とっておきの「まかない飯」を教えて下さい!

猫って存在するの?でもあれ元を立たせば全部素粒子であって、猫は存在しないの??
曇って存在するの??
光は?
音は?
変化は?
熱は?
速度は?
重力は?
命は?
自分自身は?

なんだかよくわからなくなったんで、悟ってる方お願いします。
あ、悟ってなくてもオッケーです。

A 回答 (19件中1~10件)

禅でありましたね、風にたなびく旗を見て、二人の僧侶が旗が動いているのか、風が動いているのかと議論していたら、慧能とかいう和尚がきて、旗も風も動いていない。

心が動いていると。
つまり、心が存在しているのでしょうか。
しかし、そのあと無門和尚が、評釈で、旗も、風も、心も動いていないと。
とにかく「無」を悟ることが大事らしいです。
猫は生まれる前や死んでしまえば、素粒子かなんかに分解されるでしょうから、猫は猫ではないといえるかもしれませんが、それを昔の哲学者などは錯覚というらしいです。そしてそれらを否定するから不生不滅となって、そこに不死の猫というらしいです。
運動、つまり時間というものは錯覚であって、錯覚なら、本当は無時間となり、万物もまた存在しえないということらしいです。
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「絶対無」は「絶対有」との表裏一体関係を拵えています。



そもそも、【喪失】の後に比較によって明らかにされ得る【相対的な有無】と違い、喪失の挙動の主の存在さえもが認識されていない場合には、『有るのか無いのか』の思考さえもが阻まれてしまいますが、そういう事態を古来から東洋では【空】と呼んでいたのです。

従いまして、此処でも、『認識主体達にとりましての【存在】』と『絶対的な存在』とを分けて考えて頂く必要が有るのだろう、と私には思われます。

ご参考にして頂けましたら、幸いです。
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 猫は元をただせば全部素粒子・・・・・と、なんかずいぶん飛躍しすぎているなぁ、との思いから皮肉を込めて、的の外れた回答を前に寄せてみましたが、



 もう一度回答?して見ます。

 物体としての存在、と概念が在る、のとでは大きくちがうのでは・・・・・とのコメントを見て、物体としての存在を否定しているのではない、と、受け止めてみました。
 たぶん、心に現れる“もの”は“もの”として正しく受け止められているのか、と言った疑問かと思います。

 蜂は複眼、犬は色盲。
 人間が一番“物体”を正しく見ている可能性があります。なぜならば科学の発達、進歩がそれを証明しているから。

 科学は“物”を使って、発見、分析、発明などしますがその“物=道具”を正確に正しく使うことで結果を出しています。
 また、逆に言えば人間に使われる“物”は正しく反応するから結果も出せるといえます。

 そんなことを思いながら人の心に目を向けると、心は捉える物体(客体なんて言葉が使われたりするらしい)を正しく受け取っているんだろうかなんて疑問が湧いてきます。

 なぜならば“こころ”には定まったものがないように思うので。

 心を鏡の体、とすれば心が捉える“概念(貴方が概念という言葉を使っているので)”は映像。
 もし鏡が歪んでいたり、曇っていたりすれば映像は正しく捉えられているとは言えません。

 と、ここまで作文しながら考えてみましたが、おバカな私はこの後が続きません。
 疲れちゃったのでバトンを質問者さんに渡したいくらいだ。

 受け取ってくれませんか。

            独り言(いったい何を求めているんだろうか)
 
 
 
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No.7です。


>>>
でも、そういった空想の存在をも「共通認識」として存在たらしめているのは何か?と、考えるならば、自ずから答えに辿り着くのかも知れません。
<<<
として、リンクのみ貼り付けているだけでは、あまりにあまりかもしれませんので、少しばかり記述しておきます。

下記の存在すべてに共通するものがあります。それは(切り離せそうで切り離せない)「他」の部分になります。

猫 --- 猫以外の外部の存在。
曇 --- 雲の外部の存在。(内部では、霧なのかガスなのか湯気なのか不明)
光 --- 対象となる光よりも暗い環境(外部)、あるいは、電場と磁場の変動を伝達しうる時空(外部空間)の存在。
音 --- 音を伝播可能な媒質(外部)の存在。対象となる音を消し去るような(ノイズキャンセラーのような)環境ではない外部環境の存在。
変化 --- 変化が変化と分かるような外部環境の存在。(たとえば、「移動」という変化に対し、周囲全体が同一速度で並列して移動している状態であれば、相手の変化は「ない」と同等になってしまう)
熱 --- 温度差のある外部環境
速度、重力 etc...--- すでに「変化」で引き合いに出した通りです。重力について言えば、マッハ原理
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/91639.html

命 --- 命として認識不可能な状態(外部、死に相当)があるゆえに、「命」という概念が生まれる。
自分自身 --- 自分自身として認識可能なものの外部があるゆえに、「自分自身」としての認識がうまれる。

このことは、下記の質問に対する私の回答とも関連します。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5264495.html

全ての存在は、(「そのもの」+「(認識という行為を含む)それ以外」という)全体との関連性が維持されている場合に限り、成立しうるということに成ろうかと思います。

存在として認識可能なものは、「全体」の部分であって、かつ、全体との関連性からは完全に切断できない(外部を消去しては考えられない)ものになるでしょう。

もっといえば
「ある特定概念として共有可能で、全体の内部に一定の境界線を設定可能な、一連の塊について、特定の名前をつけることができるとき、そのものが存在するといった表現をとることが可能になる」
といえるように思います。

もともと「全体の部分」ですから、いつかは「全体」との境界が消え去る時が来るかも知れないし、境界を通過するさらなる部分が常に入れ替わっているかもしれないし、全体との関連性を保ちつつ、永遠に思える時間、分離したように(永続的に境界が保たれているように)みえることがあるかもしれません。
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ある、事を、あると知る事なのでは


実際にある事を認識して、始めて存在が確定するといったように
実際にあっても、知る事がなければ存在しない、といったものです。
人間の感覚、知識、観測のすべてを働かせて、知る事ができたもの・・・でしょうね。
つまり人間はこの世界の認識において、常に後手後手に回っている・・・のでしょう。
人間の知る働き=存在・・・とも
不可知の領域も存在とするような無責任さには抵抗があります。
抵抗を覚えるという狭さが、存在を狭くしているのかもしれませんが・・・最もらしくですが・・・

素粒子の世界から見れば、全ては隙間だらけの空虚な世界です(と言った学者がいた)
だが、こうした認識もまた、一つの存在感なのでは
小さな細い紐だと言っている人もいる
だが、これもまた絶対ではない。
やはり、人の知る働きを越える存在は無いのでしょう。
知る働きのレベルの違いによって、存在が違ってしまう・・・といったものかもしれません。
人類史上、絶対というレベルに到達したと大凡認められているのは、釈迦という人一人ぐらいなものです。
それは、禅定による直観と悟性によるものであったと推測されているようです。
私達は私達なりに、ある、と知る事が存在だと思う事にしましょう・・・めでたく且つ狭く単純ですが
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正の整数を数えてみよう


きっと宇宙より広いから

いくらでも増設できるぞ
存在なんて特別じゃない
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感じることができるものすべて存在します。


目の前にリンゴがなくても、

リンゴがこのテーブルにあった。
見えなくても存在を感じてるわけです。

神がいて欲しいと願うならば、心の中にあなたの思い描く神が存在する。
見えないものでも感じることで存在すると考えれば、悩むこともありません。
分かったような分からないような専門用語も必要ありません。

存在はあなたな自身が決めることです。
見える人もいればいない人もいる・・・
感じることが出来る人もいればそうでない人もいる。

それだけのことです。
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では、生物のまったくいない世界を想像してください。


そこでは、あなた一人がこの世界を認識できるのです。
そして、あなた自身も亡くなって、世界を認識する者は、
誰もいなくなりました。

認識のない世界に、存在というものがあるでしょうか。
だれも「ある」とは分からないのに、それでも存在する
といえるでしょうか。
物は、認識の無いところで単独では存在できない。という、
この考えを「観念論」と言ったり、「自我仮説」と言ったり
します。
対義語としては
「観念論」⇔「唯物論」、「自我仮説」⇔「時空仮説」
です。
このような名称が存在することからもわかるように、この疑問
は実はかなり昔から存在しているようです。
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こんばんは。


参考になるかわかりませんが
質問にネコのことを上げてるので、究極として、人間が居るかどうか考えます。



哲学ゾンビの概念はご存知かと思いますが、この否定も肯定もできない概念から言えることは、
人間が存在する=それはそういう信念だ、といえます。信仰と言ってもいいです。
論理的には人は有機物でできた電気で動く人形でも何ら問題ないし、数ある論理的には正しい見方の一つです。
また、我思う故に我ありも、僕らがそういう自己認識出来るよく出来た機械かもしれませんので、
まとめてみて、自分も他人も、存在するかどうか?は、信仰or信念とも言えます。
みんなが人はいるんだ、という信仰信念を持ってるから社会は成り立ちます。




人を精神と物質に分けて考えるなら、また違いますが、いわゆる統一された人間、が居るかどうかは、居ると思うから居ることになります。
実際赤ちゃんや小さい時、僕らは人がいると思うから人が思うようになったし、自分がいると思うからおもうようになりました。
過去の現実の経緯がそうだと思います。事実そうやって人は成り立ちましたし。
過去そうやって自分や他人が成立したように現在も成立してるのは当然です。
逆に言うと、小さい時に哲学的に考えて人という概念を成立させたわけじゃないので、理由がある方がおかしいです。

人を要素に分けて考えるなら(物質的人間、心理的人間など)ともかく、トータルとしての一人の人間が存在するか命があるかどうかと見ると、
そこはぐるぐる堂々巡りになり、基礎や土台には論理的には突き当たりません。
我思う故に我ありも論理がループしてますし、基礎に突き当たってるわけじゃありません。ただしそれを基礎だと思うことは自由です。つまり論理のループ=本質だ、と。
でも言い換えれば、これはたらい回しです。
あると思えばあるし、ないと思えば虚無主義です。
言い換えると、質問者の自由裁量で好きなことを思うことができます。



人間に於いてそうなってるので、人の創りだしたほかの概念はそれに習うのじゃないでしょうか。



基本的には、こういう考えのループを俯瞰する、見つめる視点、あるいは分析とは対極である全体性が大事と思ってます。
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疑問を抱く事は『自分自身を疑っている事』を意味します。

その疑問の解消を『悟る』と言います。自身に疑問を抱く事を『失楽園』と言います。

この事は人間の脳の機能に関係します。そこで人間の脳に関する研究成果をウイキペデアから載せたいと思います。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。”

この場合の右脳に存在する意識を『神や仏』と言っています。右脳の意識は『無意識の時の自分の主人公です』ですが意識は『無意識を意識出来ません』

この理由を書いてみます。例えば眠る場合ですが、『自我意識は眠る事をしていません』眠る時には、意識はなくなっていて、身体も心も無意識の自分が交代して深い眠りに入っています。朝が来て起きる時間になった場合、『無意識の自分は』意識する自我意識に、身体と心を返しています。

二つの意識は交替制で成り立っています。ですがその切り替わりが、余り巧妙に出来ているために、気が付難くなっています。健常者と言う人にはわから無いかも知れませんが、完全に分らない訳では在りません、分る人も存在しています。

その事に気が付いた人は、沢山存在しています。自分自身の心が二つあってその二つの意識の落差や矛盾を『違和感や罪の意識』と呼んでいます。そういう人を『意識性が強い、或はは神経質、或は不安になり易い人』と呼んでいます。

その違和感を『心に感じた場合』心を病むと医師は判断します。その違和感を自分の行動の異常と感じた場合『神経症』と呼んでいます。そして身体の機能の異常と感じた場合を、心身症や自律神経失調症と呼んでいます。

そうして深刻に悩む場合も『心の対立や矛盾や分裂』とも形容しています。

その心の矛盾の解消方法を書いてみますが、此処までの話が判るのか分らないのかで、書き方を変える必要が在りますので、何か質問を下さい。
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