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純粋理性批判(Q1)
『純粋理性批判』入門(講談社選書メチエ)という黒崎政男氏の本を読み出したところです。
「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」というカントの記述に対して、黒崎氏は以下のように解説しています。

〇---------------------------
~経験が可能となるためにはいくつかの条件がある。
例えば、空間・時間はものが存在するたの形式ではなく、私たちの直観の形式であること。「原因と結果」などの因果律は、ものの存在様式ではなく、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している、などなど。

これらの条件によって私たちの経験は成立するのだが、私たちの経験、<認識>が成り立つことと、その<認識の対象>、つまりものが成立してくることとは同時的事態である、とカントは主張しているのである。
--------------------------〇

ここで、

(1)空間・時間が、私たちの直観の形式である。

(2)「原因と結果」などの因果律が、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している。

とは、どのような条件を指しているのでしょうか。
カントの思想(に関係はしてくるのでしょうが)というより、黒崎氏の意図していることを、まず知りたいと思っています。
素人にもわかりやすくご説明いただけると有難いと思います。
  

A 回答 (8件)

その3.



http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5900641.html

ここで十二の論理的な思考形式を明らかにしています。
(※ここで、回答したのは判断表の方で、こっちからカテゴリー表は導かれる、と書いたつもりだったんですが、その部分をコピペし忘れて、あとで気がついたんですが、訂正しようと思ったときには締め切られていて、58258615さん、ごめんなさい。確かに判断表がわかったら、カテゴリー表の意味もわかるとは思うんですけど、そこらへんの書き方がずいぶん雑になってます)

このような形式でわたしたちは判断をしている。つまり、主語に付け加えられる述語概念には、このようなカテゴリーがある、ということです。

このカテゴリーのなかでもっとも重要なのは、関係のカテゴリー、とりわけ実体と因果性のに関するカテゴリーです。これは定言判断(SはPである)と仮言判断(「もしXならば、SはPである)から導かれるのですが、自然科学は感覚するものをすべて、実体と属性、原因と結果から考察している。

つまり、質問者さんがおっしゃる「因果律」というのは、対象の側に属するものではなく、人間の判断の形式なのです。

だから「すべて現象するものは、つねにその原因によって恒常的法則に従ってあらかじめ決定されている」といえる。つまりわたしたちがそのような形式によって現象するものを受けとっているから、そのことが言えるのです。
条件というのは、そういうことです。

当然ここでこうした疑問が起こってくるはずです。
どうして思考の主観的な条件であるカテゴリーが、対象の客観的な条件となるのだろうか。

ここを理解しようと思ったら、「統覚」に進んでいかなければなりません。
ほんとに大変なのはここから先です。だからこんなところで引っかかってないで、「こういうもんだ」ぐらいにふまえておいて、つぎのところへ進んでください。カントに「沈黙の十年」を強いた難所が待っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

アプリオリな分析判断とアプリオリな総合判断の区別は私にはまだ難しく感じられますが、その定義に関しては一定の理解を得ることができたように思います。

また、順序立てて述べていただいたお陰だろうと思われますが、
>「二点間」というとき、わたしたちはすでに点Pと点Qを区別しています。こうした区別を可能にするものは、経験には由来しない、逆に経験を可能にするア・プリオリな形式です。それが「空間の純粋直観」と言われるものです。
:というご説明が、(たぶん?)明快に腑に落ちたような気がします。
欲しいもののところへは年齢(経験)に関係なく、誰に教えられなくても一直線に進むように人間はできている、といったようなことになるのでしょうか。(あえて?マークはつけないでおきます)
いずれにしても、総合判断を可能にするアプリオリな形式としての「空間の純粋直観」という概念にお近づきになれた、という感じです。

>時間におけるひとつひとつの単位が継起的に付け加わっていくことで成立しているのです。そこで、算術には「時間の純粋直観が必要である」とされます。
:という表現も新鮮でした。

>普遍妥当的な認識の典型である幾何学と算術は、この空間形式と時間形式に関するア・プリオリな認識の体系にほかならない。だから、純粋数学がア・プリオリな総合的認識として可能であるといえるのです。
:になぜ至るのか、についてそれなりに理解できたような気がします。

基本的な思考形式としての純粋悟性概念に関するカテゴリー分類の意図が全くわからなかったのですが、(とはいえ、実は、このカテゴリー分類に興味を持ったのがカント挑戦のきっかけではありました)
>知覚したものが何であるか判断するためには、知覚の内容を統括する概念があらかじめ必要
:というご説明で(その意図だけは)理解できました。
参照 URL にある判断の論理的表に関するご解説も大変興味深く拝見いたしました。

「実体と因果性」に関するカテゴリーは、
>自然科学は感覚するものをすべて、実体と属性、原因と結果から考察
:するという、
>人間の判断の形式
:について述べたもので、
>わたしたちがそのような形式によって現象するものを受けとっているから、
>「すべて現象するものは、つねにその原因によって恒常的法則に従ってあらかじめ決定されている」といえる。
:ということなんですね。
条件が何を指しているのかわかりました。

>どうして思考の主観的な条件であるカテゴリーが、対象の客観的な条件となるのだろうか。
:という疑問はご推察のとおり当初よりありましたが、まだ質問の段階にまで私は至っていないだろうと思っています。
光文社の中山元訳が手元にありますが、本文に訳者注釈が挿入されていて、これが微かな(と言っては失礼ですが)灯りとなるような印象も受けていますので、いずれボチボチと読み進めていくつもりです。
なるべく「こんなもんだ」と思うようにしますが、小さな石でも気になる性質で、その際にはまた質問させていただくと思います。
大変参考になりました。
     

お礼日時:2010/05/28 17:13

阪大の浜渦辰二さんの紀要を載せておきます。

ご興味を持って読まれる方がいるかもしれないと思いましたので。
それと、この質問がQ1とありますので続く可能性があるのかなと、、、そのヒントや刺激になればと思います。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/gyouseki/k …
『空間の現象学にむけて
 -- フッサールによるカント超越論的哲学の改造 -- 』
1、フッサールによるカント批判
2、経験の可能性と数学の可能性
3、直観の空間と幾何学の空間
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>続く可能性があるのかなと、、、
:ご推察の通りです。
そのつもりですので、よろしくお願いいたします。

URL 面白そうです。
参考にさせていただきます。
  

お礼日時:2010/05/28 20:32

(1)ところで、テーブルや自動車はモノですけど、そのテーブルや自動車を、今、わたしたちが感じるように存在するのは、テーブルや自動車に、ある特徴があるからでしょうか?直観の形式というのは、モノに特徴があるのかもしれないけど、むしろ、私たちの特徴が反映していると考えたらどうだろうかという発想の転換だと思います。



(2)これは、(1)と関係していると思います。すべて、私たちのせいで、モノが関連付けられているのです。私たちの解釈のしかた、私たちの翻訳のしかたによって、世界は、いかようにも読み換えられるということではないでしょうか。ところで、因果関係というのは、少し変わっていて、時間的に後者である、結果が先に考えられるというものですよね。これは、不完全情報しかもたない人間らしさを表していると、私は思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>私たちの解釈のしかた、私たちの翻訳のしかたによって、世界は、いかようにも読み換えられる
:バークリーの観念論(といってもウィキぐらいでしか知らないのですが)にかなり近くなるような気もしますが、そういうことも含まれているのでしょうか。
もう少し読み進めていきたいと思っています。

>因果関係というのは、少し変わっていて、時間的に後者である、結果が先に考えられるというものですよね。これは、不完全情報しかもたない人間らしさを表している
:という箇所は、今の私には難しすぎてよくわかりませんでした。
もう少し勉強していずれ理解できるようになれば、と思います。
  

お礼日時:2010/05/28 17:32

その2.



7+5=12 これは総合判断である。
なぜならば 7+5 という概念をどれほど分析しても、「ふたつの数を結び合わせてひとつの数にする」というところまでは導き出せても、それが「12」である、というのはそのなかには含まれていないから。

となると、数学的な命題は分析判断ではなく、総合判断である。総合判断ではあるけれども、 7+5=12 は普遍的妥当性を備えた真理である。つまり、これはア・プリオリな総合判断である。

幾何学の命題「二点間の直線は最短の線である」というのも、直線の定義を考えてみると、直線は長さだけがあって幅がない、それがどのくらいの量であるかということは、主語概念の定義には含まれていない。したがって「最短」という概念はまったく新しく付け加わったものである。

ここからいえるのは、「数学的認識は、幾何学であれ数の算術であれ、いずれも分析判断ではなくて総合判断である」ということです。
「ア・プリオリな総合判断が可能であるとするならば、われわれの知識は拡大することができる」。

ここからカントの筋道は

いかにして純粋数学は可能か
 ↓
いかにして純粋自然科学は可能か
 ↓
いかにして学問としての形而上学は可能か

という手順になっていきます。

(もう書くのに飽きてきたんだけど、始めたものはしょうがないから、がんばって書きますので、どうか質問者さんもがんばってついてきてください。)


なぜ経験によらない純粋数学は可能なのでしょうか。
わたしたちは三角形の内角の和が二直角に等しく、直線が二点間の最短距離であり、7+5=12 であることを知っています。それはどうしてなんでしょうか。

ここで時間と空間がでてくるんです。
時間と空間というと、どういうことかというと、数学においての「算術」と「幾何」のことなんです。

「二点間」というとき、わたしたちはすでに点Pと点Qを区別しています。こうした区別を可能にするものは、経験には由来しない、逆に経験を可能にするア・プリオリな形式です。それが「空間の純粋直観」と言われるものです。

幾何学が空間の純粋直観を必要とする、というのはなんとなくわかるような気がするんですが、算術が「時間」というのは、ちょっとピンとこないかもしれない。
7+5=12 というのは、まず "7" という単位、つぎに "+" という単位、それから "5" という単位……というふうに、時間におけるひとつひとつの単位が継起的に付け加わっていくことで成立しているのです。そこで、算術には「時間の純粋直観が必要である」とされます。

つまり、時間と空間というのは、与えられた材料を受け入れるために、わたしたちが発動させる形式なのです。この形式があるから、感覚器官の対象以外のいかなる対象にも無関係に成立する。つまり、普遍妥当的な認識の典型である幾何学と算術は、この空間形式と時間形式に関するア・プリオリな認識の体系にほかならない。だから、純粋数学がア・プリオリな総合的認識として可能であるといえるのです。

つぎに、純粋自然科学ですが、自然科学も普遍的で必然的な学であるためには、ア・プリオリな部分を含んでいなければなりません。カントはア・プリオリに成立する普遍的な自然法則として、「すべて現象するものは、つねにその原因によって恒常的法則に従ってあらかじめ決定されている」という命題を提示します。
こういう自然法則が成立するのはどうしてなのでしょうか。

それは、わたしたちの認識というのは、感覚器官と悟性が一つになり、判断として成立しているからです。

知覚に際して、わたしたちは先にも述べたように、空間および時間という先天的直観形式を必要とした。言い換えるとわたしたちが「感じる」というのは、空間と時間というフィルターを通して感覚しているのです。では、この知覚から判断が生じる先天的条件はいったい何なのでしょうか。

何でもそうですけれども、何かを判断しようと思えば、あらかじめその判断が可能となるように、わたしたちは何らかの概念を持っていなければなりませんよね。同じように、知覚したものが何であるか判断するためには、知覚の内容を統括する概念があらかじめ必要です。

この概念は経験によって生じるものではない。知覚の前に、判断ができる条件が先行していなければならないからです。従ってこれは、ア・プリオリなものでなければなりません。カントはこの判断の述語となる人間の基本的な思考形式を、十二に分類して純粋悟性概念と呼びます。

(3へ続く)
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回答その1.



できればカントの『純粋理性批判』を読みながら、黒崎さんの入門書をお手にとってください。入門書・解説書というのは、言ってみれば地図なんです。目的地へ着くまでの地図で、わたしたちの目の前には、現実の街が広がっている。目的地へ行くまでに理解しなければならないのは、「地図」ではなく、どこへどう行ったらいいか、です。

地図をしっかり理解できなければ、街を行くことができないかというと、そうではないでしょう。街を進みながら、地図を参照していくうちに、自分がどこへ向かっているか、も「地図に何が書いてあるか」もおのずとわかってくる。おっそろしく複雑な街であっても、地図をたよりに何度か通っていれば、そこがどんな街かわかってきます。そういうものだと思ってください。

その上で、ここでは地図の地図ではなく、俯瞰図を書いてみようかと思います。質問者さんがご質問なさったことは、どういうことか、ということが明らかにできたらな、と思っています。

まず、ここに至るまでの流れを大きくつかんでいくことが必要かと思います。

黒崎さんの本に書いてあったかどうか、手元に本がないのでよくわからないのですが、『純粋理性批判』の「批判」とは、たとえば先生が生徒の書いたレポートを見て、「そこ、ちがってるよ」という「批判」のことではありません。原題でもある「トランスクリティーク」の「クリティーク」とはギリシャ語の「クリーノー」、よいものを選んでいく、という意味だった。そのことを頭のどこかに入れておいてください。

カントは序文でまず言います。数学と物理学は学問の道を歩んでいるが、それに対して形而上学は学問とはなっていない。従来の形而上学では学問として成立できないので、数学と物理学をお手本に、新しく「学」としてうち立てていこう。

形而上学というのは、簡単に言ってしまえば、神の存在や人間の自由意思は存在するか、霊魂は不滅かどうか、ということです。結論として言ってしまえば、こういう形而上学は、道徳や宗教の問題であって、純粋理性の内には含まれないものである。それがこの『純粋理性批判』で証明されているのです。

まず初めにカントは、数学と物理学がなぜ学問として成立するのか、を明らかにします。

その上で最初に取りかかるのは「判断」です。
「判断」のなかにある「分析判断」と「総合判断」とを区別しようというのです。これ自身は別にカントの分類などではなく、ガリレイが実験において「分析的方法」「総合的方法」として導入した考え方なんですが、カントはそれをふまえているわけです。

分析判断とは、ある命題の主語概念の中に述語概念が含まれるもの。
カントが例に引くのは「すべての物体は延長している」ですが、これはデカルトの定義がふまえられています。デカルトは「考えるもの」としての精神と、「延長をもつもの」としての物体を対置させましたよね。延長をもつ、というと、横に広がる、空間に一定の場所を持つ、ということです。
以来、物体とは延長をもつもののことである、という定義が一般的になってきました。

だから「すべての物体は延長している」というのは、物体という概念のなかに、すでに延長ということが含まれているので、分析判断である。

それに対して、「物体」という概念のなかに「重い」ということは含まれていない。物体という概念をどれだけ分析しても、「重さ」ということは出てこない。物体の重さというのは、わたしたちが経験を通して意識することだ、こういう判断は「総合判断である」とします。

こうして考えていくと、「分析判断」はわたしたちの経験に先立って(ア・プリオリ)、普遍的な正しさを持っている判断といえる。けれども、それは主語概念を分析していけば導き出せる判断であって、わたしたちの知識を拡張させるものではありません。知識を増やしていくためには総合判断が必要になってくる。

ここからがちょっと厄介なんですが、カントは数学的判断はすべて総合判断である、とします(ここらへんはのちにJ.S.ミルを始め、さまざまな人に批判されることになりますが)。

(2.へ続く)
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う~ん、悩ましい質問ですが、#1さんのご回答で、大体正しいですね。



純粋理性批判の文章に副ってお答えすると、
1)に関しては、感性の問題ですね。
人間の経験は、感性・感官による、外界の対象の認識からはじまる、訳ですが、その認識が、「いま」「ここ」と言う、時間・空間の枠組みの中でしか、可能ではない、ということでしょうか、外界の対象の認識が、時間と空間の中で行われることは、いま・ここに、書かれている回答文を読むと言った、ごく常識的な、判り易い事柄ではないでしょうか。
注意したいことは、認識は、感性・感官によるところの「現象」であって、時間・空間そのものは「現象」ではなくて「直観」と表現しているあたりが、条件、と言う用語を使う理由ではないのでしょうか。
2)こちらは、さらに悩ましい、問題ですね。悟性のカテゴリーの件。
カントの認識は、感性・悟性・理性と言う三段階になっていますが、感性から悟性に至る過程で、悟性によるカテゴリーによる、判断、総合判断と正確に書いた方がよいでしょうか。
つまり、感性に得られた多様な表象だけでは、何が何かわからない、そこで、悟性のカテゴリーを使って、それが何であるのかの判断をすると言うわけです。「分量」「性質」「関係」「様態」の四つの下にさらにいろいろなカテゴリーを想定するのですが、そのうちの一つに、「因果関係」或いは「原因」と「結果」と言ったものがあったようです。

私なりに具体的に例を示すと、机の上に、煙草があります、私が見れば、自分がそこへ置いたという原因が判りますが、妻が見た場合、おそらく、私が置いたのだろうと想像するしかありませんね。この微妙な違いは、机の上の煙草の表象(悩ましい言葉ですね)からは、決して導き出される違いではないですよね。机の上の煙草は、誰が見ても同じに見えるはずです(ここもまた悩ましい文章ですね)。そこで、認識の主体の側に、カテゴリーがあることによって、因果関係が理解できるということになり、その事を、条件と表現しても、言葉の使い方としては、間違ってはいないと思います。

黒崎さんのご高名は以前から承知しているのですが、なかなか縁がなく、いまだに読んではいません、この辺りお役には立てませんが、解説書ですから、さほど逸脱した解釈はしないと思います。

お役に立ちませんが、出来る限り、判り易く書きましたが、どうでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

回答文自体も時間・空間の中にあると思うのですが、だから私がそれを認識(経験)できる、という仕組みになっているのではなく、
回答文によって「感覚的に触発された私の意識(これを直観と呼んでいいのでしょうが)」に、(#2さんおっしゃるところの)「手続きやプロセスをもって整合をつけている体裁」として時間・空間という形式が関与していればこそ、だ。
ということになるでしょうか。
もう少し読み進めていくことにします。

主観的カテゴリーに関する煙草の例は大変わかりやすかったです。
「主観的なカテゴリーの側に属している」とは、
「>認識の主体の側に、カテゴリーがあることによって、因果関係が理解できる」
という意味であることもわかりました。

光文社の中山元訳も手元にあるのですが、たぶんいきなり読んでも私にはわからないと思い、解説書から読み始めています。
それでも難しいですね。
「カテゴリー」と「形式」の定義に関する質問になっていたかもしれませんが、みなさんのお陰で少しこなれてきたような気がします。
   

お礼日時:2010/05/26 16:29

経験が可能となるための条件が(1)(2)の事柄だとしているのですね。



いま、目の前にコーヒーカップがあるとします。これはカップ(=もの)が存在するという様態です。
まず、このカップが存在するための形式がなんであるかは、「わかりません」ないし「問いません」。
このとき形式とは、汲みつくされる内容・芯奥・基底などがあることに伴うその顕在の仕方、現れ方、外観と考えるか、または、物質・物体があることにともなう形相と考えるか、いずれにしても、構造を成し、枠組みを与えている働きの結果で、手続きやプロセスをもって整合をつけている体裁です。

次に、空間・時間は、何かのそしてなんらかの、形式であるのか、それとも、汲みつくされる内容や物質なのかという問題があります。
黒崎氏は、空間・時間はAの形式ではなくBの形式である、と表現していますが、これはやや大上段な先回りした論理構成になっていると思います。
空間・時間は形式であるということ。そして、Bの形式であること。ここに、「Bの形式であること」と比較対象的かどうかが吟味されていないので並べても説得力が増すかどうかわからない「Aの形式であること」を挟み込んで否定しています。Bの形式であることとAの形式であることが、取り違えられやすいと考えたのかもしれませんが、少し乱暴な、不親切な書き飛ばしの印象を受けました。

空間・時間は、それそのもので何かであるものとして私達に汲み取られたり材料化されたりするものではないんだ、むしろ何ものかである直観へあたえられている構造・枠組み・手続きプロセス上の体裁なんだ、つまり形式なのだが、ものが存在するための形式じゃないよ、何ものかである直観の形式なのだ、という意味でしょう。

コーヒーカップが非在となる(消失する)としたら、直観が崩壊したのです。コーヒーカップがある空間・時間というのは、それ自体はわからないし問わないので、コーヒーカップがある空間・時間を経験や認識が通り過ぎたり逸れたりするという順序では考えないことが、肝心かと思います。ポーの盗まれた手紙や京極夏彦のうぶめの夏は、まあ、その順序ですけれど。そうではなくコーヒーカップがある空間・時間それ自体が、与えられた形式であり、直観の形式なのですね。ですから、ポーとか京極に似たわたしたちのあれれ?経験は、直観の沈下と構造化とでもいうほかなくなります。


コーヒーカップを落とした、すると目の前からなくなった、という「原因と結果」は、主観によって出来事と認識されます。認知の不全があると、因果関係がわからず、何が起こったかがわかりません。経験と認識はみなこの主観劇場のプロンプターが脈絡を作って構造化しています。
ものの存在様式(存在の方法・形態)というと、因果律にしばられ、変化に晒されていて、主観というのはそれを観測するのだろうと考えがちであると、黒崎氏は懸念したのでしょう。
そうではなく、ものの存在様式もわからないし問わない、ただ主観劇場が様式化つまり方法であるように働きかけ、形態であるように組立て、原因と結果を「系統的に構成して」いるということを言わんとしているのだと思います。
以上のことを条件として、経験が可能になるというわけです。

注意すべき点として、ものの変化と観測は現実に別個の事象として成り立っているのではないかという疑問が浮かびますが、再現性に期待して予測している主観にとって、ものが存在していることの形式またその方法様式は、シミュレート的に外在するものとして仮置きされていると言えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

形式とカテゴリーの意味が、なんとなく身近になったような気がします。
黒崎氏の意図についてのご説明が、私の読解力不足解消に役立ちました。

>ものの変化と観測は現実に別個の事象として成り立っているのではないかという疑問が浮かびますが、
:そうですね。
どうしても実在論に傾いてしまいますが、観念論との統合を図ったと言われるカントの意図に興味が湧いたので、
「経験の可能性の条件が、同時に、経験の対象の可能性の条件である」ということに関しては、むしろ期待を持って読んでみたいと思っています。(光文社の中山元訳を同時購入してあるので)
観念論的視点と捉えてよいのでしょうが、
>再現性に期待して予測している主観にとって、ものが存在していることの形式またその方法様式は、シミュレート的に外在するものとして仮置きされていると言えます。
:という箇所が、大変印象に残りました。
   

お礼日時:2010/05/25 17:23

 おそらく(1)は経験する為の物理的【もの】(2)は自分が「これが原因と結果だ」と感じる【もの】だと思いますね(わからんけどw)おおよそ黒田氏は経験可能の必要条件を説明しようと思っただけだと思いますよ?(1)を分かりやすく言うと目の前にあるパソコンを認識するには主体性とパソコンを包括する空間と電気的変化が必要だから時間がその裏側に存在するということですねって余計難しいか?wまあ存在と認識は空間と時間が必要なんですよそれを説明してるんです。

(2)はXがYになったというのはXがYになったと自らが表現したのであってX→YをXがYになったと自らがジャッジしたという話です。つまり原因Xと結果YはXがYに変化しているという現象を自らがXを原因としYを結果としているという意味です(おそらく)つまりよくご自身が質問者のひょっとしてシンクロニシティ?的な質問を違うとやり取りしているのと同じで現象をシンクロニシティ?と思う。いや間違いなく偶然だと思う。この両者は原因から認識(結果)に対するまでの経路が主観的なカテゴリーによるものですよというのがカントや黒崎氏の言いたいところだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
予想はしてましたが、なかなか難しいものですね。

>つまり原因Xと結果YはXがYに変化しているという現象を自らがXを原因としYを結果としているという意味です
:このあたりを参考に、もう少し精進してみることにしましょう。
  

お礼日時:2010/05/24 14:51

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