No.6ベストアンサー
- 回答日時:
質問者さんの仰るとおりその時代により理由は違います。
大別してその理由を幾つか述べると・・・
1.戦争で中国に勝ち独立を保った。
2.中国が群雄割拠の状態で朝鮮を攻める余裕が無かった。
3.中国が外敵に脅かされたり、内乱が続発し朝鮮を攻める余裕が無かった。
4.朝鮮半島と中国の間に北方民族の国家が存在し、北方民族の国家と中国が合い争っていたため、独立を保つ事ができた。
というような理由です。
各王朝で順に話していきますと・・・
中国を最初に統一したといわれる始皇帝の秦の場合は・・・
BC221年に中国を統一したわけですが、それは中原を中心とするもので現在の中国からすればかなり狭い範囲の領土です。
中国を統一した後も匈奴を討ち、領土を広げ、南越を攻略して三郡を置くなど拡大しています。
しかし、統一からBC210年に始皇帝が死ぬと、翌年には大きな反乱が起こり4年後には秦は滅びます。
つまり秦の場合、中国の統一を成し遂げた後も領土を拡大していましたが、それが朝鮮半島に及ぶ前に滅亡してしまいました。
そしてBC202年に前漢が建国されますが、約100年後のBC109年に前漢は朝鮮半島の衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島の大半を制圧し楽浪郡、帯方郡などを設置し支配下に置きます。
これが可能だったのは前漢の国力に余裕があったからです。
BC121年に匈奴を討ちその王を降伏させ北方を安定させ、さらにはBC111年に南越を攻略して9郡を設置し、さらには西南夷を攻略して5郡を設置したというように、朝鮮半島に攻め入る前に各地で戦い勝利し領土を広げ、外敵の問題も深刻な状況にはありませんでした。だから朝鮮半島に攻め入る事ができ領土にできました。
その前漢も滅び短い間、新という国ができ後漢の時代がきます。この頃、高句麗が朝鮮の北あたりに勃興してきます。
そして後漢が滅び晋が建国されますが、この国も内乱のため50年ほどで滅びます。
この時、高句麗などが朝鮮半島にあった楽浪郡、帯方郡を滅ぼし、朝鮮半島が中国の支配下から脱します。
晋の滅亡後、中国は群雄割拠の時代となります。五胡十六国時代や南北朝時代の到来です。各国は中華の覇権を賭けて戦い、朝鮮半島の支配どころではありませんでした。そうした時代が約300年ちかく続きます。
この間に朝鮮では高句麗が力をつけ満州の一部にまでその支配を広げていました。
中国が統一されたのは隋によってです。
当初、高句麗は隋と冊封関係にありましたが、高句麗が他国と手を結ぼうとしたため隋が怒り戦争になりました。
高句麗は三度も隋に攻められますが戦いに勝利し、逆に隋がその敗戦が要因となり滅ぶ結果になりました。
つまり、この時の高句麗は戦って隋の支配を免れました。
中国では隋が滅び唐が建国されます。
この時、朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の三国がありました。唐は出兵し、まず百済を滅ぼし、次に高句麗を滅ぼし朝鮮半島の支配を強めますが、その前に新羅が立ちふさがります。
そんな時、唐の西が深刻な問題になってきました。西の吐蕃が興隆してきて唐と度々戦いになっていました。そして唐軍が大敗したのです。そのため唐は西への備えを厚くするため朝鮮半島は放棄し新羅に委ねました。唐が滅ぼした高句麗の地を領土としていたのは8年に過ぎませんでした。
唐と吐蕃の戦いはその後も続いたばかりか、唐は突厥と戦ったり、南の南詔が興隆してきたため南詔軍と戦ってこれを撃退したり、国内で反乱が続発するなどして、とうとうその後は朝鮮半島に目を向ける事なく唐は滅びました。
もし、吐蕃が興隆してこなかったら朝鮮半島全土は唐に占領されていたかもしれません。
唐が滅びた後、中国はまたも群雄割拠の五代十国時代となり、70年ほど分裂状態になります。この時も朝鮮半島の支配どころではありませんでした。
朝鮮半島では新羅が滅び高麗が朝鮮半島を統一しました。
979年に中国は北宋により統一されますが、それまでの王朝より北辺は領土が減っています。満州の辺りは半農半牧の契丹族が遼という国を建国しており、この遼が朝鮮半島の高麗と北宋の間にいるという情勢でした。
遼は高麗に攻め入ったりします。遼が優勢の場合もありますが、高麗が遼を撃退した時もありました。
また遼は北宋と盟約を結んだりもしましたが、ウイグルや西夏とという敵もおり、時にはウイグルに敗退する事もありました。
そのため遼も高麗にばかり力を入れているわけにもいかず、高麗が服属の姿勢を見せ歳幣を支払う事で妥協していたもようです。
その遼も女真族が勃興してきて金を建国してそれに滅ぼされます。北宋も滅び南宋となりました。
高麗は金に服属します。金は高麗が服属する事で満足しました。
南宋と戦い、金国内では契丹族が反乱を起こすという状態です。朝鮮半島にまでは手が回りません。
そんな金も約100年後に蒙古に滅ぼされました。
金が滅び蒙古が興隆してきて1231年に高麗に攻め入ります。高麗は最後まで戦うという選択はせず1259年には高麗は太子が蒙古に赴き服属しました。
一応、高麗の王朝は蒙古の元で存続します。蒙古は征服対象の国を戦争で滅ぼすだけという事はなく、服属と貢納さえすればその国の王朝の存続を認める事もありました。例えばウラジミール公国、モスクワ大公国などがあげられます。高麗もそうした国の仲間入りをしたわけです。
蒙古は元になり暫くの間、中国と高麗を支配しますが、中国での反乱が大きくなり元を倒れ明が興ります。
この時、高麗も元の支配を脱します。
元に味方して軍を出そうとした高麗王に将軍の李成桂が背き、高麗王朝を倒して李氏朝鮮を興しました。
この李氏朝鮮は明に服属します。
明も李氏朝鮮が服属する事で満足します。
明は元を倒したとはいえ、元の第14第皇帝はモンゴルに逃れており、その北元との戦いがありました。この戦いで勝ったり負けたりしたり、北元を滅ぼした後は新たに北アジアで勃興してきたオイラート、タタールとの戦いになり、女真族との戦いもありました。
李氏朝鮮も女真族に脅かされており、明と李氏朝鮮はお互いに北方民族に脅かされている状態です。
つまり、明としては李氏朝鮮を敵とするよりは味方にしておいて北方民族との戦いに利用する方が利益になります。実際、女真族との戦いで明と李氏朝鮮の軍が一緒に戦った事もありました。
結局、明は「北虜南倭」の状態に苦しみます。北のモンゴル族、明の海岸を荒らす和寇への対応が大問題でした。
だから服属している李氏朝鮮を敢えて潰そうとはしませんでした。
明がそうした状況の中、女真族が興隆してきて満州辺りに後金を建国します。この後金は20年後には清に改名しますが、明の衰退とともに国を大きくしていきます。
李氏朝鮮は清に服属します。
清は李氏朝鮮の服属で満足します。この頃は衰退したとはいえまだ明が健在でした。戦いがあって清は1644年には北京を陥落させますが、明を滅ぼす事ができたのはそれから約20年後であり、それから10年経っても旧明軍の武将の大きな反乱が起こったりしてなかなか国内は落ち着きませんでした。
そうしているうちに西方のジュンガルのガルタン・ハーンが勃興してきて周辺を征圧していきます。
清はこのガルタン・ハーンとの戦いになりました。
それだけでなくシベリアに進出してきたロシアとも戦いになります。
しかも国内では地方民族の反乱が相次ぎます。
それでもガルタン・ハーンを破り逆に西方に進出してチベットを征服しました。ロシアとは国境の選定を行って条約を結びます。
しかし、領土の拡大の結果、国内の反乱は後を絶ちませんでした。特にチベットの反乱はしつこく繰り返されています。
グルカ族がチベットに進出してきたりもします。
そうこうしているうちに列強西欧諸国が進出してくるようになりアヘンが国内に万延するようになり、アヘン戦争が起こるような事になります。
このように清も対応しなければいけない事が次々に起こり、服属している李氏朝鮮を敢えて討つ理由というものがありませんでした。
それに、李氏朝鮮では1713年には飢饉がおこっています。1717年には大洪水が起こりました。1749年~1750年には疫病が大流行しました。1755年~1757年にはまたもや大飢饉がおきます。
清が李氏朝鮮を滅ぼしても天災により旨味がそれほど無いのがこの当時の朝鮮でした。
各王朝も国内問題や深刻な外敵の存在がなければ、朝鮮を前漢のように支配したと思います。
しかし、隋ように阻止されたり、色々な状況によりそうはなりませんでした。
No.5
- 回答日時:
他の方々がおっしゃる通り、事実上併呑された状態でした。
ずっと中国に忠誠を誓う、中国の臣下でした。ま、完全に呑み込まれてたのではなく、朝鮮を人間に比喩すると、腰から下、下半身を中国に呑みこまれ、中国の口から上半身を出している状態でした。中国は朝鮮諸国の直接支配を何度か試みますが、朝鮮からの激しい抵抗と、中国自身の北方・西方など背後からの軍事的圧力のために朝鮮直接支配まで到りませんでした。
中国による直接支配の歴史は他の方が書いてらっしゃる楽浪郡(漢の四郡)の他に、安東都護府と熊津都護府というのも置いて直接支配したことがあります。
新羅が百済を滅ぼそうと、唐に「一緒に百済を討ちましょう。」と持ち掛けて、新羅と唐の連合軍に百済が滅亡させられます。そして唐は旧百済の地に熊津都護府を置き、そのトップである都督(朝鮮総督府の総督みたいなの)を任命し支配します。
新羅としては百済を滅ぼしたので唐には、用事が終わったのでさっさとお引取り下さいという気持ちだったのですが、唐だってはるばる海を渡って(山東半島から船で来た)ボランティアしに来たわけじゃない。軍隊を動かすって大変なことですから。
それに唐軍が来てくれなかったら新羅は百済に勝てませんでした。後半の戦い、また最後のサビ城陥落の戦いはほとんど唐と百済の1対1の戦いでした。
唐はそのまま直接支配を続けるつもりでしたが、唐のお陰で勝ったのに恩知らずの新羅が、旧百済勢力などを上手いこと利用したりして、この直接支配地に攻め入り唐を蹴散らし、結局唐を追い出して旧百済地を自分のものにしました。
唐は新羅の甘言に乗って出兵し、利用だけされ追い出されたのでした。
安東都護府も同じパターンです。新羅が高句麗を滅ぼそうと唐に出兵を持ち掛け、唐と新羅で高句麗を滅亡させます。唐は旧高句麗の地に安東都護府という支配組織を置き直接支配します。
しかし新羅は旧高句麗勢力なんかも上手いこと言って懐柔して味方に付け、旧高句麗地を攻め、唐軍を負かしてしまいます(羅唐戦争)。
唐はまた利用だけされて追い出されたのでした。
元も朝鮮(高麗)に兵を送り、高麗と元は30年間戦いますがついに高麗が負けました。30年間踏ん張ったっていうのはすごいですね。
で、元からすると高麗は完全に自分の支配領域になりました。なんたって高麗王のお后は元の皇帝の皇女がなることになりました。次の高麗王になるお世継ぎは、小さい頃から(生まれた時から)元の都で元の教育を受けました。
そしていざ高麗王になるため高麗へ行く(帰ると言うより、行く)時は、元皇帝から多くの元の官僚や家来、武人を与えられて一緒に高麗に行きました。幼い頃に結婚した元皇女出身の王妃には、お付きの元(げん)の女官がぞろぞろいっぱい付いて行きました。
高麗の政治は、元皇帝が付けてよこした多くの元の官僚、武人たちが高麗の高級官僚となって行なわれました。
もし高麗王が元に反旗を翻して独自に何かをやろうなんてしたら、すぐに元へ報告が行ってしまいます。寝室でも元の皇女出身の王妃や元の女官たちが目・耳を研ぎ澄ましているので、反抗の色など見せられません。元に睨まれたら大変。いつも元さまも顔色をうかがい、びくびく。
政治でも何でも、元の操り人形状態。ま、ほとんど元が支配している状態です。
また済州島は、元は元の民を移住させ、完全に直接統治しました。
で、元が朱元璋の乱で苦しんで弱体化したのを見計らって、高麗は元に反抗的態度を見せるようになります。
高麗からしたら「運良く」、朱元璋のお陰で元が亡びます。
で、元が亡んだらすぐに明の臣下になって明へ朝貢し始めます。明が出来たら、直後すぐに朝貢使を派遣しています。メッチャすばやいです。
李氏朝鮮では1600年代前半に、女真族(満州族)が作った金(清の前身)が攻め入って来て負けました。これで李朝は金に服属し、王族を人質として金に差し出したりします。
金に服属したにもかかわらず李氏朝鮮は明への朝貢も続けていたため、怒った清(金が改名)が同じく1600年代前半2度めの進攻をしてきます。これも李氏朝鮮は負け、今度は王族は王族でも王子を人質に差し出すことになります。またその他、たくさんの品々を毎年清へ納める(年貢みたいに)ことが事細かく決められます。明への朝貢はやめ、清へだけ朝貢しますと約束させられます。
ちょうどこの頃、清は西方の異民族が不穏な動きをしていたので、さらに兵を送り朝鮮を直接統治するということはしませんでした。
臣下として自分の勢力下にあり、朝貢品を送って来てくれれば、多大な労力を出して直接支配しなくてもよかったんです。
近代に入り李氏朝鮮末、役人の搾取に怒った農民反乱が頻発し、特に大きな反乱が鎮圧出来ず、反乱が都にまで迫ろうという事態になり、朝鮮は清にSOSを出します。すぐに清が派兵し、反乱鎮圧に乗り出します。反乱が治まった後も清は兵を引き揚げず駐屯し続け、武力と冊封関係を背景に李氏朝鮮の政治に直接関与し始めます。
が、日清戦争で日本が勝ったため、清は朝鮮から兵を引き上げ朝鮮から去って行きます。清との君臣関係が終わり、朝鮮は独立国になります。(しかしそれもつかの間、でしたが)
半分呑み込まれ状態であったのは、運もありました。
No.4
- 回答日時:
元教員・現役予備校講師です
極めて簡単である
「冊封体制」下で朝鮮諸王朝は中国諸王朝に形式的には追従する王朝でありえたから・・である
同時に、中国王朝からすれば、国益として直接支配によって得れるものが希薄であることが大きいだろう
早い話が、「朝鮮併合による国益が希薄だから」
中国諸王朝の朝鮮遠征の事例を鳥瞰すれば分かるように、「冊封体制」下であることを外交上の重大事としているのである
これは、現代社会の「国家」でも通じる話であって、政治的支配は利益なしには行われないのである
以上
No.3
- 回答日時:
中国の歴代王朝とその諸皇帝は元を除くと、何が何でも征服して直接統治、という外交方針をとりませんでした。
理由は簡単でコストが高く付きすぎます。体外遠征が元で滅んだ王朝もあるほどです。朝鮮半島が皇帝の直接支配地となったのは漢が「楽浪郡」と名を付けて官僚を送り込んだ時期だけです。「冊封」を検索して下さい。直接支配地以外の異民族に対しては朝貢をすること(服従の意思を示す)と、皇帝は改めてその地の正統な国王として任命しました。その一つの印が金印を与えることでした。「倭の奴国王」と刻印された金印はそれです。
これによって、中国皇帝とそれに臣従する各国国王という同心円状の一種のヒエラルキーができあがります。特に直接支配地と境を接する国王に対してはそれなりの便宜をはかりと一方で過酷な要求も行いました。 しかし、これによって中原に強力な王朝が誕生すれば、隣接地域も含めて一種の平和状態が生まれるのも事実です。もし「冊封」された国同士の片方が一方的に別な国に攻め込めば、それは中国皇帝への反逆と見なされ、皇帝は求めに応じて軍事動員を行いました。
こうやって東アジアでは中国の皇帝権力が強力であればあるほど平和な状態、いわゆる「華夷秩序」が生まれました。一種の安全保障政策ともいえるでしょう。
古代の日本列島の中の小さな王も、中国皇帝への朝貢を行いっての秩序のなかへ積極的に参入し、日本列島の対の地域に対して優位を主張していました。また同様に隣接する朝鮮半島の諸王にたいしてもそのヒエラルキーの中で上位に立とうと賢明の外交工作をしています。
日本列島の諸王達がこの華夷秩序から離脱するのは、例の白村江の戦いで、新羅とその救援に応じた唐との連合軍に敗れてからです。
これ以降日本列島の諸王達は「大王」を中心に王権の強化を図り、中国王朝に似せた「小帝国」を築くことを目指してゆきます。それが許されたあるいは可能になった条件はやはり海を隔てていた事が大きいでしょうね。
できあがった小帝国は「帝国を支える諸制度=律令」などを中国王朝に模倣したものです。これから、政治的には中国皇帝から自立した安全保障、外交関係を目指します。いわゆる律令国家です。経済的には対等な王朝どうしの交易を行おうとします
日本列島の諸王が政治的には独立して朝鮮王朝とは違う道を辿ったのは・・地続きであるか海という緩衝地帯があったかという地政学的な要因につきるのではないでしょうか
No.1
- 回答日時:
中国4000年か5000年の歴史で朝鮮はずっと属国でした。
とうに併呑されていたのです。
以下清朝に関しての抜粋・・・・
世界で知られるように、朝鮮はずっと中国の『属国』だった。
記録や物的証拠も国内外に数え切れないほど残っており、留学経験のある朝鮮人にも
自ら属国であったことを認めている者もいる。そもそも韓国の古い国旗にまで
「大清国属(清=中国)」と書いてあったのだから属国だったことは否定しようがない。
しかし韓国は国家レベルで「属国だった過去」を消し去りたかった。
古い国旗が発見された時も、韓国国内のニュースでは「大清国属」という
文字をカットして報道したほどである。
実はこの韓国の感情的問題は「反日」に密接な関係がある。
--------------------------------------------------------------------------------
まず、朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。
朝鮮というのは、中国の属国の中でも琉球(現在の沖縄)よりも低い地位だった。
そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、
下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、
朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し、
朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたことが
「渓陰漫筆」に書かれている。
そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けたと嘆いている。
(黄文雄『韓国は日本人が作った』徳間書店)
服装も違ったし、籠にも乗れなかった。
身分が「最も低い」のだからしかたない。
身分の低さは朝鮮がどんな扱いを受けていたかを見ればより明白になる。
・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。
朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉が
たった一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、
年貢への見返りを3年間停止するという厳しい処罰を受けている。
・・・・・以上です。
とうに中国諸国の植民地になっていたのです。
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