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坂本龍馬の生家は、藩の重役が年始の挨拶に訪れるほどの豪商だそうですが、
何を、どのくらいの規模で商っていたのですか。
また、どれくらいの財産があったのでしょうか。
龍馬が脱藩しても生家には、なんの「お咎め」もなかったはずですが、
どのような理由によるものでしょうか。
龍馬を「郷士」としてみるよりは、商家の恵まれた次男坊とみる方がよいのではないか、
と思って質問しました。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

>坂本龍馬の生家は、藩の重役が年始の挨拶に訪れるほどの豪商だそうですが、


 土佐の俗謡に

  「浅井金持ち、川崎地持ち、上の才谷屋道具持ち、下の才谷屋娘持ち」
   (上の才谷屋と言うのが、竜馬の本家)

 と言うのがある位で、最盛期には土佐で三本の指(他には豪商の播磨屋、富商の櫃屋)に入る位の豪商でした。

 主に酒屋・質屋・金貸し等を営んでいました。

 ただし、幕末の頃には家運が傾いており、酒造業を手放し(1849年)、「仕送屋」を専業とします。
 (仕送屋とは、藩士の家禄を抵当に金銭を貸し出す商売)

 武家に過剰に依存した商売であった為、才谷屋は明治15(1882)年には破産しております。

 なお、竜馬の家は、この才谷屋の分家です。

 本家から分家する時に相応の財産分与を受けていたので、郷士としては裕福では有ったようです。
 (竜馬を江戸に遊学させる事が出来る程に…。)

>龍馬が脱藩しても生家には、なんの「お咎め」もなかったはずですが、どのような理由によるものでしょうか。
 坂本家の家伝だと、竜馬脱藩時に刀を渡す等幇助した咎で、竜馬の姉の栄(次女)が自害した事になっています。
 (昭和43年に栄の物と思われる遺骨が見付った際に、坂本家が「坂本栄之墓」「文久2年3月没 坂本直足次女」と彫った墓を建立しています。)

 現在では、栄の死亡時期が脱藩より大分前であるとの考えが通説なのですが、坂本家としては、お咎めをちゃんと受けたと言うスタンスなんでしょう…。
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この回答へのお礼

要点を早速、ご回答下さいましてありがとうございます。
私は、土佐では「郷士」は、犬猫同然に扱われるほどの屈辱に堪えていた、というような話を聞いたことがありますので、そのように思っていたのですが、これですっきりしました。
龍馬のイメージが湧いてきました。

お礼日時:2010/06/09 09:48

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