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これは、http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6884530.html を受けた質問、と言うより、意見です。
議論に参加できなかったので、新しく質問形式としてthreadを立てました。


「魚が売る」は変です。しかし、「魚が売っている」は正しい。これが私の意見です。

「売っている」を普通に他動詞と見て、「魚」をその目的語と見るから、変だ、と言う発想になるのですが、これはあまりにも英語的な見方だと思います。

文型的には主語のように見えて、実際には主語になっていない「が」というものが存在します。例えば、述語として、形容詞、或いは、形容詞相当語句が来る場合、「が」が主語にならない場合があります。
・水が飲みたい
・平家の由来が聞きたいほどに(ロドリゲス大文典)

また、述語が、話し手が直接関与しない事態を説明するとき、その事態の元になったものを示すときにも、主語にならない「が」を使うことができます。
「可能」はその一つです。
・ここで水が飲める(「水」は、飲めるの目的語ですが、「が」が使えます。)

「可能」以外でも、話し手が直接関与しない事態が述語になれば、「が」を使うことができます。
・急に予定が変更した(「広辞苑」の例文)
・油が切らしてある。(「広辞苑」の例文。)

特にこの2番目の、「油が切らしてある」は、「魚が売っている」と全く同じ構造を持っています。英語風に見れば、「切らす」は、「油」の目的語じゃないか?となってしまいますが、これは正しい日本語なのです。

「売っている」も、単に「売る」の進行形ではなく、この場合、話し手が直接関与しない事態・状態を示す動詞だと考えられます。故に、
・魚が売っている

は、間違った日本語ではない、以上が私の意見です。

(参考:広辞苑・岩波古語辞典)

A 回答 (12件中1~10件)

前スレ(?)#8です。



質問者さんは「魚が売っている」と「油が切らしてある」は同じ構造だと主張していらっしゃいますが、
#9さんもご指摘の通り、「~ている」と「~てある」の違いは無視できないと思います。

「~ている」は英語風に言えば、「能動態」の「進行形または完了形」に相当するかと思いますが、
「~てある」の方は、「受動態」の「完了形」に相当します。
(例): 「子供が絵を描いている(進行形)」 「道に財布が落ちている(完了形)」
     「棚に花瓶が置いてある(=棚に花瓶が置かれている:受動態完了形)」
今でこそ無生物主語の受身で「~されている」という翻訳調の表現が一般化する前の日本語では、
無生物が何かの動作を受けた状態であることを表すには「~てある」というのが普通であったの
ではないかと思います。

考えてみれば、英語の「進行形」と「受動態」は、どちらも
 「動詞が表す動作が存在した状態で(分詞)」+「存在する(be動詞)」
という構造になっていますが、これは日本語の
 「~して(動詞の連用形)」+「いる・ある(補助動詞)」
というのと全く同じ構造と言えます。
英語・日本語いずれにおいても、これらの文の主語に当たるものが、「分詞」あるいは
「動詞の連用形」の表す動作の主体である場合は「進行形」、動作を受ける客体であるなら
「受動態」ということになります。
英語においては、その両者の違いを2種類の「分詞」の違いにより区別するようになっている
のに対し、日本語においては、2種類ある「補助動詞」によって区別しているというわけです。

したがって、「魚が売っている」と「油が切らしてある」は明確に違う構造の文であり、同一の
文法的構造の文とはみなせないと思います。
「正しい」か「間違っている」かはともかく、少なくとも、「魚が売っている」は、他には余り同様の
用例のない特殊な用法であることは間違いないところだと思います。
先のスレでも指摘はさせてもらいましたが、「~が売っている」とほぼ同一の構造であると
みなせる表現は、私の知る限り、他には「~がやっている」くらいしかありません。

なお、「売っている」は「~てある」とそのまま同一視はできないのですが、その影響を受けて
生まれて表現である可能性はあると思います。
先のスレでも指摘した通り、「~が売っている」という表現は、否定形「~が売って(い)ない」
になると、肯定文の場合より違和感が減じる傾向があるように思います。
このことについては、「~ている」と「~てある」の否定形が、砕けた口語ではほとんど区別が
なくなってしまうことがその理由の一つではないかと思います。
「~ている」の否定形「~ている」は、しゃべり言葉ではしばしば「い」が脱落して「~てない」
となりますが、「~てある」の否定形も「~てない」なのです。
 (例) 「名前が書いてある」⇔「名前が書いてない」
つまり、「~てない」という表現においては、主語に当たる語が動詞の目的語に当たるという
ことは、他の語においても起こることなので、「~が売っている」もその類推で受け取れるため
違和感の原因になりにくいのでしょう。

私としては、先に「~が売ってない」という否定表現が生まれ、そこから二次的に起こった
肯定表現が「~が売っている」なのではないかと考えたいところです。
「売ってある」という本来受動表現として「正しい」はずの表現が採用されなかったのは、
「売っている」という状態が、「~てある」の表す「完了相」となじまないせいでしょう。

以上のようなことは、私が勝手に考えていることにすぎません。
でも、いろいろ考えてみるのは楽しいですね。
長文失礼しました。
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この回答へのお礼

前回の内容も拝読しておりました。「ある」と「いる」の違いに関して深い考察だと思います。
私は、皆さんのいろいろな意見を読んでいて、やはり、助詞「が」のかなり特殊な用法なのではないか、と言う思いを強くしています。「あ!鳥が居る」と言う場合、「鳥が」は主格だと思われていますが、実は、主格であると同時に、「居る」に対する修飾語という色彩が強いんですよね。「我が家」の「が」と同じものです。
これ以上書くとちょっと書ききれませんし、「お礼を述べる」という意図に反するので、別な機会があればまた触れてみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2011/07/22 06:12

議論を巻き起こした張本人です。



私は、国語が大の苦手で、格助詞だ、何だといっても、意味を深く考えたことは無いので、”ふーん”という感じですが、
会社に入って、”がのにを”が、どうだ・・・と、赤ペンで直された経験からすると、問題の言葉「魚が売っている」に、違和感を感じ質問しました。

私の質問に対する回答の中に書かれていましたが、口語表現としては”○”。
つまり、既に変化していると考えました。

しかし、文として書かれた場合は、どうでしょう?
意味が掴めなくなりませんか?

ということで、「魚が売っている」は、口語としては”○”、文書としては”×”というのが、私の理解です。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。ううむ、そうですか。「ここで魚が売っている。」というのは、何となく違和感なく使っていたのです。確かに「主語+述語」という方法で見ると破綻してますが、それにしても、この「違和感の無さ」は何なんだろうな?と思い、いろいろ考えたのが、上の文章だったんですね。私ももう少し調べてみます。

お礼日時:2011/07/21 19:04

文法上、「売っている」の「いる」は補助動詞であり、あくまで「売る」のアスペクトです。


従い「売る」に対して従属的な位置付けとしかなりません。

売られている状態における存在を示したいなら、「店舗に魚がいる」と表現すれば事足りますので、敢えて述部で「売っている」とすべき必要性は皆無です。

質問者さんが誤用ではないと思う以上、誤用かどうかは言及しても無意味です(日本語とはそう言う言語ですから。)が、好ましい表現ではないし、少なくとも「更に正しい表現がある」点は間違い有りません。

従い、「間違った日本語ではない」と、標題の「正しい日本語」も、同義では無いです。
主語が不確定とか、主部と述部の不一致が疑われる時点で、「正しい日本語」は言い過ぎでしょう。
むしろ「動詞,述部の選択が、最適とは言えない日本語表現である」と考えるべきかと思います。

この回答への補足

そもそも、この「が」は本当に主語なのかな?主語と呼べるのかな?と言う点も疑っているんです。歴史的にも「が」は単なる連体修飾語だった。その名残がどこかに残って、時によっては、目的格になり、時によっては、単なる動詞に対する修飾語として作用する、そんなことが未だにあるのではないだろうか?と考えているのです。mappy0213様への補足にも書きましたが、昔は「連体修飾格助詞」で片付いた格助詞「が」の用法は、その後思い切り変化してしまい、現代の「が」は、一筋縄では解釈できない、と思っています。

ただし、この「が」、主格助詞じゃないなら何だ?と言うと、まだ説明できません。

補足日時:2011/07/21 16:06
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「が」についてはお説の通り、目的語を示すことがあります。


では、「いる」と「ある」についてはどうですか?

「いる」は動作主が生物のとき、「ある」は動作主が無生物のとき、と思います。(いえ、何も調べていませんが。)
「油が切らしてある」は「油が切れた」という状態(無生物)についてなので「ある」を使っています。そんなに違和感はありません。
「魚が売ってある」ならば、同じく違和感はそんなになかったでしょう。ここで「いる」を使うと、どうしても生物の動作主が欲しくなります。「話し手が直接関与しない事態・状態を示す動詞」であることを完全に示すためには「ある」の方がよいと考えます。

「油が切らしている」はおかしくないですか? 私は違和感があります。
「魚が売っている」も、「魚が売って」まではいいけれど、最後の「いる」であれっ?となります。

この「いる」と「ある」について、補足をお願いします。

この回答への補足

進行形、或いは状態の継続をしめす補助動詞「いる」「ある」の場合、主語が無生物かどうかというのに依存しない側面があると思っています。
例えば、「窓が開いている」というのは、普通の表現だと思います。ここで、窓は無生物です。

補足日時:2011/07/21 15:54
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補足に対応 


個人的には 正しい 正しくない の判断対象にならないです
自然な日本語と感じます
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この回答へのお礼

ご意見、ありがとうございます。まあ、私も「正しい」という表現を使いましたが、「日本語として自然な表現」だ、と言う方が、一層良い表現だったかも知れません。

お礼日時:2011/07/21 14:51

正しい 正しくない を判定する絶対的な判断者って存在しましたっけ? 

この回答への補足

どうでしょう?絶対的な判断者が居るかどうかはわかりません。
axia7さん自身は、「魚が売っている」が正しい日本語と思われるのか、ご意見をお伺いしたいと思います。

補足日時:2011/07/21 13:34
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油が切らしてある にもかなり違和感を覚えますけどね


油が切れている あるいは 油を切らしている なら通用します

油が蓄えてある なら違和感がないのですがね。

構造が同じだからと言って 文法的に正しいとは限らないでしょ。

というわけで 私の意見としては 魚が売られている あるいは魚を売っている が正
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この回答へのお礼

「広辞苑」が信頼できないんですかっ!と言う冗談はさておき、(←辞書とて完璧ではありません。そのことは私も認識しています。) ご意見、ありがとうございます。私の感覚とは異なるのですが、参考にさせていただきます。

お礼日時:2011/07/21 12:49

日本語学の権威を自負しているようですから


あえて質問の形式をとらなかったようですね

自説の主張は他の場所で行ってください

この回答への補足

ご期待に添えず、言語学、日本語学に関しては全くの素人。平凡な技術系サラリーマンです。

また、youtomさんの指摘を受け、「遅ればせながら、『皆様の見解をお聞かせください』という文章が追加されているものと見なしてください。」
とつけました。質問本文が修正できればもっと良かったのですが。

補足日時:2011/07/21 12:05
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魚が(魚屋に)売っている。


、、、ってことで。

「俺はうなきだ」と同じような話かな?

この回答への補足

「英語風な視点から見ると、主語と述語が呼応しない」と言う点では、相通じるものがあると思います。

補足日時:2011/07/21 11:58
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>「魚が売っている」は正しい日本語だと思います。




  ↓

文節を文法的に解析・思考するのも良いでしょうが・・・
私には、日常会話や文書作成表現の中での、意図・意味が成立・通用していれば“アリ”だと思います。

その適否の分岐点は、この文例の場合

◇魚に人格(漁格or魚心)?があるならば、擬人法的な文章や表現の中でなら間違いではないと思います。

◇しかし、一般的には、魚が商売や媚を売るケースは(少なくとも人間側から見たり感じる)は少なく、無人格&無意思だとすれば売ると言う行為や表現は適切ではないと思います。

◇文法を離れて、個性的表現・作者の意図があれば、日本語として間違い&成立しないとまでは言えないと思います。

この回答への補足

上に例文として示した、「油が切らしてある」も、油を擬人化した表現法だと言うことでしょうか?

・述語が、他動詞の進行形(あるいは、動作動詞に、状態を示す「ある」「いる」をつけて、状態動詞化した言葉)
・「が」の直前に位置する名詞が動詞の目的格に対応する位置にあること

この2点で、「油が切らしてある」「魚が売っている」は、全く同じ構造なんですが…。

補足日時:2011/07/21 11:55
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