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12月24日NHKファミリー・ヒストリーによると、南果歩の祖先は奈良時代、中国から日本に派遣され帰途遭難し朝鮮に渡ったという。進士であるというから高官であろう。高官を日本のような田舎へ派遣するのは、余程大切な使命があったと思われます。それは何だったのですか?日本側の記録は、どうなっているのですか?

A 回答 (3件)

続日本記


http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/sy …

ざっとみた

天平勝宝4年
(752年)天平勝宝6年
(754年)藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使)
鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず

http://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B9%80%EC%B6%A9
http://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%98%81%EC%96%91_ …

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85% …
「翌753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された[54]唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85% …

1 続日本記には、唐使(唐からの使い)の記述がない
2 タイミングとしては754年の遣唐使の帰国時に同行したのかもしれない
3 新羅との席次争いがあった
4 740年代から750年代まで新羅では飢饉が続いていた
→ これによって、新羅からの移民や海賊行為などが頻発していた
5 渤海の興隆と日本=渤海同盟による新羅挟撃戦略(藤原仲麻呂の新羅征伐の背景)

==== 以下妄想
宗主国として、日本と新羅の関係調整に来たのかもしれない。
==== さらに妄想
日本と新羅の関係調整において、金忠は実は日本に有利なカタチで決着をつけたのではないか?あるいは、日本=渤海の同盟関して新羅に不利なる状況になったのではないか。
その情報を知っていたので新羅では金忠を足止めした。
※ 宗主国である唐の貴人を理由もなく足止めすることは考えられない。

そうこうするうちに 755年に安史の乱のために、帰国できなくなった。
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それが判ったらNHKで放映してるよ



判らないから謎のままにしてる
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2% …

タイミング的には これに絡みそうですね
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