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大西中将は特攻の父、生みの親といわれていますが、
本当にそうなんですか?
特攻の責任は大西中将にあるのでしょうか?

A 回答 (2件)

私はそうは思いません。


飛行機による特攻の最初は、神風隊攻撃、攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」となっていますが、大西瀧次郎ではなく、当時のフィリピン航空隊長(源田さんだったかな?)が有志を募り、体当たり攻撃を行えば、天皇陛下がそれを聞いて、『よくやった、しかし、命を捨ててまで敵艦に体当たりするのはあまりに悲惨だから、戦争を止めよう…』と判断して、戦争が終わるだろうと考えて、これが現場からの声という意味で特攻があったのです。しかし、天皇の言葉は『よくやった…』で終わり、止めようとはならなかったのです。

ウィキペデアでも、大西瀧次郎が特攻の発案者でないことを示す状況証拠としては以下が挙げられる…と書かれております。

フィリピンで戦った第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が、「特攻生みの親」となるには、特攻隊編成、特攻作戦の組織的実施を行うだけの部隊・兵器機材の編成権限が必要であるが、このような権限は当時の大西中将にはなかった。
1944年7月21日、大本営(軍令部)は「大海指第431号」によって、後日、「回天」、「桜花」、「震洋」として量産される特攻兵器による奇襲攻撃の計画を実行に移したが、当時大西中将は軍需省航空兵器総務局長であった。
「大海機密第261917番電」は、「神風隊攻撃の発表の際は、戦意高揚のため、特攻作戦の都度、攻撃隊名「敷島隊」「朝日隊」等をも併せて発表すべきこと」となっているが、これも、大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日に源田実中佐らの起案であり、着任後、特攻隊戦果の確認できた10月26日発信であった。
関大尉らが乗った特攻機(零戦)は、機上で爆弾の信管が解除できるように改造されている[要出典]。当時の慣習として軍令部の許可が無ければ絶対に兵器改修を行ってはならなかったこと[要出典]と、大西着任から特攻隊初出撃まで1週間もなかった(台湾沖航空戦の終了が10月17日、この直後に大西が着任し神風特攻隊初出撃(会敵せず帰還)は10月21日)。
このように、特攻の発案者が大西ではないことは状況証拠から見て明らかだが、今なお大西を特攻戦術の発案者とされることが多い。しかし、大西はパイロット育成には時間と金と労力がかかることをよく理解しており、特攻作戦のために貴重なパイロットを損失することに対して否定的であり、特攻作戦採用に際しては初期の段階では否定していた。

当時の戦局や大西の発言記録等では、彼が指揮する第一航空艦隊は当時突入してくる第二艦隊第一遊撃部隊(栗田艦隊)のためにフィリピンの制空権を奪う必要があったが、彼の着任直前に起きた台湾沖航空戦で大打撃を受けた第一航空艦隊に残されていた可動機は、わずかに使い古しの零戦約30機程度であった。

また、彼を知る複数の関係者は戦後、大西について「もし(特攻作戦を行って)戦争に勝っていたとしても彼は自決していただろう」という証言をしている[要出典]。
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特攻の発案や特攻機開発は19年10月以前から行われており、またその開発・発案で大西中将が第一人者というわけでもありません。


「特攻を初めて実戦で実施した人」と称するならわかりますが、「生みの親」「特攻の父」と称すると誤解を助長するだけでしょう。

>特攻の責任は大西中将にあるのでしょうか?
「特攻の責任」というのが何を指すのかわからないので何とも言えません。
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