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犬飼毅は五・一五事件で殺害される前に、
なぜ「話せば分かる」と言ったのでしょうか。

A 回答 (8件)

ちょっと補足します。


犬養は単なる暴漢の乱入だと当初思っており、

「まあ待て。話をすればわかるだろう。まあ待て」
といいながら
「あっちへ行こう」
と客間に案内します。
「靴ぐらい脱いだらどうだ?」
「靴の心配はあとでいい。われわれが何をしにきたかわかるだろう」
「まあ待て、ゆっくり話そうじゃないか」
「問答はいい、撃て撃て」

海軍の公判記録ではこのようになっています。このあと、三上以下はタクシーをひろって、運転手に拳銃突きつけて走らせているのですから、まったくもって犯罪者です。
で、警視庁はなにごともなかったように静かなので、一行はガラス扉を蹴りやぶって東京憲兵隊にいきました。結果、逮捕です。無計画極まりありません。右翼の仲間が変電所を襲撃する手筈でしたが、全部失敗しています。というか、6人で東京を全部停電させるという計画が無理でしょう。
人的被害は犬養以外、お巡りさん一人と読売新聞記者が一人、けがしただけでした。

噴飯ものなのは、なぜ5月15日にやったかの理由です。じつはチャップリンがこのとき来日しており、歓迎会が首相官邸で予定されていたから、チャップリンもやってしまえば騒動が大きくなるから、という理由でした。歓迎会は別件で中止になりますが、そんな情報すら手に入れることのできない連中の犯罪だということです。

犬養の同志で政友会の古島一雄は

「軍部と一戦しろ。このままでは亡国だ」

と言っています。
被害者が5・15では事実上犬飼だけなのですから、被害者側の言葉も多くはありません。それでも秘書で作家だった息子の犬養健が、中央公論6・7月号に詳細を書き残しています。
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5・15事件は海軍将校が首魁ですが、取り調べのときに犬飼の最後の台詞について、



「こんなことをするのだから、理由があるのだろう。話そうじゃないか」

といった旨、供述しています。兵士大勢で乱入してきた2.26とちがい、少人数のテロリストだったから、そのような言葉が出たのだと思います。

これと2・26は全くもって身勝手なテロであり、とくに2・26事件は陸軍の暴走に拍車をかける結果となりました。
実行者がなんであれ、国民の税金でそろえた武器と兵士を使って反国家騒乱を起こしたのですから、当時の法律でも極刑に値する、単なる犯罪者です。

2・25日深夜、東京銀座の伊東屋社長の自宅の電話が鳴り、社長がとると守衛が、

「いま陸軍がきています。社長をどうしても呼べと言っています」

いくと、謄写版と紙の在庫をあるだけくれ、とのこと。1000円超えたそうです。今でいうとオフィス用複合コピー機を買うようなもので、軍相手の伝票を起票しようとしたところ、

「金はいま払います」

手の切れるような新札で支払いしたという。

この金は部隊の金です。税金です。
国家の兵士、武器、金まで私して,選挙で選ばれた政治家を、しかも天皇が任命した内閣の政治家を殺害したのですから、帝国憲法にも唾している行為です。

事件後、難にあった政治家の妻が新聞のインタビューで、

「青年将校は卑怯です」

と言い捨てています。兵も武器もカネも好き勝手したのですから、女性の目からみても卑怯にみえて当然です。
また、この発言は当時の全国紙にのったのですから、朝野が「大概にしろ」と思っていたことは、想像に難くないでしょう。
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 ANo.4 書き間違い訂正:


 浅野邸⇒浅野家遺臣の吉良邸討ち入り。
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本当にそう言ったのか、事の真偽は不明です。



ただ、島国で同一的民族の集団である日本人は
話せば解る、と考える傾向が強いそうです。

これに対して、異民族が沢山同居する国では
話しても解らないのは当然だ。

だから、闘争になるのも当然だから、闘争になった
場合のルールを造っておくのがベターだ

と考えるそうです。
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 暴力に遭遇したり、死に瀕しての伝説的な事はたくさん伝わっており、その真偽の論議は神聖な域への踏み込みとも受け取られかねません。


 そしてそのときの言葉の解釈などもそれぞれの思想と思いの中で語られてきました。
 
 禅僧では遺偈というものもあります。たくさん素晴らしいことばが伝わっていますが、一つは快川 紹喜禅師の「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%AB%E5%B7%9D% …

 多くの方が敬愛するインド独立の父、マハアートマ・ガンディの弾丸で撃たれたときの、狙撃者に対する許しと愛のジェスチャー。

 板垣 退助の“板垣”死すとも自由は死せず。
 リンカーン

 などなど。ですのでこれは尊敬する人のその思想からの解釈と受け取りとなると存じます。
 五一五の射殺者、将校を、短絡者とか、無防備の老人を武装した大勢で囲み、射殺した卑怯者とか、どう評価させるかという関係の中で私たちも読書してきました。
 人間の理性と判断力を切断した行為への対極的存在だと存じます。
 二二六はもっと事件でした。

 しかし、私は五一五も二二六も、日本としてはもっとも国民性が昂揚した事件だと評価し、自己の将来を考えて事なかれの生き方への警鐘でもあると存じております。
 両方の事件の若者をとても評価しております。二二六の写真はとても美しい。
 雪、浅野邸への討ち入りも雪。そして桜田門外事件も雪。
 不思議な共通ですが、後の二事件では被害者の言葉は伝わっていません。
 被害者は、英雄になっていないのです。
 英雄にするなら、そのことばを伝えるのです。大衆の好みや心琴線に響かないというだけです。 
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そんな事実は無い。

本当はどういう状況だったのか誰にも分かりません。言ったとしても本人はその意味を説明しないまま死にました。いかにも犬飼毅がいいそうなフレーズだと思われたから言葉だけが一人歩きしている。今だってマスコミの悪意ある断片的切り取り報道がもとで政治家が失脚しています。大衆は何を求めているのか。
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犬養毅に限らず議会制民主主義では


暴力やテロではなく問題は話し合いによって
解決しようとするのが大原則、根本です。
だから犬養毅はそう言ったのでしょう。

しかし将校は「問答無用」と言って引き金を
引きました。
これは言論統制し無謀な戦争に突入した
軍閥政治そのものです。

5.15事件はその当時の日本の縮図そのものです。

しかし問題はここからです。
国民がそのような軍を批判指弾し
徹底的に責任追及すれば太平洋戦争
と言う悲劇は無かったと思います。

しかし、この時国民の世論は、軍の将校に
拍手を送るもので、助命嘆願運動が起こりました。

これが2.26事件につながり太平洋戦争という
破滅につながっていったと考えてます。
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犬飼毅は五・一五事件で殺害される前に、なぜ「話せば分かる」と言ったのでしょうか。


>打たれる前にも行ったかもしれませんが、実際には撃たれてからの言葉です。
「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と言っている。最期まで言論で説得しようとする犬養らしい姿だった。このときしゃべったとされる「話せば分かる」という文句は非常に有名。

1930年(昭和6年)、ロンドン海軍軍縮条約に統帥権干犯を絡めて、鳩山一郎とともに政府を攻撃した。ほどで言わば軍擁護派でした。だから、実際に話せば判ると思っていたはずです。相手は聞く耳をすでに持ってなかってんですが。
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