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蛤御門の変はなぜ起きたのですか?わかりやすく教えてください。

A 回答 (3件)

京都に根拠地を無くした長州藩。


手っ取り早く、天皇を握れば、官軍じゃ。
というので、天皇奪取のための軍事行動。
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天皇さえ長州に迎えてしまえば、再び尊王攘夷で


長州にとっては徳川幕府始まって以来の幕府と対等または見下す位置に付けるという
一部の過激思考を長州藩に押さえ込む事ができなかったのではないでしょうか。
あくまでも藩としては幕府を相手に一藩で戦をしかけて勝つなどという見込みはなかった
でしょうし、負け戦を覚悟してまで挑むほどの事ではなかったと思います。

今で言えば軍部(それも一部)によるクーデターに近い状態だったと思います。
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もともとの理由を説明すると、とても長くなってしましますので簡潔に説明します。



まず、お国柄として長州と天皇・公家は非常に密接な関係を築いていました。
江戸幕府が開かれ、家康が諸藩が強い勢力や影響を持たないように「禁中並公家
諸法度」というお触れをだしました。ようは、天皇・公家と関わりを持つな!と
いうことです。この際にも、唯一、毛利家(長州藩)だけは免除されるぐらい
古くから付き合いがあるのです。

さて、時は幕末。水戸から始まった攘夷運動は全国に広がり、長州藩が攘夷筆頭
の藩となります。尊皇攘夷=倒幕。外人を日本唐打ち払い、徳川幕府を倒して、
天皇治世の世の中を作ろう!という考え方です。当然、幕府は煙たがります。
公家と仲の良い長州藩は、公家の何人かと策謀し、幕府が攘夷を決行するように
孝明天皇をたぶらかせます。これを事前に察知した薩摩藩が、会津藩等と策謀し、
孝明天皇を公武合体派(天皇・公家と幕府が手を組む)にもちこみ、公家内にいた
攘夷派を一掃します。当然、攘夷派の公家についていた長州藩もお咎めを受け、
京都政界から追放されます。長州に加担した公家の人間も都を追われ、長州に
逃げ込みます。これが、「八月十八日の政変」です。

これに対して長州藩はブチ切れるわけですよ。数百年かけて築いていた天皇・公家
との繋がりが薩摩・会津、幕府によって切り裂かれたわけです。また、天皇との
つながりがなくなり、尊皇攘夷の夢も半ば崩れたようなものです。
この「八月十八日の政変」の屈辱をなんとか返そう。その計画は、祇園祭前の風の
強い日を狙い、京都に火を付け、町を混乱させ、そのスキに孝明天皇を拉致して、
長州につれて帰ろう。という内容です。このとんでもない計画をみれば、長州が
どんだけ追い詰められていたかわかりますね。そして、その計画の打合せをして
いたのが、池田屋です。池田屋には、長州、土佐の尊皇攘夷の有望な志士が多く
集まりました。ところが計画を知った新撰組が突如池田屋に襲撃をかけ、吉田稔麿
、宮部鼎蔵といった有能な志士たちが殺され、そのほとんど全滅してしまいました。
これが「池田屋事件」です。

「八月十八日の政変」、「池田屋事件」と長州には災難続きで、夢も希望を失われ
つつあります。時代も尊皇攘夷から、公武合体となっていき、長州はますます追い
詰められます。そこで、自暴自棄ともいえる暴挙に出たのが、「禁門の変(蛤御門
の変)」です。追い詰められた長州は、とうとう挙兵します。ようは軍隊を率いて
御所に突入し、天皇奪回を計画したのです。それを迎え撃つのが、幕府軍。薩摩、
会津が中心となり、最終的には長州軍はボロ負けし、国に返るハメになります。
久坂玄端、入江九一、寺島忠三郎など有能な長州人は、ことごとく戦死します。

蛇足ですが。。。
御所に向けて発砲したことなどを挙げて、長州は朝敵とされ、「第一次長州征伐」
が始まります。これを率いたのが、薩摩の西郷隆盛で、長州人は益々薩摩憎し、
西郷憎し、との国民性になっていきます。(西郷は首謀者の首三人で許し、長州
壊滅を防いだのですが、長州にとっては、家老三人の首を切られた!と思い
恨みが募ることになります)
この犬猿の長州、薩摩の手を組むのが、坂本龍馬と中岡慎太郎の仕事になるわけです。

簡潔といいつつ、長々となってしまいました。。。
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