兵站軽視、食糧を現地で調達するという帝国陸軍の考えはどこから出てきたのでしょうか。
太平洋戦争敗戦まで、その考えに固執したのには、よほど強烈な思想があったのではと、愚考しています。
日清戦争で、早くも「因糧於敵」の方針が示されています。
穿った見方をすれば、陸軍創設を指導した西欧のどこかの国が、わざと軽視するべしと教えたのではないかと、つまらぬ妄想をしています。
よろしくお願いします。

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A 回答 (15件中1~10件)

 たしかに日本軍は兵站に関しては評判は良くはありませんでしたが、それは程度の差はあってもどこの国の軍隊でもそれなりに問題はありました。

それでも「マレー侵攻作戦」に見られるように、兵站準備の周到さによって作戦を成功に導いた例があります。

 兵站自体の陸軍内部の立場は事実として軽んじられていましたが、それでもその兵站畑の中から将官も出ていますし、あの石原莞爾のように兵站に関しての重要度を常に周りに説いていた人物もいます。

 ではなぜ日本の兵站思想の貧しさの好例として常に挙げられる、「インパール」や「ガダルカナル」のような悲劇が起こったのでしょうか。

 一つにはとにかく日本軍が貧しかったということがあります。「日清日露戦争」や「日中戦争」に見られるように、銃剣突撃や白兵戦を常に攻撃の主体においていたのには、この貧しさが大きな原因となっています。

 つまり、攻撃前の十分な準備射撃には膨大な弾薬が必要となりますが、これを用意できなかった(あるいは惜しんだ)ため、結果的に肉弾による最後の決戦に挑んだということです。旧日本陸軍では日清日露戦争当時から、戦闘時における砲弾や銃弾の不足に常に悩まされていましたが、これは製造能力が無かったというよりは、やはり弾を惜しんで一発必中的を推奨する軍内部の精神的な悪癖がありました。

 もうこれは日本の文化といっても良いもので、現在に至るも自衛隊での訓練における弾薬の一人当たりの消費量は、南米の小国であるニカラグアのそれよりもはるかに少ないということも、なんだか笑ってしまうほどの哀しい文化だというしかありませんし、警察や海保なども似たり寄ったりの状況です。

 質問にある「糧が敵に因る」や「現地調達」という思想は元々旧日本軍からでた発想で、外国から強いられた発想ではありません。旧日本陸軍に大きな影響を残し、陸軍参謀本部の生みの親でもあるドイツ軍人メルケル少佐は、つねにその講義の中で兵站や補給の重要性を説いていました。

 旧日本軍が兵站戦でも敗北した理由のもう一つに、戦線での制空権と制海権の喪失があります。いくら補給をしたくとも、途中でその輸送艦船が壊滅させられればどうしようもありません。それでも「ガ島」の例にあるように、「ネズミ輸送」とか「アリ輸送」などのように揶揄されながらも、必死に補給を続けようとしていましたし、「インパール」にしても輜重出身であった第15軍参謀長の小畑少将が、その兵站無視の無謀な作戦に最後まで抵抗をしていました。

 よくアメリカ軍の補給能力の高さが取りざたされますが、それも相対的な戦局の有利があってのことです。そのアメリカでさえ細かな戦闘を取り上げれば、それなりに補給に苦しめられた戦線が多々ありました。ただアメリカのすごいところは、一旦これは必要不可欠なものだと理解したら、官民上げての協力体態勢を即座に構築し、一丸となってことに当たる覚悟の良さです。
 倒的な物量、言い換えれば国内での大量生産体制があってのことでもありますが、アメリカの思考方法の柔軟さは今でも見習うべきところがあります。

 第一次湾岸戦争(イラクを第二次と呼ぶならばですが)で見せた、あの圧倒的なロジスティック能力と物量を見るにつれ、この国はやはり戦争の時になればなるほど生き生きとするんだなとあきれるばかりでした。

 閑話休題 

 今に至る日本軍兵站思想の貧しさを非難する風潮は、たしかに事実として部分的には当たってはいます。旧陸大の輜重科を卒業し輜重将校になったのは、全卒業生の1パーセントにも満たないし、その中から大将までに登りつめたものもいません。それは明治維新の幾多の戦闘において、新政府側がその輜重業務を当時の地域の博徒(つまりはヤクザですね)達に任せていたことが、後々までに輜重に対しての悪いイメージを遺していったという面もあるかもしれません。

 旧日本海軍にしても輸送関係の部署を「ボロ士官の捨て所」とよんで侮蔑していましたので、この前近代的な伝統は根深いものがありました。

 しかし前述したように、軍部内部にも心ある人物はいて兵站に関する重要性を常に説いていましたし、大きな犠牲を払いながらも補給を継続しようとする意思と行動を続けていたことも事実です。しかしあまりにもその数が少なく、兵站に関しての人材不足はやはりどうしようもなく、旧日本軍の大きな欠点でした。

 それに軍内部に大きな発言力を持った、輜重畑出身の高官がいなかったことも日本にとっては不幸なことだったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「閑話休題」で書いて下さった話はとても興味深く読みました。
確かに「兵站」の重要性を認識していても、兵站は地味な仕事ですから、軍人なら誰でも陽の当たる第一線で「戦闘」に加わりたいでしょうね。

「軍内部に大きな発言力を持った、輜重畑出身の高官がいなかったこと」とのご指摘はよく理解できます。

お礼日時:2010/08/20 14:14

帝国陸軍の近代化の基礎のお手本となったのはドイツです。


ドイツからクレメンス・メッケル少佐が来て顧問となり、大きな影響力を発揮しました。
また、帝国陸軍の教科書とも言うべき「作戦要務令」(少尉以上の階級の指揮官のためのもので、戦場での動きから平時における行動まで書かれたもの)についても、ドイツの野外要務令やドイツの歩兵操典の影響を大きく受けつつ、何度も改定されながら昭和15年に完成しています。

帝国陸軍はドイツの影響を大きく受けはしましたが、そこで兵站を軽視するよう学んだとか影響を受けたという事はありません。
また「作戦要務令」の内容は四部構成になっていますが、その第3部が補給・兵站の内容となっています。

この「作戦要務令」について、1995年に朝日ソノラマから「詳解・日本陸軍作戦要務令」という「作戦要務令」を解説した本が出されています。著者は熊谷直さんという人物で、防衛大学を卒業し航空自衛隊に勤務し、後には防衛大学や統合幕僚学校で教官を務めたそうです。
この人が「作戦要務令」の第3部の部分で、論じている事を要約すると・・、
「第二次世界大戦の時の日本陸軍は「糧は敵による」式で補給を怠ったため敗れたと言われる事が多い。
しかし、陸軍は、組織としては輸送や補給にも力を入れていた。
補給計画もあり、その計画通りに輸送ができていれば第一線の兵士が飢える事はなかった。
しかし輸送船を援護する航空機の数は足らず、機動部隊の援護も限られていたため、輸送船が撃沈され補給ができなかった。
総合的な力の不足が、第一線の兵士の餓死をもたらしたものであり、後方の軽視のためだとは言い切れない。
陸軍全体としてみれば、兵站の重要性は認識されていた。そうでなければ、作戦要務令の第3部は編纂されなかっただろう。そのつもりはあったが、国力がないばかりに第一線への補給ができなかった」
・・という事なのだそうです。

また、「作戦要務令」の他に、帝国陸軍には「統帥綱領」という戦争遂行のための指導書があります。これは将軍や参謀のためのもので「作戦要務令」よりも重要で高度なものであり、軍事機密となっていました。
この「統帥綱領」の中でも第二編六章において「兵站」について記述されています。
ちょっと書くと・・・
「兵站の適否は直ちに軍の作戦を左右す」
「補給は実に兵站の主務にして、また用兵の基礎なり」
とか色々、もっと細かい事も書かれています。
本当に兵站を軽視していたのなら、「軍事機密」に指定されていた「統帥綱領」の中に「兵站」の章はなかったでしょう。

ちなみに、帝国陸軍が戦時に物資を現地調達できる法令が定められたのは明治15年の「徴発令」です。
これは、まだメッケル少佐が来日する前であり、またドイツの操典や要務令を参考にする以前の事です。
ですから、現地調達は外国の影響というより日本内部から出てきたものと言えると思います。
ただ、現地調達というのは、本国からの補給が間に合わない場合や、本国の負担を減らすために、どこの国の軍隊でも多かれ少なかれしている事であり、珍しい事ではありません。
日清戦争でも戦争開始で急遽派遣された帝国陸軍の大島混成旅団に現地調達の指示が出ていますが、これは戦争初期で準備が万全でなかった事からその指示が出されました。その大島混成旅団と戦った相手の清軍も現地徴発しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>補給計画もあり、その計画通りに輸送ができていれば第一線の兵士が飢える事はなかった。
しかし輸送船を援護する航空機の数は足らず、機動部隊の援護も限られていたため、輸送船が撃沈され補給ができなかった。

上記のように熊谷直さんの著書には書いてあるそうですが、私は、「兵站」とは補給計画だけでなく、輸送そのものを含む活動だと思っていました。
「輸送船を援護できず撃沈されて補給できなかった」こと自体が、兵站軽視だと思っていました。
私の知識不足でした。

大本営が「兵站」を軽視していたのではなく、その重要性は認識していたということについてはよく解りました。

お礼日時:2010/08/20 21:19

兵站(戦争に際して、食糧などの必需品を運ぶ作業、部門のこと)こそ戦争の勝敗を分ける生命線だとはよくいわれることです。



そして孫子は「戦争は短期決戦に限り」「兵站は現地で奪うに限る」と説いています。以下、「孫氏」現代訳より
http://maneuver.s16.xrea.com/cn/sonshi1.html

*****************************
 巧みに軍を運用する者は、民衆に二度も軍役を課したりせず、食糧を三度も前線に補給したりはしない。戦費は国内で調達するが、食糧は敵に求める。このようにするから、兵糧も十分まかなえるのである。
 国家が軍隊のために貧しくなる原因は、遠征軍に遠くまで補給物資を輸送するからである。遠征軍に遠方まで物資を輸送すれば、その負担に耐えかねて、民衆は生活物資が欠乏して貧しくなり、国境近くに軍隊が出動すれば、近辺の商工業者や農民たちは、大量調達による物不足につけ込んで、物の値段をつり上げて売るようになる。物価が高騰すれば、政府は平時よりも高値で軍需物資を買い上げることになり、国家財政は枯渇してしまう。国家の財源が底をつけば、民衆に対する課税も厳しさを増す。
 だからこそ遠征軍を率いる智将は、できるだけ適地で食糧を調達するよう努める。輸送コストを考えれば、敵の食糧五十リットルを食らうのは、本国から供給される千リットルにも相当し、牛馬の資料となる豆殻やわら三十キログラムは、本国から供給される六百キログラムにも相当する。
 そこで、敵兵を殺すのは、奮い立った気勢によるのであるが、敵の物資を奪い取るのは利益の為である。だから車戦で車十台以上を捕獲したときには、その最初に捕獲した者に賞として与え、敵の旗印を味方のものに取り替えた上、その車は味方のものにたちまじって乗用させ、その兵卒は優遇して養わせる。これが敵に勝って強さを増すということである。

***************************

上記が、闘いの王道だったのですね。しかし、近代戦争になると、長期戦が常態化し、物資調達の後方支援が勝敗を分けるようになります。

この背後には、いわゆる「戦争ビジネス」に目をつけた国際金融資本が大量の資金を貸し出すようになったことが影響しています。おそらく日本の軍部は、そのような近代戦争の仕組みの本質が見抜けなかったが故に敗北していったのだと思います。
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この回答へのお礼

多くの方々から懇切丁寧なご回答を得ることができましたが、
私の知識不足でまだ十分理解できておりません。

>この背後には、いわゆる「戦争ビジネス」に目をつけた国際金融資本が大量の資金を貸し出すようになったことが影響しています。おそらく日本の軍部は、そのような近代戦争の仕組みの本質が見抜けなかったが故に敗北していったのだと思います。

要するに「カネ」あっての戦争ということですか。
兵站といっても運ぶ武器弾薬や食糧、輸送手段あってのことと言うことになりますか。
確かにそうですね、納得しました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/20 20:19

帝国陸軍は25キロ毎に補給拠点を設置し、輜重部隊は馬24頭及び輜重車(リヤカー)での運搬を行ってますが…



ガダルカナルの餓死は有名ですが、海軍が1000キロ毎にしか拠点を作らず、それを知らずに陸軍が応援に駆けつけた結果です。

世界に誇る乾パン・インスタント食品は陸軍の携帯口糧研究の結果生まれたものです。
ちなみに一部の地域を除いて兵隊は太って帰ってきたようですよ。

ちなみに高速道路のサービスエリアとパーキングエリアって25キロ毎に交互に設置してあるのはご存知ですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>海軍が1000キロ毎にしか拠点を作らず、それを知らずに陸軍が応援に駆けつけた結果です。

そうなんですか。
陸軍と海軍とは仲がよくなかったと聞きますが、何か寒々とする話ですね。

>世界に誇る乾パン・インスタント食品は陸軍の携帯口糧研究の結果生まれたものです。

全く知りませんでした。
質問すればいろんなことを教えて頂けるので、クセになりそうです。
高速道路の話は、他のカテで見たことがあります。

お礼日時:2010/08/20 14:16

戊辰戦争で味方である筈の部隊を斬ったり、戊辰戦争を共に戦った人に反乱をされ斬りまくった。



事情があるとはいえ、味方を軽んじる体制では何事も軽んじるようになります。

補給の軽視はその一端でしょう。

社会そのものが軽かった。

今でも無為に自殺者を出しているので変わらない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>社会そのものが軽かった。

なるほど、「一銭五厘の命」ですからね。

お礼日時:2010/08/20 10:52

こんにちは


_
_
> 陸軍創設を指導した西欧のどこかの国が、わざと軽視するべしと
> 教えたのではないかと、つまらぬ妄想をしています。
_
確かに"軽視"という意見に、異論を唱える人は少ないでしょうね。
_
ただ、組織的に見ると
大本営陸軍部には「兵站総監部」が ずっと(終戦まで)置かれて
いましたし、輜重兵という専門兵科やその教育機関もありましたし、
まったく無視していたことは無く、むしろそれなりに考えていた、
考えようとしていた(?)とは思うのですが・・・。
_
でも、どうしてそれが(先の大戦中に)有効に機能しなかったかと
言えば、まずは「工業生産力や技術力を主とした総合的な国力の不足」
が基本にあると思います。
_
そして(その、欧米に比べ貧弱な)国力の不足分を補うための仕組み
、どの原材料をどのくらい官需(軍需)用に振り分けて、どこで何を、
どれぐらい製造するのか、とかいう"国家的な調整機能"も無かった事。
_
以上のような経済、産業面での構造的な欠陥があった為「どうせ要求
したって補給なんかアテに出来ないんだから、それを抜きにして考え
よう」という風潮になっていったのではないでしょうか。
_
さらに陸軍に限って言えば、前述の兵站総監部とは別に、参謀部にも
兵站を担当する部門があり、それが何故だか一部二課(いわゆる作戦
課)の中にあったことも、多分に影響しているのかな?と。
_
以上のことから、全般的に兵站(補給)軽視の作戦行動が多くなって
いったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
同じ大本営の参謀でも陸大などの成績のよい者は兵站担当部門には配属されなかったと、いろんな本で読みました。
作戦課長などの方針はよく本に出てきますが、兵站部門の意見はちょっと思い出せません。

>でも、どうしてそれが(先の大戦中に)有効に機能しなかったかと言えば、まずは「工業生産力や技術力を主とした総合的な国力の不足」が基本にあると思います。
そして(その、欧米に比べ貧弱な)国力の不足分を補うための仕組み、どの原材料をどのくらい官需(軍需)用に振り分けて、どこで何を、どれぐらい製造するのか、とかいう

なるほど、そうですよね。
長期的に見て、勝てる見込みの無い戦争に突入したのですから。
補給線や兵站うんぬんは枝葉末節の話で "国家的な調整機能"も無かった事の結果によるものでしょうね。

お礼日時:2010/08/20 10:46

補給を軽視することで、多大な戦果をあげたのが、ナポレオンです。


通常は、拠点となる補給基地に、十分に物資を集め、それから戦いが行われます。
1日や二日でケッ地(区がつく場合は問題ないのですが、長期戦になりそうな場合は、かならず、それを行います。
補給部隊の移動速度は、一般的に軍の行軍よりも遅いため、兵士たちの進軍も、一日20Kmとかになってしまいます。
しかし、ナポレオンは、補給部隊と関係なく行軍し、敵が想像できない速度で移動し、敵を倒してゆきました。
当然弾薬や火砲、食料などは、補給部隊が間に合わないため、破った敵から調達し、さらに追撃し、多大な戦果をあげました。
しかし、その戦法は、敵を撃破してこそうまくゆく戦法であり、敵に逃げられたり、敵と戦わなければ、自滅してしまう戦法でした。
そのため、ナポリオンのロシア遠征では、ロシア軍がナポレオンから逃げていたため、ナポレオン軍は、全くロシア軍と戦わないのに1/3に兵力が減少してしまいます。
日本陸軍は、フランス式の兵制を採用したため、このナポレオンの成功体験が強く印象に残ったのではないかと思います。
また、日本の陸軍は、海兵隊的性格の軍隊で、通常部隊内に一定量の補給物資を用意しており、緊急時に対応できるようにしていました。
外部からの補給が無くても、一定期間は活動できるようにすることで、軍の機動力を持ち、緊急展開ができ、補給部隊を削減することで、戦闘用の兵士を増やすことができます。
補給を重視した場合、戦闘部隊よりも、補給にかかわる人達のほうが多く必要になってしまいます。
そういった事は、日本軍としては、避けたいことでした。
短期間の戦いで勝負がつく事だけを考えた場合、補給を無視することは、メリットが非常に多い方針です。
日清戦争での平壌の戦いにおいて、日本軍は、食料不足から、短期決戦で望み、勝利しています。
兵站を担当する者から見た場合、意図的に物資を不足させる事で、兵士が死に物狂いで戦い勝利を得られるのであれば、そのほうが、はるかに楽です。
こういった成功体験も、日本軍の補給軽視の動きとなったのではないでしょうか。
マレー電撃戦、シンガポール陥落までは、この作戦は、あたりました。
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この回答へのお礼

ナポレオンの戦術、全く知りませんでしたので大変参考になりました。
私も、「平壌の戦い」のうまくいきすぎた成功体験が、兵站のその後の方針に何らかの影響(兵站を軽視する方向)を与えたと思います。
ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/20 10:27

全く個人的な意見を書くので信憑性については割り切って気楽な感じで読んでください。



今も昔もその点は変わっていないんじゃないかと思います。

兵頭二十八という元自衛官の軍事マニアの著作に「地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法」という本があります。お好きなマニアの方に非常に評価されている本です。
私も読みましたが、テーマは表題の通りです。それで、一応著者と編集者の対談方式で話は進んでいくのですが、やれ百式短機関銃だの九十九式軽機関銃だのと「兵士に持たせる兵器はどんなのがいいか」と侃々諤々とやっているのですが、まあマニアの方々も相当好きらしくて、兵頭氏が講演をするときなんぞ装備はかくあるべしと詳細なリポートを提出する方もいるそうです。
で、もちろん著作の中では補給についてはほとんど触れていません。せいぜい数ページ。しかも輸送船の構造の話だったか、そんなもんです。

でも考えてみてください。
地獄のX島であくまで持久するのが目的なら、兵器の質なんてどうでもいいのです。「いかに兵士が士気を高く保って戦えるか」に尽きます。士気を高く保つのはある意味簡単で、兵士の体力が持てばいいわけです。ではどうやって兵士の体力を維持するか。栄養が充分な食事を与え、疾病にかかっても治療を受けられ、それなりにちゃんとした状態で休息が取れる。そういうことだと思います。いくら最強の兵器を持っていても、兵士の体力が失われれば役に立ちません。
しかしそういうことにマニアたちも、誰も気づこうとしません。おそらく彼らも「補給を軽視したことが日本軍の敗因のひとつ」というでしょう。しかし、マニアでさえも補給を軽視どころか無視しているのです。兵士がどんな鉄砲を持つかについては知恵を絞らせても、塹壕の中でいかにストレスを軽減して長期戦に備えるかという発想は皆無なのです。

21世紀の日本の企業は、先進国の中でも生産性が大変に悪いんだそうです。そんなバカな、と私も思ったのですが、外国人の「ムダな残業が多い」というツッコミでハタ!と気がつきました。そうですね、今でも私たちは「不眠不休で頑張ることが素晴らしい」と盲目的に思い込んでしまいます。でも、不眠不休でやっていると疲労で生産性は落ちるしミスも増えるだけです。

ちなみに他の方も書いているように、日本軍だけが突出して補給を軽視していた訳ではありません。より正確にいうなら、「後先考えていない」が正解だと思います。例えばガダルカナルの狭い島に一個師団をモロに送り込めば、そりゃ彼らだってメシも食えばウンコもする。黙ってたって水も食料も燃料も必要です。だからそこから逆算すれば「せいぜい投入できてこの程度の戦力」となると思うのですが、そういう発想がない。「いいからどんどん送れ。あとは気合と根性でなんとかしよう」なんですよ。ひたすらみんな残業してなんとかしようみたいなもんです。えっ、私は日本軍の話をしているんですよ。21世紀の日本企業の話じゃないです。
おまけにガ島ではそれでも頑張って食料を送ったのです。輸送船が来る海岸線近辺では食料は豊富だったそうです。ところがそれをジャングルの奥まで送る術がない。というか、それを考える奴がいなかった。人が通るだけでも道を作って所々に集積所を置いて、そこから各部隊へ配布するというマネジメントできる人が誰もいなかったのです。おかげでまだ保存技術のない時代でさらに熱帯ですからどんどん食品は悪くなって使えなくなるという寸法です。
阪神淡路大震災で、全国から救援物資が届いたけど誰もそれをどう管理すればいいか分からないからひたすら山積みになって被災地には行き渡らず結局ゴミとなって処分されたアレと同じです。

補給そのものを無視したわけじゃありません。兵站つまりロジスティクスを考える人が誰もいなかったということなのです。そしてロジスティクスを無視するのは現代も変わっていないのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>より正確にいうなら、「後先考えていない」が正解だと思います。

そうですね。攻めるときは威勢がよい、今のどこかの政党に似ています。
「ムダな残業が多い」などのご意見はよく理解できます。

お礼日時:2010/08/20 10:24

旧日本軍は可能な限り十分な補給をはかっています。


物量が圧倒的に足りないだけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/19 22:38

>兵站軽視、食糧を現地で調達するという帝国陸軍の考えはどこから出てきたのでしょうか。


ガダルカナルやニューギニア、ビルマ方面で餓死者が発生したという結果からそう見えるだけでしょう。
凄く簡単に言えば、とどのつまり「兵站軽視、食糧を現地で調達するという帝国陸軍の考え」は戦後の日本人の感想や評価であり、旧日本陸軍の考えではありません。
現地の徴収はやってはいますが、一番の頼みは本土からの海上輸送であり、大陸であれば鉄道輸送なんです。

日露戦争の話をすれば、兵站軽視なら日本陸軍は何故旅順要塞を攻略しようとしていたのでしょうか。
支那事変において、日本陸軍は中国の鉄道沿いに進攻しているのは何故なのでしょうか。
また、兵站軽視であるならば何故、広州・仏印・ビルマを占領して援蒋ルートを断然させようとしたのでしょうか。
ノモンハン事件の戦訓で補給強化の為にトラック部隊の増強を述べている報告書が出ているのは何故でしょうか。
ビルマ戦において日本陸軍は泰緬鉄道を建設したのは何故なのでしょうか。


先入観に囚われた頭で考えないで、興味があるならば体と時間使って調べてみたらどうでしょうか。
現地調達で云万人もの兵士を食わせられる、なんて質問者さんのような考えではとても旧日本陸軍の将校は務まりはしないでしょう。
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この回答へのお礼

>現地調達で云万人もの兵士を食わせられる、なんて質問者さんのような考えではとても旧日本陸軍の将校は務まりはしないでしょう。

これは私の考えではありません。
日清戦争時、参謀総長有栖川宮熾仁親王が、混成旅団長・大島義昌あて、次のように訓令しています。 

昔から兵家の格言に「因糧於敵」とある。食糧や運搬のための人員は敵地で調達するべきものである。食糧運搬のための人員を内地から送れば、この人員のための食糧も送らざるを得ないし、さらにそのための人員も必要になり、きりがない。
これは、大いに因糧於敵の原則に反している。今後はなるべく現地調達に因るものと決心し、内地からの追送を請求することを慎むべし。

私は、「親王の訓令」であるから、これがその後の兵站の考え方を束縛したのではないかと思って質問しました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/19 22:13

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Q日本軍について

1900年代前半の日本軍について知りたいです。
つまり日本軍が東南アジアなどの国を占領していた時代の日本軍について聞きたいです。

1.旧日本軍について何も知らない人に旧日本軍のことを説明するとすれば
あなたならどう説明しますか?(基本的なことから詳しいことでもいいので。)

2.日本軍の勢力はアジアや世界の国々から見ればどう写っていたのか?

どちらか片方でもいいのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

とりあえず、思い出せる話を幾つか。


・日本は、イギリスの植民地だったミャンマー(当時はビルマ)
 を解放するため、南機関という組織を設立します。

 南機関はアウン・サン(スーチーさんの父親です)
 を中心としたタキン党の青年をビルマに送り込み、
 ビルマ独立義勇軍を結成します。

 太平洋戦争が始まると、ビルマ独立義勇軍はラングーンに
 進軍し、ビルマを解放させました。


・太平洋戦争がはじまると、日本軍はオランダの植民地
 だったインドネシアを占領します。

 そして軍政を敷きますが、それまでのオランダの愚民政策
 と異なり、行政にはインドネシア人を採用し、また
 インドネシア人に軍事訓練を施しました。

 太平洋戦争が終わると、オランダは再びインドネシアに
 軍を進め、インドネシアを植民地支配しようとします。

 しかし日本の軍政下で民族意識の高まったインドネシア人は、
 オランダに強く反発。ここにインドネシア独立戦争が
 始まります。

 独立戦争が始まった直後のインドネシアには、まだ
 引き上げ前の日本軍が残っていましたが、インドネシア人に
 強く同情した日本軍は、こっそりと武器弾薬を引き
 渡したり、あるいは日本軍の中から、義勇兵として
 独立戦争に参加する人も出てきました。(全部で二千人
 ほどいたと言われています)

 戦争の犠牲は大きかったですが、インドネシアは独立を
 達成し、現在に至っています。


※最近は書店でもあまり見なくなりましたが、『教科書が
 教えない歴史(1)~(4)』は、学校教科書で歪んだ
 歴史観を軌道修正するために、一度は読んだ方がいいですね。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4594020402/qid=1100012479/sr=1-21/ref=sr_1_2_21/249-9607433-2251524

とりあえず、思い出せる話を幾つか。


・日本は、イギリスの植民地だったミャンマー(当時はビルマ)
 を解放するため、南機関という組織を設立します。

 南機関はアウン・サン(スーチーさんの父親です)
 を中心としたタキン党の青年をビルマに送り込み、
 ビルマ独立義勇軍を結成します。

 太平洋戦争が始まると、ビルマ独立義勇軍はラングーンに
 進軍し、ビルマを解放させました。


・太平洋戦争がはじまると、日本軍はオランダの植民地
 だったインドネシアを占領します。

 ...続きを読む

Q太平洋戦争 敗戦後の日本国民について

長い間、戦争を続けて、たくさんの国民の犠牲者を出した日本。
やっと終戦したものの、自業自得ですが敗戦とうい結果になってしまい
当時の日本国民の気持ちはどのようなものだったのでしょうか。
やはり、軍国主義者や軍人たちは、悔しいと思ったのでしょうか。
また、一般の国民は戦争を指示した人たちに責任をとってもらい、
二度と戦争はしたくなかったのでしょうか。
また、終戦直後としばらく経ってからでは、思いは違うのでしょうか。
詳しく教えて下さい。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>当時の日本国民の気持ちはどのようなものだったのでしょうか

軍国主義者・国粋主義者・財界・職業軍人を除いては、「勝敗よりも、戦争が終わった事への安心感」が強かったようです。
弾丸工場・三菱・中島など軍事工場へは「就職でなく、労働(勤労)奉仕」で、自治体・学校関係者からの命令で参加しています。
軍国・軍事・天皇制にかんして、教科書と異なった意見を持つだけで「非国民」として、特別警察の摘発を受け、拷問を受ける時代でしたからね。

ポツダム宣言受諾に関しても「国体維持の保証(天皇制保証)が無い」との理由で受諾拒否。
地方都市へ爆撃・広島長崎への原爆投下被害を受けても、国民よりも天皇制が優先した時代です。
第三の攻撃目標が発表されると同時に、「天皇制は、日本国民が決める事」との回答が連合国側から届いています。
軍部は「日本国民が、天皇制継続を望む事は無い。徹底抗戦だ」と主張しましたが、(陸海軍の統帥権を持つ)昭和天皇の決断で「ポツダム宣言受諾」を行ないました。

現憲法では「天皇は、国民の総意にもとづく」と規定していますよね。
ところが、前後一度も「総意の確認」はありません。
この「総意」も、ポツダム宣言最終回答時の「日本国民が決める」という連合国側の主張を明示したのです。

>軍国主義者や軍人たちは、悔しいと思ったのでしょうか。

悔しいと持っているでしようね。
部下は戦死しても、上官は生き残り「軍事恩給」で悠悠自適の老後を送っています。
現アメリカ軍でも、戦死した一平卒には200万円の見舞金だけですが、ペンタゴン上層部は数千万円の年俸があります。
上層部は、戦場で死ぬ事はありません。
現場と司令部は、全く異なる価値観を持っているのです。

>一般の国民は戦争を指示した人たちに責任をとってもらい、二度と戦争はしたくなかったのでしょうか。

親族が戦死・負傷した方は、責任の所在を明らかにして欲しいと望んだでしようね。
ただ、極東軍事裁判(東京裁判)では、戦争責任は誰一人裁いていません。
あくまで「人道に関する罪」を裁いています。
イタリアでは、イタリア国民裁判で「戦争責任者ムッソリーニを処刑」。
ドイツでは、ヒトラーが責任を取って自殺。
日本では、誰も戦争責任をとっていません。
検察の手が皇室に伸びようとした時「戦争責任は、私にある」と東条英機が裁判で述べました。
が、極東軍事裁判所は「この発言は認めない」としました。
東条英機などA級からC級戦犯は、あくまで「人道上の罪」「戦争を回避しなかった罪」で裁かれています。

軍国主義者・平和主義者・自由主義者・共産主義者・宗教など、自由に意見が述べられる今の日本は、多くの血が流れた結果である事を忘れてはなりませんね。

質問者さまが何歳か分かりませんが・・・。
「明日から、○○重工○○工場で勤労奉仕に行ってくれ」と命令され、拒否すれば「非国民」として扱われる時代にいれば、どう思いますか?
同時に、毎日空襲に怯える生活で、報道は全て検閲を受けた「ニュース」です。
実際は敗北しても「敵艦隊に重大な損害を与え、勝利した」と(あの朝日新聞も)報道していた時代です。

>当時の日本国民の気持ちはどのようなものだったのでしょうか

軍国主義者・国粋主義者・財界・職業軍人を除いては、「勝敗よりも、戦争が終わった事への安心感」が強かったようです。
弾丸工場・三菱・中島など軍事工場へは「就職でなく、労働(勤労)奉仕」で、自治体・学校関係者からの命令で参加しています。
軍国・軍事・天皇制にかんして、教科書と異なった意見を持つだけで「非国民」として、特別警察の摘発を受け、拷問を受ける時代でしたからね。

ポツダム宣言受諾に関しても「国体維持の保証(...続きを読む

Q旧日本軍の従軍慰安婦は遊女だった?日本人は本気で戦

旧日本軍の従軍慰安婦は遊女だった?日本人は本気で戦争時に現地人の女性を拉致って強姦していないと本気で思っているのだろうか?

いち旧日本軍の兵士が強姦したら、いち個人の責任なので旧日本軍に責任はないと平気で言える神経がわからない。いち旧日本軍兵士の強姦は旧日本軍の責任では?

日本人は本気で戦争中に強姦がなかったと思っているのでしょうか?

Aベストアンサー

今の時代の戦争中に強姦は珍しいでしょうが、一昔前の戦争中に強姦は当たり前でしたからね。

まったくなかったとは大多数の日本人の皆さんは思ってないですよ。

ただ私が思うのはいつまで従軍慰安婦問題を韓国は誇張して言い続けアメリカなどもその主張を肯定したりしているのかとゆう所ですね。

一昔前の戦争で強姦は当たり前。
それは世界的にみてもそうでした。
国家間の話とするならお互い様なんですよね。

それを今更、引っ張り出し誇張して主張する事はただの嫌がらせ、チンピラのゆすりのようなものです。

戦勝国アメリカも汚い国ですから自分の都合の良い方を支持する。

過去の負の遺産を引っ張り出しあうのはみっともないのでやめましょうと言いたいです。

Q太平洋戦争(第2次世界大戦)での日本の敗戦について

太平洋戦争(第2次世界大戦)での日本の敗戦について

太平洋戦争で日本は敗戦しましたが、自分の感覚では降伏のタイミングを誤ったために大きな犠牲を払う結果となったと思えます。そのために良くも悪くも今の日本の姿があると思います。
ただ勉強不足のためか、日本の敗戦のきっかけ、原因がイマイチわかりません。

質問ですが
先の大戦での日本の敗戦の原因は何だと思われますか?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

 続きです。

・支那事変(日華事変・日中戦争)
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大(熱河作戦以後)に作戦本部長として、中央の統制に服するよう現地にまで出かけていって現地軍指揮官の説得に勤めましたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される結果となりました。
 戦線が泥沼化することを予見して、石原は不拡大方針を唱え戦線の拡大を抑えようとしましたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷され、支那事変は継続していきます。

 日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしのですが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。

・満州事変の性格と支那事変の性格
 高校の日本史の資料・年表程度のものに目を通せば、その実態が分かります。

 満州事変(1931年)当時の日本陸軍の総兵力は45万程度で、「電撃戦での勝利」であったため、兵力・日本経済には大きな影響を与えていません。

 支那事変が、1937年7月に起こり、在留邦人保護と言う名目で継続され、1941年12月には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦いに入っていくのですが、それらの時点での主な統計数字を見れば実態が見えてきます。

 真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字なのです。
(陸軍兵力の急膨張で、士官学校出身の職業軍人は平時にはありえないような出世をどんどんしていったため、陸軍内部に日華事変の停止・撤退を望む声が盛り上がることはありませんでした。)
 対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。

 これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。
 さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。

 アメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。

 政治が「軍」をコントロールしていれば、工業生産力を低下させてまで長期に戦いを続けることは考えられません。国益に明らかに反していて、無意味な消耗ですから。

 そして、中国側の焦土戦術(決戦をしないでどんどん内陸部に主力を後退させる戦略)によって、 中国側は「負けなければ勝ち」なのに対し、日本側は「勝たなければ負け」という、抗戦側の理論と侵攻側の理論のギャップで、戦闘を中止して撤退すれば『負け』という状況となっていました。
 
 『負け』ないためには、戦い続けるほかに方法はなく、アメリカから石油禁輸をされた日本(当時の日本産業の動力源は石炭。輸入石油の半分は軍が艦船・飛行機・車両の燃料として消費していました。)は、結局、中国からの撤退か、西太平洋の制海権を手に入れて、オランダ(既にドイツによって占領され、独立国家として機能していませんでした)の支配する領インドシナの石油を手に入れるかの選択(=戦線の拡大)となったのです。

 つまり、この時点で日本の経済的継戦能力は失われていて、ジリ貧負けは決定していましたが、中国戦線が内陸で行われたために、海軍艦船は無傷で残っていて、『負け』を認めて撤退する決断が出来なかったのです。

 続きです。

・支那事変(日華事変・日中戦争)
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大(熱河作戦以後)に作戦本部長として、中央の統制に服するよう現地にまで出かけていって現地軍指揮官の説得に勤めましたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される結果となりました。
 戦線が泥沼化することを予見して、石原は不拡大方針を唱え戦線の拡大を抑えようとしましたが、当時関東軍司令長官東條...続きを読む

Q『旧日本軍』って???

テレビなどで「旧日本軍」という言い方をすることがありますが、日本軍に旧も新もあるんですか?
もしかして、自衛隊のことを「現日本軍」と言いたいんでしょうか?

Aベストアンサー

はい、現在の日本には軍隊がないことになっています。(実際に自衛隊を軍隊とみるかどうかは別のことですが)ですから日本軍とは全て「旧」がつきますよね。
今はないが昔あったものには「旧」使いますよね。
言い換えれば「当時の」という意味で考えるとわかりやすいと思います。

「旧ソ連」「旧東ドイツ」「旧満州」・・・

Q太平洋戦争末期の陸軍における九州の防空航空部隊を教えて下さい

沖縄上陸作戦の始まった太平洋戦争末期(1945年4月以降)における沖縄から来攻するアメリカ軍に対し、陸軍航空隊の防空を担当した航空隊はあったのでしょうか?もしあったのであれば部隊名で教えて頂きたいです。

海軍でいえば、
「大村海軍航空基地 三四三航空隊(剣部隊) 主戦力:紫電改」
「大村海軍航空基地 九五一航空隊 主戦力:一式陸校、九六式陸攻、九七式艦攻」
こんな感じで教えて頂けると幸いです。

特攻隊ではなく、戦闘部隊、及び、海上哨戒を実施していた航空部隊を知りたいです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

部隊名、終戦時の所在地、昭和20年以降の装備機種の順

①飛行戦隊
 飛行第1戦隊    高萩  四式戦
 飛行第4戦隊    小月  二式複戦、四式戦
 飛行第5戦隊    清洲  二式複戦、五式戦
 飛行第11戦隊   高萩  四式戦
 飛行第18戦隊   松戸  三式戦、五式戦
 飛行第23戦隊   印旛  一式戦、二式単戦
 飛行第28戦隊   東金  百式司偵、キ102 (注1
 飛行第47戦隊   小月  二式単戦、四式戦  (注2
 飛行第51戦隊   下館  四式戦
 飛行第52戦隊   下館  四式戦
 飛行第53戦隊   松戸  二式複戦
 飛行第54戦隊   札幌  一式戦
 飛行第55戦隊   佐野  三式戦
 飛行第56戦隊   伊丹  三式戦
 飛行第59戦隊   芦屋  三式戦、五式戦
 飛行第70戦隊   柏   二式複戦、秋水   (注3
 飛行第71戦隊   防府  四式戦
 飛行第101戦隊  高松  四式戦
 飛行第102戦隊  成増  四式戦       (注4
 飛行第103戦隊  由良  四式戦
 飛行第111戦隊  小牧  四式戦、五式戦
 飛行第112戦隊  新田  四式戦、五式戦
 飛行第244戦隊  八日市 三式戦、五式戦
 飛行第246戦隊  大正  二式単戦、四式戦

②独立飛行隊
 独立飛行第1中隊  雁ノ巣 カ号観測機  (注5
 第28独立飛行隊  
 独立飛行第16中隊 大正  百式司偵   (注6
 独立飛行第17中隊 健軍  百式司偵 

③臨時部隊  (注7
 常陸教導飛行師団・天誅戦隊  常陸 四式戦
 第1錬成飛行隊・第520臨時防空戦隊  相模 四式戦

 注1:のちに第28独立飛行隊へ改称。司偵は機種に20または30ミリ機関砲を装備し、武装司偵と称した。16、17中隊も同様。

 注2:通称:東京防空飛行隊

 注3:秋水は実験中で訓練開始前に終戦となった

 注4:1945年7月に解隊 

 注5:搭載艦沈没し陸上基地へ移動

 注6:のちに第17独立飛行隊へ改称。

 注7:そのほか、東部2号部隊、陸軍航空審査部・福生飛行隊、第1航空軍・臨時防空部隊、常陸教導飛行師団・新田飛行部隊などがあった。

 資料:『日本防空戦 陸軍篇』 渡辺洋二 原書房 80年
    『日本陸軍戦闘機隊』 秦郁彦(監修) 酣燈社 73年
    『丸』「独立飛行第1中隊」奥本剛 08年2月号

部隊名、終戦時の所在地、昭和20年以降の装備機種の順

①飛行戦隊
 飛行第1戦隊    高萩  四式戦
 飛行第4戦隊    小月  二式複戦、四式戦
 飛行第5戦隊    清洲  二式複戦、五式戦
 飛行第11戦隊   高萩  四式戦
 飛行第18戦隊   松戸  三式戦、五式戦
 飛行第23戦隊   印旛  一式戦、二式単戦
 飛行第28戦隊   東金  百式司偵、キ102 (注1
 飛行第47戦隊   小月  二式単戦、四式戦  (注2
 飛行第51戦隊   下館  四式戦
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Qなぜ第二次世界大戦時にアメリカ軍は日本軍の暗号通信

なぜ第二次世界大戦時にアメリカ軍は日本軍の暗号通信を解読出来ていたのにハワイのパールハーバーの奇襲攻撃を許したのでしょう?

日本軍がハワイのパールハーバーを攻撃することは,アメリカ軍は知っていたはずですよね?

アメリカ軍は日本軍にパールハーバーを攻撃させて,自国で開発していた核爆弾を実戦で使ってみたかった。

だから日本軍にパールハーバーの攻撃を許して,自国の離島民を殺すのと引き換えに核兵器の実験ではなく実際に使う口実を作った。

違いますか?

なぜ日本軍の秘密暗号を解読していたアメリカ軍がパールハーバーだけ攻撃されるようなヘマをしたのか謎です。

Aベストアンサー

 1941年当時、米国は日本軍の暗号解読に成功していません。
 米国が暗号解読に成功していたのは日本の外務省の通信暗号です(ちなみに、日本も米国の外交通信暗号の解読には成功していました)。

 また、「米国はパールハーバーが攻撃をされることを知っていた」というのは語弊があります。
 米軍は通信信号の傍受(信号の内容を解読できてはいなかったが、どの地点からどれだけの通信電波が発信されているかは探知できていた)から、日本海軍が千島列島に集結しているらしいということを察知(日本軍はほかの軍港から通信電波を盛んに発してそこに艦隊がいるように偽装し、単冠湾に集結していた軍艦は完全に電波封止していたが、フィリピンや中国大陸にある通信傍受施設の測定誤差範囲に両方の地点が入っていたため、偶然にも日本の偽装電波の発信源が単冠湾であると誤って断定してしまった)し、「少なくとも空母1個戦隊(空母2隻以上)の艦隊が北太平洋に出撃したまま行方不明である」と分析していただけです。
 その分析結果から「パールハーバーが奇襲を受ける可能性がある」という危機感を抱き、12月6日までの一週間は警戒態勢をとるように太平洋艦隊に命令が出されていました(パールハーバー攻撃は偶然にもその翌日だった)。
 米軍がパールハーバー奇襲について「知って」いたのは、それだけです。具体的に「12月8日の早朝に大規模な空襲が行われ、停泊中の太平洋艦隊が壊滅する」とまで知っていたわけではないのです。

 そして、開戦直前に日本の暗号を解読して攻撃の1時間前には日本が開戦に踏み切ることを米政府は知りますが、それは日本の外交暗号(日本政府から駐米日本大使館へ送られた対米宣戦布告の文面)を解読したものであって、日本軍の暗号を解読して作戦内容を知っていたというあなたの理解とはだいぶ違います。


>アメリカ軍は日本軍にパールハーバーを攻撃させて,自国で開発していた核爆弾を実戦で使ってみたかった。
>だから日本軍にパールハーバーの攻撃を許して,自国の離島民を殺すのと引き換えに核兵器の実験ではなく実際に使う口実を作った。
>違いますか?

 全然違います。
 開戦当時、原爆はその製造の可能性を検討されていた段階です。核分裂兵器の開発が決定されたのは1941年12月18日のことであり、真珠湾攻撃よりも10日も後のことです。
 さらに、原爆開発のための組織であるマンハッタン工兵管区が立ち上げられたのは翌年のことです。
 原爆を使いたいがために真珠湾攻撃を許したというのは、時系列的につじつまが合いません。
 謎があるとすれば、なぜちょっと調べればわかるような矛盾に満ちた陰謀論を簡単に信じてしまうあなたの思考の仕組みのほうです。

 1941年当時、米国は日本軍の暗号解読に成功していません。
 米国が暗号解読に成功していたのは日本の外務省の通信暗号です(ちなみに、日本も米国の外交通信暗号の解読には成功していました)。

 また、「米国はパールハーバーが攻撃をされることを知っていた」というのは語弊があります。
 米軍は通信信号の傍受(信号の内容を解読できてはいなかったが、どの地点からどれだけの通信電波が発信されているかは探知できていた)から、日本海軍が千島列島に集結しているらしいということを察知(日本軍はほか...続きを読む

Q太平洋戦争中、陸軍軍人だった祖父(既に故人)が、太平洋上のインタービー

太平洋戦争中、陸軍軍人だった祖父(既に故人)が、太平洋上のインタービーと言う小島に配置されていたそうです。島内には旧日本軍の陸海軍基地があり、食料不足でもう戦争も無いので、海軍から爆雷を貰い、海に投げて魚を採ったり、芋虫を食べたりして飢餓を凌いだそうです。戦争の話は嫌がり、余り家族にしない祖父でしたが、食料を盗み処刑された部下がいた事、わざと靴を隠し「無いぞ!」と言って部下を暴行しいじめる将校、収容所ではイギリス軍に良くして貰った事、英語がぺらぺらだったのに熱射病で頭をやられ英語を忘れてしまった事だけは話してくれました。地図や資料で幾ら探しても、インタービーと言う島は見付かりません。本当にインタービーと言う島はあるのでしょうか?亡き祖父の記憶違いでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

インタービー島 ではなく エンダービー(諸)島 のことではないでしょうか?

私も祖父の戦死地についていろいろ調べた経験があり、他人事とは思えず、調べてみましたところ、以下におじい様の仰っていた体験をうかがわせる「エンダービー島では補給途絶のため飢餓と熱帯病に苦しみ」の記載がありました。

▼第8師団(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC8%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

また、以下の手記「南洋エンダービー守備隊」に島の位置情報がありました。
http://www.heiwakinen.org/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_473_1.pdf

フィリピンとトラック諸島(現在はチューク諸島)の間にありますが、ただGoogleMap上には島の名前は見えません。
太平洋の島々は戦時中は日本名で呼ばれていたり、あるいは変更されているものも少なくないので、少々やっかいですが、体験記と照合する限りではまちがいないように思えます。

▼GoogleMap
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&q=%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E8%AB%B8%E5%B3%B6,+%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2&sll=36.5626,136.362305&sspn=48.871875,68.027344&brcurrent=3,0x0:0x0,0&ie=UTF8&cd=2&geocode=FVsrcQAdpQcMCQ&split=0&hq=&hnear=%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E8%AB%B8%E5%B3%B6&ll=7.358721,149.190559&spn=0.063502,0.087719&z=14

もし、おじい様の所属なさっていた部隊が上「第8師団」内にみつかればほぼ間違いないのですが。
(分からなければ、厚生省の援護担当課などで調べられます。)

インタービー島 ではなく エンダービー(諸)島 のことではないでしょうか?

私も祖父の戦死地についていろいろ調べた経験があり、他人事とは思えず、調べてみましたところ、以下におじい様の仰っていた体験をうかがわせる「エンダービー島では補給途絶のため飢餓と熱帯病に苦しみ」の記載がありました。

▼第8師団(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC8%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

また、以下の手記「南洋エンダービー守備隊」に島の位置情報がありました。
http://www.hei...続きを読む

Q硫黄島の日本軍の戦法について

硫黄島では日本軍が無数のトンネルを掘ってアメリカ軍とたたかって

日本軍以上の死傷者を出したことで有名になりましたが、その戦法は

ベトナム戦争などの弱小国の戦法にいかされていたって本当でしょう

か?この戦法は日本軍が考案したものなんでしょうか?

Aベストアンサー

> 硫黄島では日本軍が無数のトンネルを掘ってアメリカ軍とたたかって日本軍以上の死傷者を出したことで有名になりました

 硫黄島の戦いが、戦史上注目されるのは、制海空権を完全に失った側が、相手に自軍以上の損害を与えた、という点にあります。

 その観点から言うと、回答者No.1の方が指摘されるのは完全な誤りであって、アメリカ軍の場合は、制海空権をえたうえで負傷者を救護することが可能だったために死亡までに至らなかったのであって、日本軍の場合はそれが出来なかったゆえに死亡した、というのが事実です。したがってそもそも戦死者数だけを比較するのは意味がありません。

>その戦法はベトナム戦争などの弱小国の戦法にいかされていたって本当でしょうか?

 ヴェトナム人が、硫黄島の日本軍の戦訓を知っていた、という証拠がない以上、直接的な関係はない、といえます。

>この戦法は日本軍が考案したものなんでしょうか?

 硫黄島の日本軍の戦法は「籠城戦」の象徴のように捉えられています。古今東西の戦史をみるかぎり、いわゆる「籠城戦」という戦法はそう珍しい物ではありません。興味がおありならば、いちど本格的に調べられてはいかがでしょう?

 しかし、栗林中将の考えた戦法の最大の特徴は、古典的な「籠城戦」といよりも「トラップ」(罠)に近い発想であって、陣地を完全に隠匿し、上陸軍が島の内陸部に侵入した時点で、一挙に殲滅するというものでした。ところが、アメリカの上陸舟艇群をみた擂鉢山の日本軍砲兵部隊が我慢できずに砲撃したために所在を明かしてしまい、本来の計画が崩壊してしまったのでした。

 それから、日本軍とヴェトナム戦争の大きな違いは、日本軍は正規軍であったのにたいして、ヴェトナムのばあいは「民族解放戦線」(ベトコン)と称する民間人によるゲリラ戦術であった点です。ベトコンは農村に浸透して様々な隠れトンネルを作り、武器を隠匿したり、直接戦闘に利用しました。そのため、アメリカ軍および南ヴェトナム軍は、疑わしい村を焼き払い、容疑者をかたっぱし射殺することで応じるしか対処できませんでした。そのために無実の農民が犠牲者となったのでした。ゲリラ戦術が国際的に禁止されているのはこういう無関係の犠牲が多く生まれることによっています。少なくとも硫黄島の戦闘において、日本軍は正規の軍隊として戦っており、ヴェトナムそのほかのゲリラ戦術とは明らかに異なっている、ということを述べておきます。

> 硫黄島では日本軍が無数のトンネルを掘ってアメリカ軍とたたかって日本軍以上の死傷者を出したことで有名になりました

 硫黄島の戦いが、戦史上注目されるのは、制海空権を完全に失った側が、相手に自軍以上の損害を与えた、という点にあります。

 その観点から言うと、回答者No.1の方が指摘されるのは完全な誤りであって、アメリカ軍の場合は、制海空権をえたうえで負傷者を救護することが可能だったために死亡までに至らなかったのであって、日本軍の場合はそれが出来なかったゆえに死亡した、とい...続きを読む

Q太平洋戦争中、石油はどこから調達してましたか?

戦争中、米英連合国によりあらゆる対日輸送ルートは遮断されていたそうです。
ガソリン一滴は血の一滴といわれていたとか。
現実には、石油はどうやって調達していたのでしょうか?
中国や満州にあったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

太平洋戦争初期の最大の目標は

蘭印(オランダ領インドネシア)の石油です。

そのために、ジャワ、ボルネオ島上陸作戦、バレンバン油田への空挺降下
それに先立つオランダ艦隊との数度の海戦が
行われました。

また、英東洋艦隊空爆、マレー上陸作戦は
英軍に、それを邪魔させないため、
真珠湾奇襲、フリッピン占領は
米軍に、それを邪魔させす、原油を
日本本土に運ぶ海路を安全にするため。
初期の作戦は、全て蘭印の石油確保のために、ありました。

当時、中東油田は開発途上で、
北樺太や日本国内の油田では
とうてい間に合わず、
当時世界最大の油田
ソ連のバクー油田は独ソ戦で機能停止、
しかも日本は、日本の最大の石油供給源である
アメリカと対立して石油を禁輸されるという
戦略的ミスを犯し、開戦を決意したのです。
 
※最大の原油生産地は スマトラ
南方(ボルネオ、ジャワ、スマトラ) の原油生産量は、開戦前年の昭和15年 度には17.8万バレル/日(年1,033万キ ロリットル)であったが、日本軍が上 陸・占領した昭和17年度は7.1万バレ ル/日(年412万キロリットル)と、対 15年比39.8パーセントになっていた。 石油部隊の活動により、昭和18年度に は13.6万バレル/日(年788万キロリッ トル) 、対15年比76.7パーセントと、占
27. 目的を達したかに見 えた石油資源の確保
昭和14年8月から開戦直前の昭和16年 11月まで、陸軍軍務局軍務課に高級課 員として勤務し、武藤章軍務局長の下 で開戦前の日米交渉、国策決定方針の ほぼすべてに関与した石井秋穂大佐は、 戦後、太平洋戦争の開戦目的について 次のように述べている。 「大東亜共栄圏の確立と言った見方を 声高に説く論者もいるが、私は当時の 開戦名目案の骨子を作った者としてそ れは違うと言いたい。開戦目的はあく までも自存自衛であり、日本は国家と して石油の備蓄が無くなり、南方に頼 らざるを得なかったと言うことである。 あの時の国家政策に携わった者は、石 油が無くなったらどうしようと言う恐 怖感が大きかったと言う認識で一致し ていた。 」
( 「陸軍良識派の研究」 、保阪正康、光人社)
出され、石井大佐は後者を推していた。 この対立調整のため陸軍省の武藤軍務 局長が現地に入り、最終的には昭和17
70,000 65,100 (1,033) 60,000
単位:1,000バレル/年(万キロリットル)
50,000 40,000 40,000 25,917 (412) 6,100 15,697 19,000 630 9,600 0 (昭 1 9和 4 15 0年 )度 (昭 1 9和 4 17 2年 )度
49,614 (788)
36,916 (586) 32,079 22,321
30,000
スマトラ ジャワ ボルネオ
20,000
3,650 13,885 (昭 1 9和 4 18 3年 )度
2,830 11,765 (昭 1 9和 4 19 4年 )度
10,000
6,545 (104) 5,020 313 1,210 (昭 1和 9 4 20 5年 )度 4 ~ 7 月 末
出所:米国戦略爆撃調査団石油報告

南方原油の生産量のピークは昭和18 年第3四半期(10~12月)で、14.6万バ レル/日と開戦前の82パーセントにま で回復していた。高品位の石油製品の 生産が期待されたパレンバンの第1製油 所は、昭和17年5月には航空ガソリン (オクタン価87)の生産を開始してい る。第1製油所は昭和17年9月に、第2製 油所は、昭和18年1月に部分操業を開始 した。 なお、中部スマトラでは昭和19年9 月、帝国石油隊により戦後インドネシ ア最大の油田となるミナス油田(カル テックス鉱区)が発見されている。 ロリットル、昭和18年度27.1万キロリ ットル、昭和19年度26.7万キロリット ル、昭和20年度24.3万キロリットル 坑井は140坑、これが昭和16年度、17年 度には零、昭和18年度20坑、昭和19年 度90坑、昭和20年(4~9月)128坑とな っている。輸送ルートの途絶による南 方石油の還送量減少と共に、再度国内 生産増に方針が変更され、昭和19年度 以降の掘削坑井数が急増している。

・しかし、タンカーの多くが、戦争後半には、米潜水艦に撃沈され、日本本土では松根などから油を抽出するなど、絶望的な状態に、おちいりました。

太平洋戦争初期の最大の目標は

蘭印(オランダ領インドネシア)の石油です。

そのために、ジャワ、ボルネオ島上陸作戦、バレンバン油田への空挺降下
それに先立つオランダ艦隊との数度の海戦が
行われました。

また、英東洋艦隊空爆、マレー上陸作戦は
英軍に、それを邪魔させないため、
真珠湾奇襲、フリッピン占領は
米軍に、それを邪魔させす、原油を
日本本土に運ぶ海路を安全にするため。
初期の作戦は、全て蘭印の石油確保のために、ありました。

当時、中東油田は開発途上で、
北樺太...続きを読む


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