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哲学は公理系を持とうとはしなかったのですか?

哲学のカテゴリーで何度か質問させていただき、その回答を拝読しながら思うことに、基本的な用語や概念に対してなんと多様な解釈があるか!という驚きがあります。

たとえば、「人間の本質は変わらない」のか「人間の本質は時とともに移ろう」のか。
このような基本的な事に合意を取らずに、人間界の議論を開始するのが哲学なのでしょうか?
場合によっては「時ともに移ろうものを本質と呼ぶのか」みたいなところまで遡って基礎教育しなくちゃならない。

人間という言葉で示す概念を固定できないとすれば、その言葉を使って何を意思疎通せよと言うのでしょうか?

哲学が数学や物理学ほどに緻密でなく、宗教ほど逞しくないことは分かりましたが、せめて公理系を持てば、哲学の議論が発散することを回避でき、議論の成果も期待できるのではないかと思います。

哲学が公理系を持ったことが有るのか、また持ったことが無いのであれば、なぜ公理系を持つことができなかったのか、など、ご教授いただけるとありがたいです。

A 回答 (6件)

それは、哲学がこの宇宙に実際に存在している生身の人間を対象にしているからです。

公理系で論じるための条件は、その論者が自分で今何を言っているか分かりながら物を言わなくてはなりません。ところが、この自然界で最も簡単な事象を扱う物理学ですら、それを論じている物理学者達は、自分で何を言っているのか分からずに論じております。と言うよりも、何かまだ言葉や数学で表現しきれないが、この世界のある事象に関して、それが正しいと思われる直感が先ずある。そしてそれが何なのか、自分は何を言っているのか、それを言葉や数式と言う言語を使って分りたいと思いながら、その学問をやっているのです。ですから、物理学者は自分で何を言っているかが分かるようになった段階で、ほとんどの場合その事象に関して興味を失ってしまいます。

ところが、数学は、自分で何を言っているのかを先ずしっかり理解して、その理解に基づいて定義を導入し、出来ることなら公理系を出発点として一大構築物を建築したいと考えているようです。言わば物理屋の到着点が、数学者の出発点になっているようです。物理学者は、自分に都合が悪くなって来たら、いつでも前の定義を変えてしまいます。でも、そんなことを数学者の目の前でやったら、激怒され、物理学者を無責任で大ボラを吹き捲くる山師、と罵られてしまいます。それほど、数学とは対象物が違い文化の違う学問ですから、物理学を公理論的に論じることを本気で考えている専門家はいないようです。確かに、『公理論的場の理論』などと言う本が数理学者によって書かれたりしたことはありますが、寡聞にして、そのような取り扱いをしたおかげで、この世界に対する新たな認識が生み出されたと言う話は聞いておりません。

いわんや哲学は生身の人間を対象としており、物理学よりも桁違いに複雑な事象に興味があるわけです。若い頃ある哲学書を読んでいたら、そのはじめの方で「哲学とは、それで何をやる学問であると分かった時に分かるようになる学問である」と書かれていて狐に摘まれたような気がしたのを覚えております。その点物理学は対象もやる内容もしっかりしていると思っておりました。ところが、長年の研究生活ののち、漸く「物理とは、それで何をやる学問であると分かった時に分かるようになる学問である」ことが分かって来ました。そのような学問を公理論的に構築しようなんて、落語ように掛け軸に書いてある餅や酒で、食べたり飲んだりしたつもりになろうと言っているような冗談話が落ちになってしまいます。

私は、以前、数学と物理学の違いに付いての岡潔の意見に噛み付いたことがあります。そこでの意見は、ここでの質問に関係があると思います。少し長くなりますが、そこでの一連の議論を

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4967451.html

で論じてあります。そこでかの有名は20世紀の生み出した数学の巨人ゲルファントから直接個人的に聞いた逸話も紹介してあります。お暇なときにでもそれらを古い順に目を通して頂けると光栄です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

引用の議論、時系列に拝読しました。
以前、拙者が別の質問で投げさせていただいた自然界における無限大、無限小の疑問などが整理されており大変勉強になりました。

拙者は、どうも数学的な考え方をする大工だということが分かりました。
森羅万象を十把一絡げに記述できる便利な哲学を求めていた。

大工にとっての進歩とは、「より少ない材料でより耐久性のある建物を建てる」ことですから、この進歩を哲学に適用すると、「より少ない思考時間(学習時間)でより汎用性のある世界観を得る」ことが哲学の進歩じゃあないのって思ってしまったのです。

なので、くだくだと個人的なコンテキストで議論を展開してんじゃなくて、さっさと公理系を教えてくだいさいな、あとは自分で建てますから、、、。みたいな発想ですね。

そういう経路をたどったのち、今、求めているのは所謂哲学じゃなくて、やはり物理学というか、この宇宙の記述だなあと再認識しています。

ありがとうございました。

追伸:分析的真偽か総合的真偽かで哲学を仕分けすると、なんと哲学も自然科学になってしまいませんか?入居している建物が違う!

お礼日時:2010/05/01 13:40

公理系を持つことと概念を明確にすることは同義ではありません。


質問者さんは、タイトルでは「哲学は公理系を持てるかどうか」を問うていますが、本文の内容は「哲学の用語は明確な定義を持てるのかどうか」を問うているように読めます。
例えば、カントは(少なくとも批判期以降は)いくつかの公理(自由・魂の不死・神の存在、等々)を根底に据えた上で哲学をしてます。しかし、それらの語の定義が明確かというと、そうは言い切れません。それどころかカントほど言葉を多義的に用いる人を私は知りません。つまりカントは公理は持っていますが、そこで使われている語の定義はまったくもって明確ではないのです。

質問者さんの問いに答えるならば、哲学は公理を持ったことはあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

ご賢察のとおり、拙者の質問というかクレームは、「哲学の用語は明確な定義を持てるのかどうか」でした。
公理系などとかっこいい言葉を使ってしまいすみません。

実際、用語の正確な定義も共有せずに議論を重ねて行くのが哲学だといえば納得してしまいます。

公理系云々に関する現在の理解は、
(カントなど)哲学者個人は公理に相当する信条を基準に持論を展開しているが、それは万人が認めるところの公理であるとは限らず、また公理系としての十分性をもったものとも限らない。
と言う事でございます。

もちろん、哲学が公理系をもたないからといって、下等な学問だなどというつもりは毛頭なく、心理学や社会学などと同等以上に上等な学問とおもいます。

お礼日時:2010/05/01 13:19

公理ですか。


世界は、・・である。その何とかを、例えば、1.対称、2.非対称、3.カオス、4.秩序、
に選んで哲学すると言うことですかね。

1.太鼓の模様のような対称思想が好きな国もありますね。
2.非対称、はマルキーが嫌いでしょうね。
3.カオス、一部の物理学者が好きな定義でしょうね。
4.秩序、日本人の好きな言葉ですね。

さて、今日は「対称」公理の哲学で質問しますので、それで答えてください。
そのようなことを言いたいのですね。
面白いとは思いますが、せいぜい学校教育の方法論程度のはなしですね。
算数のように公理は何でも作れるという意味ですよ。ただ、人の世界なのでその実証には数百年かかるので、長い歴史の中でおのずと残るものは残るし、残らないものは残らないというだけですね。
また、はっきりしないものは未だにはっきりしてないだけですね。
あらゆる前提を網羅して自由に考察し真理にたどり着きたいというのが哲学でしょうね。
だから面白いんですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

哲学者が(あるいは話者が)各人各様の信条をもとに展開するということは、公理系が無いというのと同じです。
公理系は万人が認める公理が複数あつまって十分性を担保できなければ意味が無いですから。

もちろん、万人が認める公理以外の公理を選択して別の公理系を作ることができますが、その場合は議論を開始する前に、別の公理系に基づく議論であることを断らなければならない。
この最低限のルールが成り立つ世界なのか、そういうルールとは別世界なのかを確認したかったのですが、どうも別世界ということで納得しています。

哲学が公理系を持てないということがイコール、哲学が未熟で下等な学問だなどと思っていません。念のため。

お礼日時:2010/05/01 13:11

>psytexさんがこの哲学のカテゴリーに


>回答されるときに採用している公理系は

一般的なカテゴリーとしては、マッハ主義(<「主義」が思想における公理系のこと)=科学的観念論の系譜に連なります。
ベースを物理とし、しかし通常それが先入する素朴唯物論(自分の外に独立した“存在”があり、二次的に意識を発生させる)を、等価的に観念論に置き換えたものです。
エルンスト・マッハの時代は、短絡的唯物論のマルクス主義の全盛期で、ケチョンケチョンにやられたけど、その後、観察者を座標の中心に据えた(絶対時空の否定)相対性理論、認識に有限的存在性の起源を置く量子論が主流となって、「人間原理」というような観念論的な方向性が“自然”になったんですよね。
(ま、そうした立場を採らない素朴唯物論に対応する素朴実存哲学(物理を学ばず日常的経験と思索だけで本質を考える)の信奉者にとっては、『これほど思考力のある自分に分からないのは、こいつが自慢のために難しい言葉を羅列してるせいだ』と腹が立つ、ていう)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

マッハ主義を良く分かっているわけではありませんが、拙者にとって物理系の方の哲学が分かりやすい(通じる)のは、拙者も無意識的に物理系の「主義」に拠って立つからと思います。
なかには、「宗教も哲学の内だ」とうような主義の方もいらっしゃるようで、そういう方とは議論にならないという印象を持っています。

具体的な問題は、数学の公理系は万人が認める公理(複数)によって十分性を持った系を形成するのに対し、「主義」というのは、いくつかの公理を含むかもしれないが十分性があやしいこと、および、万人が認めるとは言い難い公理を含んでいることがままある、とういう点だろうと思います。

この文脈で、哲学はすぐれて属人的(属哲学者的)であると思います。

お礼日時:2010/05/01 12:41

回答が多様なのは、「公理系(論理体系)」が異なるからであって、1つの考えにおいて複数の回答をしている訳ではありません。


幾何においてユークリッド幾何や非ユークリッド幾何があり、力学においてニュートン力学や量子力学があるのと同じ事。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

psytexさんがこの哲学のカテゴリーにご回答されるときに採用している公理系はどれですか?
それをご教示いただければ、是非勉強してみたいと存じます。

お礼日時:2010/04/30 21:12

哲学は幅が広く、奥行きが深いので、あなたが考えている哲学は、恐らく数学や物理学は含まれていないようですが、自然科学の領域でも哲学はあり、そこでは公理が探究されています。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_dat …
また宗教も哲学と区別なさっていますが、宗教哲学という領域もあります。http://wwwsoc.nii.ac.jp/sprj/
ご自分の知らない領域を知ることが、また哲学です(ソクラテス『無知の知』)。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/mori/great/so …
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この回答へのお礼

早速に回答ありがとうございます。

私が考えている哲学は、数学や物理の学位も持たない教授が、数学や物理の試験科目を果たさずに学生を入学させている私立大学の文学部や大学院哲学専攻で教えるところの哲学です。

ソクラテスの無知の知までご教授いただきありがとうございます。

ちなみにCowstepさんがこの哲学のカテゴリーにご回答される時に前提としている(Defaultの)公理系はどちらでしょうか?

私がCowstepさんの公理系に合わせれば議論が噛み合うと思いますので、是非ご教示ください。
勉強してみたいと存じます。

お礼日時:2010/04/30 21:14

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