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推量の「だろう(でしょう)」と「ようだ(みたいだ)」の違い


推量の表現として「だろう(でしょう)」「ようだ(みたいだ)」「らしい」を調べています。

「ようだ」と「らしい」の違いとしては

ようだ…主体的・客観的な根拠に基づく推量。
例)(見てみて)道路が濡れているね。昨夜、雨が降ったようだ。
  (触ってみて)このお湯は少しぬるいようだ。
  (臭ってみて)この牛乳は腐っているようだ。
  (なめてみて)少し味が濃すぎるようです。
  (身内の感覚)寒気がします。風邪をひいたようです。

らしい…客観的な根拠に基づく推量。
  (見てみて)道路が濡れているね。昨夜、雨が降ったらしい。
  (聞いて)新聞によると、どうも近く消費税が値上げされるらしい。

とまとまりました。
(何か訂正があればお願いいたします。)

ですが、「だろう(でしょう)」と「ようだ(みたいだ)」の違いがいまいちまとまりません。
例)(匂ってみて)この牛乳は変な匂いがする。腐っているようだ(みたいだ)。
         この牛乳は変な匂いがする。腐っているでしょう(だろう)。

これはどちらも言えますか。

また、片方しか言えない文もあると思います。
例)冷蔵庫に牛乳があったんだった。でもあれは先月買ったから、腐っているだろう/でしょう。(×ようだ/みたい)
  足がかゆいです。蚊に刺されたようです/みたいです。(×だろう/でしょう)

「ようだ」は主観的な根拠に基づく推量、「だろう」は自分に知識や経験に基づく推量かと思いましたが、はっきりとした境界線が見えなくて困っています。

違いを教えてください。

A 回答 (3件)

文法には疎いので、あくまで感覚的な回答になってしまいますが。



「ようだ」は、推量というよりは、辞書にあるように『不確かな断定』としたほうがわかりやすいような気がします。
不確かな分、推量という要素は確かに含まれてはいるのですが。

これに対して、
「らしい」は、
『なんらかの根拠や理由のある推量』

挙げておられる例文のひとつを例にとってみます。
自分の舌で舐めてみた場合は、「(不確かにせよ)断定」ができます。それで、
「少し味が濃すぎるようです」
という表現になる。

しかし、友人が舐めた感想を聞いて判断する場合は、(実際に確認できないので)友人の言を「根拠のある理由」として推量するしかありません。それで、
「少し味が濃すぎるらしい」
という表現になる。

「だろう」は、ちょっと考えてみたのですが、『推量に基づく断定』と定義できないでしょうか。
「ようだ」は『不確かな断定』でした。
その違いは「推量」対「不確か」です。
断定の度合いとしては「だろう」のほうが強い、つまり自信があることになるでしょう。

ご質問の例に沿って、少し検証してみます。
・ (触ってみて)このお湯は少しぬるいようだ。
の場合、自分で触っているわけですから、推量というのは妥当しません。
そのため、
・ (触ってみて)このお湯は少しぬるいだろう。
という表現は不自然になる。
(臭ってみて)(なめてみて)(身内の感覚)も同様です。
このように、自分で直接体験している場合、「だろう」は使えないように思われます。
この3者を、一概に推量という区分で分類しようとすると難しくなるような気がしますね。


・冷蔵庫に牛乳があったんだった。でもあれは先月買ったから、腐っているだろう/でしょう。(×ようだ/みたい)
:「ようだ」が×な理由は、実際に確認していないことに関して『(不確かにせよ)断定』するのは論理的ではないから。

・ 足がかゆいです。蚊に刺されたようです/みたいです。(×だろう/でしょう)
:「だろう」が×な理由は、自分が刺された(という体験をしている)のに、推量して(それに基づく断定をして)いるから。

と説明できるように思います。

一素人の私見ですので、専門家の方のご見解がございましたら、そちらを優先なさってください。
  
  
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NO1です。


根拠と推量で説明がつくと思いますので補足します。
「だろう」は根拠を基に推論します。判断をするのに根拠が不十分なところを自己の知識・経験で補って推論し結論に導きます。
「ようだ」は判断をするのに十分な根拠があるので、わずかの推論の組み立てで判断に導く結論が出ます。自己のの推論・判断の余地は少ない分、客観性は高いでしょう。
「らしい」は根拠に十分な信頼が置けないので、推論を控えて根拠だけを基に確信の持てない判断をします。
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質問者の問題設定の中に答えがすでにあるようですが、少し角度を変えて説明を試みます。



3つとも客観的な根拠を基にした現況判断であることは同じです。それぞれ、根拠に対する信頼度、判断に対する信頼度に違いがあります。

根拠に対する信頼度は、「らしい」が最も低く、「だろう」と「ようだ」の信頼度が高いが、「ようだ」のほうがより信頼度が高い。
判断にたいする信頼度は、「らしい」は本人の判断の余地が少なく、必ずしも正しいと確信してなくても使える。その分責任ある回答にはできない。「ようだ」は根拠に対して納得または同意をする判断である。「だろう」は根拠に基づき本人の経験、知識による確信的な判断である。

次の例文では同じ根拠に対し使う副詞に差が出ます。
 この雲行きではどうやら明日は雨らしい。
 この雲行きではきっと明日は雨だろう。
 この雲行きではどうやら明日は雨のようだ。

次のような医者の患者に対する会話では使える場合と使えない場面が出ます。
 ×胃が弱っているらしいです。この薬を飲んでください。
 ?胃が弱っているでしょう。この薬を飲んでください。
 ○胃が弱っているようです。この薬を飲んでください。

 ×そんなにたくさん飲んだから、胃が弱っているらしいです。
 ○そんなにたくさん飲んだから、胃も弱っているでしょう。
 ○(聴診器を腹に当てながら)そんなにたくさん飲んだから、胃が弱っているようです。

 ○最近寒くなったので、インフルエンザがはやっているらしいです。
 ○最近寒くなったので、これからインフルエンザがはやるでしょう。
 ○最近寒くなったので、この病院でもインフルエンザの患者が増えてきているようです。

なお、
質問の牛乳が腐っている例文では、「だろう」のほうに判断の確信性が表現されます。
先月買った牛乳の例文では、経過月数を根拠に予測・推論する「だろう」になじみがあります。臭いのような具体的な根拠なら推論でない「ようだ」になるでしょう。
蚊の例文では、かゆさと刺された痕にすぐ納得できる「そうだ」がぴったりです。刺された痕が見慣れないものだったら推論する「だろう」になると思います。

以上、根拠に対する信頼度、判断に対する信頼度や判断の状況に差があるように思います。参考にして整理してみてください。
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