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江戸南町奉行の大岡越前守について教えて下さい。
1.まず、名前の「忠相」はどこへつながるのですか?江戸南町奉行大岡越前守「忠相」というのですか?江戸南町奉行大岡「忠相」越前守というのですか?
2、「越前守」は、官位というのですね。実質的な役目(権限とか義務)はあったのですか?
3、「越前守」は、幕府が大岡に与えるのですか?、あるいは大岡が、自分で手に入れるものですか?4、江戸南町奉行大岡越前守忠相を現代語風に訳すと、東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相になると思います。江戸時代の人は、東京都南方面警視総監と福井県知事とが、並んでいても、違和感がなかったのですか?

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A 回答 (24件中1~10件)

・官職が先で名前は最後です。

他に有名なところでは、井伊掃部頭直弼がありますね

・これは律令制の官位です。鎌倉幕府が成立すると源頼朝を通さずに官位を受けることが禁止され、その後も幕府から朝廷へ一括申請するという形になりました。その時代にはすでに実質的な意味合いを無くして形式化していました。「掃部頭」は本来御所・禁裏の清掃を担当する「掃部寮の長官です」

 これらは「武家官位」といいます
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …

 今のNHK大河ドラマの登場人物の一人、松平容保は、松平肥後守容保です。
http://earlgreyimperial.bufsiz.jp/edo_q/edo_q01_ …

・徳川氏の体制が確立すると叙任権は幕府が握ります。京の朝廷に伺いを立てず自由に与えることが出来ました。
 官職は位階に(一位とかです)従属するものですから大名の序列付けにも使われました。たとえば御三家でも尾張藩国主は従二位ですから尾張大納言○○、水戸家は従三位ですから水戸中納言○○でした。将軍だけが正一位となります。

☆武家官位より抜粋
1712年(正徳2年)刊行の「和漢三才図絵[6]」記載の官位。 侍→諸大夫→侍従(相当従五位下)→少将(相当正五位下)→中将(相当従四位上)→参議(相当正四位下または従三位)→中納言(相当従三位)→大納言(相当正三位・従三位)→内大臣(相当正二位・従二位)→右大臣(相当従二位)→左大臣(相当正二位)→太政大臣(相当正一位・従一位)

 徳川家康も豊臣政権下では「内府」でしたよね、内大臣というわけです。

・東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相・・名訳ですね。しかし身分社会ですから官職などは知らなかったし、興味もなかったんじゃないですかね。大岡忠相なら「南町奉行様」、松平容保は「会津公」で事足りたと思います。

 この時代苗字はともかく「名前」を呼ぶことは避けるのが常識です。時代劇は便宜上呼んでいますけどね。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/ …
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この回答へのお礼

1.まず、名前の「忠相」はどこへつながるのですか?江戸南町奉行大岡越前守「忠相」というのですか?江戸南町奉行大岡「忠相」越前守というのですか?
2、「越前守」は、官位というのですね。実質的な役目(権限とか義務)はあったのですか?
3、「越前守」は、幕府が大岡に与えるのですか?、あるいは大岡が、自分で手に入れるものですか?4、江戸南町奉行大岡越前守忠相を現代語風に訳すと、東京都南方面警視総監大岡福井県知事忠相になると思います。江戸時代の人は、東京都南方面警視総監と福井県知事とが、並んでいても、違和感がなかったのですか?

回答ありがとうございます。
1.<官職が先で名前は最後です。>
ですね。
2.<形式化していました。>
ですね。
3.<叙任権は幕府が握ります。>
ですね。
4.<知らなかったし、興味もなかった>
のですね。
各項目につき、細かくかつ豊かに説明して頂き、疑問が溶解しました。
南町奉行という表(おもて)から・正統的な面から歴史をみるのとは別に、越前守という影の点から歴史をみるのも、歴史の内情がよくわかり、楽しいもの、と感じました。

お礼日時:2013/02/14 13:05

質問の本旨からは外れてしまっていますが、江戸四宿についてともかくまとめとして。


道中奉行の役割として『国史大辞典』に、「五街道とその付属街道宿駅の取締りや道路・橋梁以下、道中関係すべてを管掌した幕府の役職。-略-(道中奉行加役の勘定奉行下の道中方の)職掌は、御伝馬宿入用などの下付米金、宿助郷貸付、助郷割替、五街道の並木・一里塚管理および道橋普請など、多岐にわたる。」とあり、『江戸幕府役職集成』には、「その職は諸国街道の宿場の吟味、宿場手代の扶持として天領の町村に課した高懸米の徴収、道や橋の普請修復と宿場の公事訴訟を掌った。」とあります。ウィキペディアでは「五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁など道中関係全てを担当した。」ともあって、宿駅での取締り、公事訴訟などの権限を道中奉行は持っています。これは、町奉行支配下の内藤新宿についても同じです(内藤新宿の再開が道中奉行から出ているのも、宿場の一義的な管轄権が道中奉行にあったことを示しています)。例としては、品川・板橋・千住そして内藤新宿からの「諸荷物人足掛之義に付四ケ宿請證文差上申一札之事」と題する文書が「古事類苑」に所収されていて(「道中秘書」による)、
御旅行之御向々、御継立いたし候荷物人足掛之義・・以下略・・
 東海道品川宿
  役人総代
   問屋 常右衛門
   年寄 市郎左衛門
文政五年三月九日(1822年)
 道中奉行所
と文書にはあり、その後に、同文の文書が、板橋・内藤新宿・千住からも提出されているが、同文なので省略すると説明されています。宿の地役人から道中奉行所に提出された文書で、四宿の管轄が道中奉行にあったことがわかると思います。
なお、「古事類苑」の地部・政治部・官位部には、道中奉行・五街道などに関する史料が多く収録されていますので、興味があれば確認は簡単にできます。
各宿駅には「助郷」が指定されますが、1宿当たりの助郷村はおおよそ100村、一日あたりの供出人夫数が100名に及んだとされます。大変な負担で、百姓一揆の要求の中にも、助郷の廃止、負担軽減があるほどです。この宿駅及び助郷は御領(天領等を江戸時代は御領というのが一般的)・私領(大名領など)の区別なく道中奉行は指定できることになっています。このために大目付が主席の道中奉行に任命された意味があるのだと思います。また、助郷は夫役の一つで、労働による納税の一種です。そのため、村高などを基準として賦課割当、幕府からの金銭米下賜・貸付金、高懸米など勘定奉行所に関連する事項も多く、そのために勘定奉行が道中奉行の加役となり、支配下の道中方が、実務にあたったということだと思います。
宿の実務・運営の中心は問屋場ですが、多くの宿場は経営が困難で、助郷の負担も重いために、幕府は宿場や助郷に金銭の下付、貸付金の貸与、助郷の変更などを行って、宿場の維持のためにテコ入れを行っています。食売女(飯盛女)を公許しているのもこのテコ入れの一つとされています。
「四宿(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿宿)には「飯盛女」(半公認の売春婦)が一軒に2人と決められていましたが、中々守られなかったのでその取締り。」との話がありますが、管轄は道中奉行ですし、食売女(飯盛女)についても取り締ることよりも黙認や、公許する姿勢が強かったようです。原則はそうでも、行き過ぎれば品川宿の例のように、道中奉行(勘定奉行所を含め)として動かざるをえないこととなります。
ともかく、宿場に関しては町奉行は特別な権限を持たず、一義的な管轄は道中奉行にあったということです。

さて、余談を。私は今のOK Waveを見て、根拠のない、与太話のような思いつきの回答が増え、それも断定的に回答するので、大丈夫なのかと心配になるのです。中高生が質問しているらしい事柄についても傾向は同じです。私は以前教員だったことがあって、生徒の実態を思い返すと、生徒は教師の言ったこと、書いたことを一生懸命覚えようとします。このことは学生になっても変わりなく、学生も自分で論を展開するよりも、記憶に頼る傾向が強く感じられます。このような傾向の是非はともかく、教える側が正しい情報を与えてやらないと、生徒・学生は間違ったことを覚えることになります。生徒・学生にはテスト・レポート・入試・就職試験など、自分の人生を左右する事柄が控えているのですから、もう少し丁寧に回答すべきなのではないかと思うのです。回答が間違っていたと知った時に、生徒はどうするでしょうか。自分の子供に質問される親の立場であったなら、OK Waveに回答しているような内容で答えるのでしょうか。
生徒・学生以外の質問に関しても同じです。正確な歴史的な知識が、豊かな歴史観をうみ、人生をより豊かにするのではないでしょうか。
ともかく、回答する前に図書館などに行って根拠を調べたらどうでしょうか。今回私がNO14以下で回答したのは、基本的に、国史大辞典・古事類苑・旧高旧領取調帳・江戸幕府役職集成・品川宿遊里三代・ウィキペディアなどから根拠の確認ができたからであって、「所詮、IEでの検索結果に頼る。ただ、それだけの・・・」というような横着な回答はしていません。回答内容には反映されていませんが、例えば江戸幕府の代官履歴の一覧で、宿場関係の代官の実在も確認するなどの作業もしています。また、「IEでの検索結果」も使わないとも言いません。根拠の確認や、説明には多いに使います。根拠を示すのには書籍をスキャンして用いればよいのですが、著作権の問題があるので使わないだけです。

ところで、bungetsuさん、私に直接呼びかけているのですから、下記の主張の根拠となる資料は上げてください。
「fumkumさん。
勘違いしないで下さいね!
確かに、五街道の宿場の管轄は道中奉行でしたが、江戸の四宿は町奉行の管轄だったのですよ。
つまり、四宿から先々の宿場の管轄が道中奉行なのですよ。
例えば、東海道で言えば・・・品川宿・・・とかですよ。」

 park 123様、長い時間回答を締切りにせずにいていただき、誠にありがとうございました。私の考えは余談に書いた通りですが、できるだけ根拠のある回答にしたいと思いながら、そのために確認に手間取り、多くの回答が締切になり、怪しい回答を質問された方は評価している、信じているだろう様子に、これで良いのだろうかと思っていたところです。一時はOK Waveに回答するのを止めようかと思ったほどです。私の回答が絶対に正しいとは思いませんが、少なくても信頼性のおける資料等で根拠のある回答にしたいと思い、今回も記述しました。意が達しない点や、乱文等についてはご容赦いただきたいと存じます。
ともかく、長い時間ご辛抱いただき、再度、御礼申し上げます。
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この回答へのお礼

度々の丁寧な回答ありがとうございました。
私には理解できなくとも、博識な方同志の質疑応答を、興味深く触れさせて頂いております。
もったいなくて、締め切るなどはできません。

お礼日時:2013/03/12 08:40

『旧高旧領取調帳』における四宿の記載について。


内藤新宿
 記載がありませんから、旧奉行所の支配地であったと考えられます。また、1818年の墨引線とも一致しています。
品川宿(荏原郡)
 村・宿名=支配者=石高=県名 
 南品川宿=村松忠四郎支配所=543,8620石=品川県
 同高内利田新地=村松忠四郎支配所=6,3000石=品川県
 北品川宿=村松忠四郎支配所=447,4640石=品川県
 *村松忠四郎は代官。北、南のそれぞれに2寺の寺社地があります。
板橋宿(豊島郡)
 上板橋宿=大竹左馬太郎支配所=2643,3400石=浦和県
 下板橋宿=大竹左馬太郎支配所=1087,8660石=浦和県
 *下板橋宿には他に2寺の寺社地があります。
 *大竹左馬太郎は代官
千住宿
 千住宿南組(豊島郡)=佐々井半十郎支配所=378,0666石=小菅県
 千住宿北組(足立郡)=佐々井半十郎支配所=989,5990石=小菅県
 千住宿南組(足立郡)=佐々井半十郎支配所=237,8860石=小菅県
 *佐々井半十郎は代官
以上、品川・板橋・千住宿は代官支配地で、1818年の墨引線と合わせて考えると、三宿は奉行所支配地ではないように考えられます。『旧高旧領取調帳』に記載されていることは原則として町奉行支配地ではないということですが、記載されている代官支配地でも町奉行支配もあります。
*下に『旧高旧領取調帳』のデータベースのURLをコピーしておきます。国名・郡名・村名を記載して検索を掛けるとみることができます。国名だけでも見られますが、物凄い量になります。
http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=para …

マピオン大百科の記述。「●は村内に寺社領が存在。×は町地(町奉行支配地)と代官支配地の両方が存在。」とあります。
内藤新宿
 基本的に記載無し。南豊島郡の中に簡単に記載。
http://pedia.mapion.co.jp/art/%E5%8D%97%E8%B1%8A …
品川宿
「●南品川宿、南品川宿ノ内・利田新地(南品川利田新地を指す)、●北品川宿」
*全域代官支配地(寺社地を除く)
http://pedia.mapion.co.jp/art/%E8%8D%8F%E5%8E%9F …
板橋宿
「上板橋宿、●下板橋宿、」
*全域代官支配地(寺社地を除く)
http://pedia.mapion.co.jp/art/%E5%8C%97%E8%B1%8A …
千住宿
南千住宿(北豊島郡)
  「×千住宿南組」
  *奉行所支配地と代官支配地の両者があると記載。
http://pedia.mapion.co.jp/art/%E5%8C%97%E8%B1%8A …
 北・中千住宿(足立郡)
  「千住宿北組(千住町の一部)、千住宿中組(千住町の一部)」
  *全域代官支配地(寺社地を除く)
http://pedia.mapion.co.jp/art/%E5%8D%97%E8%B6%B3 …

以上の結果から、四宿の内、内藤新宿は奉行所支配地。板橋宿と品川宿は代官支配地。千住宿は一部奉行所支配地ではあっても、多くは代官支配地となります。ほぼ、1818年の墨引線が町奉行所の支配地であったことが分かります。
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この回答へのお礼

博識な方同志の質疑を興味深く読ませて頂いております。

お礼日時:2013/03/07 20:06

こんにちは。


bungetsuです。


fumkum さん。

所詮、IEでの検索結果に頼る。

ただ、それだけの・・・。

IEの記述には、時として間違った見識も検索されます。

どうぞ、あなたは、あなたの持論を展開して下さい。

別に、私は、あなたと争うつもりは毛頭ございません。

私にとっては、すでに、自分の中で一件落着で、あなたと争っている暇はございません。
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この回答へのお礼

博識な方同志の質疑を興味深く読ませて頂いております。

お礼日時:2013/03/07 20:05

まず、品川宿ですが、品川区が出している物に次のような記入があります。


「慶応4年(1868)5月19日、鎮台府が置かれてから、旧江戸府内については南北町奉行所の代わりに設置された南北市政裁判所によって治められることになりました。

ところで品川宿など江戸周辺の旧代官支配地は、どのように変わったのでしょう?」
とあって、品川宿は旧代官支配地(注・奉行所支配ではなく)と明記されています。
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000006 …

これに関連して幕末の日本全土の支配(一部を欠きます)の状況を書き出したものに『旧高旧領取調帳』という資料があります(上記の史料の根拠の一つになった資料だったと思います)。旧国ごとにまとめられ、郡単位で村の一覧があり、村の後に支配者、石高、明治時代初期の所属県名などが記入されている、江戸時代後期の土地支配の根本史料です。この中で武蔵国は特殊で、旧町奉行所の支配地(南北市政裁判所ー東京府の原型)に関しては史料がありません(作らなかったとされています)。ですから、『旧高旧領取調帳』の武蔵国の項目に記載のある地域は町奉行所支配地ではなかったことになります。しかし、例外はあって、品川宿が所属する荏原郡では、町奉行所支配地の高輪地区などを含んでいます。
『旧高旧領取調帳』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E9%AB%98% …

「天明8(1788)12月・・・御府内の範囲を、東は本所深川、西は四谷大木戸、南は品川、北は板橋・千住を限る」とあるのは、文政元年(1818)の朱引・墨引のもとになった記述であって、朱引地はこの範囲とほぼ同じ領域にあります。西が四谷大木戸(内藤新宿より内側)までで、狭くなっています。

板橋宿などに関しても詳細な資料がありますので、後ほど記載をさせていただきます。

急ぎ記述したので、おかしな文章になっていますが、申し訳ありません。
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この回答へのお礼

博識な方同志の質疑を興味深く読ませて頂いております。

お礼日時:2013/03/07 20:04

bungetsuです。



言い忘れました。

★天明8(1788)12月・・・御府内の範囲を、東は本所深川、西は四谷大木戸、南は品川、北は板橋・千住を限る

とあり、表題の

「町奉行支配地の拡大と人口・町数の増加」

から解釈して、品川宿や板橋宿などが町奉行の管轄となったと考えるのが自然ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

博識な方同志の質疑を興味深く読ませて頂いております。

お礼日時:2013/03/07 20:01

こんにちは。


bungetsuです。

町奉行支配地の変遷図をUpしますが、良くわからないとこまりますので、先に、同じことを書き出しておきます。
写真のUpの容量が小さいため・・・。


[町奉行支配地の拡大と人口・町数の増加]
~八百八町の倍以上にもなった江戸の町~

慶長期・・・1596・・・・・・・・古町、約300町
        ∫       約15万人(ドン・ロドリゴ「日本見聞録」)
       1614
寛文2・・・・1662・・・・・・・・下谷通りは坂本町まで、浅草通りは日本堤・今戸橋まで、
                天徳寺門前より西久保通りは芝札の辻、芝浦通りは
                芝大仏前まで、の各街道沿いの街が町奉行支配に編入される

元禄6・・・・1693・・・・・・・・35万3588人

元禄11・・・1698・・・・・・・・江戸の校外の、浅草追分、駒込竹町、鮫が橋、青山掃除町、
                芝牛町喰違、本所業平橋など29カ所に榜示杭が設けられる

正徳3・・・・1713・・・・・・・・江戸周辺の代官支配地259町の人別支配を町奉行所に編入

享保4・・・・1719・・・・・・・・本所・深川地区編入

享保8・・・・1723・・・・・・・・45万9842人

寛保3・・・・1743 4月・・・・50万1166人(最小値)
                男:31万6373人(63.1%) 女:18万4793人(36.9%)

延享2・・・・1745・・・・・・・・寺社奉行支配から寺社門前440ケ所、同境内地227ケ所が
                町奉行所支配に編入(合計1678町)

延享4・・・・1747 4月・・・・51万2913人
                男:32万2493人(62.9%) 女:19万420人(37.1%)

天明8・・・・1788 12月・・・御府内の範囲を、東は本所深川、西は四谷大木戸、南は品川、
                北は板橋・千住を限る

文政元・・・1818・・・・・・・・町奉行・勘定奉行、若年寄へ御府内の範囲を答申し、
                朱引図が作成される

天保13・・・1842 4月・・・・55万1063人
                男:29万5518人(53.6%) 女:25万5545人(46.4%)

嘉永6・・・・1853 9月・・・・57万5091人(最大値)
                男:29万5275人(51.3%) 女:27万9816人(48.7%)

慶応3・・・・1867 4月・・・・53万9618人
                男:27万2715人(50.5%) 女:26万6903人(49.5%)
「大岡政談で有名な、江戸南町奉行の大岡「越」の回答画像19
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この回答へのお礼

博識な方同志の質疑を興味深く読ませて頂いております。

お礼日時:2013/03/07 19:58

同じ資料を使っても必要な部分をカットしては物が見えないと思うのですが。


NO17で挙げられている資料は前後に説明や、グラフなどがあり、その中に朱引きと墨引きの違いが次のように説明されています。
・外側朱引き線(札懸場堺筋 並 寺社方勧化場堺筋)
・内側墨引き線(町奉行支配場堺筋)
また、補足として次のようにも記述されています。
「外側が朱引(御府内)内側が墨引き(町奉行所支配)一部 目黒付近で墨引きが朱引きを越えているのは、当時江戸庶民の行楽地としてたいそうなにぎわいを見せた目黒不動があったため。」
http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html
この中で墨引き線について、「町奉行支配場堺筋」「町奉行所支配」としてあり、普通に読めば町奉行所の支配地は墨引き線の内部と考えるのが当然だと思います。
さらに、朱引き線の説明にある札懸場とは、「◦札懸場…その対象範囲における変死者や迷子の年齢・衣服の特徴等を高札によって掲示した場所。 ◦1(注・町奉行所支配地)より広い範囲。」。
寺社方勧化場とは、「◦勧化場…寺社建立等のため寄付を募ることを許可された地域。 ◦1(注・町奉行所支配地)より広い範囲。」とされています(下記のURLを参照してください)。つまり、町奉行所の支配下・管轄下にある地域は墨引き線の内側と考えるのが妥当だと思います。つまり、内藤新宿を除く三宿はこの境界線で見る限り、江戸府内ではあっても、江戸町奉行所の管轄外であったと思われます。
「寺社方勧化場(説明のあるページ。江戸の範囲・朱引・墨引に関しても最下段に記述されています。)」
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives …
また、NO15でもあげましたが、安藤弾正少弼(惟要)以下が品川宿・および内藤新宿で行政権を行使していますが、これは道中奉行の権限として行使したものです。品川宿に関して安藤弾正少弼(惟要)を勘定奉行としてあるのは、原文にそのように記載されているのでそのまま記載したまでです。勘定奉行の道中奉行兼任は加役としての任命ですので、次席の道中奉行との意味ですから、大目付兼道中奉行の池田筑後守(政倫)が主席となりますので、安藤に関しては勘定奉行と記載されたのだと思います。(内藤新宿に関しては安藤を道中奉行としています。)これらも、道中奉行が品川宿及び内藤新宿を支配していた傍証だと思います。

補足で、品川宿で関東取締出役が実際の探査、捕縛にあたっていますが、これは前にも書きましたが、この役が勘定奉行支配のためです。勘定奉行というと財政関係だけだと思われますが、訴訟関係を主に扱う公事方勘定奉行という存在もありました。もともと、勘定奉行は全国の天領の派遣される郡代・代官を支配下に持ち、それらを通じて天領の治安・警察権も持っていました。関東に関しては、天領や大名・旗本領等が混在し、治安が乱れたために、天領や大名・旗本領等の区別なく治安・警察権(風俗取締も含めて)を行使できる組織として、代官所の手代などから任命され、勘定奉行の支配下に置かれたものです。ですから、その権限範囲には町奉行所の管轄地は入っていません(もともと勘定奉行所の支配地には町奉行所の管轄地は入っていません)。ですから、関東取締出役の探査・捕縛と、捕縛者の道中奉行宅への移送(尋問・裁判のためだと思われます)は、品川宿の管轄権が勘定奉行(加役の道中奉行兼任者が一義的な責任者と思われます)・道中奉行のもとにあることを示しています。
「関東取締出役」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1% …

四宿に関して、町奉行所の管轄下にあったことを示す原典資料や、それに準ずる資料を私自身では見つけられていません。もし、具体的な資料があればご教示いただければ幸いです。早速調べてみたいと思いますので、具体的な資料名と該当の箇所のページ等をお願いいたします。

だいぶ本旨から外れてしまって申し訳ありません。
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この回答へのお礼

博識な方同志の質疑を興味深く読ませて頂いております。

お礼日時:2013/03/07 19:56

こんにちは。


bungetsuです。

町奉行所の管轄範囲の変遷をお知らせします。

(1)慶長8年(1603)、千代田城二里四方。内神田、日本橋、浜町、麹町、常盤橋など計300町の町割りが完了。
この範囲を町奉行所の管轄区域とした。この地域を「古町」と呼んだ。
なお、江戸時代、「江戸城」とは呼ばず、正式には「舞鶴城」(ぶかくじょう)、または、「千代田城」と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。

(2)明暦3年(1657)1月18日~20日におよんだ「明暦の大火」の後、曲輪(くるわ=お城を中心とした一定の地域。「廓」とも書く)内の寺院を江戸郊外に移転させるなどの大規模な都市改造がおこなわれる。
この決定にいたるまでには、老中、勘定奉行、町奉行、寺社奉行が連日意見を交換した。
郊外として挙げられたのは、深川、浅草、駒込、目黒で、ここまでを「江戸」と呼ぶこととする。
なお、この時、江戸府内が手狭になったことと、お城の近くに「吉原」があるのは「風紀上よろしからず」との意見が一致し、吉原は浅草の北へ移転させられたが、吉原の管轄だけは府内にあった時と同様に町奉行の管轄範囲とした。
さらに、数年を経て、「江戸」と呼ばれる範囲は五里四方にまで拡大し、本所、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝が加えられた。
しかし、これらの地域は「府外」と呼ばれ、いわゆる、「郊外」であった。
「府内」は依然として「古町」の範囲だけであった。
町奉行の管轄範囲は、依然として「「府内」だけであった。


(3)万治元年(1660)、当時は、東の大川(隅田川)より東は「下総国」と呼ばれており、江戸と下総の両方の国にまたがる、と言うことで命名された「両国橋」が完成。
同時に、両国橋より東も「武蔵国」に編入され、江戸の市街地に加えられた。
これにより、町奉行所の管轄範囲も本所、深川方面にまで拡大した。

(4)寛文2年(1662)、南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋までを関東郡代から「警察権」のみ町奉行所へ移譲する。しかし、定町廻り同心の範囲は、依然として二里四方の「墨線」の範囲だけであった。
新しく委譲された地域は、まだまだ開発がされておらず、田畑が多かったため、犯罪も少なかったので、町奉行所が常時見回りをする必要がなかった。
しかし、町奉行所の管轄範囲も拡大した。

(5)寛文5年(1665)、品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)、高井戸(甲州街道)の四宿内を「江戸内」と呼び、町奉行の通達で庶民の旅人が駕籠での乗り入れを禁止した。(街道筋では認められていた。また、障害者や老人・・・老人の定義が一定していないが、おおむね、60歳以上・・・は江戸内への乗り入れができた)。
なお、駕籠の乗り入れ禁止令はたびたび出されたが守られず、享保11年(1726)には禁止令は解除された。

(6)明和2年(1765)、御番所(庶民は「町奉行所」とは呼ばず、通常は「御番所」と呼んでいた)での判決の一つである「江戸所払い」の刑では、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸から追放することと決まる。
従って、この範囲までが町奉行所の管轄となった。しかし、内藤新宿は、御城から近いにもかかわらず、管轄外だった。

(7)寛政3年(1791)、東は常盤橋門、西は半蔵門、南は桜田門、北は神田橋門の江戸曲輪(くるわ=廓とも書く)内四里四方を「御府内」と定める。東北東とか西北西などの東西南北以外は、依然、あいまいだった。
これは、町奉行所とは関係なく、旗本や御家人が外出する際の範囲で、「御府内」から外へ出ると「旅」に当たり、また、「御府内」であっても他人の家に泊まる際は、組頭への届け出を必要とし、届け出をしないまま「御府内」の外へ出たり、「御府内」であっても未届けの外泊は処分された。なお、夜九ツ(午前1時)までに自宅に帰っていれば、旅や外泊扱いとはならなかった。

(8)文政元年(1818)、目付牧野助左右衛門より「御府内外境筋之儀」というお伺い書が老中に出されたのを契機に、勘定奉行や町奉行、評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月に東は中川、西は神田上水、南は目黒、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて絵図面に「朱線」を引き、老中としての見解を明確にした。
この朱線を「御朱印図」または「朱引図」と呼んだ。
従って、この範囲までの「警察権」が町奉行所の管轄となる。だが、同時に町奉行所の定町廻り同心の管轄範囲としては、二里四方に「墨線」が引かれており、定町廻り同心は、この「墨線」内の範囲だけを廻っていれば良かった。
つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張った。
しかし、御城近辺は町割り図がはっきりしているものの、それ以外は「田」とか「畑」とおおざっぱであったため、実際に「ここまで」とか「これ以外」という区別はつきにくかった。
さらに、定町廻り同心の範囲と朱引図の絵図で、目黒不動尊の辺りでは、朱引の外に墨線が引かれるという矛盾もあった。


定町廻り同心の範囲と朱引図
http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html
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この回答へのお礼

博識な方同志の質疑を興味深く読ませて頂いております。

お礼日時:2013/03/07 19:53

こんにちは。


bungetsuです。

fumkumさん。

勘違いしないで下さいね!

確かに、五街道の宿場の管轄は道中奉行でしたが、江戸の四宿は町奉行の管轄だったのですよ。

つまり、四宿から先々の宿場の管轄が道中奉行なのですよ。

例えば、東海道で言えば・・・品川宿・・・とかですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
四宿とその先々との区別があったのですね。

お礼日時:2013/03/04 08:28

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