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「一番最初」という表現についてお尋ねします。

○質問1

「一番最初」と「一番最高」という二つの表現を比べた時、あなたの感じ方は次のどれですか。

A. どちらも強い違和感がある。
B. 「一番最高」には強い違和感があるが、「一番最初」にはそこまで強い違和感を覚えない。
C. どちらもさほど強い違和感は無い。

○質問2

上でBと答えられた方に伺います。
二つの表現で違和感が異なる理由は何だと思いますか。

私自身はBのように感じるのですが、それがなぜかと考えるとよく分からないので、皆さんのご意見を伺いたくなりました。

A 回答 (16件中1~10件)

「一番」に「最」の付く言葉を加えたものの違和感は、「副詞+名詞」によるものもあるのですが、「一番」と「最」の意味の重複によるものもあると思います。



1)重複表現について
同じ意味の言葉を重ねて表現する重複表現と、同じ意味の漢字を重ねた熟語とは区別をして考える必要があると思います。「表現」「重複」といった同じ意味の漢字を重ねた熟語は文法上の問題はありません。「元旦の朝」「被害を被る」といった修飾部と被修飾部に同じ意味が重なっているものは重複表現の一種で、文法上は誤りとされています。

重複表現には幾つかの種類があります。
一つは「まず初めに」や「二度と再び」のように繰り返す必要のない同じ意味の言葉を2つ重ねたものです。こういった表現は口頭で使われることが多いように思います。聴く人の注意を引くための手段として、同じ意味の言葉を繰り返しているのだと思います。「一番最初」はこれに属するものです。

他には上に挙げた「元旦の朝」や「被害を被る」のように修飾部と被修飾部に同じ意味が重なっているものがあります。それ自体で既に「元日の朝」を意味する「元旦」を「朝」の修飾語に使う表現や、それ自体で既に「害を被ること」を意味している「被害」を「被る」の修飾語として使う表現です。「一番最高」や「一番最大」といった「一番最初」を除く「一番」に「最」の付く言葉を加えたものは、これに属するものです。副詞として使われる「一番」には「最も」という意味があるため、「一番最高」は「最も最高」、「一番最大」は「最も最大」を意味することになります。「一番最高」や「一番最大」はこの重複表現に「副詞+名詞」の修飾関係が加わって違和感が増しているのだと思います。

2)「一番最後」について
「一番最高」や「一番最大」は「一番」が「最高」や「最大」を修飾する構造から成り立つという解釈を前提としています。でも「一番最後」の場合は言葉の構造に関する解釈を経ずに、「一番最初」の「最初」を対義語に変更するという簡易な手続きによりって作り出すことができます。それが他の「最」が付く言葉にはない親和性の原因ではないかと思います。

3)「一番初め」について
「一番」に続く言葉が名詞であっても順序や位置を示す言葉なら、「一番前」「一番後ろ」「一番後(あと)」「一番上」「一番左」などのように、普通に「一番」が修飾語として使われているものがあり、それらに違和感はありません。これらの順序や位置を示す言葉は、そのあとに「の」や「に」が付いて連体修飾語や連用修飾語となることが多いため、形容詞や副詞と同じ扱いをされて「一番」が付いても違和感がないのかもしれません。「一番初め」もこれらと同種の言葉だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「一番最後」については、まだ自分でしっくりくる説明が思いつかないのですが、回答がつかないままいつまで開けておくのもどうかと思うので、ひとまずこの質問は締め切ることにします。

お礼日時:2013/02/02 14:28

#11です。



>特に後半で挙げられた「最善」「最悪」は、まさに主観で判断する事柄であり、それらを確固とした存在に分類する一方で、「最大」「最高」をそうでないとすることには疑問を感じます。

そうですね。
おっしゃることはよくわかります。
ただ、わたしが申し上げたのは、「A」については確固とした基準があると(無意識的にせよ)感じる人にとっては、「一番最A」という表現は違和感なく受け止められるのではないだろうか、ということです。
事実として、A について確固たる基準があるか否かは問いません。
無論、それに関して論議することにやぶさかではありませんが、今は、「一番最A」に違和感がある(または、無い)理由は何か、という点に絞ってお答えしています。
前回、
『こうした感覚の違いが、「一番」を許されるか否か、の境になっているような気がします。
「必ず存在する(はずの)確固とした状況」に該当するか否かに関して、それが事実かどうかとはまた別の問題なのでしょう。』
と述べたのは、そういう意味でした。

わたしは、人間というものは「確固たる善」が存在すると思いたい生き物ではないか、と考えるので、たとえば、「それが一番最善の方法だよ」などと言われても違和感を覚える人は少ないのではないか、と推測するわけです。
「最初」の場合も同様で、たとえば、「物事には必ず始まり(初め)がある」などといったことは、みなさん疑っておられないことでしょう。
善の例の場合も同様ですが、このように、
『確固たる基準があるはずなのに、いざ特定しようとすると掌をすり抜けるように、なかなかその実態が明確には現れてこないもの』に対して、
「これが(本当の)一番最善の方法です」とか、
「これこそが(まさに)一番最初の人類の骨格です」などという表現が可能になるのではないか、と思うわけです。
ところが、質問者さんのように「善はまさに主観で判断するものである。すなわち、この世に絶対的な善などない」という確信を持っている方の場合には、
『「最善の方法だ」までは許容しても良いが、元来、確固たる基準などあるはずがないものに対して、「一番」という言葉を付加してまで強調したとして、一体何の意味があるのか』という(無意識的)思いが湧くのは当然であって、それが違和感を醸成するのではないでしょうか、ということを申し上げたつもりです。

たしかに善とは相対的(主観的)な価値観であり、アメリカにとっての善はイスラムにとっての悪なわけです。絶対的な善というものは存在しないのかもしれません。
ただ、たとえば、困っている人を助けようとする行動に関して、それを悪と呼ぶ人は殆んどいないはずです。
つまり、この場合には絶対的な善も存在することになる、と言ってもいいように思います。
そして、多くの人間はそれがあると信じたがる生き物ではないか、と私的には感じているわけです。
しかし、今回のご質問の中でそうしたことを論議するのは場違いと思われるので、特に深くは触れていません。
前回も述べましたが、個人の感覚の違いによって「一番最A」という表現に違和感を覚えるか否かは決まるような気がします。
さらに、今回回答していて思ったのですが、ある一人の人間にとっても、その場その場のシチュエーション次第で、違和感を覚えたり覚えなかったりする可能性も高いような気がしてきました。
その基準は先述したとおりです。

「『最○』という言葉にすでに一番であるという意味があるのに、更に『一番』を加えている」のが違和感を覚える理由である、とおっしゃるのは基本的にそのとおりでしょうね。
しかし、ちょっと目先は変わりますが、「表現」「重複」「元旦の朝」「被害を被る」など、同じ意味を更に加えているからといって、その言葉が必ずしも間違いであるとか、違和感を覚えるということにはなりません。
その意味で、「主に」と注釈なさっているのは適切だろうと思います。
いずれにせよ、今問題になさっているのは、では、なぜ違和感を覚えないものがあるのだろうか、ということなのでしょう。
  
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
お礼が遅くなってすみません。

おっしゃることが理解できました。
「確固とした基準があると感じられるものについては、『一番最○』という表現の違和感が少ない」という主張と、「具体的にどの『最○』という言葉に確固とした基準があるか」という主張とは分けて考える必要がありますね。

お礼日時:2013/01/05 10:44

「一番」は名詞または副詞として使われる言葉で、修飾語として使う場合には副詞となり、本来は名詞である「最大」を被修飾語とする言葉ではありません。

この品詞の不整合が「一番最大」の違和感を増している要因の一つだと思います。名詞「最大」を副詞の本来の被修飾語である形容詞「大きい」や副詞「大きく」に替えて「一番大きい」や「一番大きく」とすると、違和感はなくなります。

それに対して「一番最後」は、「一番」が「順番の末尾」を意味すると考えると、「一番最初」と同様に同義の名詞が二つ重なってできている言葉ということになります。「一番」が「順番の末尾」を意味すると考えるには、「順番の先頭」を意味すると考える場合にはない無理が感じられますが、言葉の構造に関しては「一番最後」は「一番最初」と同じで品詞に不整合がなく、「一番最大」ほどの違和感がないのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうこざいます。
お礼が遅くなってすみません。

これまで、この問題を品詞の観点から考えたことがなく、非常に鋭い指摘だと思いました。

「最初」のことは、ちょっと後回しにして以下の表現を考えてみます。

「一番最悪」
「一番最近」

これらは、「一番最初」と並んで比較的違和感の無い表現だと思いますが、「最悪」は形容動詞で、「最悪な日々」のように使います。また「最近」の品詞自体は名詞ですが、「最近」「今日」「昨年」などの時を表す名詞は

「私は最近映画を見ていない」
「息子が今日10歳になった」
「昨年ショッピングセンターがオープンした」

のように副詞的に使うことができます。それに対して、「最大」「最高」「最速」などは名詞としてしか使いません。なので、これらが「一番」と結びついた時の違和感の有無は、品詞によって全て説明が付きそうです。

さて、「最初」ですが、「最近」と同様に副詞的な用法があるという説明でも良さそうです。
それに加えて、ご指摘のように「一番」と「最初」という同義語を重ねて強めているという意味もあるので更に違和感が無いのでしょう。

これまで私は、

「『一番最初』という表現は、『一番』と『最』の意味が重複するので正しくない」…☆

という説明を聞いて、それを信じていましたが、考えてみると、そもそも「初め」という言葉に「第一の」という意味が含まれているのに「一番初め」とか「最初」という言葉は、普通に使われているのですよね。してみると、☆の主張の正しさも少し怪しく感じてきました。

「初め」も「最初」も「一番初め」も同じ意味で使われており、「一番最初」もそれと同様に使われている、と考えることができるかもしれません。

ちょっと引っ掛かりが残るのは「最後」の用法で、「最初」のような副詞的用法もありませんし、「一番」と「最後」を同義語とするのもやや無理が感じられます。こちらは引き続き考えてみたいと思います。

お礼日時:2013/01/05 10:43

難しいことはよくわからないし答えにもなりませんが…、



「一番」が、早い段階での解釈で、縦か横の直線の対象には、より合いやすいような…?
順番、順位のイメージに合いやすいのかな??

「最高」というと、なにか、曲線のイメージが出てきて順位のイメージが合わせにくいです。
やっぱり「一番高い」になるような気がします。(それでは意味がかわってしまうのでしょうね・・・)

「一番最高」だと、イメージつかむのにほんのちょっと時間がかかる感じですね。違和感の分?

「一番」と「最高」の間に半テンポ置きたい感じになります。
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この回答へのお礼

それぞれの言葉へのニュアンスを細かく説明していただき、ありがとうございます。

お礼日時:2012/12/29 06:48

hakobuluさんの回答に1票です。



確かに判断の基準が感じる側の主体に無く、客体にあるから「最」の前にさらに「一番」を付ける事が必然であったと言うのはとても興味深い話です。

私の回答より説得力がありそうですね。

とても良い話だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

No.11へのお礼もご参照ください。

お礼日時:2012/12/29 06:47

#6です。



ご推察のとおりで、「非常に素晴らしい」という意味の「最高」しか想定しませんでした。
確かに、「最も高い」という意味もありました。

しかし、同じようなことが言えるように思います。
すなわち「高い・大きい・速い」というのは、あくまで人間の感覚に依拠されるべき言葉ではないか、と思うわけです。
「[高い / 大きい / 速い]と感じる」という表現は可能ですが、「初めと感じる」とはおそらく表現しないはずです。
「初め」は感覚ではなく、あくまで「状態自体」とでも言えるものです。
「状態自体」として確実に存在するものですが、時空を遡ることなどもできませんから、なかなか判断が難しくなる可能性を潜在的に持った表現と言えるのでしょう。
なので、「これが(紛うことなく)一番最初」と表現する必要性が暗黙的(無意識的)に認められている。
こういうことではないか、と思います。

「一番最大」「一番最速」と言う場合も、たしかに計測は可能でしょうから、そうした実態が確実に存在はしているのでしょう。
ただ、「最大、最速、と言っても、所詮、そう言った人の感覚でしょ?まあ、それはそれで構わないけど、言った人の感覚次第で左右されるものに対して、さらに、一番、と2重に強調されてもなあ・・・」と(無意識的に)受け止める感覚が強いのではないでしょうか。
つまり、「大きさ・速さ・高さ」といったものは、科学的データというよりは、(今のところ)人間の【感覚を表わす言葉】として認識されている。
それに対して「初め」という状態は、【必ず存在する(はずの)確固とした状況を表わす言葉】とでもいった感覚で認識されている。
言ってみれば、前者は、【必ず存在する(はずの)確固とした状況を表わす言葉】とは認定されていないのではないか、ということです。
こうした感覚の違いが、「一番」を許されるか否か、の境になっているような気がします。
「必ず存在する(はずの)確固とした状況」に該当するか否かに関して、それが事実かどうかとはまた別の問題なのでしょう。
他では、「一番最低の堤防」なども違和感を覚えます。しかし、
「そんなことをする奴は一番最低の人間だ」なんてのは案外みなさん受け入れ易いんじゃないですかね。
この「低さ」のように、「大きさ・速さ・高さ」というものは常に変動の余地があることをわたしたちは良く知っているのかもしれません。
しかし、「人間として最低」といった表現の場合、自らの価値観は確固としたものである(しかも、その価値観は共有されているはずだ)と(事実はどうあれ)人間は思いたいわけで、「なるほど、たしかに最低という基準は確固としてある」という認識が定着しているのではないでしょうか。

もう少し検証してみるとしましょうか・・・。
・一番最善
・一番最悪
・一番最近
などは「確固とした存在」という認識があるようで、私的には「一番最初」と同じ括りとなり違和感を覚えません。
・一番最新
・一番最強
などは、「一番最大」「一番最速」と同じ括りになっているようで、違和感を覚えるようです。
つまり、「新しい」「強い」というのは【確固とした基準ではない】とわたしの無意識は感じているようです。
妄想交じりの感も否めませんが、こういったところですかね。
    
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

しかし、「最大」「最高」などは確固とした基準がなく、「最初」にはあるというご主張には、ちょっと賛成しかねます。

特に後半で挙げられた「最善」「最悪」は、まさに主観で判断する事柄であり、それらを確固とした存在に分類する一方で、「最大」「最高」をそうでないとすることには疑問を感じます。

ところで、「一番最高」「一番最大」等に対して私が(恐らく他の多くの方も)持つ違和感は、主に
「『最○』という言葉にすでに一番であるという意味があるのに、更に『一番』を加えている」
ことに由来していると感じるのですが、その点についてはいかがですか。

お礼日時:2012/12/29 06:47

私はBです。


先にあったのは「一番最初」で、「一番最高」は「一番最初」の言葉の構造を誤って解釈したことから派生したものだと思います。

「一番最初」という言葉は同義語を重ねて意味を強調している言葉です。ここでは、どちらも「順番の先頭」を意味する「一番」と「最初」を重ねてその意味を強めています。同種の言葉には「まず初めに」「二度と再び」「今現在」といったものがあります。これらは重複表現の一種で、これら自体が良くない表現という考え方もありますが、広く使われていることもあって私にはあまり違和感がありません。

それに対して「一番最高」は、「一番最初」を「一番」が「最初」を修飾している構造から成り立っているものと解釈し、その修飾されている「最初」を「最高」に置き換えて作ったものだと思います。この解釈からすると「最初」を「最高」に限らず「最」で始まる他の言葉に置き換えても成り立つことになります。「一番最高」「一番最大」「一番最速」といった言葉は現在よく使われていますが、使われるようになったのは比較的最近のことのように思われ、私には「一番最初」とは違った大きな違和感があります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、「一番最初」は「一番」と「最初」という同種の意味を重ねて強調した言葉だと考えると、違和感があまり無いことは説明が付きますね。これは気付きませんでした。
「一番最高」や「一番最大」に違和感があることとも矛盾しません。

ところで、「一番最後」という言葉は「一番最初」と同じくらい普通に使われているように思うのですが、こちらについてはどう説明すれば良いでしょうか。

お礼日時:2012/12/29 06:46

「一番最大」や「一番最速」は、私は「一番最初」と同様にあまり違和感を覚えません。



時間は物理的には無限量ですが、私達は普段の生活の中で時計、カレンダー、年表等によって切り取られた時間の一部(仮に特定の時間と呼びます)を、時間と呼び、それに慣れています。

同様に「一番最大」や「一番最速」も比較する対象がある集合に限定されて、その集合の中で最大の物や最速の物を想起出来ますので、さほど違和感を感じません。

これは「一番最高」も同様で、ビルや山の高さに使う場合はさして違和感を覚えませんが、ご質問の「最高」は人の気分の事だろうと推認されたので最初の回答の様な表現になりました。

特定の時間の様に、人が何かを比較する時に意識的にも無意識にもその比較対象を一定のエリアや概念の中に閉じ込める時、「一番○○」と言っても違和感が無い様に思います。

気分を表す「最高」は、その比較対照である筈の「他社の気分」を上記の様な限られた要素に限定しない(意識的にも無意識にも)ので、「最高」の中の「一番」が意識の中に想起されないのだと思っています。

この「集合の要素を特定出来ない感覚」を「(言葉の)スカラー値」と表現してみました。

ちょっと文学的でしょう?(笑)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なるほど、人により感じ方は様々ですね。
私は、「一番最高」「一番最大」「一番最速」は、どれも同じように違和感を覚えます。

「最○」という表現で、すでに一番の意味があるのに、重ねて「一番」と付ける違和感だと思います。

お礼日時:2012/12/29 06:44

No2です。



お礼ありがとうございます。
なかなか鋭い突っ込みだと思いますし、興味深い質問です。
再度考えてみました。

結局の所、「一番最初」と「一番最高」という言葉、前者は
人との会話の中で良く使うけど、後者は余り使わないから。
というのが、シックリ来るかなと思います。
ただ、この回答は他の回答者様も仰ってますね。
「じゃあ、なんで一番最高は余り使わないのか?」という
疑問が残ると思います。これについても考えてみました。

そもそも頭に「一番」を付ける付けないにかかわらず、
「最初」という単語の方が「最高」という単語よりも使用頻度が
高い様に思います。特に職場や学校など、「人に何かを説明
するシーン」においては、それが顕著でしょう。なぜなら、人に
話をする(説明する)場合、順序立てて話す必要があるため、
「最初に・次に・最後に」という順番を示す言い回しが多く
使われるからです。もはや必須単語と言えると思います。

それに対して、「最高(最低)」という言葉は物事の「程度」を
表す言い方です。話の内容によっては使う事も多いでしょうが、
やはり「最初(最後)」と比べると、話の中に必ず出てくる表現
ではないと思います。

つまり、「最初」の方が多く使われるという事は、それに比例
して「一番最初」という言葉も「一番最高」より多く使われる
と考えられます。「一番最高」と聞いても違和感を感じるだけで
決定的に「おかしい!」とは思わないのは、やはり「使用頻度」
の問題が関係してるからでしょう。

ネットで「日本語 単語 使用頻度」などと検索してみましたが、
具体的な統計までは探しきれませんでした。その為、上記の
内容はあくまでも私個人の感覚ですので、真偽のほどは
何とも言えません。すみません。
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この回答へのお礼

再回答ありがとうございます。

他に良い考えが浮かばなければ、案外それが当たっているのかもしれませんね。

もう少し考えてみます。

お礼日時:2012/12/28 07:22

Bですね。



最初という言葉が「一番初め」です。だから一番最初に違和感が少ないBの言語感覚が間違いで合理主義的にはどちらにも同じ違和感を持つべきなのです。
最初=初めになっているのが発端です。


本来は世界最高とか日本最速とか論理的に構文されるべきなのですが、最初は初めを漢語調にしただけで、全体としては日本的な非論理的な構文になりがちなのです。ページ最初とか段落最初とか文章最初とかせずに「初め」の和語感覚だから「一番」をつけてという甘えた表現習慣です。甘えなんだからその構文を合理的説明できません。
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