自分なんてものは幻想に過ぎないのに、
自分なんてものに拘り過ぎるあまりに、
生涯苦しみぬいて死んでいく、
それが人間だ。

ということを聞いたのですが、
何かピンときません。
わかり易く説明して頂けないでしょうか。

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A 回答 (12件中1~10件)

すみません。

気になったので。
>自分なんてものは幻想に過ぎないのに、
>自分なんてものに拘り過ぎるあまりに、
>生涯苦しみぬいて死んでいく、
>それが人間だ。
・・・と結論付けたヒトは
かわいそうだなぁ。。。と思いました。

それ以外の世界もあるのに。
知ろうとしたことがないもの、見たことがないものは
「世の中にないのと同じ」・・・・で
自分の視野(目に映った範囲)で
自分のコレまでに得た自分を正しいと信じて
そう分析し、(自分がエラくなってしまった状態で)
結論をだしてしまったのだろうと
考えられたので。
(もしかしたら、本当に、そう思えるような世界しか
なかったのかもしれませんけど。)

(どこか昔の偉人の言葉だったら
あこがれている人たちに怒られるんだろうなぁ。。。
こういう言い方をすると。。)

自分が考え付き思いつくことが一番正しいと信じ
自分がエラくなってしまって
その先にあるものに気がつこうとしないと
そういう生涯苦しみぬいて死んでいく、、、という
コトではないでしょうか。
(実はまだ、、その言葉には先があって)
まだ成長の途中なんだよ。。。みたいなコトが
書かれている気もします。

実は、、、私、、
そういう部分でいえば「人生は無情だな」と
思うと同時に

なぜ、そうなるのかを考え、どうしたら
明るく幸せな気分で死んでいけるのか、、、を
ちょっとダケ考えていたりします。

>拘り過ぎる
・・・・のにも、、、、時代や環境
見ているものや持って生まれたもの・・があって
そうなっていて、、その刺さっているトゲさえ抜ければ
今からこの先を変えていけるのだ、、、と分かり
自分にやらせている所です。

せっかく、先に生きたヒトが
いろんな失敗をし、そんな事をすれば
そういう結果を出すのかをしんどい思いをしながら
生きて事例を見せてくれているので
そこから(どうすれば・どうなるのか)学ぼうと思いました。

自分の人生を幸せなものにするために。
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その台詞を言った人の「自分」の定義がわからないので私の見解で・・・



他の人も似たことを書きましたが、「自分」とは固体識別する言葉であり、
 どこまでが自分かを定義するのは不可能です。
 (っというか、意味のないことですが・・・)
 「自分」を形成してるものの一つに「知識」があります。
 すなわち、知識が増えた時点で自分だと思ったものが自分ではなくなります。
 だからこそ「自分なんてものは幻想に過ぎない」です。

「自分なんてものに拘り過ぎるあまり苦しみ」ってのは、悟りLVまで行かないと
 誰しも自分に拘ってしまうものです。
  「自分は○○」「自分の考えは○○だから・・・」って
 勝手に自分を決め付けてることが多いです。自分で自分を縛り付けていきます。
 世の中に捨てれるはずのプライドを守り続けて自分を苦しめていく人の多いこと・・・

 それが「一生続く」のです。人間の定めか?

わかりにくいですかね・・(^^;
 内省したら多少はわかるかもしれませんね。
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自分にピントを合わすなんて、今思えば、したこと(できたこと)が無い。


だからピンとこない。。
なんつて。
 
ピントが合わずにもやもやしているからって幻想(実には存在しないもの)であるとは言い切れません。
しかし、カチッと見えて無いんだから、それ(自分)があるともいい切れません。
それと指しているところ、それ自体が、ぼやけて見えてるから。
ただ、もともと自分というのがフヤケタ存在であるなら、ぼやけているように見えて当然だし、ぼやけているからといって、ピントが合って無いとも言い切れない。
どのようにぼやけているのか、他の事物を見たときと比べて、ぼやけ方に相違、近似はないか?
そのような思考を経れば、自分というものがわからなくても、自分というものの見え方から、自分というものの正体の所属などが推測されます。
 
つまり、どのようにピンとこないのか?
という所に、ピントを合わせてみるのも、一つの方法かなと思います。
自分以外にも、ピントの合わない事象というのがたくさんあるはずです。
 
又、物事を明晰に見るには、このピントをうまく合わすある種の神経(直観)が作動しなければならないのだと、そのように思ったりもします。
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これをアホみたいに前向きに書き直すと



 自分なんて幻想があってマジ良かった
 自分なんてもののおかげで自分を楽しむという最高の快楽があるし
 死ぬまで娯楽に困らない
 それが人間だ。

になりますか?
答えじゃなくてスイマセンm(__)m
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ゾンビーみたいなこったゆうこってす。


ゾンビはいつも餓えているが、どういうわけか、自分というものの所為で死に切れません。(呪い?)
そういうのが特に多く、わらわらと生息している惑星が、この地球です。
で、時々この惑星に、聖者というのが生まれます。
聖者は、餓えていません。
それを見たゾンビーたちは、「あいつは何か持ってるぞ、だってうえてないもんねー!」
といって、聖者に群がるわけです。
ところが、聖者を根掘り葉掘りしてみても、何も出てきません。
そうしてそうして、稀に出現する聖者も、一瞬にして、人間達に狩り尽くされていくのです。
何千年という期間、聖者の遺構にしがみつき、根掘り葉掘り、しゃぶりつくしているさまを見れば、よくわかるでしょう。

当然、聖者は何も持っていませんから、後には何も残っていません。つまり、ゾンビーは、無いところを求めているわけです。故に、ゾンビーの中で、無いから、餓えていないということに、気づく亡者がいくらか居ます。これらは、群がるのを止め、よろよろと、旅に出ます。または、動きを止めてしまいます。
なぜなら、聖者には、何も無かったからです。
そして、彷徨うゾンビ、や、佇むゾンビ、などというのが、またいくらか、この惑星に生息しています。
聖者に群がらないゾンビもたくさんいて、土を食い続けたりしているゾンビなどがいます。
 かくして、このような亡者だらけのこの惑星には、聖者を、根掘り葉掘りする亡者の目から掠め取ってしまう、「Saint Hunter」なる職業が、成立しとるわけです。
これらは、亡者よりも先にSaintを見つけ、捕獲するという仕事人で、亡者(人間)でも聖者でもありません。
その名のとおり、「Saint Hunter」です。
時には、亡者から掠め取るということもします。
(「Zonbie Hunter」ってのはこの星には居ません。
ここではゾンビってのは、恒常的存在で、珍しくもなんとも無く、第一、ゾンビを狩ってもしかたない。)
 
ぴんとはこないかも知れませんが。
ご質問の人間は、ゾンビーのようなもので、つまり、自分がある故に、死に切れない亡者であるという意味です。
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思うに。



この言葉は、アメリカンジョークに近い感じで出てきたンだと思います。「ハハハ、違えねぇ」で次の幕に進めば良いと思います。例え、この言葉の真意が解らなくても、「笑っとけ★」です……(ただこの言葉が出てきた文脈、物語にヒントがある気はします。)

それを後から「ん~……あれは結局、何だったのだ !?」と悩んでしまう自分がいます。眠れぬ夜を過ごす自分がいます。苦しみぬく自分が、そこにいる訳です。//Q.E.D.(笑)

良ンじゃないですか?心配ご無用!自分なんて物は無くったって、人間は苦しみます。「なにが本当にしたいのか」とか――コレは「自分は……」を付けた方がより明確な問いになります。確固たる自我と言いましょうか、それが無くて(あるいは『弱くて』)困っているのが、この私です。(笑)
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その言葉から受ける印象は、「人間は、いったい自分とは何の為にうまれて何の為に生きているのだろう。

自分自身がこの世界に生まれたのは何か意味があるのだろうか。」という答えのない問いに自問自答し続けて一生を生きている。そして、ソレこそが人間の人間たる所以であり苦悩の根源である。 というところでしょうか。

私は、その意見には反対ですね。
こだわることが苦しみと等しいとは思えないからです。
自分自身が幻想であるというのは、ある種私も同感できる部分もあるのですが、私個人はこの世の全てが幻想であると考えているのです。
10億年も経った未来には人類なんて存在しないと私は思っていますしね。
全てが幻想であることを人間は心のどこかで理解しているからこそ、物質(自分自身・他人・物・金・・ etc)に拘ることで、奇跡に近い確率で存在している自分自身に価値を見出し、潤いがあり気持ちいいと思える人生を送ろうとするのではないかと私は思うのです。

ですから、「自分自身の内面にある凶暴さや優しさに真正面から向き合えず、物質にこだわりを持てない人間は精神的に苦しい人生を送るだろう。」という表現なら私は同感できますが、「自分に拘り過ぎる人は苦しむ人生をおくるだろう。」という意見には ??? となってしまうのです。

以上が、今回の質問で感じたことです。
あくまでも私個人が思ったことなので、あまり気にしないでくださいね。では。
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普通の人は、人間の数だけ自我が存在すると思っているでしょうが、実際は違うのです。


自我のようなものは、一つしかないのです。
そのたった一つの自我のようなものは、永遠不変です。
新たに誕生したり、無くなったりすることはありません。
そのことに気がついたのが、釈尊でありイエスです。
そのことは言葉で説明することは非常に難儀であり、大方は違ったふうに理解されてしまいました。
なので、釈尊とイエスが違うことを説いているかのように受け止められています。
しかし、二人が体得した真理は、同じものです。

ほとんどの人が自分だと思っているものは、錯覚の自我というべきもので、それは、肉体的な生死とともに誕生したり無くなったりします。
が、それはあくまでも錯覚の自我に過ぎないので、その錯覚の自我が感じる悩みや苦しみも当然錯覚ということになります。
たった一つしか存在しない真の自我は、常に歓喜に満ちていると、釈尊は表現されています。
真の自我を体得することは、本来は誰にでも可能なのですが、それができないで生を終える人がほとんどです。
釈尊やイエスのように、真の自我を体得された方は、生死を超越することになります。
といっても、肉体的な死は当然訪れますが、ここで言っているのは精神的な死です。
最後に興味深い言葉をお聞かせしましょう。誰が言っていたかは忘れてしまいましたが(笑)

死ぬ前に死んでおけば、死ぬ時に死なない。

(釈尊やイエスは、肉体の死が訪れる前に真の自我を体得することができたので、その時点で、錯覚の自我は消滅した。よって、肉体の死が訪れた時に、精神の死を迎えることはなかった)
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<自分なんてものは幻想に過ぎないのに、



人間は自分を「特別な個」と考えてしまうものです。
ただの1因子に過ぎないのに、、、例え特別になれても同様に1因子に過ぎないんですけどね。

<自分なんてものに拘り過ぎるあまりに、
<生涯苦しみぬいて死んでいく、


個と願する人間。よって苦しみが発生する(例、立場・外見・見栄・輪の中での幸福感値・それらによる精神のツマラン拘束・等など)

ま、分かり易くいうと
個を願い→見栄なども生まれ→自分をくだらないことで拘る→で、苦しむ

例を挙げると、近所にウルサイ車が有るとします。
自分という個を持たなければ、そのまま何の精神的拘束を受けずに「うるさい!」と言えるでしょ。
それが、個という「自分」に縛られていると世間体を考え
「思ったこと・感じたこともいえない、苦情さえも言えない」となってしまう。

ま、こんな感じなのでしょう。
yki15さんも日常生活で、他人から色々とイイ風に思われたいから、ダメと思われたくないからと そう考えて行動してる部分あるでしょ、それは自分という「個」に影響され縛られているから。 と、上の文では言ってるのです。自分という個に縛られなければ、そんなこと気にしなくても良いし、つまらないことで苦しまなくて良い。
というわけ、でもホントは、それはそれで問題があるんだけどね。いつ変人や自己中馬鹿になっても不思議じゃないから

そんで、<生涯苦しんで生きていくと ←まあ、これは論理が偏ってますよ(そんなのは極一部に過ぎないから)

以上。
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 ”自我=自分とは誰か、の自分の定義”がもし無いと


 人間は誰も生きていけません。日々をどうして良いか
 わかりませんよね?

 でも自分というものは最初からあるわけじゃなく、
 基本的には親から「おまえは~だ」と規定されて、
 そうやって「あぁ自分は~なんだ」と定義します。

 ところが、特に思春期頃の反抗期には、その親の
 定義に納得がいかないから(親が昔ほど万能にも
 見えなくなるし)自我を再構築しようとあがきます。

 そうして新しい集団に拘る度に、多かれ少なかれ
 自我を調整して集団に同化しようとします。つまり
 自我とは他者の自分に対する定義ということですね。

 だから苦しみぬいて死んでいくわけです。
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