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関東大震災のときに起きた虐殺事件について教えてください。

先日、関東大震災の日を迎えましたが、ふと考えることがあったのですがわかりませんでした。
関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日ですので、第二次大戦よりもかなり前のこととなります。
その時に、在日韓国・朝鮮人の方が虐殺されたと資料に記載されているのですが、なぜ、第二次大戦よりも前に日本に住んでいたのでしょうか?

第二次大戦のときに「連れてこられた」のではなかったのですか?
その10数年前の日韓併合の時からすでに「連れてこられていた」のでしょうか?

どうもよくわかりません。

資料を提示して説明いただけるとありがたいです。
宜しくお願い致します。

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A 回答 (3件)

 日韓併合は、1910年


 第一次世界大戦は、1914年から1918年
 関東大震災は、1923年
 世界恐慌発生は、1929年

<日韓併合までの韓国>
 朝鮮半島は「両班」と呼ばれる大地主が貴族として農地を所有し、中央政権を運営していて、国民の大多数は、この大地主のもとで、一生を農地と共に終える農民社会でした。

<日韓併合後>
 この朝鮮半島の貴族社会が、1910年日韓併合によって崩壊し、朝鮮社会に大変革が始まりました。

 広大な植民地や国土を持つ欧米列強に対して、狭い資源の少ない限られた国土しかない日本が、激烈な生存競争をして行くためには、限られた国土を徹底して開発し、土地を効率的に利用し、国民の力を結集しなければなりません。
 そこで、「両班」を消滅させ、土地に縛られた農民を日本国民として、直接政府の元に置き、社会資本を投下して、全土の経済開発を行いました。

 農業の効率化の過程で、潜在的な過剰人口を養ってきた両班を核とする農村共同体が崩壊し、食えなくなった農民が、第一次世界大戦の軍需特需とヨーロッパの工場の破壊によって生まれた大戦後の日本本土の爆発的好景気と労働力不足を背景に、朝鮮半島から日本本土へと移動し始め、またたく間に急増しました。

        <在日朝鮮人人口の推移>
       在日朝鮮人数 増加人口(数前年比)
1924(大正13) 12万0238  3万9621
「渡日制限II」(移民が後を絶たない為)→釜山港で渡日制限撤廃を訴え5万人集会(5/17) ※前年9/1関東大震災
1925(大正14) 13万3710  1万3472
釜山での日本渡航制限措置(朝鮮総督府:朝鮮人渡日制限1925.10~1938)
1926(大正15) 14万8503  1万4793
6・10万歳運動
1927(昭和02) 17万5911  2万7408
1928(昭和03) 24万3328  6万7417
1929(昭和04) 27万6031  3万2703
10/24世界大恐慌。11/3朝鮮光州学生事件
1930(昭和05) 29万8091  2万2060

 世界恐慌の前年まで、渡航制限をしても急速に増えています。
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この回答へのお礼

具体的に資料を提示されてのご説明、ありがとうございました。
本当によくわかりました。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/09/10 20:36

 資料の提示なしで一般的な話ですが。


 格闘家で日本名が秋山成勲という人がいますが、この人は在日4世です。ひいおじいさんが日本に来てから100年になるそうです。
 もちろん100年前に国民総動員令も徴用もありませんでしたから、日本へ行こうっと自分で思って海を渡って来たわけです。
 他に私が知ってる韓国人のおばあさんは、お父さんが明治時代に日本に来てお商売をやっていた人でした。お商売に成功して、そのおばあさんはお嬢様育ちで東京で私立の高等女学校まで行ってお見合いで同じく裕福な朝鮮人の家のお坊ちゃまと結婚しました。
 第二次大戦が激しくなってからは関東近郊の別荘に疎開していたそうです。
 第二次大戦が終わると、だんなさんの元々の実家がある朝鮮(今の韓国)に帰りました。
 おっとりした方で、見るからに「奥様」って感じのおばあさんでした。

 他に私が知ってる韓国人のおばあさんは、プサン生まれで大正時代に2歳の時、お父さんの出稼ぎについて一家で京都に来ました。お父さんはお店屋さんで働いていたそうです。つまり今で言うサラリーマン、月給取りですね。このおばあさんも、日本で朝鮮の人とお見合いして結婚しました。
 第二次大戦が終わって、おばあさんは日本にそのままいたかったのにだんなさんのお母さん、つまりお姑(しゅうとめ)さんが「国に帰る」「国に帰る」と言い張ったのでしかたなく帰ったのだと、不満そうに言ってました。
 
 他に私が知ってる韓国人のおばあさんは、やはりお父さんの出稼ぎについて一家で大阪に来ました。このおばあさんのお父さんは貿易をはじめて成功し、一財産を築いたそうです。
 第二次大戦が終わって朝鮮に帰る時、日本製の製品をたくさん運んで帰ったそうです。その時持ち帰った日本製品が品質がすばらしく良くて、長持ちしたものが多かったので「日本製は質が良いね。」「日本製品はすばらしいね。」と、私に合うたびに言っいて、その息子さんもそれを聞いて育ってるためか日本製をよく賞賛してました。

 こんな感じで、日本に出稼ぎに来たり、お商売をしに来たりする人たちはいっぱいいたんですよ。
 朝鮮で1日働いてもらう賃金より、日本で1日働いてもらう賃金のほうが高かったらしいです。今もブラジルとか東南アジア・中国とかから日本に働きに来ますよね。日本の方が換算すると賃金が高くなるからですね。

 それに朝鮮では、日本に組み入れられる前の李朝時代に既に庶民は生活が苦しくて苦しくて(重税、役人の不正などで)庶民たちが国を捨てて逃げ出していました。ロシア領へは1830年ころから、中国領へはもっと前から、着の身着のままで逃げ出していたんです。
 今の北朝鮮の人たちが食べられなくて脱北するのと同じです。
 外国へ行って生活することにそれほど抵抗がなかったのではないかと思います。
 日本へは船で1晩寝たら着きます。ロシアや中国へ行くには、途中で山賊や追いはぎに遭うかもしれません。日本へのほうが確実に付けます。ことばも日本語と朝鮮語は似てるので、ロシア語や中国語より全然楽です。

 「連れてこられた」ですが。昨日、スイーツ親方で有名な何とか言う相撲の親方が、弟子を殴って傷害罪で起訴される見込みだというニュースをやってましたが、暴行を受けたモンゴル人の側の弁護士が被害者のことを「モンゴルから日本まで連れてこられたんですから」と言ってました。
 モンゴル人力士って日本に「連れてこられた」んですかね? じゃ、「強制連行」?
 じゃ、横綱白鳳も日本に「連れてこられた」? 日本人の奥さんとも「結婚させられた」ってことになっていくんでしょうか?

 「連れてこられた」。 首に縄付けて引っ張って来られたみたいな意味まで含む表現ですね。
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この回答へのお礼

大変参考になりました。
本当にありがとうございます。

どうも、卑屈な言い方が気になるところですが、民族性の違いなのでしょうか。
本当に勉強になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/09/10 20:33

「連れてこられた」の含む終戦直後の、本土の朝鮮籍国民(現在の在日韓国・朝鮮人)は約200万人ですが、


関東大震災当時は、約20万人程度でした。

当時は、ごく稀には「連れてこられた」のもいたでしょうが、
韓国併合(日韓併合)以前から主に半島南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、留学生や季節労働者として働く朝鮮人が内地に在留しており、韓国併合以降はその数が急増し、内地に定住するものも、増えた。現在、中国でも貧しい農村漁村から日本に実習生として労働者来ている様に、安価な労働力を
多数必要としている当時の内地に、現金収入もとめて、半島の貧民が内地に来るのは当然であった。

農民などがいなくなるの怖れた当時の日本は、内地への就労を制限しており、
「連れてこられた」といわれるような、官民の内地就労斡旋が大々的に
行われ(中には強要まがい、だましてタコ部屋へというのもあった)、
また強制徴用がされたのは、終戦までの数年に過ぎない。
(このことは、1940年には百万人であった本土の朝鮮籍国民・現在の在日韓国・朝鮮人が、
終戦直後には二百万人に増大していたことから、わかる。
 
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この回答へのお礼

大変勉強になりました。
ありがとうございました。

現在住んでいる人たちの何%が「連れてこられた」人達なのでしょうかね。

素朴に、自由な時代になったのだから帰らないのかな?と悩んでしまいます。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/09/10 20:35

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Q第二次世界大戦について

先日新聞に第二次世界大戦の戦死者についての一覧表(?)が載っていました。
この時代について元々興味があるのですが、不勉強の為こちらで質問させて下さい。

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原爆、無理な作戦による日本の若者が多数戦死、とか、ナチスドイツの大量虐殺、とかそんなことばかりの印象が多かったので、ソ連について全く知識がありませんでしたが、あの戦争でソ連はどんな風に戦ったのでしょうか。

Aベストアンサー

あの大戦で、ソ連は人海戦術を使ったのです。
「小よく大を制す」を理想とする日本とは異なり、ソ連の戦術は基本的に、圧倒的な兵力と物量で戦場の制圧を狙うものでした。するとどうなるか。「勝利」の定義が変わります。すなわちソ連軍にとって、勝利の基準は損害の寡多ではなく、目的を達成できたかどうかだった。逆に言うなら、自軍の兵士を湯水のようにつぎこんでほとんど戦死させてしまっても、目的の敵陣を攻略するなど、当初の戦術目的を達成すれば、それはソ連にとって勝利だったのです。
戦死者の大小を度外視する戦略をとっていれば、戦死者が増えるのは自然の理屈です。かくして、先の大戦で、ソ連軍は勝ち戦であってもつねに敵の数倍の死傷者を出し、第二次大戦におけるソ連軍の死傷者総数は、ドイツ軍の5倍に達したといいます。
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Q第二次世界大戦中のスペイン

第二次世界大戦前、スペインはどのような状況だったのでしょうか?スペイン内戦なんかの原因がよくわかりません。

また、第二次世界大戦中、フランコ将軍は中立をとったとあったのですが、戦争には参加せず、終戦後も彼が独裁を続けたのですか?
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第二次世界大戦でスペインの始めはフランコ将軍は枢軸国側で参戦する気もあったけれど当時のスペインは廃墟になっていたことと、工業も進んでいなっかたから直接戦争には関連はしなかったが隠れてドイツやイタリアに兵士を送っていました。けれどスペインはドイツが電撃戦でどんなに良い結果を残しても決して軍事条約な条約は結びませんでした。それはフランコ将軍がこう考えたからです。
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 それで1943年ドイツが負けると分かってからはドイツにおっくた兵士を引き上げさせ、ドイツへの輸入をやめ中立しながらも完全に連合国側に入りました。
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Q第二次世界大戦でのロシア陸軍戦車の損害

第二次世界大戦でロシア陸軍は世界でもっとも大量の戦車を持っていたそうですが、そのうち何%が破壊されたのでしょうか?

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旧ソ連時代の情報が開放された1993年の資料を元にして書かれた信頼できるKrivosheevの著作での赤軍の戦車・自走砲損失数は

1941年(6.22~)…20500(総数の72.7%)
1942年…15100(総数の42.3%)
1943年…23500(総数の49.1%)
1944年…23700(総数の40.1%)
1945年(~5.8)…13700(総数の28.0%)

総計…96500(総数の73.3%)


ちなみにソ連の大戦時の戦車・自走砲生産量総計は98300


つまりドイツ軍はソ連の生産した戦車・自走砲とほぼ同数を破壊、捕獲したことになります


1941年6月22日時点の赤軍戦車・自走砲配備数は
22600(内ソ連西部国境地域には14200を配備)


生産量及び配備数も前出のKrivosheevの著作からです

Q第二次大戦中のフランスへの爆撃はどのくらい?

フランス人の友人から聞いたのですが、大戦中にフランス都市部へのアメリカ、イギリス軍の爆撃は
ドイツ軍のいそうなところは片っ端から空爆したのでかなりフラットな状態にされたらしいです。一体、どの都市を爆撃して行ったのでしょうか?今日の朝日新聞にもある都市の爆撃ではフランス民間人が2万人も死んだそうです。もう少し、そのあたりの歴史を勉強したいです。

Aベストアンサー

最も被害が大きかったのはカーンの街でしょう。
ノルマンディ上陸作戦で,交通の要衝と目され爆撃で廃墟にされ、
その後、ドイツ軍とイギリス軍が死闘を演じます。

カーンには平和記念館ができています。
http://normandy.memorial-caen.com

フランスをドイツから解放したのはアメリカですから、
フランス人は表立ってアメリカ人の悪口を言いませんし、
記念式典にはレジスタンス(占領下ドイツに抵抗した人たち)が大きな顔をしていますが、
ノルマンディやフランドルのフランス人は,アメリカ嫌いが多いようです。
ドイツ兵を追い払って進駐したアメリカ軍の風紀が悪く、
食料の横流しに始まり,略奪、暴行、殺人を行い、
ドイツ兵の方がよっぽど紳士的だったという老人もいるようです。

しかし,最近はアメリカ軍の無差別爆撃に抗議する動きもあるようで、
ノルマンディー上陸作戦70周年記念式典では、連合国軍の爆撃などで死亡したフランス民間人約2万人に対する戦後初の仏国家追悼式がカーン市の平和記念館で行われました。

Q第二次大戦の潜水艦のトイレについて

失礼な話かもしれませんがとても気になることが。
広い海原を航行、潜航する潜水艦は一体トイレをどうしていたのでしょうか?
汚物は船外へ排除?貯蔵?していたのでしょうか?
そして、潜航中もトイレで用をたせるのでしょうか?
各国(日、独、米)のトイレ事情をご享受ください。

Aベストアンサー

一旦は貯蔵、浮上する時に排出です。
当時の潜水艦は、ディーゼルエンジンの吸気の為に定期的に浮上と潜航をを繰り返していましたから、その時に合わせて(浮上する事で水が攪拌されバラスト排水する時の音に紛れて、便も排出していました

なので、戦闘中(無音潜航中)はトイレの使用は禁止、小も大もできますが、流す事はなく(この場合の流すはタンクに貯蔵するという意味)便器に溜まりまくりです。だから、とても臭く、以下略(^_^;


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