今、PSソフトの「太閤立志伝2」をやっていて、ふと疑問に思ったのですが…。

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が織田信長に命じられ、「一夜城」とも言われる「墨俣城」を蜂須賀小六らと建設したのは有名な話ですが、これについて詳しく知りたいと思いました。

どうも私は検索が下手で「これだ!」というのに、うまいこと巡り会えません。

1)墨俣城を作るまでの歴史的背景
2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将
3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?
4)墨俣城の主な役割

など知りたいのですが、詳しい方はおいででしょうか?
1つでもお答えいただければ幸いです。
どうぞ、宜しくお願いいたします。

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A 回答 (13件中1~10件)

元々美濃は土岐氏という守護の治める国でした。

土岐氏は室町幕府の重臣です。それを斎藤道三が乗っ取りました。
また、織田信長は城代家老の織田本家を潰そうとしてました。

そこで、少しでも外敵の心配を無くすために手を結びました。織田家は北に斎藤道三、東に今川義元、内に他の織田家と敵を多く抱えてましたから。
そこで内の他の織田家を抑えるためにも斎藤道三と同盟を組んだのです。

最初はお互いに割り切った不可侵同盟だったのですが、お互いに顔を合わせてからは、お互いを認める仲になりました。

また斎藤道三の息子の義龍は斎藤道三の息子ではなくて土岐氏の血を受けづいてるという噂が流れました。
真偽の程は判りませんが、義龍は信じました。そして道三を親として接しませんでした。
また道三も義龍を疎んじました。

そして道三は美濃を信長に譲るという遺言を書きます。
つまり信長を息子のように思ってたのです。

そして道三と義龍が戦を起こし、義龍が勝ちます。そのとき、信長はいち早く援軍を送ります。信長も道三を親のように思ってたのでしょう。
しかし、道三も信長と義龍がぶつかるのは時期尚早と見て、勝てないとみるやいなや、信長の軍が来る前に早々に自害して果てました。
こうして信長は美濃を攻める大義名分を得たのです。この時代、大義名分は重要でしたからね。

また、美濃は非常に作物が多く取れる実りの多き国です。
美濃の名前もそこから来ています。

そして交通の要衝でもあります。
後に有名になる関ヶ原は北に北陸街道、南に伊勢街道、東西に中仙道と主要な街道が交わる重要な土地です。
ですから、天下取りを目指す信長にはぜひ手に入れたい国なのです。

そして義龍の代になっても攻めきれなかったのは義龍の力ではなく、美濃の国人の力です。
この頃の大名は完全な主従の関係ではなく、国人たちと契約を交わしてるだけにすぎません。
結構気を使わなければ上手くやっていけなかったようです。
信長が子飼いの部下(その代表が秀吉)を大事にしたのはそういう気苦労を避けるためです。

さて、道三が亡くなってからはこの国人たちを自分の陣営に引き込むための工作が水面下で行われていました。
しかし義龍は元の主君である土岐氏の血を引くと皆が信じていたし、本人もそう宣伝していたので結束は意外と高かったのです。
しかし龍興の時代になって、徐々に国人との信頼関係が揺らいできます。

蜂須賀小六というのはそんな国人の頭の1人です。ですから、小六にならって信長についた国人も一夜城築城には関わっていると思われます。

そして人数ですが、それは正式な記録がないのでなんとも言えません。

さて、墨俣に城を築く理由ですが、これも交通の要だからです。
墨俣は稲葉山(今の金華山)のふもとを流れる川の三角州です。
また稲葉山城のような山城は戦時中にこもるだけの城で平時はふもとに住んでいます。そして篭城に備えて食料をためています。

篭城戦は根競べです。大きな城を攻めるときは攻め手が食料がなくなって引き上げるということもあるのです。
普通は篭城は援軍の当てがあって初めて篭城できるといわれ、援軍の当てのない時は攻め手に有利な戦いに見えますが、実は攻め手にも不安要素はあるのです。野営では常に敵の攻撃を恐れているので兵の消耗が激しいです。しかし城があれば見張りを除いてゆっくりと寝る事が出来ます。
また、川の脇にあるということで、城への補給を断つことも出来ます。
こういう山城では川は重要な補給路になるからです。夜の闇にまぎれて船を出せば補給が可能ですからね。

そして城側への心理的な影響もあります。目の前に城を作られた。これは自分の国が滅びる不安をかきたてます。この頃の戦は士気を無くした方の負けです。死者はそんなに出ず、1割の兵が死んだら大敗と言われます。

そこで信長は柴田勝家らに命令して城を作らせましたが失敗に終わりました。そこで秀吉が名乗りを挙げました。
城の作成は他の方が答えたように上流からいかだを組んでもって来ました。
上流の地理に詳しい蜂須賀小六がいたからこその計画です。上流には木曾杉と言うよい木材の産地があったのです。そして小六の案内で、やすやすと敵国に侵入し木材を切ることが出来ました。

そして他の家臣たちに出来なかった墨俣城を築城できたことで秀吉の名は織田家・その家臣の間にに知れ渡り、それから出世街道をひた走るのです。

そして墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走りました。

上記で書いたように国人は大名と完全な主従の関係ではありません。となると新しい国主になりそうな信長に傾くのは当然の帰結です。
極端な話、彼らは自分の領土を安堵してくれれば国主が誰でも構わないのです。
そして美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄(良通)、安藤守就、氏家卜全(直元)の3人を味方に引き入れ、さらに竹中半兵衛(重治)を秀吉がくどき落としました。
この美濃三人衆は有力国人で、3人が団結すれば国主(この場合は斎藤家)も逆らえないほどの力を持っていました。

そして、ここが攻め時と判断しやっと稲葉山城を攻め落とすのです。

このとき龍興は越前の朝倉氏の下へ逃げ込みました。

また秀吉は一夜城が得意で、小田原攻めの時も一夜城を作っています。
もっとも、この一夜城は森の中に城を作って完成してから城との間の木を伐採して城から見るとあたかも一夜で出来たように思わせる心理的な作戦でしたが。

この回答への補足

peitaサマ、janfrancoサマ、takesamaサマ、miskaサマ、nonkunサマ、ご回答、本当に有難う御座いました。
締め切りが遅くなり、大変申し訳御座いませんでした。

皆様の回答から、得る物が沢山あり、大いに勉強させていただきました。
ポイントの発行について、ひじょうに悩んでしまったのですが、今回は、すべてをまとめて回答して下さった、nonkunさんに「良回答」を、多くの参考物件を紹介してくださって、斎藤家について、詳しく説明して下さった、miskaさんに「次点」を差し上げます。
ポイントを差し上げられなかった皆様、申し訳御座いません。m(__)m

皆様、本当に有難う御座いました。
これからも、宜しくお願い致します。m(__)m

補足日時:2001/07/25 17:35
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この回答へのお礼

nonkunさん、ご回答下さって有難う御座いました。お礼が遅れて、申し訳ありませんでした。
随分前の質問にもかかわらず、ご回答下さったので、大変嬉しく思います。

信長が多くの敵と対峙していたのは知っておりましたし、織田家の中でも異質な存在で、内輪を掌握したかったのも存じておりましたが、nonkunさんのご回答により、さらに詳しく知ることが出来て大変勉強になりました。

> 斎藤道三の息子の義龍は斎藤道三の息子ではなくて土岐氏の血を受けづいてるという噂が流れました。

このことは初めて知りました!
息子はともかく、道三のほうも、このうわさを信じてしまって、2人の仲がより、険悪になってしまったのかもしれませんね。

美濃の名前の由来も初めて知りました。
また、「交通の要」という視点に気が付きませんでした。
ではやはり、信長は是が非でも美濃を掌握したかったのでしょうね。

> この頃の大名は完全な主従の関係ではなく、国人たちと契約を交わしてるだけにすぎません。
> 結構気を使わなければ上手くやっていけなかったようです。

いやはや・・・そこにも気が付きませんでした。
戦国時代ならでは・・・なのでしょうか?
蜂須賀小六は、もともと信長に仕えていたわけでもないし、そう考えると納得がいきますね。

墨俣の地理についても認識不足でした。三角州だったんですか~! 

そして、役割についても大変分り易い説明ですね。
もう、ただただ、関心するばかりです。

食料の事や、野営での体力消耗のことを考えると、墨俣城がいかに重要な拠点となったかが、窺えます

そして、地理に詳しい蜂須賀小六がいたからこその計画、家臣達の信頼(同盟?)関係があってこそですね。
信長の人を見る目、そして、その信長に尽くす家臣(と、この場合は「同盟相手」としたほうがいいのかな?)、このバランスが成り立っていたのが素晴らしい事ですね。

小田原の一夜城のことも、少しは知っていたのですが、どうやら私は、そちらのほうと少し混同していた部分があることに気が付きました。
お恥ずかしい・・・(^^;)

本当に大変参考になりました!!
ご回答下さって、本当に有難う御座いました!!

お礼日時:2001/07/11 05:14

すいません。

本そのものは本日、家に置いてきてしまいましたので、下のURLを参考にしていただければ・・・。
では。では。

参考URL:http://www.yosensha.co.jp/jinbun1.html
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この回答へのお礼

本当に何度も有難うございます!!
超速攻のお返事でめちゃくちゃ驚きました。

これは面白そうですね(^^)
私も主人もこういうのは好きなので、買うことにします♪
大変感謝しております♪

追伸:(こんなに何度もいいのだろうか…(^^;))gooのフリーメールって使ってますか? よかったら、1回覗いてみてくれませんか? 見当違いだったら、ごめんなさい。m(__)m

お礼日時:2001/05/07 20:32

コンコン。

ガチャッ。失礼します。まだ開いてましたね。良かった。(もうそろそろ一週間かなと思ってたので)
槍が深々と刺さり、瀕死状態のtakesamaです。「何度でも嬉しい」という言葉に甘えて再び登場させていただきます。

ご指摘の件に関しては、反論したいのは山々なのですが、ここでは回答者同士が議論する場所ではありませんので、敢えて触れません。それで、僕も勉強不足の点もあり、このままでは戦国武将フリークの名が廃るということで、色々調べてみました。よって、無理から責任をもって本題に戻します。

興味深い本を見つけて借りてきました。藤本正行著の「信長の戦国軍事学」と言う本です。
これには、信長の軍事的な”通説”(定説?)を思いっきりぶった切ったことが書かれておりまして、墨俣城についてももちろん書いています。
それによりますと、(考察は長々と書いていますので割愛させていただきますが、)『秀吉が墨俣一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせるだけの史料的な裏付けがない』とのことです。

前々回の回答と同じように夢の無い話になりました。興味があれば一度、読んでみてください。また、混乱を招いてしまったかもしれませんね。御免なさい。

これも、指摘を受けると確実に”討ち死に”ですな。

追伸の追伸:興味はありますが、なんのことやらさっぱりわかりません。

この回答への補足

すみません、takesamaさん。
「藤本正行著の「信長の戦国軍事学」」探したのですが、よくわかりませんでした。
よろしかったら…
・Bookサイズ(ハードカバー?文庫?)
・出版社
を教えていただけないでしょうか?
何度もすみませんが、よろしくお願い致します。m(__)m

補足日時:2001/05/07 20:01
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この回答へのお礼

takesamaさん、何度も有難う♪
本当にいろいろな本が出ているのですね。
いっぱい勉強しなければ…。

うーん…。
> 秀吉が墨俣一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせるだけの史料的な裏付けがない

というのがあると、この疑問自体がなんなのだろう…、という気にもなってきますが、いろいろな説が知りたいので、これも読んでみますね。

えー今回は1ヶ月くらい様子を見る予定です。<締め切り
質問がちょっと、複雑(?)なので。
では、いつもご回答下さって、本当に有難うございました。

追伸:ん~…(^^;)では、URLの末尾を(この質問は http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=70172 となっていると思いますが)64271・70373・70000 にして、質問・回答・お礼を全部読んでみて下さい。
これ以上のヒントは言えません…(ごめんなさいね)

お礼日時:2001/05/06 22:32

再び横槍を入れさせていただきます。


僕も真田家は大好きなのですが…

> takesamaさん

> 徳川軍を敗戦させたのは、武田軍が一度、真田軍が二度です。

武田軍も、三方ヶ原の前年に三河に侵攻して小競り合いながら勝利しています。
というわけで最低二度は勝っていることになります。
…というより、実際のところ徳川家って単独で勝った戦いはほとんどないんですよね^^;
# 姉川、長篠、関ケ原などは徳川家とは言えないでしょう

> 「太閤記」より、「真田太平記」をお奨めいたします。

太閤記は秀吉の伝記に伝統的につけられるタイトルなので、一本の小説と比較するのは無理があるかと。


と書いた直後になんですが、お薦めの小説ということで。
司馬遼太郎の一連の戦国モノを薦めておきます。
・国盗り物語(全四巻、道三、信長、明智光秀の話)
・新史太閤記(全二巻)
・関ケ原(全三巻)
・城塞(全三巻、大坂の陣)
※巻数は全て文庫版
それぞれけっこう厚い本ですが、都合がいいことにこれだけ読めばこの話題に出てきた人物に付いては一通り知ることができます。
もちろん、小説なので(これは真田太平記にも言えますが)全て事実だと思ってしまうのは危険ですが。
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この回答へのお礼

あら~みんなしてぇ、どんどん話が反れちゃうんだから♪
見ていて楽しいですけどね(^^)

オススメ本を紹介していただきまして、有難うございます。
まだ、図書館に行く前で良かったです。
「国盗り物語」「新史太閤記」「関が原」「城塞」……っと…メモメモ。
文庫版というのは有難いですね。
頑張って、読破しまーす!

参考になりました。miskaさん、本当に何度も有難うございました。

お礼日時:2001/05/04 17:59

またまた、しつこくやってまいりました。

(好きな分野はどうしても、複数回になってしまいます。御免なさい。)

直接の回答ではないので余談としてお聞きください。
>「真田幸村」ちょっとしか知りません…。ごめんなさいね。
許しません!!それは、冗談ですが、「戦国時代」が比較的お好きだということなので、真田家について。
徳川軍を敗戦させたのは、武田軍が一度、真田軍が二度です。真田軍が破ったのは、家康自身が率いたのではないのですが、武田軍の時は徳川軍が圧倒的不利にもかかわらず、戦いを挑んで惨敗しました。しかし、対真田軍は、圧倒的に徳川軍が大軍を率いておりました。でも、真田昌幸(幸村のお父さん)の見事な采配で、徳川軍が勝ちを得ることが出来なかったのです。

ね。巨大戦力に立ち向かう、弱小戦力。しかも、弱小戦力の勝ち。何かに似ているとは思いませんか?yayupuu3さんなら、必ず好きになると思います。

よって、「太閤記」より、「真田太平記」をお奨めいたします。15巻くらいありますが・・・。

質問の回答にはなっておらず、しかも押し付けがましいい文章になってしまい、さらにはただ単なる自己陶酔的な文章になりましたので、わざわざお礼をつけていただかなくても良いです。
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この回答へのお礼

おほほ(*^。^*) 私のコメント欄はお読みになっていますか?
「お返事だけは100%保証(?)です」と書いてしまっているのですよ(笑)

「真田太平記」ですね。図書館に行って、探してきます♪

何度でも嬉しいですから、あまりお気になさらずに。
何度も足を運んでいただき、有難うございました。

追伸:質問回答に関係なく発言できるところをみつけました。
興味があれば…私の回答した質疑の中です(^^)←多いけど…
(pさんの「納豆」もお返事済みです)

お礼日時:2001/05/04 10:55

横から失礼します。


墨俣城ではなく斎藤家についての補足を。

義龍が道三(秀龍)を攻め滅ぼしたことは間違いないです。
理由に付いては義龍の実の父は土岐頼芸(美濃国の前国主、道三に追放された)であり、その復讐だったという説が有力ですが、事実かどうかは今となってはわかりません。

義龍は1561年に没しています。病没と言われます。
可能性としては信長による暗殺もないとは言えませんが、彼の死が直接美濃奪取につながっていないことからも可能性は低いと言えるでしょう。
織田軍との戦闘で死亡という説は聞いたことがないですし、当時の状況から言えばかなり難しいのでは。
(信長の尾張統一が59年、桶狭間が60年と間もない時期ですので大規模な戦争を起こすのは難しい時期だと思われます)
跡を継いだ龍興は愚将と言われることが多い人ですが、それでも6年に渡り織田軍から美濃を守り通したほどなのですし。


墨俣についても少し。
現代人が城と言われると、つい姫路城などの立派な建築物を想像してしまいがちですが、戦国時代以前の特に前線の城というものはもっと小規模な、砦のようなものだと思ったほうがいいです。
特に墨俣のように目的(美濃制圧)が達成できれば価値のなくなる城だとなおさらでしょう。
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この回答へのお礼

> 横から失礼します。
なんて、とんでもない!
わざわざこの質問に回答して下さる為に、会員登録して下さったのかな? なんて感じましたから、涙がちょちょぎれるほど嬉しいです~!!!

「道三」「義龍」「龍興」の関係を判り易く解説して下さって、本当に有難うございます!
やはり、道三は義龍に攻め滅ばされていたのですね。
「義龍」の死因については、いろいろな説があるのですね。
本当に勉強になります。

「墨俣城」についても、認識不足でした。
いろいろと検索していたら、立派に「お城」としての建築物のように見受けられたので、「砦」という形が思い浮かばなかったんです。
これもまた、勉強になります。

いろいろと検索していて、思ったことですが、
「墨俣城」に直接足を運んだほうがいいように思えました。
「資料館」もあるようですし…。
ここが私の疑問を晴らす、最善の場所のように思えました。

miskaさんのご回答、大変参考になりました。
本当に有難うございました!

お礼日時:2001/05/02 10:37

takesamaさんへ。

(yayupuu3さんへの解答欄にごめんなさい。)
そんな、横取りだなんて思ってませんよ!気にしないでくださいね。
確かに墨俣に関する話は虚構も含まれるでしょうね。秀吉自身、話ふくらますの好きそうですし(笑)。
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この回答へのお礼

peitaさん、私は全然気にしていないから大丈夫ですよ(^^)
お礼欄に新たな質問をしても、回答を下さらない方もいらっしゃって、takesamaさんもその辺のことを配慮して下さってのご回答だと判断しております。
「会員同士のコミュニュケーション」がはかれるのも、このサイトの良い部分だと思っておりますので、あまり気になさらないで下さいね。
他の方のやり取りを見ているのも、私には楽しいです♪

お礼日時:2001/05/02 09:58

はい、はーい!!戦国武将フリークの顔も持つtakesama再度登場でーす。

と、書き出しは威勢が良いのですが先にお詫びいたします。(お詫びばっかり・・・)ご丁寧な返事を頂きましたが、正直なところ良く分からないのが現状です。
ただ、夢のない現実的なお話をさせて頂きますと、そもそも文献自体、誰贔屓なのかで誇張表現などが加わりしばしば、混乱を招きます。”ヤマカン”の語源とされる武田家軍師の山本勘助はその存在自体が怪しいとされています。(史料的には「甲陽軍艦」でしか登場しないはずです。)さらに、僕の一番好きな真田幸村をご存知ですか?そうです。真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵は有名ですね。)を連想させる武将です。しかし、この真田”幸村”とする良質の書物は現存してないのは有名な話です。真田信繁というのが正しい名前です。

墨俣城については僕は「太閤記」で3日と読んだ記憶があるのですが、「太閤記」自体が秀吉贔屓の書物ですから、実際はもう少しかかったかもしれません。しかし、一夜ではないのと、筏を使って今で言うところのプレハブ工法を採用したのは間違いないようです。

的確なお答えが出来ずに戦国武将フリークの僕としては悔しい限りなのですが、これ位が言い訳としては精一杯です。申し訳ない・・・。

それと、peitaさん。回答を横取りしたみたいな形になって、もし気を悪くされていたら御免なさい。
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この回答へのお礼

もぉ~、takesamaさんってば…出だしでかなり期待しましたよ!
そして落胆…(・;)
いいんです。気にしないで下さい。
大体、現在生きている人間には、過去の書物からしかわからないのが事実で、正確なことは、その時代を生きてきた人間にしかわからないのです。
ただ、私も「戦国時代」は比較的好きな分野なので、興味がわいたんです。

takesamaさんはいろいろな書物を読んでいるようですね。
「太閤記」私も読んでみようかな?
普段は「教えて!goo」ばっかりですから、ちょっとは離れたほうがいいかもしれません…。

「真田幸村」ちょっとしか知りません…。ごめんなさいね。
最近は「新撰組」に興味を惹かれて、そっちが多いなぁ…。
今回の質問に関しては、むかーーーしに「信長」のレポートを書いたことがって、その時のかすかな記憶からなんです。
でも、あまりにも昔の記憶すぎて、ほとんど忘れておりました(^^;;)

いろいろとご配慮いただき、本当に何度も有難うございました。

お礼日時:2001/05/02 09:50

yayupuu3さん、お返事ありがとうございました。

ご質問に関しては他の方々が答えてくださっているのでいいかなとは思ったんですが答えます。

このときの戦は、対斎藤竜興です。道三の孫ですね。子の義竜はもう亡くなっていますから。(確か道三を殺した敵として、信長に攻められ亡くなったはず・・。とにかく失脚していることは確かです。)信長は道三を尊敬し、また道三も信長のことをたいそう買っていました。子や孫はそれに反感をもっていたようですね。

あと、秀吉に築城の役がまわってきたのは、他の方がおっしゃっているとおり、秀吉が立候補したからです。前の回答でも述べたとおり、墨俣に城を築くのは並大抵のことではできませんし、実際何度も失敗に終わっています。ですから信長が人を募っても、そう簡単には「我こそが」という人がいなかったのです。秀吉は、これこそが信長に気に入られ出世できるチャンス、あるいは信長様のお役に立てるチャンス(おそらく両方でしょうが)と考えたのでしょう。なんにしてもアイディアマンの彼にとっては、自分の力を信長に知らしめるためのまたとない機会であったわけです。


と、こんなところでよろしいでしょうか?だらだらとわかりにくくて申し訳ありません。お役にたてれば幸いです。
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この回答へのお礼

peitaさん、本当に何度も有難うございます! 大変感謝しております。
わかりにくい…なんてとんでもないです!
大変わかり易い説明で、有難いかぎりです!!

義龍は信長に殺されていたのですか…。
勉強になります。
道三と信長の関係を考えると、子や孫が反感をもったというのもうなずけます。

「日吉」のころから秀吉は、信長のことを大変尊敬していたようですね。
この機会を生かせたのは、秀吉が本当に優秀な人材だったからなのでしょうね。
「何度も失敗に終わっていた」…というのは知りませんでした。
きっと藤吉郎もいろいろなアイディアを考えていたのでしょうね。

大変参考になりました。本当に有難うございました!

お礼日時:2001/05/01 13:24

只今、お昼休みです。


義竜については、義龍の方が普通ですよね。失礼しました。
墨俣城築城は、1566年。道三没が1556年といわれております。(因みにおっしゃるように子の義龍に攻められて没しました。)よって、道三相手ではないことは確かです。
で、訂正なんですがこのときの斎藤氏の主は義龍の子の龍興でした。重ねてお詫び申し上げます。(良かった。誰かに駄目出しされる前で・・・。)
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この回答へのお礼

貴重なお昼休みを割いていただいて、有難うございます。
そうだったんですね。
どうも私は「道三」「義龍」「龍興」「信長」の関係がよく把握できていなかったので、わかり易い説明で助かりました。

「義龍」「龍興」は「信長」に好印象をいだいていなかったようですね。
こうなると、「秀吉」の歴史を調べる前に「信長」「美濃」あたりを重点的に調べる必要がありそうですね。

後、ちょっと「墨俣城」のついて調べていたら、建設日数が60日くらいとか、人員数5~600人とか、ところによって1,200人とか…???
訳がわからなくなってきました(^^;)
この辺りのことも、takesamaさんはご存知でしょうか?
本当にお暇なときでいいので、考察等、お聞かせいただけますか?

また、質問が増えてしまってすみません。m(__)m
本当に何度も有難うございました。

お礼日時:2001/05/01 13:05

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Q歴史上の人物の血液型は?

仙台の資料館に伊達政宗はB型だったとありました。

それから、
織田信長 B型
豊臣秀吉 O型
徳川家康 A型
と聞きましたが人づてのため、信憑性はないです。
なんとなく、わかる感じもしますが、本当でしょうか?

あと、どの歴史上の人物でもよいので血液型を知っている方は教えてください。

個人的には、三国志の時代、戦国時代の武将や幕末の志士たちに興味ありますが、その他の時代の人物の血液型でもいいです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

#5です。竜馬の血液型の件なんですが、これは以前TVで竜馬を扱った番組内でそのように放送された記憶があります。
その番組が2年程前に放送された「知ってるつもり」の中で扱われた竜馬の放送かと思い、録画したビデオを見ましたところ、この放送の回ではありませんでした。
ですが、竜馬を扱ったTVの番組の中で、最近、竜馬の血液型が判明したと、その番組内で放送された記憶があるのですが。間違っていたらすいません。
あと、西郷隆盛はB型で、大久保利通はO型だったと聞きました。

Q木下藤吉郎の身分について

一般的には「秀吉は農民の出」ということになっています。しかしふと思ったのですが、ただの農民で苗字ってあったのかなという点です。

Wikipediaをみると、親が足軽だった(つまり武士の家柄?)とか、妻ねねの姓を名乗っただけ等の説がありますが、結論としては「真相は不明である」とのことのようです。他のサイトでも真相はよくわからないとあったのでそうののかと思いました。

私の浅い知識では、「当時は農民の身分では苗字などない」と思っていたのですが、教科書や一般的な説では当たり前のように「信長に仕官する前は木下藤吉郎だった」ということになっていると思います。

だとするとどういうことなのかなと言うと
・戦国時代は農民など低い身分のものにも苗字があった
・秀吉は苗字を持っていて身分は低くは無かった
のどちらかなのではないかと思いました。

で、もともと武家なので苗字はあったが、何らかの理由で一時農民になった。しかし見返してやるという思いで信長に拾ってくれと頼みに行った、そういうことなのではないかと思うようになりました。本当に完全な農民が、いきなり拾ってくれとはむしろありえないのではないかと。

結論としては「よくわからない」ということなのかもしれませんが、上記の件について
・戦国時代は農民など低い身分のものにも苗字があった
・秀吉は苗字を持っていて身分は低くは無かった
のどちらかなのかなどについて教えていただきたいです。

もしも前者だった場合、少なくとも明治時代の初めにみんなで苗字を作ったので、江戸時代末期には多くの農民は苗字は無かったはずで、どこかの時点で苗字が奪われるという政策とかがあったのではないかと思うのですが、そういう話ももしあれば教えていただきたいです。

よろしくお願いします。


豊臣秀吉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

一般的には「秀吉は農民の出」ということになっています。しかしふと思ったのですが、ただの農民で苗字ってあったのかなという点です。

Wikipediaをみると、親が足軽だった(つまり武士の家柄?)とか、妻ねねの姓を名乗っただけ等の説がありますが、結論としては「真相は不明である」とのことのようです。他のサイトでも真相はよくわからないとあったのでそうののかと思いました。

私の浅い知識では、「当時は農民の身分では苗字などない」と思っていたのですが、教科書や一般的な説では当たり前のように「信長に...続きを読む

Aベストアンサー

・古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。
 名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。
 江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」という具合に語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。また先祖が武家で後に平民になった場合に先祖伝来の名字が受け継がれる場合もあった。ただそれを名字として公的な場で名乗ることはできなかった。そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。魚や野菜などの食べ物、土地にちなんだ名字が多く見られるのもこのためで、「○○の人」と分かりやすくするため、用いられていたと言われている
(ウイキィペディアより)
※しかし、明治維新後、すべての国民が苗字持つよう定めれた時、これ幸いと藤原だの豊臣だの、先祖と無関係に名乗ったのも多い\(^^;)...マァマァ

色々な説はあるが、通説は
尾張中村の農家木下家の藤吉郎(父は一時織田の足軽までなったが、負傷して帰農)
が一時、駿河の松下家(今川の家臣)に仕えて、最低限の武士のノウハウを身につけたのちに、リストラされ\(^^;)
尾張に戻り、今度は信長に仕官したとされている。

・古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。
 名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。
 江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、...続きを読む

Q<世界の著名人の血液型> <日本の著名人の血液型>

とうとう判明!

ビル・ゲイツ|Microsoft創業者|血液型A型
スティーブ・ジョブズ|Apple創業者|血液型A型
マーク・ザッカーバーグ|Facebook開設者|血液型A型

だった!

    
     <世界の著名人の血液型>

【名前】 【概要】 【血液型】

アルベルト・アインシュタイン|天才的物理学者|血液型A型

イエス・キリスト|救世主|血液型A型

カール・ラントシュタイナー|ABO式血液型発見者|血液型A型

キム・ジェジュン|東方神起元メンバー|血液型O型

ジョージ・ワシントン|初代アメリカ合衆国大統領|血液型A型

スティーブ・ジョブズ|Apple創業者|血液型A型

チンギス・カン|モンゴル帝国の初代皇帝|血液型A型

トーマス・エジソン|発明王|血液型A型

ナポレオン・ボナパルト|フランスの英雄|血液型A型

パク・ギュリ|KARAのメンバー|血液型AB型

ビル・ゲイツ|Microsoft創業者|血液型A型

ベーブ・ルース|野球の神様|血液型A型

マーク・ザッカーバーグ|Facebook開設者|血液型A型

マキシモ・ネルソン|プロ野球選手|血液型B型

レオナルド・ダ・ヴィンチ|万能人|血液型A型


参考サイト:血液型大全




     <日本の著名人の血液型>

【名前】 【概要】 【血液型】

B・N・F|天才的投資家|血液型A型

イチロー|プロ野球選手|血液型B型

伊藤博文|初代内閣総理大臣|血液型A型

織田信長|武将のカリスマ|血液型A型

香川真司|日本一のプロサッカー選手|血液型A型

加藤鷹|日本一のAV男優|血液型A型

ダルビッシュ有|日本球界のエース|血液型A型

手塚治虫|漫画の神様|血液型A型

徳川家康|江戸幕府の初代征夷大将軍|血液型A型

豊臣秀吉|天下統一を成し遂げた武将|血液型A型

鳥山明|世界一の漫画家|血液型A型

本田圭佑|プロサッカー選手|血液型AB型

松井秀喜|プロ野球選手|血液型O型

松下幸之助|天才的実業家|血液型A型

室伏広治|天才的プロアスリート|血液型A型


参考サイト:血液型大全






以上のことから世界で一番多い血液型A型と比例してることがわかります。

この結果どう思いますか?

あくまでも、中立の立場での回答をください!

血液型差別等の回答はNGです。



知っていればでいいので、Google(グーグル)創業者のお二人の血液型教えてください。
ラリー・ペイジ と セルゲイ・ブリン です。

とうとう判明!

ビル・ゲイツ|Microsoft創業者|血液型A型
スティーブ・ジョブズ|Apple創業者|血液型A型
マーク・ザッカーバーグ|Facebook開設者|血液型A型

だった!

    
     <世界の著名人の血液型>

【名前】 【概要】 【血液型】

アルベルト・アインシュタイン|天才的物理学者|血液型A型

イエス・キリスト|救世主|血液型A型

カール・ラントシュタイナー|ABO式血液型発見者|血液型A型

キム・ジェジュン|東方神起元メンバー|血液型O型

ジョージ・ワシントン|初代アメリカ合...続きを読む

Aベストアンサー

チンギス・カンで吹いてしまった(笑)

そういうのは単なる迷信だと思ってます。歴史の闇に埋もれた縁の下の力持ち的な偉人の方が偉いと思っているので。

Q墨俣城について

この間、「利家とまつ」を見ておりましたら墨俣に城を造るという場面がありましたが、私の知っている歴史では木下藤吉郎が造るはずでしたのに何故か佐々成正が造ることになっていました。実際の歴史では木下藤吉郎は一夜城を造らなかったのでしょうか。「利家とまつ」を見ていながら信長や秀吉の活躍が見れるのを楽しみにしていたのでがっかりしています。歴史に詳しい方どうか教えてください。

Aベストアンサー

木下藤吉郎も造ります。佐々成正だけでなく多くの織田家の武将(柴田勝家も?)が挑みますが。材料を担いで行って施工したので、現場で斉藤家に返り討ちにあっています。最後に木下藤吉郎です。
このお話は後の豊臣秀吉の出世街道のスタートのようなものでかなりの脚色がされていると思います。現代の建設技術を持ってしても一夜で城を造るというのは無理です。ユンボやクレーン、トラック、ユニック(クレーン付きのトラック)が何台もそろっていても無理です。柵ぐらいなら一夜で、できたかもしれません。どちらにしても斉藤家としては、自分たちの目の前に一夜で柵ができたら、びっくりしたことだと思います。
ドラマではこのようになるのではないでしょうか。佐々成正の顔ちょっとしんどそうな顔してませんでしたか。木下藤吉郎、ひょっとしたら利家の協力、まつの知恵で造られるのではないでしょうか

Q血液型

織田信長の血液型はA型だったと聞きました。
ほかの戦国武将の血液型もわかれば知りたいので教えて下さい。

Aベストアンサー

豊臣秀吉 O型 血判状から判明
伊達政宗 B型 遺骨から判明
徳川秀忠 O型 
上杉謙信 AB型 誓文から判明

戦国武将で血液型が分かっているのはたぶんこれだけだと思います。

また戦国武将ではないですが
大久保利通 O型 遺髪から判明
西郷隆盛  B型
夏目漱石  A型

だそうです。

Q豊臣秀吉の「

末裔いますか???

Aベストアンサー

いると思います。

Q生物Iの血液型問題を教えてください!

 ヒトの血液型には、ABO式血液型のほか、Rh式、MN式などがある。
 MN式血液型には、M型、N型、MN型の3種があり、優劣関係のない遺伝子M,Nによって決定される。
 M型、N型、MN型の遺伝子型は、それぞれMM,NN,MNとする。

 佐藤家の太郎君の血液型は、A型で、MN型、実弟の次郎君は、O型でN型である。
 太郎君、次郎君のお母さんはの血液型はB型でN型である。

 山田家は花子さんと妹と両親と4人家族で、ABO式血液型は4人とも違っている。
 花子さんの血液型はB型でM型である。

 (1)花子さんの妹のABO式血液型は何か。
 (2)太郎君の父親のABO式血液型とMN型式血液型は何型であると考えられるか。すべて書き出せ。
 (3)太郎君と花子さんの間にできる子は、何型の場合があるか。ABO式、MN式についてそれぞれ答えよ。

Aベストアンサー

(1)A型
父親と母親はAB、O型のいずれか。(ABO式血液型は4人とも違っているより)
(2)
ABO式血液型 A型(実弟の次郎君はO型より遺伝子型はAOに決定)
MN型式血液型 M型、MN型(Mを持たないといけない)
(3)
太郎君は遺伝子型AO、MNに決定(次郎君がO型より)
花子さんは遺伝子型BO、MMに決定(両親がAB、OOより)
なので、子は、
ABO式血液型 A型、B型、O型、AB型
MN型式血液型 M型、MN型

 

Q豊臣秀吉のお墓

豊臣秀吉のお墓はどこにあるのでしょうか?また秀吉を祭っている神社もどこにあるのでしょうか?

Aベストアンサー

以下のとおりです。

http://www.m-network.com/sengoku/haka/hideyoshi450h.html
http://www.apsara.ne.jp/houkoku/

Q血液型性格判断の話題で嫌な思いをしたことがありますか?

1.血液型性格判断(血液型占い)の話題で嫌な思いをしたことがありますか?

2.(ある方のみ)具体的にはどのようなことでしたか?

3.あなたの血液型は何ですか?

4.(ある方のみ)あなたに嫌なことを言ってきた相手の血液型は判りますか?

5.血液型性格判断を話題にすることについて、何か思うところがあればお願いします。


血液型別性格判断(血液型占い)を信じていますか? というアンケートではありません。血液型別性格判断(血液型占い)の話題をされることで嫌な思いをしたことがあるか、というアンケートです。

ただし「自分が直接体験したこと」に限ります。例えば「自分が直接言われたわけじゃないけど、ネット情報によると血液型で就職差別なんかもあるらしい」といったものは、今回は除外させていただきます。

アンケートですので、

1、ない  2、-  3、○型  4、-  5、血液型占い大好き! 血液型占いをムキになって否定されるのってしらける。

などといったご意見の方の投稿も歓迎します。(勿論、そうでない方も大歓迎です)

1.血液型性格判断(血液型占い)の話題で嫌な思いをしたことがありますか?

2.(ある方のみ)具体的にはどのようなことでしたか?

3.あなたの血液型は何ですか?

4.(ある方のみ)あなたに嫌なことを言ってきた相手の血液型は判りますか?

5.血液型性格判断を話題にすることについて、何か思うところがあればお願いします。


血液型別性格判断(血液型占い)を信じていますか? というアンケートではありません。血液型別性格判断(血液型占い)の話題をされることで嫌な思いをしたこ...続きを読む

Aベストアンサー

1.血液型性格判断(血液型占い)の話題で嫌な思いをしたことがありますか?
→あります。

2.(ある方のみ)具体的にはどのようなことでしたか?
→血液型を教えた瞬間から変人扱い。冷たい、二重人格などといわれる。

3.あなたの血液型は何ですか?
→ABです。

4.(ある方のみ)あなたに嫌なことを言ってきた相手の血液型は判りますか?
→A型です。

5.血液型性格判断を話題にすることについて、何か思うところがあればお願いします。
→楽しく会話するぶんにはいいですが、あまり「●型だから~」とこだわりすぎたり、決め付けられるのはいい気分じゃないですね。先入観で判断されている気がします。

Q豊臣秀吉の頃の年貢

太閤検地政策が終わった頃の年貢の比率ってどのくらいのものだったのしょうか?

米や作物が年収として300万円分生産(貨幣価値は現代と同等)できたと仮定して、現代の年収300万円からどのくらい年貢として持っていかれるのでしょうか?
また、農家は現在のように米や野菜を現金に変えてたのでしょうか?物々交換??

年代、不作、大名、反の地主や役人で大きく変わってくるのでしょうがお解りになられる範囲で回答して頂ければ助かります。

Aベストアンサー

No.4です。
補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。
>例えば鉄鍋や包丁などの調理器具、布団、衣類などの日常品も自給で生産してたのでしょうか?
落ち着いた感じのする江戸時代より信長~秀吉のいわゆる戦国時代に興味があるもので・・・

当時の鉄の原料は砂鉄です、少量ずつであれば日本各地で入手できました。
まとまった形のインゴッットは商人が運んできました。
刀にせよ槍、弓、矢、鎧などを自領内で調達できずに商人頼りでは戦はできません。
鋤、鍬、鎌などの農機具の需要と補修の要求は常にありました。
このような技術を持った鍛冶屋は必ず村内にいました。
鉄鍋の補修程度は簡単にこなしました。
包丁などの刃物は物騒な戦国時代ですから常に制作していました。
鉄は貴重な素材ですのでリサイクル使用します。

これらの専門技術を持った人とユーザーである農民との間では、多少現金が必要だったでしょう。
ただし、この専門技術を持った人も野菜など自給できる程度の畑は所有していました。
大事な農具を作ったり直したりする人です、日常的なおすそ分けは当然あったでしょう。

衣料用の繊維は麻と木綿が主体でした。高級品としては生糸もありました。
いずれも村内で生産されていました。
糸を紡いだり布を織るのは女性の重要な家事でした。
布も貴重品ですのでこれもリサイクル使用されていました。
布として形状が残っている限りリサイクルされ続けました。
現在でも各地の民芸品として各種のものが売られています。

日本の山というのは非常に豊かな森林を構成していました。
必要とされる物資はほとんど供給してくれました。
森林の恵みを生かす技術は縄文時代から受け継がれてきていました。
縄文時代、弥生時代と非常に長い間日本人は自然の恵みの中で暮らしていました。
関東平野は今は見る影もありませんが、豊かな雑木林と里山が続く土地でした。
現在は山菜は土産物か地方のお土産品ですが、当時は日常的な食品でした。
保存のための、漬物の類はどこにでもありました。
田畑だけが食糧品を提供していたわけではありません。
川や湖沼も豊かに魚類(動物性たんぱく質)を提供してくれました。
泥鰌、鮒、鯉、、モロコ、鰻、田螺、川エビ、などは子供でもとれる日常食品です。

関西地方以西は豊かな瀬戸内海を控えていますので、海産物に不足することはありませんでした。
利根川以北の河川には秋になると鮭や鱒が遡上してきました。
全国の川に鯔や鮎が遡上してきます。
海も川も今のように汚染されておらず、あらゆる生き物が生息していました。
ちなみに、江戸前というのは、寿司のことではありません。
日本橋川のように江戸城の堀につながる川で取れた鰻のことです。
江戸時代の初期ですら、江戸の街の中で鰻が採れました。

以上のことから、五穀の中でなぜ米だけが租税として徴収されたのかを考えてみてください。

日本列島というのは本当に豊かな島です
しかも戦国時代は現在の十分の一以下の人間しか住んでいなかった時代です。
関ヶ原直後で約1000万人、江戸時代を通じて約3000万人程度と推定されています。
急激に増えるのは明治以降です。

No.4です。
補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。
>例えば鉄鍋や包丁などの調理器具、布団、衣類などの日常品も自給で生産してたのでしょうか?
落ち着いた感じのする江戸時代より信長~秀吉のいわゆる戦国時代に興味があるもので・・・

当時の鉄の原料は砂鉄です、少量ずつであれば日本各地で入手できました。
まとまった形のインゴッットは商人が運んできました。
刀にせよ槍、弓、矢、鎧などを自領内で調達できずに商人頼りでは戦はできません。
鋤、鍬、鎌などの農機具の需要と補修の要求...続きを読む


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