。
・「雪絵ちゃんの願い(別冊たんぽぽ)を文字に起こしたものです。」
・「約束(般若心経)の動画(般若心経の口語訳です)」

多分。目からうろこが落ちたような気持ちになると思うのですが。
時間があるときにでもごらんくださいませ。

参考URL:http://www005.upp.so-net.ne.jp/kakko/
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

提示していただいたURLは、見てみました。

心が、洗われる感じがしました。

いい、URLの紹介、ありがとうございます。
 

お礼日時:2010/01/30 12:59

>これは、哲学的ではないですね。



 確かに。思想でしょうか?ここでは思想理念はなし?宗教はオーケーなようだが...

>でも、生活に「要」「不要」に関わらず考える所が、哲学にはあるんじゃないでしょうか?

 そうですね、

 「違う色を見ているかもしれない」と考えることが余計なことでああるとすれば、そのぶん違うこと、存在そのものにとって有益なことを考えられる。

 ところで、演繹法で色について考察すると、どのようなものになりますか?

この回答への補足

 
帰納法・演繹法については、ネットで沢山ヒットしますよ。

書籍としては、「論理的に考える方法」小野田博一 光文社知恵の森文庫
が、詳しくて、手軽だと思いますよ。
立ち読みでもされたらいかがでしょうか?
 

補足日時:2010/01/27 06:55
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この回答へのお礼

  
演繹法とは、三段論法の事ですよ。
例えば、
「動物は、いつか死ぬ」
「人間は、動物である」
「故に、人間もいつか死ぬ」

みたいな、かんじです。

色に当てはめると・・・
「この絵の具の色は黄色である」
「この花の色は黄色である」
「故に、この絵の具とこの花の色は同じである」

みたいな、感じですかね・・・
 

お礼日時:2010/01/27 06:40

 赤と黄色 という色があったとして、私が見ている赤は、他者にとっての黄色であり、私が黄色として見ている色が、他者にとっての赤である ということが在るだろうか?人間の目鼻口耳などが、大体同じ形で、同じ数あり、同じような位置に、同じ構造で設置されている。

このことを考えれば、自分が見ている赤色は、多少の誤差の可能性はあれども、大体同じ色を見ているだろう、ほとんど同じ色を見ているだろう。と思う。

 同じような形のネコたちがいて、それらが、それぞれ同じ色を見ても、違う色としてみているようには思えない。昆虫や、魚なども、それぞれの固体によって違うようには、認識していないだろう。
  熱いものを、人によっては 冷たい と感じるはずがない、丸いものを四角いと認識するはずがない、高い音を低い音として認識する他者がいるはずがない。そうであったとしても、『確認のしようがない』つまり、考えたところで意味がない。共通の「赤」という認識があり、それが科学技術や日常生活においての共通の認識として互いに分かり合えるなら、なにも問題はない。
「あの、赤い道具を持ってきてくれ」と言われて、「ああ、わかった」と、普通に生活できるなら、「違うのではないか、おかしいのではないか」などと、考える必要はないだろう。

↑これって、哲学的に言うと、どういう思考方法ですか?
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

思考方法としては、「帰納法」の類としていいと思います。
ただ、

>、「ああ、わかった」と、普通に生活できるなら、「違うのではないか、おかしいのではないか」などと、考える必要はないだろう。

これは、哲学的ではないですね。

「自分とは何か?」「存在とは何か?」「時間とは何か?」など、考えなくても、普通に生活できます。
でも、生活に「要」「不要」に関わらず考える所が、哲学にはあるんじゃないでしょうか?
 

お礼日時:2010/01/26 23:13

#17です。

凄くレス付いてますね。

>その考えは、独我論に類似した考えではありませんか?

そうだと思います。それで思うんですけど、なぜこの考え方は辺境に押しやられてるんでしょうか?きっと私の勉強不足だと思うのですが、この考え方はきっちり反証されてないのに、「でもそれだと先に進まないから、それは無かった事にしておこう。」って扱いにされてると思うんです。

絵画で言えば、リアリズムの絵もあれば印象派の絵もあります。写真のようなリアリズムの絵が現実=リアルだ、そういう前提が崩れたから印象派の絵が生まれたわけですよね。

繰り返しになりますが、マネ・モネ・ルノワール、それどころかピカソやブラックのように世界が見えてる人がいる可能性は否定できないですよ。
ちょっと質問の趣旨と離れてるかもしれませんが、認識を問題にされる方々にとってこの問題は避けて通れないと思うのですが、脇に置かれたまま放置されてるのが実際だと思うのです。

もちろん問題は視覚だけでなく、あらゆる感覚器官全ての問題ですけどね。感覚器官を通じて得られる認識は結局のところ共有し得ない問題は一体どうなるのか。
自分で新たに質問した方が良いのかなー
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

>凄くレス付いてますね。
そろそろ、結論を見たいですけどね・・・・

>自分で新たに質問した方が良いのかなー
お勧めします。「独我論」的な考えは、それ自体で大きいテーマですから、この質問スレッドでは、僕もあまり考えは述べない事にしているんですよ。
大事な事は、「独我論」にも、「弱い独我論」とか、「強い独我論」のように、多少違う考え方も在るようです。
だから、質問を立てる時は、「独我論」の定義も述べた方がいいと思いますよ。
その時は、僕も言いたい事が山の様にあるので、参加させていただきます。
 

お礼日時:2010/01/26 16:33

>ENERGEARさんは、「哲学」すると、「空想・想像」するの


>違いは何だと思いますか?

 さあ、わかんない。

 「イメージする」ってどういうことだと思う?
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この回答へのお礼

 
何を聞きたいのか分からないけれど
イメージするとは、頭の中で、映像などを思い浮かべる等の事だとおもう。
ENERGEARさんも、「わかんない」とか言わず、何らかの答えを出して欲しい。
哲学するって、考えることでしょう。
「わかんない」では、ここの質問スレッドに、参加する意味を自分で否定していませんか?
 

お礼日時:2010/01/26 01:10

再度、No.24です。


No.28に、横槍的に回答してもよろしいでしょうか。

ご質問者さまは、サヴァン症候群をご存知でしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/サヴァン症候群

彼らには、「数字」を「色」として感じる能力があります。
同時に、それぞれの数字に対して感じる「色」に対して、全て「感
触」を感じるのだそうです。

彼らにとって、色とは=心情であり、色彩が人の心に影響を及ぼすよ
うに色を心情として感じ取ります。

それは彼らにとって、自然の摂理であり、この摂理から外れた数字や
色を心に思い浮かべるだけで、「気持ち悪い」と感じるようです。

科学とは、哲学が追い求めた究極の姿であり、宗教が最も理想とする
形でもあります。(宗教が最も理想とする説にもきちんと論拠があり
ます)

言葉尻で回答に問題点を見出そうとするのは、折角回答してくださっ
た方に失礼だと感じるのですが・・・。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
サヴァン症候群については、以下のURLを紹介して欲しかった・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4% …

>彼らには、「数字」を「色」として感じる能力があります。
同時に、それぞれの数字に対して感じる「色」に対して、全て「感
触」を感じるのだそうです。

すべての、サヴァン症候群がそうでは、無いようですが・・・
 

お礼日時:2010/01/26 11:48
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