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人間には色々な場面で悩みが付き物なのですが、これって考えてみると、困難な問題でも自分で判断し決断しなければいけないから悩むのですよね?

つまり右に行くか左にするか、どちらが良いか分からないのに自分で決断しなければいけないから、悩みやストレスが生まれるのだと思います。

だとすれば、何でも良いのですが、ある特定の宗教を強く信仰している人は 「これは神(あるいは仏)が決めた事だから仕方ない」 と考え、全て成り行きに身を任すのであれば、悩みとかストレスとか関係の無い人生を送っていると考えられるのですが、実際どうなのでしょうか?

よく人生につまずいた人が新興宗教に嵌りやすいと聞きますが、信者になって何か胸のつかえが取れるから嵌るのではないかと思うのですが ・・・

例のオーム真理教も未だに信者が離れないと聞きます。

強く信仰している信者には、悩みやストレスなど無く、みんな幸福なのでしょうか? 何か大きな失敗をしても 「神の思し召しだ、仕方無い」 と、スパッと諦めがついて後悔する事など無いのでしょうか?

もし、どんな宗教の信者でも悩みやストレス、それに後悔から解放されないのであれば、宗教を信仰する意味が無くなるように思うのですが ・・・

ちょっと気になったので質問してみました。 あ、それと私は特定宗教の信者でもありませんし、また勧誘するような立場でもありません。 一般論で結構ですので、ご意見を伺いたいと思います。

A 回答 (19件中11~19件)

有るか無いか、てのはデジタル的思考


過ぎるように思います。
軽減できるか、どうかではないでしょうか。

心の底から、一点の曇りもなく、100%
信じていれば、悩みとか苦悩は無くなるかも
しれませんね。
でも現実にはそんな人はいないと思います。
50%信じているとか、70%ぐらい、とか
でしょう。

こういう人は、或程度軽減されるのだと
思います。
以前、新聞に書いてあったのですが、宗教を信じて
いる人とそうでない人とでは、寿命が10年違う
という調査結果が出た、ということです。
これなどは、苦悩や悩みが緩和された結果では
ないでしょうか。
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この回答へのお礼

有難うございました。
ゼロか100かではなく、信仰する事によって悩みが50になると考えられるのですね。
なるほど、これは納得できる話だと思いました。

お礼日時:2011/05/11 11:37

普通の人間として、哲学云々と大上段の回答などできませんが・・。


(この場合、自分のためだけの信仰に限定します。)
<<どんな宗教の信者も苦悩から解放されないのなら信仰の意味がないのでは?>>
この事だけをとらえた考えでは正にその通りですね。
でも、なんとか脱出しようと藻掻いている姿が信仰する姿ではないでしょうか。
例えば、
蚊に刺されたとします。普通はボリボリ掻いて暫くすると痒みは治まります。
が、しかし、何かの理由で掻くことが出来ないとします。
でも暫くすると痒みは治まります。
この痒みが「悩みやストレス」であり、ボリボリ掻く行為が信仰だと思います。
結果はどちらも大差ないことになります。
あまり強くボリボリやって、掻きむしり、化膿したりすると世の中を騒がす事
になりはしませんかね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
痒いところを掻く掻かない関係なく、いずれは痒みが止まってしまうのであれば、どっちの道を行こうとも「結果」としては同じ場所にたどり着くという事になるのでしょうね。

そうなると、宗教はその時の潤滑剤のような働きをすると考えるべきかなと感じました。

お礼日時:2011/05/11 11:36

仏教の場合、究極は悩みや後悔が無い世界があるようです。

その世界を涅槃寂静と言います。

その世界に達するためには、ただ、強く信仰すれば良いかというと、そんな簡単なことではなく修行をする必要があります。

人生は短いので、その修業を終了するまえに大抵の人は寿命がつきて死んでしまいます。
その為、涅槃寂静の世界に達する為には、出家といって、俗世間の一切の物事を割愛し、与えられた人生の時間すべてを修行に使わないといけない程、大変らしいです。

涅槃寂静に達するだけの修行をしない人間は、仏教に入信する意味はあまりないのではないかと、個人的には思います。
そこまでの修行をしないなら、他の葬式宗教でも良いかもしれません。
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仏教の場合、究極は悩みや後悔が無い世界があるようです。

その世界を涅槃寂静と言います。

その世界に達するためには、ただ、強く信仰すれば良いかというと、そんな簡単なことではなく修行をする必要があります。

人生は短いので、その修業を終了するまえに大抵の人は寿命がつきて死んでしまいます。
その為、涅槃寂静の世界に達する為には、出家といって、俗世間の一切の物事を割愛し、与えられた人生の時間すべてを修行に使わないといけない程、大変らしいです。

涅槃寂静に達するだけの修行をしない人間は、仏教に入信する意味はあまりないのではないかと、個人的には思います。
そこまでの修行をしないなら、他の葬式宗教でも良いかもしれません。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、仏教には悩みや後悔が存在しない世界があるのですね。
とてもつらい修行をするのはそのためなのですね。
ただここで素朴に疑問に感じるのが、実際にその世界や境地にたどり着いた人はいるのかという事ですね。
たとえば、どこかの大きなお寺の住職さんとかでしょうか?
あるいは、歴史に登場するような有名な僧侶たちはその世界にたどり着いたのでしょうか?

もしそうなら、そのような人の毎日の生活はどうだったのか? 本当に人間としての苦しみや悩みが無かったのか? たとえば両親や兄弟など愛する人をなくしたとしても泣いたり後悔する事が無かったのか?
すみません、新たな興味が持ってしまいました。

お礼日時:2011/05/11 11:28

 こんにちは。



 宗教つまり組織宗教は知りませんが 個人の信仰のことでしたら たしかに一たん自分のいだいた難問が解決しますが(つまり 解決の道が示されますが) 悩みや苦労はかえって増えます。ほかの人びとのそれらをかかえることになりますから。
 より大いなる悩みをどうしようもなく自分のものにする人には――ぎゃくに言えば―― 強い信仰が与えられるのかも知れません。
 世界中の悩みを背負って行く人も なかには いましょうか? どうでしょうか?
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この回答へのお礼

有難うございました。
そうですねえ、信仰する事によって更なる悩みを抱えるのであれば、逆に信仰などしない方が良いのでは? と感じるのですが・・・
私の宗教に対するイメージとしては、自分を取り巻く様々な悩みから解放されたいと願って新たな人が門を叩くというものなのですが、実際は違うのでしょうか?

お礼日時:2011/05/11 11:23

 宗教には、正教と邪教があります。



 区別の仕方は、一般的常識から考えれば、「法律」を超える違法があるものが邪教としてわかりやすいです。

 宗教は、悩みがなくなるのではなく、悩みを超える人格成長を促すこともあります。
 ですから、逆に、いろんなことが、無意識で無視してたものが、悩みとして、自覚したりしますよ。
 その壁を乗り越えていくところに、力があると思います。
 人格成長を促す部分が大事だと思います。
 人間には、仏性など、尊い部分があり、そこを意識して出していくというのが大事でしょう。

 また、宗教をしてない人などには、親は神よりも優先し大事にすべきという言葉を聞いたことがあります。
 また、親の言うことを聞けない人は、持った知識も使えないとか聞きますね。親子関係の態度で反発ばかりしてる態度が、どこに行っても出てくるのでしょう。反論ばかりしてる人や批判ばかりしてる人をたまに見つけますが、納得しますね。
 宗教に入る人の中には、親に問題があり、愛情という肥やしを与えられてない人をたまに見ます。

 現代は、分裂し、家族関係すら細かくなり、より分裂している状態であり、ずいぶんと家族関係が壊れた状態が多く、この根本が人の育つ土壌だと考えると、いろいろ問題が深く存在してると思いますね。

 仏教などは、誰の中にも仏性があると説かれて、人の中にも、自分の中にも、それを見るという人間尊厳の生命観がありますよ。
 また、心の中の思いも、大事だといいますね。
 よく、親は子供が考えてることはわかるといいますが、、あれは本当ですよ。
 人の中に、仏の命があるとききます。

 手塚おさむの「ぶった」の中には、アジャセ王の話が出てきますが、、そのアジャセが笑った笑顔をみて、人の中に神を見るシーンがあります。
 結局、自分の中にあり、また、人の中にもある「神聖な」部分にきづかされるのが、宗教、正教にはあると感じます。
 正教を邪教は区別したほうがいいでしょう。
 もしかしたら、笑顔は神聖なものなのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
> その壁を乗り越えていくところに、力があると思います。人格成長を促す部分が大事だと思います・・
という事は、入信し修行する事で様々な悩みから解放されるのではなく、悩みに耐えうる「精神力」が身に付くという考えるべきなのでしょうか?
この辺をもう少し知りたいと思うのですが・・

もしそうなら、例えば自爆テロを起こす一部のムスリムは一体どういった精神状態だったかなと思います。 自爆する瞬間、幸福の絶頂にあったのでしょうか?

お礼日時:2011/05/11 11:19

はじめまして。


 
何かの宗教を信仰していても、悩みやストレスはあると思います。
私の知人の女性で、誰もが知っている新興宗教の信者がいますが(本人は「宗教ではない」と言うが、世間では宗教と見られている団体です)、ご主人の浮気で悩んでいたことがありました。
この場合、ご主人が浮気をあきらめてくれない限り、悩みそのものが消えるわけではないですよね。
知人にとってみれば、信仰が問題そのものを解決してくれるわけではないとわかっていても、宗教団体の先生(?)の話を聴いたり、信者さんと話しあったりすることで、心の面で救われているのだと思います。
現実的な悩みの解決と、心の持ちようの問題では、対処の仕方が違うと思いますが、信仰は心の面を支えるものなのだと思います。
 
怖いのは、宗教にのめりこみ過ぎて妄信状態になり、本来の、自分の心や頭の動きが麻痺している人がいることです。
 
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、例えは辺ですが、知人の方にとっての宗教は人生相談、あるいは新宿の母のような占い師といった存在かも知れませんね。

で、私がさらに知りたいのが最後の部分なのです。つまり妄信して自分で判断能力が欠落してしまった人たちの事です。
当然、周りから見れば「洗脳されて可哀想な人」といった目線で見られると思うのですが、本人にすれば、家族など周りがどう思うと、幸福の絶頂にあるのではないかという事です。

妄信して判断力を失う事により、悩みやストレスから解放されているといった状態ですね。
本人は幸福なんだろうな、と思う事があります。
ある意味で、覚醒剤を打って意識が朦朧とし気分がハイになって、「ああ、いい気持ちだあ!」と言っているのと同じかも知れませんが。

よく家族を捨てて新興宗教の集団に入ったり、平日なのに小学生くらいの子供を連れて、家を一軒ずつピンポーンとやって勧誘する女性がいたりして、明らかに「洗脳された宗教被害者」に見えるのですが、本人はそれなりにあんな事をして幸福感を味わっているのかな? と感じる事がよくあります。

お礼日時:2011/05/10 16:09

宗教を強く信仰している人には悩みや後悔がないってことはないと思いますね。


人並みに悩みや後悔はあるでしょう。
むしろ、人生に対して悩みや後悔が強い人ほど、宗教に没頭しやすいように思います。

ただ、悩みや後悔を解決する手段として宗教があるってことだと思います。
なので、悩みや後悔から受けるストレスは少ないかも知れませんね。

ですが、あまりに信仰が強くなりすぎると、今度は自分が求める理想の姿と現実との間にジレンマが発生してしまうので、むしろ悩みやストレスが強くなる場合だってあると思います。
結果的には、宗教が絶対的に人を悩みや後悔のストレスから解放してくれるってことはないように思いますね。

宗教は、最終的には人にとって生きる意味みたいなものに過ぎないでしょう。人生に対する価値ですね。
人によってはそれが最愛の人だったり、家族だったり、仕事だったりするのだと思います。
そのひとつとして宗教があるだけで、根本的には他のものとそれほど変わりはないように思いますね。

ご参考まで。
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この回答へのお礼

有難うございました。
宗教心の強い人でも一応は悩みはストレスはありそうですね。
宗教はそういった苦しみから解放される手段ではなく、生きる意味になるべきなのですね。
この辺が私にはちょっと理解が難しいところです。

昔、十字軍の遠征をはじめ多くの宗教戦争がありましたよね。
で、戦地に赴いた兵士たちは自分が信仰する神のために命を捧げた事になると思うのですが、今の自称ムジャヒディンと称する自爆行為を行なうムスリムたちも、心の底から自分が死ぬことによってアッラーに近づける、天国に行けると信じて、ああいった行動に出ていると思います。

命まで捧げても構わないほど強い信仰心を持っている代表だと思うのですが、となれば彼らには悩みやストレス、それに後悔などという概念は脳の中に存在していないように感じます。

人間、いつかは死を迎えるわけですが、彼らは幸福の中で死んでいったと考えるべきなのでしょうか?

お礼日時:2011/05/10 15:58

宗教って心の隙に入り込んで来るようなものの気がします。


どん底の時にワラを掴もうとして宗教に入るんだと。
で、良いことがあれば宗教に入ったお陰だと。
悪いことがあれば信じる気持ちが足りないのだと。
ナニモノかのせいにして
「〇〇が△△しなかったから(したから)、結果こうなった。」
とナニモノかに寄り掛かって楽したいんですよ。
全て自分一人で受け止めるのはしんどいから。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、入信する事によって、ある意味「責任転嫁」できるメリットがあるのですね。
責任を転嫁する事によって、「自分は悪くない、全て神が決めた事だから」と、良い意味で開き直れるのでしょうね。
となると、やっぱり強く信仰すると幸福になるというか、悩みがストレスとは縁が切れそうですね。
ただ、それが良いかどうか、難しいところですが。

お礼日時:2011/05/10 15:50

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