アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

先日ある老人と話をしているときに、ふと東南アジアの話になりました。
老人は元軍人で、次のような独自の歴史観を語りました。
「戦前の東南アジアは、西洋諸国の植民地支配下にありとても独立国といえるものではなかった。独立してたのはせいぜいシャムぐらい。そこへ日本軍が解放軍として進出した。だから現地の8割ぐらいの人間が日本に感謝している。戦後独立国になれたのも、半分は日本のおかげである」

 戦前の東南アジアについては無知ですので、このことがどれほど本当かは知りません。
 日本は中国と長く戦っていました。それにも関わらず戦線を拡大して東南アジアへ進出していったのはなぜでしょうか?
 東南アジアの人は日本軍に対してどのような感情を持っていたのでしょう?

 よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

 おはようございます。



 歴史の時間に,「ABC包囲網」というのを習いましたよね。今で言う経済封鎖ですが,資源の無い日本は,それに対する危機感から資源を求めて東南アジアへ進出したのが実態ですね。その老人が言われているのは,結果としてそうなったというだけで,それを目的に戦争をした訳ではないですね。
 東南アジアの人の感情は悪くはなかったみたいですが(表面的なことだけかも知れませんが。),どちらにしても,戦争を美化してはいけませんね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

たしか日本が南方へ進出したので、「ABCD包囲網」という経済封鎖をされてしまったと記憶しています。
その交渉がこじれて太平洋戦争の開戦につながったと。

>どちらにしても,戦争を美化してはいけませんね。

 その老人は南方には行っていないのですが、韓国・中国へは行っており、現地で、「日本の高い文化と教育、技術をもちこんだので、感謝されている」と実感したらしいです。
 おそらく一部しかみてなかったのだと思います。

お礼日時:2004/01/09 12:46

 この質問に真剣に答えようとすれば、かなりな長文に成らざるを得ません。

ですから図書館などで、しかるべき本を借りて読まれる事をお勧めします。
 多少意見を書かせてもらえば、その御老人が話された事は、当時の「大日本帝国」国民(臣民)としては常識で、何ら『独自の歴史観』という訳ではありまん。
そして、『中国と長く戦って』(なぜそのような事にになったのかというと、ややこしい話しになります)いたため、結果的(かなり込み入った話になります)にアメリカ等からの経済封鎖を招き、『戦線』を維持するための戦略物資を獲得するために『東南アジアへ進出』した訳です。(何か反発されそうな文章だなぁ・・・)
『東南アジアの人は日本軍に対してどのような感情を持っていた』かは、最終的に憎悪したというのがほぼ正確だと思います。(やっぱり反発されそうだなぁ・・・)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
日本が東南アジアへ進出する前の東南アジアの状態はどのようなものだったのでしょうか?
西洋諸国の厳しい占領統治をうけていたのでしょうか。

お礼日時:2004/01/09 12:54

一緒に住んでいる何人かのインドネシア人から何回も言われましたけど、日本が占領した2年間というのはひどかったらしいですよ。



親しい間柄ですので厳しい言葉は使ってきませんけど、日本が空襲に遇い、広島と長崎に原爆が落とされた時はみんな喜んだ、って言われると、どうも、現地人が感謝していると言うのはでっちあげのような気がします。

参考までに。

ちなみに、友達からこんなことを言われるなんて、っと少しがっかりしてますけど。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>日本が空襲に遇い、広島と長崎に原爆が落とされた時はみんな喜んだ

 これは一証言として重みのある言葉です。
 9:11テロのときアラブ人が喜んでいた映像を思い出します。
 日本が進行する前に英仏蘭が進出していますが、これがどのようなものだったのに興味があります。

お礼日時:2004/01/09 13:04

すでに#2の方が書かれているとおり、東南アジアは日本の資源(特に石油)を確保するために占領されたというのが真相です。

(東南アジアを撤退してから日本にはゼロ戦を飛ばす石油もなくなり、松根油(しょうこんゆ)を使って飛ばしていたという事実があります。余談ですが、戦後ちゃんと精製した石油でゼロ戦を飛ばしたら、公表値の1.2倍の性能を示し、当時ぶっちぎりで世界最高の戦闘機であったことが証明されています。)
但し、一部の現地の方は日本に好意を寄せています。これは、幸運にも日本軍による略奪等がなかったためであり、独立が早まったとして喜んでくれているのは少数派のようです。大抵の地域では資源(人的資源も含む)の略奪者として見られているというのが、世界的な見方です。
日本から見た見方は、そのご老人の言われるとおりなのですけどね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

>資源(人的資源も含む)の略奪者として見られている

 結局はそのとおりかもしれませんね。

お礼日時:2004/01/09 12:56

表向きにはアジアを欧米の植民地支配から


解放して大東亜共栄圏をつくことを
口実にしていましたから、個人の独自の
歴史観ではなくそう教えられていたのでしょう

私も戦後にアジア諸国が独立したのは日本の
おかげだと言う話は良く聞きました、普通の
兵隊はそう教育されていたのでしょうし、
戦後も現地に残って独立戦争で戦った日本兵も
いたようです。

漫画家の水木しげるさんは現地の人と仲良く
なって、日本に帰らずに暮らそうと思った
そうですよ

どっちにしろ武力で占領しましたし
負けたのですから快く思ってはいないでしょう
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
水木しげるさんの漫画は読みました。
終戦を知ったとき「現地解散して、自分は島に残りたい」と願い出るのですが、隊長に説得されて日本に帰るのですね。
漫画では現地の人はひたすら平和に暮らしているように描かれています。自分の庭で他国の兵士同士が争っているというような。

お礼日時:2004/01/09 13:01

#2のNexus_no6です。


この事柄に関しては国内的にも国際的にも評価、判断がまちまちで、このような場で明確な回答が出来るとは思えず、又、余計な先入観や現代的な価値判断による誤解思い込みが入りやすいため、ご自身で調べられるよう助言したつりいです。
文章力不足で伝わらなかったのなら申し訳ありません。

  日本が東南アジアへ進出する前の東南アジアの
  状態はどのようなものだったのでしょうか?
  西洋諸国の厳しい占領統治をうけていたのでし
  ょうか。

 どのような回答をしても一面的なものにしかなりません。つまり立場の違いで様々な答えが返って来るということです。

  当時のアジア人は無知蒙昧で、我々(西洋)の
  おかげで文明的な生活を送れるようになった。

一例ですがこのような回答すら可能です。(実際そう信じている人も少なくありません。)
国家の威信、面子、大義名分等々・・・。やはりご自分で少し勉強なさってください。
現在進行中のイラク問題も、国家、民族、宗教によって様々な意見があります。
人の意見に盲従するのは感心しません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

>人の意見に盲従するのは感心しません。

 盲従はしませんので、ご意見をおかきいただければ幸甚です。

お礼日時:2004/01/09 22:24

歴史というものは過去に起きた客観的事実を元に分析を深めるべきものだと思うのですが、中には思い込みや虚偽の事実を元に主張される説も多々あるようです。


従って、何が真実なのか、ということは誰にも分からないし、回答なんてないものです。

例えば、ご質問のご老人の発言にしても、実際は東南アジアに行って自分の目で見たワケではないですよね?つまり、誰かの発言(ウソかホントか分からない)の受け売りか、戦前の日本政府の発表(事実を公表しているとは限らない)を聞いてそう思っただけなんです。
また、現在生きている現地(東南アジア)の人が○○と言っているというのも、同様の理由から鵜呑みにはできないですよね。
「実際に経験した」という人についてもどこまで事実なのか疑い出したらキリがないですが、その主張の背景に政治的なものや、金銭的給付目的がないか、といった点を勘案しなければなりませんよね。なにしろ人間なんて「嘘つきだらけ」なんですから。

以上のように、結局はご自分でいろいろな説を勉強して、どれが正しい可能性が高いか、という観点で判断する他ないんです。でも人間というものは、結局その人の信条をベースにした見方になってしまうから「歴史観」というものは人それぞれ違うんです。このように「歴史観」というものはある意味、宗教みたいなものですから、いくら話し合ったところでお互いが納得するなんてことないんです。

ご自分の「歴史観」がまだ確立されてないのであれば、以下のことをアドバイスさせていただきます。
(1)できるだけ客観的な資料を根拠にしていること
(2)論理的にありえないことを主張していないこと
(3)学校で習ったことが真実だと思い込まないこと

ちなみに、ご質問の件についての私の見解は、以下の通りです。
(1)西洋も日本も侵略者であり、たいていの人は好意を持っていない。
(2)ただ、日本はそれまで侵略していた西洋の国に比べ、近代的な文化を浸透させることに貢献したため、西洋人よりは憎まれていない。
(3)自分たちと同じアジア人(日本人)が西洋人と戦って勝っているところを目の当たりに見て、自信が持てた。(その意味で日本は好きではないが感謝している面もある。)
こんなところです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます。
特に歴史観について質問したつもりはなかったのですが、反応が多いですね。
歴史観に達するまでには、総合的な歴史的事実や流れなどを認識してからでないと達成できません。
その知識がないので、基本情報を聞きたかったのです。
戦前の東南アジア情勢についてはあまり知られていないようです。

>日本はそれまで侵略していた西洋の国に比べ、近代的な文化を浸透させることに貢献したため、西洋人よりは憎まれていない。

 西洋人は憎まれていたのですね。
 そして近代的発展にあまり貢献しなかったわけですね。
 よい統治はしていなかったと理解します。

お礼日時:2004/01/09 22:20

基本的な情報をお伝えいたしましょう。


(1)東南アジア諸国の状況
インドを含めて現在の東南アジア諸国は1941年当時は以下の国の植民地でした。

★インド・パキスタン・バングラデシュ・スリランカ・ネパール・ブータンはイギリス領インド帝国を形成。
★ミャンマー(ビルマ)は一時インド帝国に編入されていたがイギリスによる別枠の統治を受ける。
★タイ(シャム)は唯一の独立国。第二次大戦の時は日本と同盟を結ぶが日本の戦況悪化と共に立場を変え、終戦時は戦勝国となっている。
★ラオス・ベトナム・カンボジアはフランス領インドシナ植民地。
★マレーシア・シンガポールはイギリス領海峡植民地。
★インドネシア・ブルネイはオランダの植民地。
★フィリピンは1898年からアメリカの植民地(それ以前はスペイン領)
★なお、赤道以北の旧ドイツ植民地の諸島(パラオ諸島、カロリン諸島など)は日本の委任統治領であった。

(2)なぜ東南アジアへ進出したか。
1932年の満州事変以来日本は中国に進出して行き、蒋介石政権と戦い続けていた。中国の蒋介石政権を後援していたアメリカはさまざまな外交圧力によって日本の侵略を緩和しようとしたがうまくいかず、ついにABCD包囲線による石油禁輸でもって日本に中国から手を引くように脅した。これに対して日本は対米戦も辞せずとして、当時オランダ領の石油などの資源を入手するために東南アジア進出を決意した。
とこういう経過ですね。(#1の補足でのyoshinobu_09さんの認識は順番の誤りです)

(3)東南アジア諸国の対日感情の変遷
戦争初期はイギリス・オランダなどからの解放軍として歓迎される。しかし、日本軍の現地研究不足(理解不足)による圧政、資源・労働力などの収奪により、対日観が変化。そのため、日本と旧宗主国との戦闘の合間を縫って独立を模索し始める。日本降伏後は旧宗主国に対する独立運動を継続して独立を勝ち取る。

一例としてミャンマーを取り上げると独立直前に暗殺されたアウンサン将軍(アウンサンスーチー女史の父)は当初日本で同志と共に軍事訓練を受け、ビルマ独立義勇軍を結成して日本の援助のもとに対英ゲリラ戦争をしかけて英軍をミャンマーから追い出すが、その後第二次大戦途中から日本軍に距離を取り始め、イギリス軍の反攻とともに対日反乱を起こして日本を排除します。その後、戻ってきたイギリス軍に対しても独立を主張しますが、別のビルマ人勢力により独立直前に暗殺されてしまいます。

最後になりますが、歴史を考える時に細かいディテールにとらわれすぎることは禁物です。大きな流れと全体の動きをまず知る必要があります。歴史的事件の中で各個人が体験したことは嘘ではありませんが、また「歴史上の事実」であるとも認定できないのです。

さらに言えばある事件に対して各個人がどう思ったかということは確かに人によって異なりますが、いくつもの感想・感情がある中で多くの人が思ったこと感じたことがその時の潮流となって政治を動かし歴史を動かしていきます。こうした流れを理解するのが「歴史観」であると私は考えています。

この回答への補足

基本的な情報大いに参考になりました。
「統治」「植民地」の実態がよくわかりません。
戦後の日本も統治されていましたが、形式として政治的な決定は国会で日本人によって決められています。(GHQ指導のもと)かなり民主的です。
それよりひどい扱い(資源や労働力の搾取)されていたのでしょうか?

ABCD包囲網と南進の経緯を調べてみました。
・1940年9月23日、日本軍は援蒋ルートの遮断と南進を目的とし、フランスの敗北に乗じてフランス領インドシナ北部(北部仏印)に進駐。
・1940年9月27日日独伊三国同盟に調印。
・1941年4月から日米交渉を開始。
・1941年7月28日にフランス領インドシナ南部(南部仏印)に進駐。態度を硬化させたアメリカは7月に在米日本資産を凍結し、8月には石油など重要軍需物資の対日輸出を一切停止。
・ABCDラインが成立し、日本は孤立。
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/56-daini …

これによるとやはり南進の方がABCD包囲網より先になっています。インドシナ進駐を本格的な東南アジア進出ととらえるかどうかで認識が違うのでしょう。

>戦争初期はイギリス・オランダなどからの解放軍として歓迎される。しかし、日本軍の現地研究不足(理解不足)による圧政、資源・労働力などの収奪により、対日観が変化。

 最初は歓迎されていたのに残念ですね。
 搾取する一方では長続きしません。戦争中ということもありあせっていたのでしょう。
 戦後の裁判で多くの日本人が東南アジアで死刑判決を受けたと聞きますが、圧政が理由でしょうか。

 アウンサン・スーチさんの父親はずいぶんと活躍をした人だったのですね。日本で軍事訓練をしていたとは驚きです。

補足日時:2004/01/09 21:49
    • good
    • 0

拙文で恥ずかしくはありますが、少々私見を述べさせていただきます。


まず、国民党への英米の援助を遮断する目的で仏領インドシナへ進駐したというのはもう述べられていますが、
これは、当時のフランス政府との合意の上での共同統治といいう形でした。
もちろん当時のフランスはドイツの影響下にありましたが。
また、米国の蒋政権への援助は、米が国際連盟憲章にも挙げていた孤立主義から大きく逸脱するものでした。

次に、統治の仕方という点ですが、軍政下にあり苛酷な生活であったことは事実でしょうが、日本は独立の約束と、その担保を与えていました。
そもそも、当時の日本は現地の人間を日本に留学させ、独立時政府の下地を作り、陸軍学校では現地人を独立後の国軍にさせるために学ばせていました。
これが独立の際の戦争で大きな助けになったのです。
これは衆愚政策に代表される西欧の統治政策とは対照的なものでした。
最終的に行ったことが資源の収奪でしかないというのは一面的な見方でしかなく、かといって完全な正義しかなかったということもないでしょう。
個人個人の感情というのはその人間の些細な経験でや勘違い、運不運で変わってしまうものであり、重要なのは歴史の流れの中での意義ではないかと思います。
当時のアジアで日本以外にも唯一シャムが独立していたといっても、不平等条約に縛られ、大国間の勢力争いの中でうまく立ち回っていたということに過ぎません。
当時、世界に非白人の独立国は日本を除きありませんでしたし、国際関係は力以外の発言力はありませんでした。
それが第二次を境に大きく変わったということは事実だということは言えるのではないかと思います。

この回答への補足

>フランス政府との合意の上での共同統治

 そうだったのですか。参考になります。

>日本は独立の約束と、その担保を与えていました

 担保とはなんでしょうか?土地ですか。

>衆愚政策に代表される西欧の統治政策とは対照的なものでした。

 衆愚政策とは何でしょうか?日本の場合は武力による統治と考えてよいのでしょうか。それとも傀儡政権を打ち立てるのが目的だったのでしょうか?満州国のように。

>シャムが独立していたといっても、不平等条約に縛られ、大国間の勢力争いの中でうまく立ち回っていたということに過ぎません

 これもとても参考になります。
 日本が介入したことにより、結果的に独立が早まったという事実をどう評価するかで大きく違ってくるようですね。
 

補足日時:2004/01/10 23:17
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!