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今、PSソフトの「太閤立志伝2」をやっていて、ふと疑問に思ったのですが…。

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が織田信長に命じられ、「一夜城」とも言われる「墨俣城」を蜂須賀小六らと建設したのは有名な話ですが、これについて詳しく知りたいと思いました。

どうも私は検索が下手で「これだ!」というのに、うまいこと巡り会えません。

1)墨俣城を作るまでの歴史的背景
2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将
3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?
4)墨俣城の主な役割

など知りたいのですが、詳しい方はおいででしょうか?
1つでもお答えいただければ幸いです。
どうぞ、宜しくお願いいたします。

A 回答 (13件中11~13件)

おはようございます。


戦国時代は、阪神に次いで好きなジャンルです。
実際には一夜では出来ませんでした。あまりの早さに”一夜”とついたんですね。
豊臣秀吉が一夜で作ったのは小田原城攻めの際に築いたのが一夜城とそのままの名前がついてた記憶があります。

因みにpeitaさんのお礼に書かれていることについてですが、斎藤道三(字はこれです)とは信長は娘と結婚していて同盟関係にありましたから、実際美濃攻めを行ったのは道三が死んで子の義竜の時代だったと思います。
藤吉郎に話が回ってきたのは、他の方が書かれている通り、墨俣は美濃攻めの最前線基地で稲葉山城からは丸見えで柴田や佐久間といった重臣たちが失敗を繰り返してたんですね。その時の軍議でここがアピールのしどころと感じたんでしょうね。
藤吉郎は末席に座ってたらしいんですが立候補して受け入れられました。

すいません。今、時間が無いのでこの辺で・・・。
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この回答へのお礼

takesamaさん、おはようございます。(本当に今起きました(^^;))
最近、よくお会いしますね。
(「お好み焼き」と「オリックス」以外は気が合いそうですね♪)

ありゃ…「道三」でしたか(^^;) うろ覚えなもので…ご指摘有難うございます。

私の記憶だと、斎藤道三が生きている間だったと記憶していたんですが、違ったのかな?
たしか、道三と義龍(字はこっちだったような?)と愛妾を奪い合い、鷺山城と稲葉城に分かれて険悪ムードだったような…???
たしかに、道三は信長を気に入っていたので、直接対決したいとは思わなかったとは思うので、やっぱり息子のほうとの戦だったんですかね。

藤吉郎は自分からそんなに積極的にアピールしたんですね。
すごいですね~。
それで成功してしまうのですから、本当に生きた時代があっていたのでしょうね。(今のような平和な時代に産まれてきていたら、名を残せなかった1人なのかな?)

今は時間が無いとのとこなので、ある時に、よかったらじっくり教えて下さい。
不躾なお願いで申し訳ありませんが、ご教授いただけたら大変嬉しく思います。

大変参考になりました。時間が無いにもかかわらず、教えて下さって、有難うございました。

お礼日時:2001/05/01 11:41

1)墨俣城を作るまでの歴史的背景


書けば長くなる・・・

2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将
実際には一夜ということはないですよね
それでも数日で堀と塀を作って相手の攻撃に備えれるようにしたらしいです
その間は相手の邪魔に対しては柵をたてて鉄砲などで応戦したらしいですよ

3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?
いまでいう2×4、すなわち壁などをあらかじめ作っておき
筏(いかだ)として目的地まで運んでそれを起こして壁にしたと言われます
たぶん当時の城などの建築物は骨組みの間に竹を編んで
土を塗っていたと思うので(いわゆる土壁ね)時間が掛かっていたので
墨俣の作り方は画期的だったでしょうね

4)墨俣城の主な役割
稲葉山城を攻めるための足がかり

ちなみに1~4の質問の文章を以下の検索エンジンの
キーワードの部分にいれてみたら?
このエンジンは単語ではなく文章から適当なページを検索してくれるそうです
なんでしたら
”墨俣城を作るまでの歴史的背景。実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将。どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?。墨俣城の主な役割 ”
といった文章で検索をかけてみては?
http://www.mycom.co.jp/
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この回答へのお礼

こんな夜中に詳しく有難うございます。とても嬉しいです♪

1)そうですね…。私もそうは思ったんですけど、知りたくなってしまったもので…。

2)あ、建設中にも敵に見つかったりもしたんですか?!
「まったく見つからずに建築した」と勘違いしていました。
勉強になります。

3)本当に画期的ですよね!本当に驚きました。
私はお城の建築方式なんて、まったく知らなかったのですが、これまた勉強になります。

4)はい。わかりました!

今、少し教えていただいたURLで検索してみたのですが、沢山の文献が見れるんですね!
大変有難かったです!!
今日はもう、眠いので(^^;)明日、じっくりと検索してみます。

本当に大変参考になりました。有難うございました。

お礼日時:2001/05/01 02:58

1)桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は、京に上るため、美濃攻めを決行します。

しかし美濃は兵の数も多く、地形的にも守りやすく攻めにくい。そこで急所となる墨俣に城をかまえて、攻めやすくしようとしたのです。しかし墨俣は、城を築くには不便な地形であり、そのため幾度か失敗に終わっています。そこで秀吉が登場したわけです。

2)かかった日数は3日です。というより、秀吉が3日で築城してみせると信長に約束してしまったのです。関わったのは秀吉の部下50人ほどと、蜂須賀小六の部下200人。

3)城の建設は、従来は現場に材木等を運んでから骨組みを作ったりしていましたが、秀吉は、寸法どおりに材料を仕上げるのは別の場所でおこない、それらを夜のうちにいかだに組んで流し、現場で拾い上げるという方式をとりました。そして材料があつまったところで一気に組み上げるのです。いわばプレハブ方式ですね。プレハブ方式なら組み立てはあっという間ですから、材料を運んでいるところさえ見つからなければ城の建設を隠しとおせたのです。内部の工事は、外部が完成し城としての形が整ったあとでゆっくりやったわけです。

4)1)でも書いたとおり、美濃を攻めるための要所ですね。前線基地です。


こんな感じでよろしいでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答下さって、有難うございます。
正直、この質問でこんなに早い回答がいただけるとは思っていませんでした。
嬉しいです♪

1)これは斎藤道山(こんな字だったでしょうか?)との戦いだったのでしょうか? 
何故、藤吉郎にこの話が回ってきたのでしょう??
…美濃攻めというのは、納得ができました。

2)3日で出来たんですか!すごいですね。驚きました。
これは、「城の外壁」と考えてよいのですよね?

3)この方法は考えもつきませんでした!
頭がいいですね~。感動です!

4)なるほど。では、後にしっかりとした形で残したのも「要所の城」と考えればいいんですね。

質問が度重なるところがあり、すみません。
もう少し教えていただけたら、有難く思います。

大変参考になりました。有難うございました!

お礼日時:2001/05/01 02:47

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