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東大寺と東大寺南大門ってどこが
違うんですか??それと、この二つ
はいつ立てられたか教えてください。。
お願いします。。

A 回答 (9件)

ぅわッ!失礼しました~!



♯6の、
>最古の木造建築ですね。

ではなく、「校倉造の木造建築」です!!

ちなみに最古の木造建築は法隆寺ですね。

注意力散漫でした。大変申し訳ございません。m(_ _)m
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「華厳」の意味は蓮華を指すのでもなく、放射状の力の作用を意味するものでもありません。

華厳経にもとづくこの言葉は梵語ではgandavyuhaの訳語である「雑華厳飾(そうけごんしき)」とか「雑華厳浄(ぞうけごんじょう)」を短く言い習わしたものです。その意味は「種々さまざまな華で(仏の世界を)飾りあげる」というような意味で、もちろんこれは華厳経に説く「重々無尽」、つまり世界すべてのものが関わりをもって存在する、という法界縁起を一言で表したものです。

従って、少なくともこの華厳という言葉を中央集権の象徴の如く語ることも同じく誤りです。そもそも東大寺が総国分寺などと言われるようになるのは天平よりずっと後のはなしですし、東大寺が諸国の国分寺の要であるという程度の認識はあったとしても、全体を監督統括するような組織上のつながりは全くありません。せいぜいが学問のうえの人的交流程度でしょう。
地方の国分寺は国司が造営したことをみれば東大寺の国家的造営は確かに特別扱いですが、これをもって中央集権の表れとみることは早計でしょう。

もっと言えば、よく知られているように本来の大仏造営の詔は近江の紫香楽宮の近辺を意図したもので、結果的に大和国分寺の地に移った経緯があります。つまり国分寺建立と大仏造営はもともと一体の事業ではないのです。大体、国分寺の事業は国家鎮護の経典であった「金光明最勝経」の思想によるものですし、「華厳経」による大仏造営とは本来別々のプロジェクトです。要は華厳と中央集権はどこまでも相容れない内容だということです。

また開眼法要の導師を行基が行ったかのように書かれているのもいかがでしょうか。導師はインドから招かれたボーディセンナで、行基は勧進僧として恐らく意に反してかつぎ出された存在であったからです。

以上、質問者氏には失礼致しました
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この回答へのお礼

やっとわかりました。。
皆さん本当にありがとうございました。。
感謝しています。。

お礼日時:2004/01/05 23:54

言葉が足りなくて申し訳ありません。



「文化的に言うと、東大寺は再建されているけれど、創建が聖武天皇の時代なので天平文化、南大門は鎌倉時代の物が残っているので鎌倉文化」という事を書きたかったのですよ。

質問者に誤解を与えるような書き方をしてしまったことを反省します。
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 おっと!言い忘れた。

正倉院だけは奈良時代の建物です。これだけは難を逃れて生き残りました。
 最古の木造建築ですね。

参考URL:http://www1.kcn.ne.jp/~joykun/
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♯3です。



♯4さん、ご指名ありがとうございます。でも、

>東大寺は奈良時代に建てられた(天平文化)
南大門は鎌倉時代に再建された(鎌倉文化)

>東大寺は聖武天皇によって、
奈良時代に立てられ、のちに、
鎌倉時代に正門として東大寺南大門が
立てられたってことですか??

というのは違うんです。大変失礼なんですけど、訂正させてください。

 東大寺は、♯3の参考URLで見て頂くと分かるように、大仏殿や他の建物、もちろん南大門も含んで「東大寺」という一つのお寺なんです。
大仏殿は天平勝宝四年に完成、開眼供養が行われています。南大門は少し遅れたようで、天平宝字元年(757)に完成しました。どうして出来上がる年が違うかというと、東大寺はとても広くてたくさんの建物があるからです。現在よりも当時はさらに敷地が広かったくらいです。そういうわけで建物を作っていくうちに、どうしても完成年にズレが出てしまうんです。大仏殿は、東大寺の中核ともなる建物です。なので、大仏殿の完成で、一応ひと段落、落成会を行って、「東大寺」は完成したことになります。
 南大門自体は、お寺の一部に過ぎませんから、あまり分けて考える必要はありません。東大寺の完成は天平勝宝四年。これでOKです。南大門は完成していなくたってお寺としては機能するので、五年ばかり遅れて完成させた、というわけなのです。

 この奈良(天平)時代に建てられた東大寺の建物は、治承四(1180)年の南都焼き討ちでほぼ全滅した、と考えてください。大仏殿も、南大門も、ほとんどがこの事件の後で再建されました。つまり、聖武天皇時代に建てられた建物は今は殆ど残っていないんです。大仏殿も南大門も、ほぼ全て鎌倉期に新たに作り直されたんです。 せっかく作り直したのに、また後世になって災害に合い、江戸時代、そして現在に至るまで何度も修復されています。
 
 繰り返しますが、要するに創建されたのは聖武・孝謙天皇の治世である奈良時代ですが、建物(南大門も含む)自体はほとんどが鎌倉時代の再建、ということです。分かりにくいようでしたら、再度ご質問ください。
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 すごく簡単に言うと、


東大寺は奈良時代に建てられた(天平文化)
南大門は鎌倉時代に再建された(鎌倉文化)
ということです。

 詳しくは、No.3の方を参考にして下さい。
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この回答へのお礼

みなさん返信ありがとうございました。。
つまり、東大寺は聖武天皇によって、
奈良時代に立てられ、のちに、
鎌倉時代に正門として東大寺南大門が
立てられたってことですか??
違ってたら訂正してください。

お礼日時:2004/01/05 02:32

 東大寺南大門というのは、門です。

東大寺の玄関みたいなものですね。そこに現在あるのが、有名な運慶・快慶によって作られた『金剛力士像』です。お寺には、色々な建物があって、全部併せて一つのお寺です。参考URLをご参照下さい。
 
 東大寺というのは、天平十五(743)年に聖武天皇によって大仏造像の詔が出され、天平勝宝4(752)年に大仏開眼供養がなされました。これが一応の東大寺の完成期です。開眼供養とは、あの大仏さんも完成した落成記念会みたいなものです。聖武と奥さんの光明皇后、娘の孝謙天皇、僧一万人が参列するなか、行基という坊さんによってこの儀式が行われました。
  
 東大寺は、仏教の中でも華厳宗という宗派(学派)です。『華厳』の意味は華、特に蓮華を指すのですが、花弁のように中心から放射状に力が作用する意味をもちます。奈良時代の律令制の中央集権体制のシステムを象徴するように、国家宗教として機能しました。全国に国分寺・国分尼寺がありますが、これは東大寺を中心として統率する意図がありました。
 東大寺の中には校倉造の正倉院がありますが、中に収納されているのは聖武天皇の遺品です。1250年以上も昔のものが、大事にされています。

 ところで、東大寺が創建されたのは天平勝宝四年で間違いないのですが、治承四(1180)年に平重衡の率いる平氏軍による南都焼き討ちによって大破してしまいました。それで鎌倉時代に重源という坊さんによって再興されましたが、以後も災難に合い、何度も再建・修復されています。建物自体は鎌倉初期の再建である法華堂を最古として、ほとんどが鎌倉から江戸期のものです。
 あの大仏さんも、聖武天皇時代の当初の部分は台座の一部くらいで、ほぼ江戸期に作られてます。

参考URL:http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/daibutu/w_bu …
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 東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を弔うために、728年に建てられた金鐘山寺が、741年に国分二寺・法華寺建立の詔が発せられたのに伴い、昇格してなった大和国金光明寺を前身としています。



 東大寺はいくつかの戦乱に巻き込まれ焼失しますが、そのうち、1180年の平家により南都焼き討ちが行われ、鎌倉時代に入って復興事業が開始され、1199年に完成したのが現在の南大門です。
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東大寺は大仏殿を中心とした伽藍(寺の建物)によって構成されており、南大門はその一つです。


東大寺は752年に大仏殿が完成、南大門は757年に完成しています。
詳しくは下記ページなどを参照してください。

http://www.tabiken.com/history/doc/M/M383C100.HTM
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M378C100.HTM
http://www.todaiji.or.jp/
http://www.todaiji.or.jp/index/index-annai.html

参考URL:http://www.tabiken.com/history/doc/M/M383C100.HTM,http://www.todaiji.or.jp/index/index-annai.html
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