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いろんな人のいろんな意見があります。
それは認めます。
しかし、僕が、どうしても認められないときがあります。
いろんな考えがあること自体を否定する考えです。

よく似たものとして、差別する人を差別することも差別なんだろうかとかも思っちゃいます。

僕はいかなる意見も認めたいです。
絶対的な意見など無いと思っています。(A)
しかし、上のように絶対的に認めたくない意見もあります。(B)

これは自己矛盾でしょうか?
Aは客観、Bは主観とも思えますが、
差別することや価値相対主義を否定することは客観的に正しくないとまでおもっています。

人と議論していて、いつもこのことに悩まされます。
いつかつつかれたらなんてつつじまをあわせればいいのでしょうか?すじを通したいのです。

たとえば、価値相対主義を否定してくる人に対して、どう言えばいいのでしょうか?そういう人の意見もわかるのですが、それはよくないと言いたい。
けど相手から、「あれアンタは価値相対主義なんでしょ?だったら僕の意見もあったっていいんでしょ?」と言われたときに、「うん、あってもいいよ、けどね・・・」 とその後どういえばいいのでしょうか??

何か自分で言ってて分けわかんなくなってきちゃいます。誰か僕の立場で、スジを通してください・・(+_+)

A 回答 (10件)

アメリカに35年ほど住んでいる者です。



私にこの件について私の考えをわかりやすく説明できるか心配ですが、一応やってみますね.

ここには、いろいろな考えを持った人たちがこの国を作ってきたと言えるほど、違った意見を持った人たちがいます. そして、違った意見をもってもいいよ、と言う社会です. つまり、人は違った考えを持っている、と言う事がまず土台となってしまっています.

つまり、最近の日本がそのようになってきた、と言う事でもあります. 昔は、みんなと同じ考えをもっていないといけない、とまで言われました. 持たなければ、協調性が足りない、社会性を無視してる、となり、一人狼になりかねませんでしたね.

私が思うに、日本はその過渡期に入っているので、調整が難しい、のではないでしょうか.

アメリカ人は自分中心だ、と言われるひとつの理由として、子供の頃から、自分の考えははっきりもたなくてはいけないよ.と言って教育/躾をします. いろいろな意見を尊ぶ社会で、自分の考えを持たない、自分の考えを言葉にしてあらわせない、と言う事は、鳥なのか地上を歩く動物なのか分からないこうもりの童話の主人公になってしまうわけです.

極端な理解をすると、自分にためになる意見だけ取り入れて後は無視! 悩まされるのは時間の無駄、と感じる、とでも言ってもいいと思います.

つまり、いろいろな意見があると言う事は、すなわち、自分でも理解できない、または、理解したくない、認めたくない意見、と言う物が実際に存在する、と言う事なんですね.

それをどのように処理するかは、一人一人の自由であり、権利でもある、ということです(社会を乱す事をする以外は). ということは、意見の違いに悩まされると言うこと自体、自分の為にもならないし、時間の無駄になる、と言う事でもあります.

では、どうするか、と言うと、理解しなくても、認めなくとも、いいことなんですね. その意見があると言う事の存在さえ認識すればいいことだということです.

自分の意見を教える立場、または、その意見で人を引っ張ると言う意識と実力がなければ、聞くだけ聞いとくよ、で済ましてしまう、と言う事なんですね.

アメリカ人も人間です. 違う意見に怒りを感じる、と言う人も、また、反論したくて仕方ない、と言う人もいます. その人たちはその人なりに苦労をしてしまう、と分かっている人は、仕方ないな、で済ましてしまうと言う事ですね.

こちらでは、予断になりますが、トークショーと言って、おもにAMのラジオですが、ある、話題に対して、視聴者が自分の意見をずけずけといえる/言う番組がそこら中にあります. それを聞いていると、極端に違う理解をしている人たちがたくさんいるし、こんな事で話し合っているのは馬鹿馬鹿しいと言うだけの人もいます。 そういう違う意見を毎日のように聞いていると、人それぞれの感情、状況に合った理解をしているんだな、と言う事が分かります.

と言う事は、違った意見の一つ一つの中にも納得のいける要素と言う物が見えてくる、と言う事になります. そうする事によって、自分の意見に共鳴しない人は「必ずどこかにいる」と言う事も分かってきますし、状況によって、その意見が正しい、と言う事も分かってきます.

つまり、絶対的に正しいと言う事も、絶対的に正しくないと言う意見も元々ない、と思うことになります.

だから、自然と相手の意見を尊重するけど、自分の意見を変えるところまでは行かないよ、と言う事になるわけです. これが分からない人は、いつまでたっても、人を非難する事にもなるし、自分が一番なんだと思い込み、結局は、誰にも認められなくなってしまうわけです. 結局は自分にとって「損」だと言う事ですね.

と言う事で、アメリカ人は~、と断言的に言っている私の意見も、私個人のアメリカ人を見た全くの個人自己主張、ということになります. 私は、誰にも、私の考え方を押し付けようとも、納得させようともしていないつもりです. ただ、私の意見を受け入れてくれれば、個人として嬉しいな、と言うレベルである、と言う事です.

人を差別する事がいけないと一般が思っても、私はする!とすれば、私自身の考えであり、それに対しての、副作用が私に降りかかってくることを予測できなかったり、気がつかない、と言う事は私自身の問題であって、私自身の大人としての責任でもあるわけで、誰の問題でもないとするわけです. という事は、その副作用についても知る必要があり、それが、人の経験と言う事にも繋がってくるわけですね.

自分の言った事、自分の行動には自分で責任を持て、と言う躾がその背景となっているわけで、だからこそ、子供たちに、基本的な考えを植え付けると言うことが、結局、子供たちの為になる、と言う考え方もでてくるわけです.

何か、取り留めのないことを書いてしまった感がありますが、私はこの質問に対しての一回答として、書かせてもらいました.
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この回答へのお礼

遠くアメリカから意見を頂き、嬉しいです!!
あなたの意見を読んで目からウロコが落ちた思いです。
なんかベクトルが僕と全然違っていて、見方がすごい!感動です・・
>極端な理解をすると、自分にためになる意見だけ取り入れて後は無視! 悩まされるのは時間の無駄
これにまず圧倒されました。こんな発想をきいたことも無かった・・ 感激です。僕のこれからの人生感(議論の仕方)に大きな影響を与えてくださったことに感謝です。
いろんな意見が飛び交う、理解もできない意見もどんどん飛び出してくる、そんな社会に生きてるからこその発想ですよね。個人的にはそういう社会に住みたいです。
>いろいろな意見があると言う事は、すなわち、自分でも理解できない、または、理解したくない、認めたくない意見、と言う物が実際に存在する
これで納得が頂点に達しました。そうですよね、僕は自分が納得できない意見を排斥してるのですよ。たぶん・(+_+) 
>・・. という事は、その副作用についても知る必要があり、それが、人の経験と言う事にも繋がってくるわけですね.
これはすごく大人びたはっそうですよね。まだ僕にはほんわりとしかイメージできませんが、背後に大きい人とのつながり、人生を感じさせられました。

なんか言葉にうまくできませんが、あなたの意見をコピーしてめもっておきます。本当に感謝です!
また何か意見がございましたら、書いていただけると嬉しいです!
ありがとうございました!

お礼日時:2003/09/09 18:07

ご質問の趣旨は、


「世の中にはいろんな考えがある、
 そしてそれら諸々の考えはいずれも"認め"られるべきだ」と考えているAさんが、
「世の中にはいろんな考えなどない」とするBさんから、
「あなたは世の中のあらゆる考えを認める立場を取っているのだから、
 わたしの"考え"も認めねばならない」と言われた場合に、
いかに論破すればよいか、ということと考えてもよいでしょうか。

もしそういうことでしたら、わたしがAさんの立場なら、
(ほんとはわざわざ論破したりせずに「ほぉ~」で済ませますが、
 ぜひとも論破する必要があるのならば、)
「あなたは少なくとも、あなたとわたしの考えが違うことは認識しているようだ。
 それはつまりこの時点で、最低でも2つの"異なる考え"があることを認めて
 いることになるではないか。」
てな線で攻めていきますね。

Bさんの口から
「あなたは(自分とは違って)世の中のあらゆる考えを認める立場を
 取っているのだから」
という言葉が出た時点で、"いろんな考えがあること自体を否定"しているのは、
Bさんの「論理的思考(考え)」ではなく「態度」なり「姿勢」なり
ということになるでしょうから、ついでに、
「わたしがあなたの言葉を"意見"として認める"ことができないのは、
 あなたの言ってることは、あなたの "考え" た "意見" ではなく、
 あなたがそうありたいとしている"姿勢"に過ぎないからなんだ」
とも言っとくかな。

以上、ご質問の趣旨を誤解していたならごめんなさい。


それから、#5のお話に近いと思うんですが、

>僕はいかなる意見も認めたいです。
>絶対的な意見など無いと思っています。(A)
>しかし、上のように絶対的に認めたくない意見もあります。(B)
>これは自己矛盾でしょうか?

一般に「いろんな考えを"認める"」っていうときの「認める」は、
「それらの考えをあまねく肯定して受け入れる」って意味じゃなくて
「そうした諸々の考えの存在を認識する(容認する)」ってな意味で
使われてるように思われます。(時折そうでない人もいますが。)

違和感を覚える意見に対して、
「そういう意見があることは"認める"(認識している)し、
 あってもいいと思う(容認する)が、
 自分は賛同しない(肯定して受け入れはしない)」という態度は
自然なことだし、ちっとも自己矛盾しないと思いますよ。

意見だの考えだのにも至ってない言葉に対してなら、なおさらです
(というか、そうしたものについては議論する意義もさしてないような....)。


>差別する人を差別することも差別なんだろうかとかも思っちゃいます。

差別する人を「差別」することは「差別」でしょう(^^;
でも、たとえば差別する人を「非難」したり「自分と区別」したりすることが
「すなわち差別である」とは言えないと思います。
「非難」や「自分と区別」することは被差別者に対してのみ行われることでは
ないですし。
ただし、「非難」や「自分との区別」の有り様によっては
「差別」になり得るでしょうね。
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この回答へのお礼

そうですそうです。論破したいのです。
なるほど!相手の立場の矛盾をつくのですね。
こっちからスジを通すことを考えすぎてました。

差別や区別、肯定や存在 という言葉をうまく分けて論じたらいいのですね。
認識することと肯定することを僕は同じにしてしまってたっぽいです。

ありがとうございました!!
また意見があればお願いします(^-^)

お礼日時:2003/09/18 13:48

すいません。

参照URLを入れ忘れてました。

>>「価値相対」とは言っても、なんらかの「絶対的な座標軸」・・・それを認識しているかは別にして・・・がなくては「相対」すること自体あり得ないことだと私は考えます。

>これにすごく興味があります。詳しく教えていただけないでしょうか?

以前私が回答したものの中に、詳しく書いたものがあります。参考URLのNo.10の回答が私のものです。
そちらをご覧下さい。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=538416
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この回答へのお礼

ありがとうございます^^
参考URLのほうにも書かせてもらいました。
いろんな意見があってすごくおもしろいです。
宗教はちょっと僕にとってはむずいですが、また教えてください(^-^)

お礼日時:2003/09/18 14:21

>「人殺しは悪いことではない」と主張する人 僕は、これは全く問題なく認めます。

全く問題ないです。

>少し人を殺すっていうのが極端ですけどね。


そう来るとは思わなかった・・・
いや、失礼しました。

「人殺しは~」という極端な仮定を敢えて持ち出したのは、人道的に「ここまでは考えの自由でもよい」「ここからは自由では許されない」というラインがあると私は思っていて、「人殺しは悪いことではない」という主張は私の中でラインの外側だったからです。

では更に極端な例を挙げましょう。
あなたの知人が「今から人を殺しに行く」と言って今まさにそれを実行しようとする人がいたとします。
で、そのことであなたは不利益を被らないと仮定します。
ただし、あなたの説得次第で相手はその考えを改める可能性があるとして、あなた以外には誰も説得できないと仮定します。

あなたは説得しますか?

もしも「説得する」であれば
>つまりあなたがいった、後者の立場です。僕自身は人殺しが悪いと思っている。けれど殺してもいいっていう意見があることは認めます。そしてそのことで対話はできます。

↑に矛盾することにはなりませんか?
もちろん、「人殺しは悪くない」と「人を殺しに行く」では大きく意味が違います。ではどこまでがOKで、どこからが「NG」になるのでしょうか?
「そう思うことはOKだけど実行しちゃダメだよ。」
ということでしょうか?


もしも「説得しない」であれば
その結果、その知人が人を殺してしまい、殺してしまった知人と被害者に対して、完全に自分には関係がないことだと思えるでしょうか?止めることができた可能性を放棄するという選択に責任を感じずにいられるでしょうか?

さっきから、本当に極端な例ばかりで申し訳ないと思います。私が言いたいのは、セーフラインが人によってまちまちではあるが、他者に対して考えを干渉すべき場合は「ある」。という私の考えを理解してもらいたかったのです。


>僕が認められないのは、人殺しは悪いことだと絶対的に思ってる人です。人にそれをおしつけちゃう人です。

つまり、あなたは相手の考え方に能動的に影響を及ぼすべきではない。また、自分の意見にも干渉されたくない。という考え方を持たれているのですか?

「押しつける」という言い方をされてますが、具体的にどのようなことを指すのでしょうか?
議論の中で、あなたの考えを否定して「○○のように考えるべきだ」という言い方を押しつけとするのでしょうか。
だとすれば「押しつけをすべきでない」というのは押しつけにはならないでしょうか?

「人殺しは悪いことではない」というのは認めることができて、「考えの押しつけは悪いことではない」というのは認めることができないということですか?

だんだん禅問答のようになってきましたね・・・


自分の「都合が良い/悪い」で判断することを一般的に「ご都合主義」と呼びますし、「気に入る/入らない」で判断することを「感情論」と呼びます。
主張に「スジを通す」ということは、いかなるシチュエーションであっても原理原則が一定であるものと、私は理解しています。故に、論理に厳しくなければならないとするのが私の考えです。

これは私の論理、考えが完璧だとか正しいとか言ってるのではありません。私はそのように考える。ということです。


>>「価値相対」とは言っても、なんらかの「絶対的な座標軸」・・・それを認識しているかは別にして・・・がなくては「相対」すること自体あり得ないことだと私は考えます。

>これにすごく興味があります。詳しく教えていただけないでしょうか?

以前私が回答したものの中に、詳しく書いたものがあります。参考URLのNo.10の回答が私のものです。
そちらをご覧下さい。

たびたび失礼いたしました。

PS.文中であなたの意見をいちいち仮定してそれに反論している形をとっているのは、このサイトの性質上、交互に意見を交わす形をとりにくかったため、便宜上あのような文章になってしまいました。
もしかしたら「決め付けだ」と気分を害されたかも知れません。悪意はないつもりですが無礼があればお詫び致します。
また、このサイトのスタンスである「質問-回答」の体裁から外れてしまったことを重ねてお詫び致します。
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この回答へのお礼

いやいやいや、すごくありがたいです!!
少し難しくてちょっとついていくのが精一杯ですが・・(T_T)

友達が人を殺したいって思っていて、それは何も思いません。その意見を否定などしません。けど、世の中のルール(法律)として、それを行動にうつすと捕まっちゃうよとは言います。
内心は絶対的な自由ですが、行動は他者に迷惑かける限度で自由に制限がかかるとおもっています。

その意味で内面を規律してくる宗教とかには僕は一定の嫌悪感を抱いてしまいます。宗教を選ぶのはその人個人だと思えば問題は無いのですが。
<僕が認められないのは、人殺しは悪いことだと絶対的に思ってる人です。人にそれをおしつけちゃう人です。>これはそのような意味です。

絶対的な座標軸っていうのを今から見たいと思います^^
ありがとうございました!

お礼日時:2003/09/18 13:58

なんだかすごく気持ちがよく分かります。


私も同じようなことに悩むことがあるからです。

私が辿り着いた、現在の考え方を紹介しますと、「人間はには100%の客観視は不可能だ」ということです。
特に直接自分が関わること(家庭のこと、仕事のことなど)に関しては、客観的であろうとすればするほど、自分の考えが分からなくなってしまうものです。(経験則)

私もある時期、できるだけ主観を排除したモノの見方を心がけていたことがあります。
これは自分の中で「いつでもフェアでありたい」という欲求からきていたものなのですが、物事に真剣に向き合えば向き合うほど、その考え方に無理を感じていました。

それで、ある時友人と口論になった時に悟った結論が、上のような「人間はには100%の客観視は不可能だ」ということでした。
むしろ、完全に客観に立てたような気になるということは、慢心ではないのか?とさえ思ったのです。

もちろん、相手の立場、個性、その考えに至った経緯などに思いを馳せることは、対話をするということにおいて非常に重要だとは思います。
しかし、やはりこちらにも言い分がある訳で、「うんうん。君の言うことはよく分かる」というだけでは不充分であると思いました。
ですから私は、「論理」と「現実性」というものを非常に重視するようになりました。

>僕はいかなる意見も認めたいです。

極端な例を挙げますが、例えば「人殺しは悪いことではない」と主張する人がいたとしても、その意見を「認め」ますか?(私は認めません。)

「いかなる意見も認めたい」というのは「あなたの意見を尊重したい」(=肯定)という意味でしょうか?
「あなたがそう考えるのは自由だ」という立場をとることでしょうか?=(肯定も否定もしない)
前者の意味(肯定)を先ほどの例に適用すると、あなた自身も「人殺しは悪いことではない」という主張に同意したことにならないでしょうか?
また後者の意味(肯定も否定もしない)の場合、対話自体になんの意味もなくなりませんか?

>絶対的な意見など無いと思っています。(A)

仰るとおりかも知れません。
しかし「対話する」という行為は、相手とあなたの「相対的な主観」をぶつけ合うことに意味があると私は考えます。

>しかし、上のように絶対的に認めたくない意見もあります。(B)

あなたは既にジレンマを感じているが故にそう思うのではないでしょうか?


>価値相対主義を否定してくる人に対して、どう言えばいいのでしょうか?そういう人の意見もわかるのですが、それはよくないと言いたい。

これは私の意見で、絶対正しいということではありませんが、「価値相対主義」というのはある面で不完全な論理だと思っています。

>相手から、「あれアンタは価値相対主義なんでしょ?だったら僕の意見もあったっていいんでしょ?」と言われたときに、「うん、あってもいいよ、けどね・・・」 とその後どういえばいいのでしょうか??

このやりとりに象徴的に表われていますが、つまり突き詰めれば論理が成り立たないと私は考えています。
「損得」「好き嫌い」という次元の価値観であれば、どこまで行っても主観の問題で済むだろうとは思いますが、問題は「善悪」の価値には「真理への探求」が不可欠になるからです。

カントの価値論は「真善美」を打ち立てていますが、私はその中の「真」というのは認識の対象であって、それ自体は価値ではないという考え方を支持しています。
「価値相対」とは言っても、なんらかの「絶対的な座標軸」・・・それを認識しているかは別にして・・・がなくては「相対」すること自体あり得ないことだと私は考えます。

やや脱線しましたね。話を戻します。

>いつかつつかれたらなんてつつじまをあわせればいいのでしょうか?すじを通したいのです。

「スジを通したい」という態度、非常に分かります。
でも、対話の中で本当に必要な態度は「スジを模索する」ということに尽きると私は思います。
それは仮に、自分が強烈に支持する考えがあったとしても、「それが本当に正しいかどうか」を検証することにも繋がると思うのです。

私もよくこのサイトに自分の考えを書きこみますが、自分の考えを書きながら、自分の考えはどこまで合理的なのか、現実的なのか、価値的なのかを模索しています。


長文、失礼致しました。

この回答への補足

回答ありがとうございます!!
「人殺しは悪いことではない」と主張する人 僕は、これは全く問題なく認めます。全く問題ないです。
僕が認められないのは、人殺しは悪いことだと絶対的に思ってる人です。人にそれをおしつけちゃう人です。少し人を殺すっていうのが極端ですけどね。つまりあなたがいった、後者の立場です。僕自身は人殺しが悪いと思っている。けれど殺してもいいっていう意見があることは認めます。そしてそのことで対話はできます。
カントの価値論は「真善美」を打ち立てていますが、私はその中の「真」というのは認識の対象であって、それ自体は価値ではないという考え方を支持しています。

>「価値相対」とは言っても、なんらかの「絶対的な座標軸」・・・それを認識しているかは別にして・・・がなくては「相対」すること自体あり得ないことだと私は考えます。

これにすごく興味があります。詳しく教えていただけないでしょうか?

補足日時:2003/09/09 21:03
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どんな立場に立っていても、その立場そのものを否定する立場があります。

ただ価値相対主義をとると、そのような否定される立場をも認めないといけないし、その立場を否定すると、自分の立場と矛盾してしまいますね。質問者さんもその部分で試行錯誤されているようにお見受けします。
価値相対主義は、なるべくお互いが認め合う前提がないと難しいでしょう。もしくは「出来る限り」価値相対主義で行き、その「出来る限り」のはばを少しづつ広げていくくらいしかないと思います。

論理的にスジをどう通したらよいかについては、ちょっとおいといて、質問。
なぜ質問者さんは価値相対主義に立たれたいのでしょうか?なおかつその立場に立たれていても、差別や価値相対的な意見は認めたくないという思いがある理由はなんでしょうか?
具体的には
『僕はいかなる意見も認めたいです。
絶対的な意見など無いと思っています。(A)
しかし、上のように絶対的に認めたくない意見もあります。(B)』
『差別することや価値相対主義を否定することは客観的に正しくないとまでおもっています』
こう思われるのはなぜでしょうか?
ここを明らかにする事が、質問者さん自身がお持ちになっている価値相対主義の深みを増す事になると思います。

私も全然違う考えや立場の人とかかわると、なぜそういう考え方になるのかとか、つっこんで聴きたくなります。
その結果、相手のことが今までより分かって、受け入れられるようになる事もあります。
そうでなくとも、この相手は自分とはとことん違うのだという事実は納得できますしね。
自分にとって認めがたい価値観や立場でも、自分と異なる立場の人がいて、その人にとってその立場は必要なものなんだという事実を認めるような、価値相対主義もありかなと思います。
なんかだらだら書いてしまいました。失礼します。
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この回答へのお礼

なぜ価値相対主義に立ちたいのかなあ・・
自分がある価値観と出会ったりするたびに、根本思想が変化したことが何度もありました。これからもあると思います。今まで常識に思ってたことがくつがえったりするのに驚きと同時に楽しいのです。
だから決められた枠内では法則や絶対的なものはあるかもしれないけれど、その枠を超えたら、無限にそのようなものは広がるといった思いがあります。
宗教でも、友達が親のいうことを鵜呑みにする、とかでも、なんでも昔から絶対的に物事を決め付けられること、状況がすごく嫌いです。好き嫌いといった感情でいってしまってすみません。で、自分もそうなってはいけないという思いはとても強いです。
で、自分の中の正義みたいなもの(人種差別は絶対いけないとか)と、あらゆるものを認めたいという欲求が交差してしまうのです(+_+)
なぜでしょう・・ うう・・

お礼日時:2003/09/09 18:16

No.2です。


>自己の経験や、経験則は、理由にはならない
その通りです。用意する材料はあくまで凡そ全ての人が納得できる物でなくてはいけません。そういう意味で自分の経験などは客観性に欠けると思います。

ちなみに、質問者さんが言いたいのは
>現時点で正しいといえるか
ですよね。相手の意見を否定する訳では無いですよね?自分の意見を肯定するために、法律や歴史・統計が自分の意見の根拠であると言う事は極めて客観的な理由付けになると思うのですが?もう少し補足をすると、相手がこれに対する反論をした場合の否定(反論に対しては否定で問題無いですよね)も最初の根拠と同程度の根拠が無いと一貫性に欠けます。なので最初の回答のように
>>知識が無い分野の話には踏み込んだ話はしない事。
となる訳です。

一つ気になったのですが、質問内容にある
>差別することや価値相対主義を否定することは客観的に正しくない
とする事が「価値相対主義を否定する事」だって事は理解できてますよね?
価値相対主義(ある意味絶対民主制かな?)に否定はあり得ないのです。例え極僅かな少数意見でも価値がある意見ですから否定するのではなく、相手の意見を尊重しつつ、現時点での自分の選択に対する理由を提示する事。で、相手の意見を前述の理由により現時点では受け入れられないが、今後受け入れられる環境が出来ればいつでも受け入れられるようにする事。となるのではないでしょうか?

私も書いてて訳分かんなくなって来ました^^;
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この回答へのお礼

なるほどー! 前半部分に納得です^^

>差別することや価値相対主義を否定することは客観的に正しくない
とする事が「価値相対主義を否定する事」だって事は理解できてますよね?

いやこれがうまくいかないのです(+_+)
その意味で、価値相対主義自体はゆるがせないものだと僕自身が思っちゃってるのですね(>_<)
受け入れられる環境がきて欲しいですw

お礼日時:2003/09/09 15:31

世の中『絶対』ということは絶対にない。



ということは、あるんでしょうかね、ないんでしょうかね。

私もいろいろな意見があることを受け入れたいと思っています。でも、すべての意見を尊重してしまうと自分の動きがとれなくなるので、いろいろな意見の中で、私にとってはこれが正しいと今は思うというものを持つことにしています。そしてそれを選んだ理由づけもきちんともつようにしています。ですから、自分とはどうしても相反する意見をもつ人がいれば、とりあえずはそこに行き着く理由をきいてみます。あるいはこちらがそこに行き着いた理由を説明するわけです。

主義、思想、考え方というのはその人の生き方です。唯一の正解があると思ってそれを探して生きている人もいます。ですからそれはそれでいいのです。「あんたのその考え方がまちがっている!!!」といわれたら、「そうかもしれませんねー」といって、ああ、そこまで強く信じる人もいるのだな、と思います。もしかしたらそうなのかもしれませんしね。

なんかうまく文章にできてませんね。アドバイスになりませんね。ごめんなさいね。
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この回答へのお礼

いえ!ありがとうございます!!
いろんな意見があって楽しいです^^
あなたのような考えは柔軟で好きですー(^-^)
ありがとう!!

お礼日時:2003/09/09 15:10

私は質問にあるような事を普通にしていますし、矛盾しているとも思いません。


例にある(A)と(B)を別に矛盾させない方法はありますよ。
(B)を主観ではなく客観的に判断させる材料を揃えればいいのです。もう少し詳しく言うと、こう言った事柄に対して~だと思うではなく、法律や過去の判例・歴史・統計と言った判断材料を用意できればいいのです。
これで、客観的な判断が出来ますし相手を説得するのに十分な説得材料が整いますよね。(相手がそれ以上の材料を有していない限り)
と言う事でまずは、もっともっと多くの知識を身に付ける事が必要です。そして知識が無い分野の話には踏み込んだ話はしない事。これだけでokですよ。

ちなみに、上記はどちらかと言うとディベートするような場合の方法です。はっきり言って結論ありきで自分に都合の良い資料を集め、都合の悪い資料を黙殺もしくは意味を取り違える事も出来ます。人間である以上、主観を全く入れないと言う事は不可能だと思いますよ。
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この回答へのお礼

>そして知識が無い分野の話には踏み込んだ話はしない事。 
これですねw この強さというか寛容さ。

>人間である以上、主観を全く入れないと言う事は不可能だと思いますよ。
そうですね。確かにそうです(+_+)

けどBを補強する理由として、法律や過去の判例・歴史・統計と言った判断材料を出すのはどうかなと思っちゃいます。それ自体が議論になってるときはどうするのでしょうか?僕は自己の経験や、経験則は、理由にはならないとおもっています。事実があったかどうかを議論するときはいいですが、意見をいいあうときは相手がそれに対して反論できませんよね。経験なんて出されてしまったら。議論は相手に反論させるために理由づけをするもんだと思っています。絶対的な意見がないことを前提にすると、僕自身の意見も絶対的ではないのですから、相手との議論によって、どっちが現時点で正しいといえるかというのが、反論に耐え抜いたことだと思いますから。

お礼日時:2003/09/09 14:05

いろんな考え方なんて、ない、


という意見と、
いろんな考え方がある、という意見があるねんから、
すでにいろんな考え方があるんやねえ。

という事でしょうか?

私もたいがい、この矛盾で自分内ジレンマに陥ります。

その意見もあってもいい。
し、その考えは、私のなかに、知識としては蓄積された。
しかし、私はその考え方を、感情面で、肯定しかねる、と、
考えます。

感情と、主義はまた別やと思いますし。

同じ派閥にいる人間でさえ、喧嘩もするわけですからね。

そやし、私は、あいまみえない意見があったら、
「ほほーう」て、全部聞きます。
そして、反論はしません。
「理解できひんけど、そういうんもありやろね」て。
ほんで、議論をするとしたら、その意義について、議論すると思います。
否定するのが議論なわけでもないと思うので、
その考えの存在意義を、議論してみたりすると楽しいなあ、と思います。

すでに日本語おかしくなってきたのでこのへんで(笑)
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この回答へのお礼

解答ありがとう^^
>>そやし、私は、あいまみえない意見があったら、
「ほほーう」て、全部聞きます。
そして、反論はしません。
「理解できひんけど、そういうんもありやろね」て。
ほんで、議論をするとしたら、その意義について、議論すると思います。
否定するのが議論なわけでもないと思うので、
その考えの存在意義を、議論してみたりすると楽しいなあ、と思います。

この部分におおいに賛成しました。否定するのが議論ではないというのが面白いです。確かに否定することにこだわってたような気も・・
もうすこし考えて見ます^^

お礼日時:2003/09/09 13:28

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