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「哲学とは」と言う質問は過去にも何度も登場しているのですが、多くはそれの関連書物を読んだほうが良いと言う答えか、「そもそも昔は科学も文学も哲学だった」と言う回答などが見られます。


そこで3点ご質問があります。


■質問1

哲学の専門書を読まないと分からないほど、哲学とは難解なものなのでしょうか?




■質問2

「そもそも昔は科学も文学も哲学の一部だった」というのが本当なら、今となっては、「科学」「文学」「歴史学」など数多くの学問カテゴリーがありますが、それら全てに該当しない学問が「哲学」と呼ばれるのでしょうか?



■質問3

哲学とは何ですか?





どれか、気が向いた質問だけの回答でも構いません。
興味がありましたらお答え願います。

A 回答 (13件中1~10件)

哲学とは、自分なりの生き方。

悪く言えば自己中心的な生き方では?

何かを貫く事では?

まだまだひよっこちゃんの意見です。あてにしないでください。



ウィキってみては?意味が乗ってないかな?

自分なりの生き方とはいえ、犯罪や、無秩序な事は哲学では無いと思ってます。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。


ウィキには「概念的思考を通じて多様な主題について検討し研究する、学問の一分野。」と書かれていますね。これを読む限り、他の学問にも言える事なので、哲学の説明としてはよく分かりませんでしたので質問させていただきました。

お礼日時:2011/02/14 18:50

 こんにちは。



 ■ 質問1: 哲学の専門書を読まないと分からないほど、哲学とは難解なものなのでしょうか?

 ☆ 専門家と話をまじえるには 専門書を読んでその独特の用語を知っておくのがよいと考えられています。
 けれども その術語が分からなければ そのつど尋ねればよいはずです。
 つまり手間暇がかかるなぁと その専門家である相手は思うでしょう。それだけのことです。

 《難解》かどうかは その術語や理論の説明の仕方にかかっています。


 ■ 質問2:「そもそも昔は科学も文学も哲学の一部だった」というのが本当なら、今となっては、「科学」「文学」「歴史学」など数多くの学問カテゴリーがありますが、それら全てに該当しない学問が「哲学」と呼ばれるのでしょうか?

 ☆ 映画は総合芸術だと言われます。これにたとえてみようと思うのですが そしてまづは文章によって表現されたものを読む場合とは違うのだとは事割らなければならないのですが。
 つまり 映像の中で――そこにいかに思想を発表するというような場面がじゅうぶんなかたちで差し挟まれていたとしても それをも含んだところの――人物たちの動きなどを見て全体として作者(監督?)のメッセージを読む場合が 映画なわけで これは 文学作品などとは基本的に――文章表現であるか否かにおいて――違うのですが それでも総合芸術であろうとしています。
 
 つまりは 映画には 文学から思想から絵画や写真そして音楽からといろんな分野の芸術をまとめたかたちでの表現が盛り込まれています。歴史物であったり科学ものであったりもします。

 哲学も 学問全般にわたって 総合的なものと考えればよいのではないでしょうか?

 ■ 質問3:哲学とは何ですか?

 ☆ 質問2への答えでまだ触れなかったこととして:
 哲学は学問であるよりさらに広い内容を持つということです。
 つまりは 生きるということ・そして社会において共に生きるということを扱います。学問として問い求めることが 一般に論理として骨格を成しますが むしろ筋肉や血は 広くあそびや情感やときにこころざしや情熱がにないます。
 知性を発揮するこころと言ってもよいでしょう。その意味でも総合としての学問であり芸術であり人生です。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。


>つまりは 生きるということ・そして社会において共に生きるということを扱います。

哲学にあって、他の学問には無いものを知れた気がします。

お礼日時:2011/02/14 18:54

哲学とは特定の学問でなく、もともとはすべてのことについて系統的・体系的考える学問でした。


それが科学の進歩により数学、物理学、天文学、心理学、社会学、経済学等々様々な分野の学問が確立されていき、哲学の守備範囲が狭くなっていったものです。

もっともそうした学問がいくら発達してもいまだに明確に解明されていない分野も多くそれに哲学の分野ともいえます。

例 愛とは? 勇気とは? 悲しみとは? 恐怖とは? 誇りとは?
また最近なら、企業の社会的責任とは?というのがありますが、こうしたものを全く考えずに経済学の論理だけで企業を運営していると消費者に大きなしっぺ返しを受けることがあります。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。


>それが科学の進歩により数学、物理学、天文学、心理学、社会学、経済学等々様々な分野の学問が確立されていき、哲学の守備範囲が狭くなっていったものです。


なるほど、「元々は科学も文学も哲学の一部だった」と言う意味が分かりました。
多くの学問は、哲学的な側面を持っているのですね。

お礼日時:2011/02/14 18:56

質問1


哲学の何を知りたいかによるんじゃないでしょうか。
数学だって足し算を知りたいなら、そう難しくはないと思います。でも、微分積分や虚数を理解しようと思ったら難解になりますよね。
哲学も哲学とは何かという意味だけを知りたいのであれば、辞書を引けば事足ります。でも、ニーチェの哲学やベンヤミンの哲学を理解しようと思うと、専門書を読まないとわからない、ということになるでしょう。ただ、それはある意味、当然のことかもしれません。ニーチェにしてもベンヤミンにしても、その哲学は専門書にしか書いてないわけですからね。文学作品について知りたいのに、作品を読まずに知ることが難しいのと一緒ですよね。

質問2
その通りだと思います。
哲学から始まった学問というものが、それぞれの分野の専門性を高めていくうちに独立して、別の名前がつくようになると、哲学とは別のものと捉えられるようになります。
それらに該当しない学問が依然、哲学という名前で呼ばれるわけですね。
いわば、科学や文学はその研究対象の具体性によって、独立しているわけです。そうした具体性を持たない形而上の事物を対象とするものが今でも哲学のテーマとして残っているように思います。

質問3
哲学には二つの意味があります。
一つは学問としての哲学。こちらは、あらゆる事象の原理原則や根本原理を追求する学問です。大学で教えている科目となります。
もうひとつの意味は、いわゆる人生哲学と呼ばれるものです。経験則に基づく世界観や人生観です。
この二つは辞書に書かれた内容となります。
哲学とは何か、という問いには人それぞれの解釈が可能でしょうが、意味だけであれば辞書にある二つの意味を抑えておけば、とりあえず事足りるんじゃないでしょうかね。

昔は科学も文学も哲学の一部だった、というのは歴史だし、専門書を読むべきというのは方法論です。本気で哲学を知りたいなら、それらも抑える必要があるということでしょう。
でも、意味だけを知りたいのなら、それらは必ずしも必須ではない。辞書を引けば意味は載っています。
辞書も間違いがあるというのなら、複数の辞書を確認することです。
上に書いた意味は複数の辞書で確認できます。
結局は、質問者さんが哲学の何を知りたいか、でしょう。
そこを自ら明らかにすることで、もっとも納得のいく答えを得られるだろうと思います。
哲学の全容を余すところなく知りたいのなら、専門書を読まなきゃならないし、歴史も知っておいた方がいい。
でも、ただ意味を問うだけなら、辞書を引くのが手っ取り早いです。
哲学だからって、あまり難しく考える必要ないですよ。難しいに違いないという固定観念を排除し、真理に近づこうというのも哲学的なアプローチであるだろうと思いますしね。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

>哲学の何を知りたいかによるんじゃないでしょうか。

哲学にも種類があるのですね。
難解なのはそのジャンルはあるが、ジャンル分けされていない事でしょうか。


科学の中でも、飛行力学や物理学、またその中にも事細かに明確に学問のジャンル訳がされています。
文学と言う曖昧なものでも、恋愛もの、ノンフィクションやサスペンスなど多くのジャンルがあります。

しかし、哲学は種類は沢山あるが、明確なジャンル分けがされていません。
分かりにくいのはそのためかもしれません。

お礼日時:2011/02/14 19:08

「在るものをあるがままに見る者は、思惑愛好家ではなく、愛知者、と呼ぶべき者、ではないのかね」


とソクラテスが言った。(とプラトンが書き残しているようですが。)
愛知者、知恵を大切とする者、知恵を求める者。さらには、知恵、とは何かを理解している者、の事であり。「哲学者」と翻訳されたものです。
哲学者とは。
思惑愛好家=自己を中心に、物事を判断したり、評価したりする者。
に対する。自己を度外視して、在るがままに、その在り方、起こり方の法則性を知ろうとする者。の事であり。人の知恵を正しい思い込んでいる、学者先生や知識人、のことでは在りません。
知識と知恵は対立物でもあるのです。
思惑愛好家にとっては、知恵=知識 でもありますが。哲学者(もの)にとっては
知恵×知識=一定 と捉えられる。
脳の能力が一定なら。知識が大きくなると、知恵、自分で考える能力が小さくなる。というような考え方です。古代インドの釈迦や古代中国の老子はそう考えています。
哲学の専門書を読まなければならないほど哲学は難解なものか?
その前に、ソクラテスが言う、思惑愛好家、とはどういう人達か。具体的に誰のことか。というのも課題になり得ます。
ソクラテスの言うことなど、聞く耳たず、ギャーギャーとがなりたてる、ニ-チェが「一人の聖者が一羽のガチョウと結婚したと・・」と表現する。ソクラテスの妻、として有名な、彼の古女房、また女性?のことか。
それとも、彼を告発し有罪にした、多数派の大衆か。
それとも、在ると言えないものを、存在する、と信じている。ユダヤ人、ユダヤ思想の事か。
となります。西洋において、キリスト教の登場は、ギリシャ哲学に追いやられていた、ユダヤ思想の復活
、であり、ギリシャ哲学の復興の意味がある。ドイツ哲学は、反ユダヤ思想となり。
反ユダヤ思想の意味をはき違えている。では澄まない、アウシュビッッの悲惨。の伏線の一つではあるでしょう。
そして、哲学は、マルクス主義と共に、マルクス主義が哲学そのものを道連れに滅んだ。現代は哲学のない時代(ユダヤ思想万能の時代)になっている。というのは。私見です。
思惑とは、自己の心を主体に、思いや考えを巡らす事、いわゆる、人の心、と言えるものであり。
知恵は、その逆のもの、
知恵=心であるとともに、知恵×心=一定 の意味があり。
心を小さくする、心を滅するなら知恵が起こる。心=欲望 を小さくするなら、知恵が大きくなる。
と捉えるのが。哲学者である。とする事も出来。それが釈迦や老子の基本的認識でもあります。
古代ギリシャ市民の知能は、異常に突出している。イギリスの心理学者(誰だったか忘れましたが)
古代アテネ市民と現代イギリス市民との知能の差は。現代イギリス市民と熱帯で原始生活をしている人々との差より大きい。書いていたようです。
そんな?西洋思想、西洋哲学の専門書を読んで、哲学が解りますかね?私は失望しましたけど?
近代になってなお、「愛とは」「(神の)実体とは」などとやっているのです。
知恵とは=哲学とは であり。
一つの答えは、知恵=考え方 理法 方法論を体得する事。となるものです。
それは、自分で考え、会得するか。それを教えている、哲学者を見抜けるか。ではないでしょうか。

こんな事を考えたことはありませんか。
算数で、縦の長さm×横の長さm=面積m^2 と教わった時。
長さと面積の関係、面積、m^2、とは何か、
長さ、ではない、長さとは別のものである。しかし、長さが含まれないわけではない。
というような事です。
縦の長さを、始めにある在るもの。定立と置き
横の長さを方向が違うもの逆の長さ 反定立と置き
両者が一体となると面積になる 統一
面積とは、長さが、否定され、保持されているが、別のもの、に成っており。より高次の単位になっている。これが止揚と翻訳されている言葉の意味であり。算数の在り方は
定立×反定立=統一×止揚 となります。
これが、西洋哲学に始めて登場した、考え方、とも言われる。へーゲルの弁証法。と言われる考え方です。算数だけでなく、変化の起こり方、法則性と見た訳です。
へーゲル以後。ドイツ人は頭がいい。と言われるようになり。それは、当たっていた。神だの、愛だのと言っている。欧米諸国の人々より、一段国民の平均知能は、高まっていた。のです。
そして、へーゲル左派、右派、と言われる。マルクス主義とナチズムが。ドイツ哲学を台無しにした。と言えるのでしょう。長くなり、ページがなくなりました。ので切ります。がへーゲルの弁証法は、とっくの昔に老子が言っており。マルクス弁証法、対立物の相互浸透、質から量、量から質への転換、否定の否定、
という、のは、囲碁の考え方です。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

>知識が大きくなると、知恵、自分で考える能力が小さくなる。というような考え方です。

それは分かる気がします。
ただ、知識は道具と同じで、道具に振り回されなければ問題ありません。
しかし、道具を沢山持っている人ほど、器用貧乏になりやすいのは確かです。

一番疑問なのは「そう言う事を言っている人に限って、知識に貪欲だ」と思います。

釈迦や老子が本当に無知識な人間だったのか、甚だ疑問です。
知識が多いからこそ、知る事の出来た領域だったのか。それなら、それはただの御謙遜と言うものではないでしょうか。



>古代アテネ市民と現代イギリス市民との知能の差は。現代イギリス市民と熱帯で原始生活をしている
>人々との差より大きい。書いていたようです。
>そんな?西洋思想、西洋哲学の専門書を読んで、哲学が解りますかね?私は失望しましたけど?

そうですね・・・。
そこまでのレベルまで言ってしまうと、「一生かけてやるもの」になります。

お礼日時:2011/02/15 23:53

 自分は、純粋な理系です。

なので以下は、一般論です。

>質問1
>哲学の専門書を読まないと分からないほど、哲学とは難解なものなのでしょうか?

 これは、何をやってようと同じだと思います。何か、現実に応用できるような事をやろうとすれば、専門書を読むしかありません。専門書を読まなくても、現実に応用できるような事は、ほとんど全てなされているからです。哲学の場合、それが自分個人にも関わるので、そういう感覚が沸きずらいのだと思います。

 哲学というよりも、専門書が難解です。でも難解な理由は、一般常識に含まれない事が書いてあるという、単純な理由だと思います。ここから専門バカも生まれますし、その道一途の聖人も生まれます。


>質問2
>「そもそも昔は科学も文学も哲学の一部だった」というのが本当なら、今となっては、「科学」「文学」「歴史学」など数多くの学問カテゴリーがありますが、それら全てに該当しない学問が「哲学」と呼ばれるのでしょうか?

 これは古代ギリシャ自然哲学の特殊事情だと思います。まぁ~、特殊と言っても、全世界の四大文明はみな、似たような事はやってた訳ですが。そこでの共通態度は、「自然と人間は一体のものである」だと思います。

 という事は、自然を知る事は、人間をより良く理解する事につながるわけで、だからこそ古代の哲学者達は、自然哲学を好んだ訳です。自然と人間は別物、もしくは対立するものと捉え出したのは、ヨーロッパにおいても実は、近代以降の比較的新しい考えだと思います。しかしこの考えは、産業革命という実利的効果も手伝っだって、今や全世界を席巻しようとしています。その過程において、「科学」「文学」「歴史学」などは、産業と大学の組織的結びつきによって、自然哲学から学問的に分離され、組織的にも分業体制が出来ます。

 自分は近代以降の人間ですから、この組織化/分業化は、基本的/論理的に正しいやり方だったと信じています。弊害は、もちろん沢山ありますが・・・。


>質問3
>哲学とは何ですか?

 自分の意見では、「それら全てに該当しない学問が「哲学」と呼ばれるのでしょうか?」では、ありません。一見そう見えますが自分の意見では、「哲学」とは「人間学」です。今まで言った経緯により。物理や数学などの、いわゆる自然科学的要素のいっさいをそぎ落とされた、純粋な人間学、「人はいかに生きるべきか?」を考える学問ではないでしょうか?。自分は、そう信じたいです。

 これも思うだけですが、マックス・ウェーバー,キエルケゴール,ニーチェ,ソシュール,シモーヌ・ヴェイユ,ピーター・ラトッールなどの一般啓蒙暑を読むと、そう信じたくなります。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。


>「哲学」とは「人間学」です。

これは分かりやすい一言ですね。
「人はいかに生きるべきか?」を考えた学問とも言えると思います。

そのためか、作者の生きた時代背景によって考え方に偏りが見られます。
中には今の時代でも活かせる事を言っている人も少なくありませんが、到底理解できない事を言う人も多い。それを「難解」と思い込んでいましたが、もしかしたらその時代に生きていたら容易に分かる事なのかもしれません。

お礼日時:2011/02/16 00:04

No.4です。


お礼有難うございました。
お礼で言及されたことでお答えできるものがあるかと思い、再度回答させていただきます。

哲学もジャンル分けは実はあるんだろうと思います。
例えば、分析哲学、倫理学、美学、法哲学、宗教哲学、教育哲学などがあります。
ただ、飛行力学や物理学などがあまり一般の人になじみがないように、哲学に関心のない人には哲学のジャンルもまたあまり知られていないということではないでしょうか。

それでも、科学は哲学よりまだ分かりやすく感じます。
ただ、それはおそらく義務教育で習うか否かの違いじゃないかと思います。
哲学を中学や高校で必須科目として学ぶようになれば、哲学のわかりにくいという印象は変わってくるんじゃないかと思いますよ。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。


>分析哲学、倫理学、美学、法哲学、宗教哲学、教育哲学

おお、こんなに哲学の関連学問があったのですね。言われてみると「そういえばそうだ」と思いました・・・。お恥ずかしい。


なんとなく「つかみ所の無い難解な学問」だったのですが、ジャンル分けされると分かりやすく感じます。不思議な錯覚。

お礼日時:2011/02/16 00:10

若輩者ですが・・・



まず質問3から答えると
広義的に 哲学=考えて、そこから諸々の法則(事実)を導くこと ではないでしょうか
例えば、
かのデカルトは懐疑論(=あらゆるものに対して疑いをもつ考え)の末、疑いを抱いている自己の存在を疑うことはできないという”我思う故に我あり”の法則を生み出しました。

続いて質問2なのですが、
昔の学問が進んでいない状態では「科学」「文学」「歴史学」などのカテゴリー分け自体が存在せず、
全て先ほど述べた哲学の定義の中に組み込まれていたと思います。
しかし、
"現在でいう哲学"以外の学問は普遍的な事実・法則の積み重ねにより、
内容が高度化し細分化されることで人々が複数の学問をまたがけできなくなって、
一つのカテゴリーとして独立せざるを得ない状況になる一方で
"現在でいう哲学"の内容、つまり 善悪とは? 人間とは? 国家はかくあるべきか?
といったものは人や宗教や時代によっても考えが異なり、普遍的な事実・法則を導くのが他の学問と比べると圧倒的に難しいためにおおきく発展することがなく、哲学の枠内に留まったのだと考えられます。

余談ですが、昔の学者(ダ・ヴィンチも然り)がだいたい数学、神学、哲学、文学、医学など複数の学問をこなしているのも、内容がまだそれほど高度化しておらず他の学問にも手を出す余裕があったからなのかなぁとおもってます。

最後は質問1ですね
これは、結局"現在でいう哲学"が答えが出ず取り残されたものを扱っていることに起因していると思います。そういったものは、人によって答えがばらばらなだけでなく、真っ向から対立しているように見える答えなのに、どちらも筋が通っている なんてこともざらです。
質問2でも少し触れましたがそんな中から普遍的な事実・法則(答え)を導くには、あらゆる方法・視点から物事をとらえなければならないため、専門的で難しくなるのはある程度必然だとおもいます。

以上で終わりですが、個人的に、哲学的な問題に取り組んでみて物事を考える姿勢を日々意識することが"現在でいう哲学"にとっての大きな意義だとおもっています。
もうご存知かと思われますがNHKのハーバード白熱教室はその点で素晴らしいものなので、NHKオンデマンドなどで是非見てほしいです。お節介ながらURLを貼らせていただきました。

長文&駄文を失礼いたしました。

参考URL:https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010600391PA0 …
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

>NHKのハーバード白熱教室はその点で素晴らしいものなので、NHKオンデマンドなどで是非見てほしい
>です。お節介ながらURLを貼らせていただきました。

「殺人に正義はあるか?」というタイトルが目に留まりました。凄く観たい;
流石一話目。力の入れ具合を感じます。

お礼日時:2011/02/16 00:18

1.哲学の専門書は、過去の哲学を記録した歴史の学です。


  批判するために読むのは勝手ですが、それを読んだから
  といって哲学をしたとは言えません。
  そもそも出来合いの文を読むのが難しいようでは、過去に
  解けなかった課題を自らの思索で挑むのは、不可能です。

2.正確には「特定の対象を有するものが分派した後の残り」
  なので、「既存の学問カテゴリーに属さない」だけではなく、
  「限定的(かつ固定的)な対象をとらない」と言うべきでしょう。
  「学問」のカテゴリーは、社会的に生業となるかどうか、と
  いうフィルターがかかっています。

3.この世界の情報に、哲学だの物理学、生物学だのといった
  区分はない。1つの「認識の深まり」の一環として、哲学を
  考える時、そこに真の哲学はある。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。


>批判するために読むのは勝手ですが

批判されると言う、先入観をお持ちでしょうか・・・。
誰も、批判しようなどとは思っていませんよ。ご安心ください。

お礼日時:2011/02/16 00:23

僕の思いつく回答は以下のとおりです。


回答1
哲学は本当は簡単なものと思います。しかし哲学者は誤解や曲解を防ぐため難しい言葉を使います。
本を読まなくても哲学はできます。しかし先人の本を読んでアイデアをもらうことで、自分の考えをまとめやすくなり自分の考えを表現しやすくなります。
回答2と回答3
哲学は抽象的なものを具体的に分かりやすく示す行為をさすと思います。
抽象的なことは当然ながらそれに等しいモデルはありませんが、ああでもないこうでもないとモデルを探すことが哲学の醍醐味だと思っています。まるで存在しない宝を探しに世界中をまわり旅をしていることに似ています。宝が重要なのではなく世界中をまわり経験したということが人生を意味のあるものとしていくと思います。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。


>宝が重要なのではなく世界中をまわり経験したということが人生を意味のあるものとしていくと思います。

むしろ、その経験が宝でしょうか。

お礼日時:2011/02/16 00:27

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