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【中世】二条城の南側の道は三条坊門小路(現・御池通り)です。坊門は条の真ん中だとすると、二条城のあるところは三条なのでしょうか?

今の二条城や、同じく三条坊門小路沿いの信長・秀吉の二条城は、三条ではないのでしょうか?

中世の京都の二条と三条の範囲がよくわかりません。中世の条はどういう範囲のことなのでしょうか?

A 回答 (2件)

平安京の「条」を例で説明します。


南北は、
三条坊門小路と四条坊門小路とに挟まれた地を
「三条」と言います。    中央の大通りが
三条大路です。  「八条」まで以下同様。
東西は、東京極大路と西京極大路が両端です。
細長い区画です。

「二条」は一部が「内裏」と重なるるので、
大炊御門通りと三条坊門小路に、挟まれた地に
なります。

二条城はこの中にあります。

二条大通りは中央通りですが、朱雀門に接して
います。

 角川古語辞典(平安京条坊図)、WIKIの
「平安京」をご覧下さい。

度重なる兵火、特に応仁の乱の大火で当時の条坊
はすっかり乱れてしまいました、今に残るのは
四条と七条大通り位でしょうか。
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この回答へのお礼

角川古語辞典は覗いてみます。

なにか調べてから返信を、と思って、返信いたしておりませんでしたが、長い時間がかかってしまうので、取り急ぎお礼まで。

ありがとうございます。

お礼日時:2010/09/06 09:08

先の答えは、条里制 → 条坊制の流れと矛盾します。


大通りに囲まれた区画を「坊」、坊が横に続いて「条」
が正しいのです。

従い南北は、二条大路と三条大路に挟まれ、東西の端は
東京極大路、西京極大路である、細長い区画が「三条」
です。  以下「九条」まで同様。
ご指摘のように二条城の大部分は「三条」内です。

古語辞典の付図の「平安京条坊図」で、二条殿が「三条」
内にあります。   私はこれで錯覚しました。

「三条」内なのに二条城というわけは、
足利義満の屋敷が二条通りに面していて、二条城と呼ばれ
以降、将軍家の屋敷は二条通りに面していなくとも、
二条城と呼ばれたとあります。
信長が足利義昭のために建てた二条城も同じです。

二条殿は摂関家の二条家の邸宅なので、そう呼ばれました。
この跡が、義昭の二条城、織田信忠が明智光秀に討たれた
二条御所となります。

家康は別邸ですが将軍なので二条城と名付けました。








   

参考URL:http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian0 …

この回答への補足

お礼、ご返信が、申し訳ありません、遅れました。メールがこなかったものですから。
ご回答ありがとうございます。

>足利義満の屋敷が二条通りに面していて、二条城と呼ばれ
以降、将軍家の屋敷は二条通りに面していなくとも、
二条城と呼ばれたとあります。

「とあります。」とうことは、古語辞典の文でしょうか?
よろしかったら、どちらの古語辞典か教えてください。

ありがとうございます。
しかし、二条城というネーミングにそのような事情があるとは、意外でした。
世上でよく言われる「二条城は二条にあるから二条城」という内容の話は、間違っている部分があるということになります。

なかなかに込み入った事情でした。ご説明申し訳ないです。

補足日時:2010/09/08 16:36
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