No.3ベストアンサー
- 回答日時:
>院政の背景
>白河の譲位は当初から院政を予定したのでしょうか?
>私は御三条と実仁の死からきた偶然性のようなものを考ええるんですが、実際はどうなんでしょうか?
白河上皇による院政の成立は偶然性があったと思いますが、院政の成立は歴史的必然性を持ち、いずれは起こる事柄ではなかったかと思います。それは、下にあるように院政成立期が古代社会の転換点にあたっており、それが院政という形態を取らせたのではないかと思います。
院政の成立は歴史的必然性の根拠。
院政の背景には親権・結婚形態・家族制度などの大きな変化が平安後期に起こったことが背景にあると思います。表面的には見えませんが、日本の古代社会は官位などの社会的な地位は父系によって伝わっても(蔭位の制など)、財産などは母系によって伝わることが多く、平安時代中期の邸宅の伝領関係を見てもすべてではありませんが、母系による伝領が多く見られます。結婚形態では招婿婚制度が取られ、女のもとに男が通い、できた子供の養育は女の親がみる制度でした。天皇家の形態は天皇が内裏から出られないという点では一般の家とは違っていましたが、局にいる妻たちのもとに通うといった点、生まれた子供の養育は女の身内が見る点で一般社会の風習の中にあったと考えられます。
次代の天皇は母,母方の祖父母、伯父伯母、従兄弟たちに囲まれて成長し、このような環境が摂関政治の背景となったとされています。この中心にいたのが天皇の母で、国母として尊ばれただけではなく、国母が生存していた時には天皇と摂関との関係は円滑であり、女系尊重の中で摂関政治が展開されたと考えられます。
これに対して平安時代も中期を過ぎると男系が尊重され、結婚形態も経営所婿取婚から嫁取婚に変化し、相対的に女系尊重から男系尊重へ変化したこと。
経営所婿取婚は一般に新婦側の用意した経営所という新居に住むが、生まれた子供の養育は今までのように母方がみないために、女系の(親権)力が落ちてくる。
父系尊重の流れと共に、この時期惣領制とも言うべきものが貴族社会にもできつつあり、天皇家でも家父長または惣領というべき「治天」「治天の君」「治天下」と呼ばれる者が登場し、「治天」が天皇位を退いても惣領として権威・権力を振るう下地ができてきたこと。
藤原摂関家を外戚としない後三条天皇の治世で、摂関家への荘園整理令による経済的圧迫。藤原氏以外の公卿(具体的には村上源氏など)が公卿の過半数を占める政治的圧迫。後三条天皇・白河天皇・堀河天皇の3代が藤原摂関家を実質的に外戚としない血縁関係などにより、摂関家の権威・権力が揺らいでいたこと。これに関連して今まで摂関家を中心とする上級貴族によって抑えられていた受領層を中心とする中小貴族が院政を支え、荘園などの経済基盤を提供したこと。
白河・鳥羽・後白河・後鳥羽と個性的で専制的な、悪く言えば自己中心的で小沢幹事長のような院政の主である上皇が続いた為に、院が国政上の位置づけを持ったこと。
院政の成立は偶然性があったと思う根拠。(白河以前でも、以降でも院政の成立が考えられた根拠)
白河上皇は院政を予定して譲位したのではなく、実仁皇太子の死により、自分の皇統を残す絶好の機会に恵まれた為に、堀河天皇の立太子・即位を強行したのであり、幼少の天皇を守り、自分の皇統の維持する為に天皇の後見として政治に関与するとの意識しか持たず、院政の開始との意識はなかったのではないと思うこと。
白河天皇の母は、摂関家傍流の藤原能信の女基子であり、堀河天皇の母は摂関の藤原師実の養女で、本当は村上源氏の源顕房の女賢子であり、鳥羽天皇の母は、藤原氏でも摂関家ではない閑院流の藤原実季の女茨子であり、摂関家の所生ではなかったことにより摂関家が外戚の威を振るえなかったこと。
過去にも、嵯峨上皇による家父長的権威(薬子の乱の勝利による権威も)による支配や、円融上皇による一条天皇の後見などの例があるように、平安時代にも院政に移行してもおかしくない例が見られるが、当時の政治・社会情勢などにより、院政の成立を見ておらず、白河上皇も後見に終わる可能性もあったと思います。それは、成人後の堀河天皇が関白の藤原師通(後二条殿)と結んで、政治の実権を掌握しつつあった時期があり、藤原師通の早すぎる死がなかったならば、院政が成立したかどうかは疑問であること。
日本の律令は上皇を天皇と同列に扱い、両者に差をつけていない為に、孝謙上皇による淳仁天皇の退位事件(恵美押勝の変)なども起る素地があったことなど、院政の形態に移行すべき素地は元々あったこと。
院政の執行機関である院庁(後院)は平安時代初期からの上皇の家政機関を基としており、それが拡大されたものであり、院政の成立によっても既存の政治機構の改廃に至っていないこと。
必然か偶然か分からない要素
永久の陰謀事件による三宮輔仁親王および村上源氏の勢力後退。
堀河・鳥羽両天皇の兄弟の出家。
最後に、院政の背景には、歴史の必然性があったとは思いますが、白河上皇から院政が始まるのは偶然性が強かったと思います。例えば、白河上皇時代には律令に基づく太政官符や宣旨が重んじられ、院庁下文の効力は院内部の荘園関係に集中するのに対して、後白河院政以降は国政上太政官符や宣旨に代わる力を持つこと。院宣については白河時代にも効力を持っていたが、後白河院政になると「院宣は枯れ木に花を咲かせることができる」とうたわれるほどの権威を持つことなどからも、院政は偶然性の重なりの中で徐々に国政上の位置と権力・権威を持つようになり、それが慣例としてなくてはならぬものとなったのではないでしょうか。
長くなりましたが、参考まで。
No.2
- 回答日時:
必然性はあったと思います。
確かに父と実仁の死は偶発的なものでしたが、その絶好の機会を逃さずものにしたのでしょう。ただ、皇太子最有力候補だったもう一人の異父弟・輔仁は健在で、祖母の陽明門院や左大臣源俊明なども輔仁派でした。幼い善仁を擁立する以上、院政は念頭にあったはずです。「院政の為に幼い我が子に譲位した」のではなく、「幼い我が子に譲位する為に院政という形態が必要」だったわけです。
後年の行動(堀河天皇が重態に陥った時には(鳥羽が生まれる前)出家していたにも関わらず万が一の時には自分が復位すると言い放ったり、17年間決めなかった皇太子に生後7ヶ月の宗仁(鳥羽)を据えたり、輔仁派を追い落としたり(千手丸事件)、輔仁の嫡男・守仁王を源氏に下したり)を見る限り、たとえ実仁が健在であっても何らかの手段で廃太子にした可能性もありますしね。
No.1
- 回答日時:
天皇在位中は、大納言や関白などスタッフの合議による政治のために天皇自身の考えで政ができなく、退位して院政するとその規制がなくなり自由に政が出来る。
白河上皇は、在位時に頼りにしていたスタッフの欠落からますます自由度がなくなり、その対応として上皇になったものと思われる。
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