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人間には色々な場面で悩みが付き物なのですが、これって考えてみると、困難な問題でも自分で判断し決断しなければいけないから悩むのですよね?

つまり右に行くか左にするか、どちらが良いか分からないのに自分で決断しなければいけないから、悩みやストレスが生まれるのだと思います。

だとすれば、何でも良いのですが、ある特定の宗教を強く信仰している人は 「これは神(あるいは仏)が決めた事だから仕方ない」 と考え、全て成り行きに身を任すのであれば、悩みとかストレスとか関係の無い人生を送っていると考えられるのですが、実際どうなのでしょうか?

よく人生につまずいた人が新興宗教に嵌りやすいと聞きますが、信者になって何か胸のつかえが取れるから嵌るのではないかと思うのですが ・・・

例のオーム真理教も未だに信者が離れないと聞きます。

強く信仰している信者には、悩みやストレスなど無く、みんな幸福なのでしょうか? 何か大きな失敗をしても 「神の思し召しだ、仕方無い」 と、スパッと諦めがついて後悔する事など無いのでしょうか?

もし、どんな宗教の信者でも悩みやストレス、それに後悔から解放されないのであれば、宗教を信仰する意味が無くなるように思うのですが ・・・

ちょっと気になったので質問してみました。 あ、それと私は特定宗教の信者でもありませんし、また勧誘するような立場でもありません。 一般論で結構ですので、ご意見を伺いたいと思います。

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A 回答 (19件中1~10件)

>人間には色々な場面で悩みが付き物なのですが、これって考えてみると、困難な問題でも自分で判断し決断しなければいけないから悩むのですよね?



ご説の通りだと思います。私はプロテスタントのクリスチャンですが、激動する時代にあって、ご自分の力だけを信じて、真っ暗な海に放り出されて荒波を超えてゆくようなのが人生ならば、その人生は極めて心細いものと思います。私はしばしばクリスチャンで無い方々の中に実は尊敬に値する行いをしている方々をより多く見出します。

一方クリスチャンは日々の生活を神により与えられたものとして受容しておりますので、心配事や悩み事を神にあずけて、知らずに危険なことをしている場合があります。それがたとえば人のためであるとしても、それはクリスチャンにとってなにか誇りではございません。自分の力で行っているわけではないからです。

>悩みとかストレスとか関係の無い人生を送っていると考えられるのですが、実際どうなのでしょうか?

悩みやストレスがないという世界からは程遠いと思いますが、もしクリスチャンとしてイエスキリストを知ることがなかったら、おそらくその悩みやストレスは地獄の苦しみだったのではないかと思います。若い時に突然イエスキリストに出会って、イエスキリストのように生きてみたいと決断した時のことは30年以上たった今も忘れることができませんが、それは大きな悩みの世界から大きな歓喜の世界に突然移された体験です。自分の力ではないと思います。聖書では「人にはできないが神にはできる」という世界だと思います。しかしながら悩みやストレスが無いということはキリストの世界を知らない方々に誤解を与えてしまうと思います。つまり聖書では次のように述べています。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

これはイエスが死ぬ前に語られたことであり、その弟子たちにとっても自分の命が失われるかもしれない状況で語られています。

>もし、どんな宗教の信者でも悩みやストレス、それに後悔から解放されないのであれば、宗教を信仰する意味が無くなるように思うのですが

その通りと思います。死に直面した時に平静でいられるかどうかということは非常に重要なことですが、実は少しばかりのことですぐに動揺してしまうものとしては、大きなことが言えません。ただしクリスチャンの喜びのある部分が実は自分が死んでゆくということに起因していると気づくことがあります。家族やこの世のもろもろの事柄を後に置いて旅立つということはさびしいことですが、と同時に喜ばしいことと感じてしまう感情を湧いてくることを抑えることができません。

ご質問者さんの多くの疑問にこたえるために教会があり、牧師がおりますので、尋ねてみてください。
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この回答へのお礼

有難うございました。
クリスチャンの方からご意見を頂いて感謝しています。
実は10年ほど前、子供が通っている学校の教育の一環として、子供と一緒に近くの教会で行なわれている日曜礼拝に参加した事があります。たしかプロテスタント系だったはずです。
初めてだし、一度だけ礼拝すれば良いという学校側の指示だったので、一番後ろの席に座って牧師先生のお話を伺っていました。
最後の方になって、先生の方から「今日は新しい参加者が来られています。〇〇兄をご紹介します」と言われて、思わず立ち上がって挨拶だけしたのですが、何だか新しい信者と誤解されたのかなと心配になった記憶があります。
その後、教会に足を運ぶ事は無くなったのですが、本当、機会があればキリスト教に対する素朴な疑問とか質問を牧師先生にしてみたいのですが、何だか敷居が高くて二の足を踏んでいます。

昔、マザーテレサに関する報道を見て、「こんな事をできる人がいるのだあ」と深く感激した事があるのですが、もしかすると、本人は神から与えられた「使命」と考えておられたのかなと思います。
貧しい国の、しかもその国の最も貧しい地域で一生を奉仕活動に捧げるなんて普通の人間には到底出来ないと思います。
もしかすると、マザーテレサご自身が神だったかも知れないなと今思っています。

大変、失礼致しました。

お礼日時:2011/05/11 14:03

#6です。



>どこかの大きなお寺の住職さんとかでしょうか?
>あるいは、歴史に登場するような有名な僧侶たちはその世界にたどり着いたのでしょうか?

大きなお寺というのが、門徒が多いとか、敷地が大きいとか、本堂や仏舎利塔が大きいという俗世間の尺度であれば、そこの住職ではないでしょう。そこの住職は政治家かビジネスマンである可能性が高いのではないでしょうか。

歴史といっても、俗世間の歴史に登場する人物であれば、出家しきらない生臭坊主=政治坊主でしょうから、この手の坊主でもないでしょう。

やはり、涅槃寂静に達した坊主は、出家のなかでも本当に出家した坊主で、俗世間の歴史に名を残すような俗物では無理だと信じますが、はたして真相はいかに?
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、規模も門徒も多い有名寺院の住職さんは、宗教家というよりも政治家とかビジネスマンと同じような存在になるのですね。
純粋に修行の道を歩んでいる僧侶は逆に有名になるのを避けるかも知れませんね。
とても勉強になりました。

お礼日時:2011/05/12 11:27

>入信して悩みはどうなったか? という事ですね。


>どうなんでしょうね?

自己の認識において派生する宇宙において、原理的本質に遡れば、
この世界は自己の認識が成立するための必要(自我仮説(経験=
過去=時間)と時空仮説(予測=未来=空間)の相補分化)であり、
本来、悩みなどありようがない。

その自己の認識の中の存在性(宇宙)の、さらに部分に過ぎない
肉体に、自己認識を矮小化し、あまつさえ生存の社会性の自覚
(愛)まで見失って、自己チュー化するに及んで、勝手に悩んで
いるに過ぎない。

その、自己存在の本質に背いた意志による、自己矛盾から派生
する苦悩を、本質的に解消せず、まだ矮小な即物的自我のまま
“全知全能の第一原因”に丸投げすることでも、安寧は得られる
のも事実だろうが‥‥割れ鍋に綴じ蓋(妄想に幻想)。
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この回答へのお礼

有難うございました。
私にはかなり難しいお答えだったのですが、理解できるよう頑張ります。

お礼日時:2011/05/12 11:24

>例えば次のような例はどうでしょうか?


一人で出発するのがベストですが、うつになるような人は、他人と自分を切り離すことが出来ません。
あと行動力がない。(先の回答の例外事項を参照してください。)

不幸の原因は、なんでしょうか。
合理的に見ると
>「営業」「職」の「会社」「員」「上司」などの「関係」が
不幸の原因です。

営業を職業として選択した自分には打算があります。
やむを得ず職業の選定を行ったのだとしても自己の能力を無視して
金さえ儲かればよいという打算です。金がたくさんほしいという考え。

会社は社会のひとつです。社会問題というのがあります。
「員」とは、食いブチを表す、「人間を経済的価値としてしか見ない立場・哲学」の現れです。
営業という行為を通じて自分もそこに属し、他人をそこに引きずり込もうと決意したのは、その人個人です。
誰が決めたわけでもありません。
あと
上司が原因です。

以上から、この事例だけを分析してみると
つまりこの事例に限定すれば宗教は不幸の原因足り得ないということです。

うつが、 悪化する前に転職するべきであった のであり、個人の失敗です。
しかし宗教では「お前のせいである」とは言わないでしょう。そういうものだと思います。
そういう点が非合理的であると述べた具体的内容です。
心ある宗教家なら優しくしてくれるはずです。

宗教は、悩みを解決するためにエネルギーの滋養をしてくれるといったほうがよいのでしょうか。
伝統のある宗教の場合、知恵の源泉となる可能性もあります。
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この回答へのお礼

有難うございました。
何度もお答え頂き恐縮です。
他の回答者様のご意見にもありましたが、やはり宗教とは悩みを根本から解決してくれるものではなく、自力で解決しようとするエネルギーの滋養源という存在と考えるのが適切なのでしょうね。
何となく理解できたように思います。
有難うございました。

お礼日時:2011/05/12 11:23

創価学会の者です。



悩みのない人生はない。活動においても、仕事においても、生きることは、ある意味で、悩みの連続である。それらを全部、幸福の原因に変えられる不思議の法が「妙法」である。
商法、刑法、民法など多くの法がある。それらは人間が作ったものである。これに対し、妙法は宇宙と生命の「永遠不滅の法」である。この法に「幸福の秘術」がある。
ゆえに、うんと苦労することである。悲しみは避けられない。苦しみは避けられない。戦いは避けられない。避けずに進む以外に、「幸福」は開けない。
「弱いということは、みじめだ。何をするにせよ、されるにせよ」と、ミルトンは『失楽園』に書いた(第一巻)。
弱き人は不幸である。自分も堂々と生きられず、周りも苦しめ、卑劣な敗北の人生となってしまう。
信仰とは「強く」、更に「強く」なるためのものである。

(1994年3月5日、本部幹部会における池田名誉会長のスピーチより)

我々も、日蓮大聖人が「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(御義口伝)と仰せになっているように、「信」を強くして日蓮仏法を実践しています。そうしないと、功徳は出ないからです。

しかしながら、それでも悩みが消えてなくなるというものではありません。信仰すれば悩みが消えてなくなるという、そんな宗教はインチキです。池田名誉会長も、「悩みが生じること自体が不幸なのではない。悩みに負けてしまう弱い心こそが不幸なのである」という旨の指導をされています。

真の信仰とは、人生の上で次から次へと挑みかかってくる「悩み」に負けない、強き自分を確立するためのものです。悩みから逃避するものではない。そして、悩みをねじ伏せて自分を幸福に導いていく。すべては自分です。自分で決まるのです。

そういう強き自分を確立できれば、何も恐れるものはなくなる。そういう宗教こそ、真の宗教なのです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、信仰するのは悩みから解放されるためではなく、悩みに打ち勝つだけの強い精神力を養うのが目的なわけですね。
たしか聞いた話ではキリスト教でも「扉を叩けよ、そうすれば救われる」といった言葉があったように思います。
自分で何もしないで、ただ神や仏が救ってくれるのを待つだけというのはダメなのでしょうね。
とても勉強になりました。
有難うございました。

お礼日時:2011/05/11 14:41

 逆に無宗教の人と話していて、ギャップを感じるのは「自分の弱さ」をどうとらえているのか?ある人には「誰でも弱いままではこの社会では生きられないよ」といわれていて、確かに実際に、社会の中を弱い自分で生きることに苦痛を感じている人も多いようです。

悩みやストレスがあってもそれなりに仕事や家庭生活をまっとうできる人たちはまだいいのでしょう。

 「弱いままでは生きられない」というこの社会、心的に疲れている人に「がんばれ」とは言わないでという意見もありますが、がんばらないでまっとうに生きていける社会なのでしょうか?宗教をもっていても、社会に接触すると自分の弱さがヒリヒリと痛むことが多々ありますが、それでも何とか生きていくための日々の修行のようなものからはたぶん逃げられません。(後になって確かにそれも必要で有益だったなと思えるようにはなりますが)

 みなさんそれぞれに形は違っても生きるための宗教(拠り所)は絶対に持っているはずで、特定の宗教を特別視する必要もないと思うのですが、(世界を見渡してみても) 無宗教って何も信じないことですか?

 弱いままでは生きられない。鎧を身につけたり、徒党をくんだり、依存したり、誰かに頼ったり、もっと弱い者をいじめたり、宗教を持ったり、区別は必要でしょうか?宗教に頼れば本当に楽に幸福に生きられるのか?ただ逆に次々と人生の問題が生じてくることが、まさに聖書の一節のように、「当座は益とは思われないが」ということの繰り返しのような日々です。弱いままでも生きられる社会ってどこかにないでしょうか?
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、凄く意味深いお話だと感じました。
おっしゃるように、人生そのものが修行というか宗教活動になるのかも知れませんね。
私は質問分に挙げましたように特定の宗教を信仰していませんが、興味はあります。
信仰する事によって心が救われるとか、悩みから解放(完全ではなくても、せめて50%でも解放)できたら、信仰する価値があるのではと思っておりました。

報道では自分の命を捧げても構わないと考える自爆テロが後を絶たないようですが、他人をそこまで洗脳(?)する事が可能だという事に驚きます。
私などは「財産を放棄しろ」と言われても頑迷に抵抗するでしょうし、「神のために命を投げ出せ」と言われても、「命より大事なものはこの世に存在しない」と考える私なら、まず拒否して逃げ出すでしょうね。
宗教に興味があるのですが、これと言って納得できる宗教に未だに巡りあっていないのも無理はないですね。

お礼日時:2011/05/11 14:23

あなたが ほほえみを 少しわけてくれて


わたしが ひとつぶの 涙をかえしたら
そのときがわたしの 旅のはじまり
ひとりじゃないって すてきなことね
あなたの肩ごしに 草原も輝く
ひとりじゃないって すてきなことね
いつまでも~~ どこまでも~~


縁側でアルバムを開いては  
私の幼い日の思い出を
何度も同じ話くりかえす  
独言みたいに小さな声で
こんな小春日和の穏やかな日は
あなたの優しさが浸みて来る

あれこれと思い出をたどったら
いつの日もひとりではなかったと
今更乍ら我侭な私に
唇かんでいます


ってな歌の具合なんでしょうね、宗教って。
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この回答へのお礼

有難うございました。
もしかしたら、宗教ってそんなに高い位置にあるのではなく、歌謡曲の歌詞にその真髄があるのかも知れませんね。

お礼日時:2011/05/11 14:05

悩みだらけ、後悔だらけです。


欲をかいた事は失敗し、欲をかかなかつた事だけは上手くいった。
そんなものです。
それでも、愚かな自分をいつも見守っていて下さる、と感じます。
信仰は、どんな事があっても帰れる心の故郷です。
それは人の意見に左右される事はありません。
不安も迷いも、そこに帰れば必ず答えが見つかります。
だいたい、その形は無理のない自然なものです。
客観的には拙い主観の世界と一蹴されようとも、全く構わないものです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
> 不安も迷いも、そこに帰れば必ず答えが見つかります ・・・
宗教がもつ魅力は多分ここでしょうね。

私も年に数回は近くの神社にお参りをします(と言っても氏子さんでも何でもありません、ただの近く住民です)が、お参りした後は不思議に心がスッとしたような感覚を持ちます。
表現は難しいですが、心の中にある良くないものを神様が取り払ってくれたような気分ですね。
少し子供っぽいかも知れないですね。

お礼日時:2011/05/11 13:44

基本的判断として



 合理的方向性で行くのか

 非合理的方向性で行くのか 決心する必要があるでしょう。

合理的方法論ということならお話できます。

まず、悩みの絶対数が少なければ解決の可能性はあります。

まず具体的な悩みを絞ってみる必要があるでしょう。

人生で悩みというのは、

1 お金を含む物質的な悩み

2 対人関係からの悩み

3 特別に自分の中の心理的なやみ に分類されるでしょう。

宗教を通じて悩みを解決しようというのは、物の悩みで行けば、
とりあえず百貨店に行けば何でもある。スタンダードなもの(回答)が手に入るというものです。

悩みが多ければ、解決にはそれだけ時間がかかります。買い物リストが文字でいっぱいに埋められている状態です。
ま とりあえず、悩み解決のプラットフォームについたという安心感が、悩みを解決するためにいい効果があるともいえます。

なやみカテゴリー1に関し

貯金・借金はいくらあるか考えてみてください。
いついつまでに50万円ためるとか目標を立て、宗教にお布施・組織セミナーに投資をしなくても、
信仰することができ、宗教の先輩に話を聴いて、具体的対策を立てることができるとするなら、
その宗教は、解決の糸口を与えてくれているといえるでしょう。

悩みカテゴリー2にかんし

一日に何人の人間にあっているかノートをつけてください。
10人以上あっている(心の交流がある)という場合、悩みがあるのは当然です。
解決は難しいかもしれません。

とくに「愛」がからむと 合理的解決は不可能です。愛というものは、歴史的な総合認証という客観的側面も持ちますが、
基本 非合理的カテゴリーです。ですから、前提に反しますので語りません。

逆に、「あい」について合理的な説明のできない宗教 アダムと イブ がでてきて うんぬん と馬鹿らしい御伽噺は、
宗教の信憑性というものを考えるとき 大事な指標となります。

愛情について質問してみて下さい。それはね 神様がね といいだしたら話を中断すればよいことです。

つまり、「質問者様個人」の話題にひきつけて話が進むかということに注意してみてください。

3について 一日に対面する人間の絶対数が少ないという仮定のうえで

基本的に「心が元気な人」もしくは「健全な自然」と一緒にいると解決します。食生活・姿勢も大事ですね。
言葉(普通言語)を使わないようにするのが味噌です。

まてめますと
金銭面・物質面・対人面での宗教的解決は望めます。
人間の内面については条件をここに考えていかなければなりません。
宗教をやっている人がこれをできるかできないかという点に集中し、検討してみてください。

宗教をやっていても幸せに結婚している人はいます。
宗教をやっていなくても幸せに結婚できている人もいます。
ようはそういう人に幸せのエッセンスは何かを伺ってみるということです。

体系的な哲学は、上記に順ずるものですが悩み解決の実践という側面から、
個人の理解力・行動力という前提条件がありますから、なんともいえません。
また合理的な悩みしか解決できないという欠点もあります。
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この回答へのお礼

有難うございました。
ふむふむ、とジックリ読ませて頂きました。
悩みには色々なパターンに分類されるわけですね。

例えば次のような例はどうでしょうか?
営業職の会社員が上司との関係が悪く、もう会社を辞めたくて仕方ない、ところが年齢を考えると次の就職先などあり得ない、子供たちの学費はまだまだ掛かる、会社を辞めたら人間関係における悩みは解決するが経済的な悩みは残る、そしてそのはざまで悩んで悩んでついにはうつ病になった人 ・・・

このような人って実際多いと思うのですが、特定の宗教を信仰する事によって悩みは解決するのでしょうか?
もし解決するとしたらどのような形で? 仕事は? 家族は? 収入は? と疑問が深まるばかりです。
責任感の強い人ほどこのパターンに嵌りやすいように思います。
このような人の場合、もしかして仕事も家族も全て放り出して、一人で蒸発するのがベストなのでしょうか?

お礼日時:2011/05/11 13:40

現象的には逆で、「悩みがあるから入信する」


というパターンも多いようです(救いを求めて)。
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この回答へのお礼

有難うございました。
そうですね、私もそう思っておりました。
で、知りたいのが、入信して悩みはどうなったか? という事ですね。
どうなんでしょうね?

お礼日時:2011/05/11 11:40

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Q結婚を誓い合った相手が宗教を信仰していたらどう思いますか?

結婚を間近に控えた友人の話です。

もうお式の日取りも決まっているのですが、先日彼の家におじゃましたときに初めて

・彼の家は家族ぐるみである宗教を信仰している
・結婚後は友人もぜひ会合など参加してほしい

と言われたそうです。
宗教は大臣も出しているメジャーな新興宗教です。
友人自身は無宗教ですが、これから大丈夫だろうかとひどく不安がっています。

私が同じ立場なら結婚を思いとどまるくらいの出来事ですが、同じような質問を検索したところ「好きになった人の信仰は尊重すべき」「信仰があるとわかった時点で避けるのは宗教への偏見だ」というご意見も多いようです。

本音でお答えいただければと思いますが、好きになった相手ならどんな信仰でも受け入れられますか?

Aベストアンサー

当事者です。付き合っているときに宗教のことについて言われたと思うんですけど、そんな改まった感じじゃなかったし、知らなかったこともあって、深く考えずに結婚を約束しました。

まず、結婚式が人前式じゃないとダメでした。わたしは無宗教(というか、全ての命やモノに神様が宿っている…というか、日本古来?の宗教観)なので、特に抵抗はナシ。

ただ、結婚してからは何かと苦労がありました。
まずはお葬式。お義父さんが亡くなったのですが、お葬式がわたしの今まで体験したのとは違って、来てくださった信者の方、みなさんでお経を読むんです。読めないわたしはすごい疎外感を感じました。かといって読みたいわけでもない…(読めと言われましたが、なかなか心理的に抵抗があり…数珠をもって教本開くだけで精一杯でした)いたたまれない感じ。お焼香に来られた方にも、正直ひいた、と言われてしまいました。
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お通夜のお焼香の時は、嫁は座ったらいけない!ようで、一人玄関先で立ってお客様のご案内。寒かったです…。

そんなわたしの姿やお葬式の様子をずっと見てたわたしの母(手伝いに来ておりました)は、「しんどかったら帰ってきていいよ」と、離婚をほのめかしたほどで…やっぱり抵抗があるのかなぁ、と思いました。


お墓も、実家のとは違った文字で書かれていて、これにわたしも入らなくちゃいけないのかぁ…と思うとツライところもあります。死んだら一緒よ!と、何とか納得させている状態です。

次に、子どもについての問題があります。その宗教は、生まれた時から自然に入信することになるそうです。妊娠中の戌の日のお参りも、生まれてからのお宮参りも禁止されました。実家の両親がくれた安産のお守りも隠し持たなくてはならない状態でした。

その代わり、とりあえず子どもが自分の意見を持てるまで、集会?には連れて行くのはやめてほしい、という話はしました。

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それに、どなたか前述されていましたが、キリスト教だったらこんな抵抗はあったの!?っていうのに同感です。もっと宗教観は違うと思うのに、キリスト教なら受け入れたんじゃないでしょうか?そう思うと差別なのかなぁ~って自分に言い聞かせてます。
似て非なるものだから余計抵抗があるのかもしれませんけど。

わたしは夫が好きですから、お互いの信条を認め合っていければなぁ、と思っています。
向こうのご家族が一丸となって朝早くからお経唱えてる姿にはまだまだ慣れませんが、向こうからしてみれば「何で一緒に唱えないの!?」って思うだろうし、お互いサマです。

結婚したら本当~に「えっ!?」って思うこといっぱいあると思います。それは覚悟しておいた方がいいと思います。わたしも、夫が宗教入ってなかったらもっと楽だっただろうな、と思うことはあります。
でも、だから好きな人と一緒にならないのはオススメしません。

その人はその宗教で育ってきたからその人なのですから。

ただ、自分もこういう宗教観で育ってきたから今のわたしがあるのだと思っています。だから会合などには、とりあえず遠慮させていただいております。よいと思えば入信するでしょうが、それを選択するのは自分自身だと夫には言っております。夫も今のところ納得してくれているようです。
夫も家族一丸で信教してますが、普段の生活ではあまり影響はありません。宗教の話にも、たまにしかなりません。その時を乗り越えればなんとかなる…かな?
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長くなってスミマセン。

当事者です。付き合っているときに宗教のことについて言われたと思うんですけど、そんな改まった感じじゃなかったし、知らなかったこともあって、深く考えずに結婚を約束しました。

まず、結婚式が人前式じゃないとダメでした。わたしは無宗教(というか、全ての命やモノに神様が宿っている…というか、日本古来?の宗教観)なので、特に抵抗はナシ。

ただ、結婚してからは何かと苦労がありました。
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