なにかの本で読んで、うろおぼえなんですが、邪馬台国について面白い説を唱えている人がいるようです。
この説とは、邪馬台国の成立は卑弥呼の倭王即位以後のことである、というもの。
つまり、私たちはこれまで邪馬台国という国があって、そこに卑弥呼という女王がいて、その女王を倭国全体の王として共立した、というふうになんとなく考えています。しかしそうではなく、卑弥呼が倭国の王として即位した後、その居所を邪馬台国と呼ぶようにした、というのがこの説のキモです。
この説ならば、邪馬台国論争にまつわるさまざまな矛盾を解決できる、なかなかのアイデアではないでしょうか。
たとえば卑弥呼が九州のどこかの国の女王で、倭国共立王となってから、近畿にやってきてその宮殿の場所を邪馬台国と呼ぶことにした。・・こう考えれば、九州説、近畿説の「いいとこどり」もできますよね。
この説について、皆さんはどうお考えになりますか。
No.9ベストアンサー
- 回答日時:
私は九州と近畿は敵同士だったという説が正しいのではないかと思います。
勢力が拡大すると内部分裂が起こるのが世の常ですから、卑弥呼が属する部族の仲間割れで九州と近畿に分かれ、それ以降は親戚同士であっても仲が悪かったのではないかと思います。戦争もやっていたのではないでしょうか。神話も西と東で内容が逆になっていると言いますし、日本に限らず、ヨーロッパなどでも同じような歴史の国は多いです。
邪馬台国九州説が正しいように思うのは、戦前まで九州には卑弥呼がやっていたのと類似した儀式をおこなっていた地域があったからで、神道の神器を使って金融経済をコントロールしていた女性までいたそうです。近畿には、そういう人はいなかったようですから、九州説が正しいのではないでしょうか。
回答ありがとうございます。
また、その他ご回答いただいた方々にも、長らく放置してしまったこと、申し訳ありません。
もともと、正月の暇つぶしみたいなつもりで質問したものでしたが、議論していくうちに、私もいろいろ勉強して、最初の質問とは違う見方をしてみたりで、ちょっと私自身の考えも変わっていったところもあります。
さて、ご指摘の近畿・九州の関係です。
私もいろいろ調べてみましたが、邪馬台国とかかわりなく、王朝の東遷説を唱えている学者は、それなりにいるようですね。やはり神功皇后の東征という記述があるからでしょう。
邪馬台国時代にも、近畿と九州はダイナミズムをもった関係にあったと考えるべきなのかもしれません。
たとえば、ご指摘のように対立関係にあった。または、私の最初の質問のように、九州にいた卑弥呼が移動して「新首都」邪馬台国を建設した。
いろいろな説の可能性がありますね。
No.8
- 回答日時:
倭人伝によれば倭人は南方的習俗を持っていたようです。
魏略と言う魏志倭人伝より少し前に書かれた本には、倭人は中国南部の呉越戦争で滅んだ呉の末裔であると主張していたとか。
ところが、日本最古の史書である古事記や日本書紀にはこの事は一切書かれていません。
倭人伝の倭国とその後の大和王朝は別の物と考えるべきではないかと思います。
畿内説の学者は纏向を卑弥呼の都と決めつけているようですが、纏向には人が居住した形跡はなく、祭祀が行われていた痕跡のみがあります。人の住まない都などある筈がありません。従って纏向が卑弥呼の都と言う事もありません。
全国から土器が集まっていると言う事なので、各地から収穫物などを持ち寄って収穫祭を行った。その為の施設であったと考えるのが正しいでしょう。
この祭りは、その後の新嘗祭などの天皇家や神社で執り行われる祭祀に繋がるものではあります。
もう一つ考えなければならないのは、この遺跡から銅鐸が粉々に破壊された形で出てくる事です。何処からか新しい勢力がやって来て弥生時代の祭祀を憎んで銅鐸を壊したと考えられます。やって来た勢力は何処から来たのか考える必要があるでしょう。
No.7
- 回答日時:
ヒミコ=ヒムカ=日向(東に面した地)であり、古くは貴人
の名を直接呼ぶことを良しとせず、地名で呼んだことから、
邪馬台国は宮崎近辺にあり、北の渡来人と南の原住民・
熊襲に駆逐されて「瀬戸内海を放浪して大阪湾で上陸
しようとして失敗し、紀伊半島に逃げ込んで奈良に落ち
着いた」=東遷は、日本書紀にもある通りです。
「邪馬台=大和」の類似と、東遷の記述からして、自然に
導かれる結論だとされています(「自然」だと自分の功績
にならない学者が騒いでいるだけで)。
そもそも、邪馬台国当時は、中国の王朝成立以前と同様、
各地に土候国が乱立しており、「中央」などなかったので、
あの“邪馬台国の都への行程”とされる記述は、邪馬台国
自体の広がりを指すものと考えられています。
中国と違い、稲作農耕文化は土地に定着して生産する=
移動の難しい=非好戦的な文化なので、合議制で緩やか
な連携が保たれており、その代表が「ヒムカ=日向」であり、
続いて立った「伊予」だったと考えられます。
卑弥呼は日向国の女王であり、邪馬台国(日本連合)の
議長だった、ていう話で。
(個人的に「ヤマタイ」は、ポリネシア圏(縄文文化と共通)
で行われている首長の集まりによる合議制=マタイ制度
(マタイは首長のこと、「制」を意味するために強意の接頭辞
「ア」をつけて「アマタイ」)に由来すると考えています。
たとえば火山のように大陸にはないボキャブラリーは、
原住民が使っていたポリネシア系の言語を流用した事は、
日本中の火山の多くが「アサマ、アズマ(富士山も昔は
「アサマ」)」である事から推察されます。ポリネシア語で
煙や灰は「アス」、マイは「~ようになる、出る(「来い」は
アフィオ(存在)マイ)」)
No.6
- 回答日時:
●卑弥呼の即位が係わっていると考えられる
○根本的に「出雲から奈良盆地へ」ということが「未証明の前提」ですから推測のうえに推測を重ねてしまえば「妄想」になってしまいます。
●日本では(中略)新首都建設が行われている
○日本に限らず新王朝・国家、新政権が樹立すると新都建設は行われます。
しかし、それは自らの支配地域内への移転であって別地域への移転ではありません。
出雲が奈良盆地を征服あるいは奈良盆地が出雲の支配地域であった、またその具体的証拠があれば別ですが、出雲の王が出雲に勢力を残したまま奈良盆地に移転するのは不自然です。
●人間の動機として十分な説得力があります
○「神様が実在する」ならそのとおりですが、実際は人間が神を借りているだけですからそこには「人間の意志」があります。
何故、出雲の人間を王として連れてこなければならなかったのか、それが重要だという話です。
●私の説は十分説得力があるわけですよ
○魏志倭人伝で国名が複数回出てくるものは伊都国や狗奴国などわすかです。
倭王という名称も出てきますから「一度しか出てこない」ことが「知られていなかった」とするのは無理があります。
そもそも魏志が編纂されたのは邪馬台国の朝貢から50年後です。
●「原野」に近い場所
○確かに纏向遺跡周辺はそうかもしれませんが、唐古・鍵遺跡もありますからある程度の勢力が奈良盆地にあったことは間違いないかと思われます。
また、逆に既存勢力もなく原野に近い場所に、さらに倭国の中心地域でもないところに拠点を移す意義はどこにあるのでしょうか。
No.5
- 回答日時:
「オッカムの剃刀」という諺をご存じでしょうか?
●どんな考古学者でも示せないでしょう。
○「根拠のない学説」などありません。その根拠について、また根拠から導き出される結論について論争があるだけです。
確かに質問者さんが言われるとおり明確な根拠を示すことは出来ないので「学術論文」のレベルでは「邪馬台国所在地論」は研究されていません。
この時期の研究をする中で「邪馬台国の位置付け」がされているだけです。
●納得できる「解釈」ならば示せます。
○「誰もが納得できる解釈」が存在しないから百花繚乱になっているのです。
この掲示板に書き込めるような分量で「納得できる解釈」は絶対に示せません。
●後世の秀吉が(中略)納得できる
○納得できません(笑)。
秀吉は自分の力で大坂へ、家康は転封で江戸に居を構えたのであって、「請われて定めた」わけではありません。
また、3世紀と16世紀という社会情勢・文化がまったく異なるものを比較しても無意味です。
●新体制には新しい首都が必要
○それならば出雲地域で新たに作ればよいのであって、わざわざ既存勢力がある他地域に造営する理由となると相当な説得力のある説明が必要になります。
●三輪山の神様がそう言った
○何故、他国の人間を連れてきて王にするのか?
神様ではなく人間の行為としてきちんと説明がつかなくてはなりません。
●ほとんど出てきません
○1回しか出てきませんね。
しかし、その他の国名も1回しか出てきません。
この回答への補足
失礼。
これについての、私の見解を述べるのを忘れていました。
>それならば出雲地域で新たに作ればよいのであって、わざわざ既存勢力がある他地域に造営する理由となると相当な説得力のある説明が必要になります。
まず、マキムクの地に既存勢力があったかどうか、現在のところ考古学的にはそれらしい証拠は出てきていません。文献的なものは、この時代については言わずもがなです。
むしろマキムクのある三輪山山麓には、それ以前に農村程度の住居跡はあったようですが、どちらかというと「原野」に近い場所で、そこに新都市が建設されたようです。
さらにこの地は大和川の上流にあたり、瀬戸内海からの海路の終着点にもあたります。
新たに統一された倭国の新首都には、適地というべき場所です。
新しい首都として建設されるのですから、その(主要とはいえ)一領域になってしまう出雲に首都を建設する理由は、むしろ無いと考えるべきでしょう。
新しく首都にふさわしい場所を選んだと考えるほうが、理にかなっています。
「根拠」や「解釈」については、いささか言葉遊びになりかかってますね。
ちょっとこれは置いておきましょう。
●秀吉、家康の新首都建設について。
誤解のないように申し上げておきますが、私は卑弥呼が「請われた」とは一言も言っていません。あるいは自らの意思で新首都建設を決断したのかもしれません。
私は卑弥呼の時代にマキムクが建設され、これには卑弥呼の即位が係わっていると考えられる、と言っているのです。
さらに
>3世紀と16世紀という社会情勢・文化がまったく異なるものを比較しても無意味です。
日本では、平城京、平安京の昔から、江戸創建さらに明治維新の東京遷都に至るまで、社会情勢・文化の異なる全時代にわたって、新政治体制の確立とともに新首都建設が行われている、という歴史があります。
卑弥呼の時代にこれが行われたと考えても、きわめて自然であるし、納得できると思いますね。
●三輪山の神様のお告げについて。
もちろん実際に決断するのは人間です。
しかし、太古の時代に神のお告げという「形式」により重大な政治的決定が行われたのは、世界史に広範にみられる事象です。
さらに現代という時代でも、バブル時代に某料亭の女将が「神のお告げ」によって投資先を決定し、その結果として融資元の某大銀行が破綻したという例もあります。
神のお告げは、人間の動機として十分な説得力があります。
●邪馬台国の国号について
>ほとんど出てきません
○1回しか出てきませんね。しかし、その他の国名も1回しか出てきません。
そうでしょう。だから私の説は十分説得力があるわけですよ。
あなたもこれは認められるわけですねww
No.4
- 回答日時:
●国家連合による統一だった
○そのとおりですが、当然のことながら魏志には「出雲」のことは出てきません。
記紀には出雲の特異性は書かれていますが、邪馬台国のことは書かれていません。(注記には記載されていますが)
これを結び付けているのは質問者さんの「着想」でしかなく、「根拠」が明確ではありません。
「出雲が遠慮した」という根拠も不明です。
また、何故、出雲から卑弥呼を別の地域(奈良盆地)に呼び寄せて王とするのかの意義も不明です。後世のヤマト王権の存在を知っているから「出雲→奈良盆地」という流れに疑問がないのかもしれませんが。
別に出雲に邪馬台国を置いてもよいわけで、何故当時としては外国にも等しい奈良盆地に行かなければならないのか。
疑問点が多過ぎてまだまだ不十分です。
日本の古代史は文献資料が乏しく断片的で考古学資料ではなかなか断定できるものがありません。
このような状況の中で「あいまいな根拠」や「思いつき」で主張するなら「なんでもあり」になってしまいます。
だから専門家の学説は「はっきりしない」ことが多くなってしまうのです。
根拠を示せというのなら、邪馬台国所在地論争が延々と続いている状態で、この時代についての明確な根拠など、どんな考古学者でも示せないでしょう。
しかし、納得できる「解釈」ならば示せます。
>何故、出雲から卑弥呼を別の地域(奈良盆地)に呼び寄せて王とするのかの意義も不明です。
これはNo3さんの回答にもコメントしましたが、後世の秀吉が故郷の尾張ではなく大阪に、家康が故郷の三河ではなく江戸に、その新たな首都を定めたかを考えれば、納得できるのではないでしょうか。
すなわち、新体制には新しい首都が必要だと考えたからでしょう。
ではなぜ奈良盆地なのか。
それは三輪山の神様がそう言ったからかもしれません。・・いや、案外これが一番正しい理由かもと思ってますよ。古代のことです。神のお告げはそれなりに強い理由づけになります。
>当然のことながら魏志には「出雲」のことは出てきません。
記紀には出雲の特異性は書かれていますが、邪馬台国のことは書かれていません。
私は邪馬台国建国説をとっていますので、卑弥呼の時代の到来とともに邪馬台国は建国され、「実家」にあたる出雲のことがほとんど出てこなくても、あまり不思議ではないのでは。
ちなみに魏志倭人伝には「邪馬台国」という国号自体ほとんど出てきません。もっぱら「女王国」という言い方をしています。
これも、当時はまだ邪馬台国という国号があまり浸透していなかったから、と考えれば、邪馬台国建国説を補強する材料になると思います。
No.3
- 回答日時:
>この説とは、邪馬台国の成立は卑弥呼の倭王即位以後のことである、というもの。
私も、読んだ事があります。
各小国の集まり(連合国家)の統治者が卑弥呼ですね。
>こう考えれば、九州説、近畿説の「いいとこどり」もできますよね。
その通りですね。
但し、邪馬台国が本当に存在したのか否か?が重要です。
魏志倭人伝以外に、記載した文書が存在しません。
そもそも、魏志倭人伝は正しいの?
魏志倭人伝の記載通りに移動すれば、奄美大島辺りに到達します。
が、「途中で方角を間違えたのだ」という大前提で、無理やり近畿に到達するようにした解釈もありますね。
では、何故「古事記・日本書紀に記載が無い」のでしようかね。
現存する古文書の多くは「勝者側の歴史・記事」です。
古事記の「国譲り」は、出雲の国を譲る事になっていますよね。
ところが、出雲大社・出雲の伝説では「出雲以外の国々を譲る」となっています。
この説では、日本は「出雲国が、日本全国を統治していた」事になります。
そう言えば、10月には「日本全国から、神々が出雲大社に戻って」来ますよね。
出雲大社は、宮殿跡と言われています。
つまり、「この宮殿の長(オサ)が連合王国の統治者であり、毎年1回、各地の支配者が挨拶・報告に遣って来る」と理解する事も出来ます。
話がそれましたが、邪馬台国は「大和朝廷に滅ぼされた」という説もありますね。
日本書紀は、神武東征は「東にある国々を征伐(侵略)する」物語です。
続日本書紀には「武内某が、東にある日高見国を侵略しろ!」と朝廷に求めています。
大昔、物語扱いでしたが、ここ数年「同時代の黄金遺跡が、茨城近辺で発掘」されています。
朝廷の侵略に破れた有力者を祭ったのが「氷川神社系神社」です。
氷川(ヒカワ)神社は、色々な漢字が使われています。
悲惨なのは、神社自体が侵略を受け「氷川神社」として、元の神社境内隅に「小さな祠」として残っている場合があります。
もっと酷いのは、既に誰を祭っているのか分からない「客人神社」扱いです。
質問者さまも、神社を調査すれば面白い発見があるかも?
私の場合、四国の山村で「卑弥呼を祭っているらしい」神社の話を老人から聞きました。
写真を見ましたが、平らな石を5角形の形に敷き詰めた墓?でしたね。
今、この神社の事を書いた本を古本屋で探しています。^^;
詳細な回答、ありがとうございます。
なるほど。つまり出雲=統一倭国の盟主つまり邪馬台国説ですね。
それに東征説は、これはいろいろ言われています。氷川神社の話は、私も考えたことも無く面白い話です。
しかし、ここで立ちはだかってくるのが、やはりマキムク遺跡の存在ではないでしょうか。
古代史においては、考古学的な物証と文献的な解釈とを一致させなければならない。
マキムクはまだ大部分が発掘されないままで、いまだ結論めいたことは言えないものの、古代史においてそれまでとは次元の違う巨大都市であったことが、しだいに明らかになりつつあります。さらにこの都市は在来のムラが発展したものではなく、ある意味突然建設されたものと考えられています。
たとえば農器具の発見量が少ないなど、マキムクは農業都市ではなかったと推察されることなど。
日本の歴史において、このように新たな都市が突然建設された例は、いくつかあります。
律令体制の成立にともなう平城京、平安京。源頼朝による鎌倉幕府成立にともなう鎌倉。秀吉の天下統一に伴う大阪。徳川幕藩体制成立による江戸。
このような大都市の建設には、その背景に必ず大きな政治的変動があり、これまでとは次元の違う権力者が登場してきています。
こう考えると、マキムクの成立には、倭国国家連合の成立という政治的変動と、卑弥呼というこれまでとは次元の違う強大な権力者の登場が、その背景にあったと考えても無理はないと思います。
出雲=倭国の盟主すなわち邪馬台国説。さらにさまざまな東征説。いずれを取るにしても、マキムク遺跡とその成立の背景について、考古学と文献の整合のとれた合理的な解釈が求められると思います。
No.2
- 回答日時:
>古代史における出雲の特殊な地位の理由について、説明が可能です。
・出雲の特異性については諸説ありますし、弥生時代中期にはすでに独自の文化がありますので、「卑弥呼というヤマト政権の祖の出身地」というだけでは出雲の特殊な地位を説明するのは不十分かと思います。
またそれならば「国譲り神話」ではなく「天孫降臨の地」が出雲であってもよいわけで・・・・。
学説としては弱いです。それを出発点として根拠を積み上げていければ別ですが。
ありがとうございます。
やはり弱いですかね。
ただ、魏志倭人伝によれば倭国は征服による統一ではなく、国家連合による統一であったとあります。
こう考えれば、出雲がいわば「遠慮して」天孫降臨を唱えなかったとも解釈できると思いますが。
No.1
- 回答日時:
面白いアプローチではありますが、「邪馬台国東遷説」の亜流ですし、別段「いいとこどり」にも思えません。
その説でも魏志の記述は邪馬台国成立以降の話ですから里程記事に影響はしないはずです。
うーん。あんまりインパクトの無い説ってことですかね。
私の個人的な説ですが、卑弥呼は出雲から来たのではないかと考えます。
つまり、倭国諸国が国家連合樹立で合意→出雲から王を出すことになる→出雲の王族の中から卑弥呼が選ばれる→近畿に赴いてマキムクに宮殿を建設→ここが「邪馬台国」と呼ばれるようになる→邪馬台国はヤマト王権に発展。
これならば、古代史における出雲の特殊な地位の理由について、説明が可能です。
こう考えたのですが。
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