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古代の日本と朝鮮半島の関係
日本は昔、朝鮮半島を支配していたのでしょうか?
百済の王子(直支)や新羅の王子が、日本に人質として送られてきたという話をきいたことがあります、、、
しかし人質っていうのは、普通は弱い国が強い国に差し出すモノだとおもいます。
ウィキペディアをみてもそのあたりは書いていません。
日本はそんなに強かったのでしょうか。
中国の最新文化をとりいれるのならば地続きの朝鮮半島のほうがよほど中国に近いから、有利だし強いとおもうのですが。それに、
昔は朝鮮半島に影響力を持っていたとして、それが、やがて、影響力が無くなったのだとしたら、、
古代の日本はすごく強くて、百済から人質までとっていたが、その後、日本の国は弱くなったようにおもえます。自分としては古代の日本は弱い国でで、後になるほど強くなっていったイメージがあるのですが、そのあたりどうかんがえればいいんでしょうか?宜しくお願いします。

A 回答 (6件)

考古学的な資料などから、7世紀以前は、朝鮮南部から北九州、西日本一帯が、同一の文化圏に属していた、と考えるべきだと思います。

その文化圏の中で、倭、新羅、百済の3国に分かれていたと捕らえるべきでは無いでしょうか。朝鮮南端の任那という土地もその観点から捉えるべきで、「支配していた。」、「侵略していた。」、というより、九州北部から対馬、任那あたりを倭がもともと持っていた、と考えるとずっとすっきりします。(当時の日本は、東日本どころか北陸すら未支配状態であり、侵略や支配という言葉は当時の国力から見ても妥当では無いと思います。)

百済崩壊後の百済民の受け入れ方を見ても、別民族と見ていた感じはあまりしません。百済の亡命王子も倭は好待遇でもてなしており、「人質」といっても、その言葉の意味が現在ほど重いかは疑問の残るところです。
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中国では紀元前の春秋時代から、盟約に伴う国際儀礼の一環として、支配氏族の中枢的地位を占める人物を「質」とし、贈与のための技能者たちを「賂」(まかない)として、ともに相手国に送るという伝統がつくられてきました。

朝鮮王権が倭国に送った「質」(≒外交使節)と技能者もほぼ同じ性格を持ったものだったとされます。この「質」「賄」を得る代わりに、日本は生口(奴隷とされる)を送っていたとされます。

つまり「質」というのは支配国家側の文化的な侵略戦略として送られた外交官だと理解すべきです。

そして、この「質」を拒絶するようになるのは、彼らを送られ続けることによるマイナス、即ち、情報が筒抜けになり、国家的な自立が困難になる、ということを学んだからでしょう。

「古代の日本は弱い国で、後になるほど強くなっていった」というよりも「古代の日本は近隣諸国の影響を受けやすい構造にあったが、次第に自立性を高めて行った」というのが正解だと思います。そして、何故、近隣諸外国の影響を受けやすかったか、については、倭人の生活圏は当時、朝鮮半島にまで広がっていて、大陸・半島の動乱を受けて、次第にそのテリトリーを日本列島に限定するようになったから、というのが正解であろうと思います。

参考URL:http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k= …
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強いというのは軍事力含む国力の事を言っているのでしょうけど


文化水準が高いから軍事力があるとは一概には言えないと思いますよ。

7世紀の東アジアの地図を見たら分かると思いますが、百済の版図は
四国くらいの面積の勢力圏しかありません。
当時の日本はその数倍の面積を統治していたので、その分人口も百済より多く
人海戦術と言いますか数の面では圧倒していた筈です。

あと百済は地勢上、高句麗・新羅と強国に阻まれた位置にあるので
回りの強国の圧力に対する、同盟国としての日本を重要視していた事が考えられます。
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>日本は昔、朝鮮半島を支配していたのでしょうか?



日本が何を指すのか?という問題がありますが、日本人が朝鮮の地に領土を持っていた時代があるのは事実です。
もっとも、それが大和朝廷ではない可能性もありますし、不明確です。

>百済の王子(直支)や新羅の王子が、日本に人質として送られてきたという話をきいたことがあります

人質というよりも同盟の証としての人物交換のような性質でしょう。同盟締結の際に相互に血縁化・兄弟契約を行うような形式的なものであった可能性もあります

>日本はそんなに強かったのでしょうか

文献的には不明です

>中国の最新文化をとりいれるのならば地続きの朝鮮半島のほうがよほど中国に近いから、有利だし強いとおもうのですが。

そもそも加羅国の支配層が日本人だっただけで、兵士や兵装は朝鮮式だった可能性もあります。ここらも不明なのでなんとも言えませんが、日本人が戦ったわけでもない可能性もあります。

>古代の日本はすごく強くて、百済から人質までとっていたが、その後、日本の国は弱くなったようにおもえます。自分としては古代の日本は弱い国でで、後になるほど強くなっていったイメージがあるのですが、そのあたりどうかんがえればいいんでしょうか?宜しくお願いします。

 当時の日本はまだ統一王朝が出来ていませんし、出来ていても近畿以西までの狭い勢力圏だったでしょう。
 同時に、朝鮮分裂時代であることからも不思議ではないように思います。
最終的には当時圧倒的な勢力だった中国が伸張してこなかったから、朝鮮と日本の低い水準での戦争が維持された可能性もあります。

 あまり資料がない時代なので明確なことは言えませんが、おそらく加羅国支配は、上層部が日本人(出身)なだけで実質的には朝鮮人の地域国家だった可能性が高いでしょう。
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中国の資料によると (というか中国にしか頼れる資料がないのだが), 倭の諸王が「朝鮮半島を含めた地域の支配権」を求め, 中国の王朝ではその一部を認めるという形で朝貢していたと記録されています.


従って, 日本は朝鮮半島に影響力を持っていた, あるいは「持っていることを誇示しようとしていた」ことは間違いないです.
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2010/06/06 08:59

これは、個人的な見解(妄想)なんで、そのまま信じてもらっては困りますが。



多分、古代の大和政権の大王や貴族たちは、もともと朝鮮半島の有力な豪族かなんで、朝鮮半島から日本に渡ってきて日本を武力で制圧した。
で、もともとの出自からして朝鮮半島にも、いろいろ利権を有していた(任那諸国など)ということなんでしょう。有名な広開土王碑には、倭が百済・新羅を征服したという話が出ていますが、(後の白村江もそうですが)大和政権がそれほど朝鮮半島にこだわるのは、もともと朝鮮半島が出身地であったからと考えるとすっきりします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B% …

もし、この仮説が正しいとすれば、この関係は、ちょうど、ノルマンコンクェスト以降のイングランドとフランスの関係にそっくりです。
プランタジネット朝のイングランドは実質は完全にフランスが本土ですし、その力はフランス王なんかよりも圧倒的に強いです。
その後、100年戦争でフランスの領土を失ったことで逆に名実ともにイングランドの王ということになります。日本の場合は、これに相当するのが、白村江ということになるでしょう。白村江の敗戦で完全に朝鮮半島の利権を失ったことで、大和政権は名実ともに日本の政権になります。
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この回答へのお礼

もともと大和政権の王が朝鮮半島というふうにかんがえると自然ですね!ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/06 08:59

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