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映画、ドラマなどでは、農民や庶民は重税に喘いだように描かれています。
実際はどうだったんでしょう?

奈良、平安時代、江戸時代などはどうですか?
まあ、権力者が好き放題できる専制社会ですから、基本的に「過酷」と考えるのが自然だとは思うのですが・・・

江戸時代、7公3民まであったそうですが、でも、江戸の町人などは落語や映画では結構生活を楽しんでいるように描かれているんですが、死ぬ瀬戸際で生きていたのは農民だけなんですかね?

宜しくお願い致します。

A 回答 (7件)

奈良、平安の頃は不勉強なので江戸時代についてのみ書かせていただきます。



「7公3民」とは7割が年貢だったという意味ですが、「何の7割」なのか御存知ですか?
収入(つまり生産量)の7割ではありません。
江戸時代の年貢は現代風に言えば固定資産税であって所得税ではないのです。
年貢の対象地は田、畑、屋敷でしたが、これらの土地にはひとつひとつに「高(たか)」といわれる数値が設定されていました。年貢の額が高の4割であれば「4公6民」といわれ、7割なら「7公3民」というわけです。中には村高より年貢の方がが多いということもあり得ました。小生どこかで12割というのを見た記憶があります。そして田畑で何を作ってどれだけ儲けても年貢は変わりません(領主によっては特定の作物に課税することもあったようです)。
歴史辞典などでは「高は生産量のこと」と説明してあるものがあるかと思います。高は江戸時代初期に設定されましたがこの当時は高と生産量はほぼ等しいと考えてよいでしょう。
しかし時代が進むと生産量は増加します(増加の理由は農業技術の進歩というより旱魃や水害に対するインフラ整備が大きいでしょう)。しかし高の数値は幕末まで変更されません。領主は実際の生産量をよく把握していて概ね夏の生産量の2割を年貢として徴収していたようです。冬の生産は一般に年貢には反映されませんが麦に課税する領主もいました。
例えば村高1000石の村で幕末には生産量が2倍になったとすると、
江戸初期 生産量=1000石 年貢=200石
幕末   生産量=2000石 年貢=400石
という具合です。幕末の400石は村高に対しては4割ですから「4公6民」と言われるのです。
これでわかると思いますが「4公6民」などと言っているのは幕末の年貢の量と江戸初期の生産量を比較しているわけで、時代が異なりますから統計とは言えないことに注意してください。

小生の村(岡山県内)は村高250石、年貢200石という村でした。なんと8公2民という全国的にも珍しい「酷税の地」だったのですが、悲惨な話は伝わっていません。
夏場の米の生産量は少なくとも1000石程度はあったと推定されており、冬の生産も米に換算して250石程度あったと考えられています。総生産量に対する年貢率は15%そこそことなります。さらに綿、菜種など換金作物もよく作っていたので総生産量はもっと多かったと考えられています。

以上、主として当地のようすを記しましたが、地方によっては貧困に喘いでいた所もあったはずです。しかし一般に言われているほどの「凄まじい貧乏」ではなかったようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>収入(つまり生産量)の7割ではありません。
なるほどそういうことでしたか。
でも東北地方は飢饉や冷害で沢山死にましたね。今でも塚が残っているそうですし・・・

お礼日時:2013/05/23 13:50

「お代官様、こ、これを」「無礼な!この農民風情が!」というのが時代劇お約束のシーンですが、実はこれ、明治政府の「陰謀」なんです。


どういうことかというと、明治政府というのはとにかく旧体制である徳川幕府を否定しなければなりませんでした。新しい時代を作るためにもね。「あの頃は良かった」なんてノスタルジーを持たれては困るのです。そこで明治新政府は新たに始まった「尋常小学校」という教育システムで「徳川江戸幕府というのはとにかく農民にとってひどい政治体制だった」というキャンペーンをすすめることにしました。

考えても見てください。「明治維新は革命であったのか」と聞くと、それは見解が分かれてしまいます。革命に必須である「農民の叛乱」が明治維新ではほとんど起こっていないのです。いや一揆があるじゃないかという意見もあるでしょうが、これについてはまた後述します。しかし、幕藩体制を揺るがすほどの大規模一揆というのはありませんでした。
そんなに大規模な一揆が起きなかったのはなぜか。農民が生きていけなくなるほどの超窮乏生活にはなかったからに他なりません。

確かに、五公五民のような年貢システムがありました。しかしね、昔から日本つうのは「ホンネと建前」が存在する国なのですよ。
まず年貢の割合の根拠となる収穫高の計算ですが、今でいうところの確定申告ですね。現代は毎年これをやりますが、江戸時代は何十年にいっぺん調査するだけです。例えば10年前に調査して、今はそこから仮に10%生産性を上げたとしても、そこの部分は課税(年貢)の対象にはなりません。そこは農民の丸儲けになります。
さらにこの石高調査がずさんというか、適当というか、あの勝海舟のお父さんが勝小吉さんというこれまた破天荒な伝説を数多く持つ親父なんですが、彼の自伝に「信濃(長野)に石高調査に行った(旗本だったのでそういう仕事が命じられたのです)んだが、調査には手心を加えてやってさ、地元の農民にゃずいぶん喜ばれたもんだよ」なんて話が自慢げに残っています。調査をするのは武士ですが、武士は農民じゃないからどのくらい作物ができるかなんてのは分からない。だから豪農なんかに「ここはどのくらい獲れるのか」と聞いて以前の調査資料に基づくしかないわけで、こんなのいっくらでも不正し放題なわけです。豪農から賄賂をニギニギされることもあったでしょうしね。小吉さんからすれば、頑張って真面目に調査したところで自分の年収が上がるでなし、手心を加えて賄賂の恩恵にでも与ったほうがよっぽどマシでもあるわけです。

さて、幕末には確かに一揆も増えていたのですが、実は江戸時代を通じて一揆というのは案外に「話が通じる」ものでもあったのです。というのも、まず大名の領地で一揆が起きたことが徳川幕府に知られると「統治能力がない」とお家取り潰しの口実を与えてしまいます。
というのも、江戸時代はだいたい200年あったのはご存知だと思いますが、幕府によって取り潰された大名というのがだいたい200家くらいあったのです。つまり、1年に1家のペースで大名取り潰しがあったのです。だから大名家にとっては取り潰しの口実を与えるのが何より怖い。
ですので一揆が公儀(幕府)に知られないためには「ここはひとつ、穏便に」ということになるわけで、結構交渉で平和裏に納まることが多くありました。各大名の統治能力が弱まる幕末ともなると強硬的な一揆に大名側が対抗できず、農民側の要求丸のみになることさえ珍しくなくなったほどです。

あのシーボルトの旅行記に、日本の農村の風景についての記述がありますので、ちょっと引用します。
「山の斜面の下の方では日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して、岩の多い土地を豊かな穀物や野菜の畑に作り替えていた。深い溝で分けられている細い畝には、大麦、小麦、菜種やキャベツ、からし菜、鳩豆、えんどう豆、大根、玉ねぎなどが1フィートほど離れて一列に栽培されていた。雑草一本もなく、石ひとつ見当たらない」
もし作っても作っても搾取されているなら、これだけきちんと手入れされたでしょうか?

江戸町人の生活は、夜明け頃から活動と朝は早いですが、だいたい仕事はお昼頃まで。これは武士も同じで、なんと武士の場合は概ね勤務は一勤一休。つまり一日働いたら翌日は休み。
労働が終わったら、風呂にでも入って、午後からは落語を聞いたり、歌舞伎(芝居)を観たり、あるいは吉原のような遊郭に繰り出したり。花見だ祭りだと季節のイベントも盛んでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
明治政府が絡んでいたとは知りませんでした。

お礼日時:2013/05/23 13:46

現代のサラリーマンは、所得を100%把握されて、きっちり源泉徴収されます。

しかし、こんなきっちり徴税は、歴史的にはレアケース。歴史上、我々サラリーマンほどまじめにきっちり納税している人間はいないでしょうね。

よく、マルクス主義により、貧農史観が広まったとされます。が、マルクス主義よりも、むしろ、大学のサラリーマンである学者の、自営業者である農家の納税の実態への無知が貧農史観を生んだのではないでしょうか。

税を徴収する前に、まずは所得や財産を把握しなければなりません。農家も自営業ですから、所得の100%を把握されて、きっちり徴税する事なんか、昔も今も極めて困難です。100%把握されて源泉徴収される現代のサラリーマンとは違うのです。

農家の財産や所得を、田畑や家屋の現地調査によって把握する事を「丈量検地」と言います。この検地は、現代のサラリーマンの所得の把握と違って、江戸時代では、滅多にありませんでした。200年近く無い地域すらありました。しかも、納税は村請け。幕末の関西の幕府領の農民は、200年近く前の村のご先祖様たちの所得・財産を基準に納税していました。これでは、誰でも合法的脱税しますよ。検地後の経済成長には本年貢がかからないのですから。新産業は非課税になりやすいと言うことです。200年もあれば、ずいぶん、非課税枠が広がるでしょうね。

新井白石は、実質税率を30%弱と計算しています。幕府初期で40%弱、幕末で20%弱ぐらいだったようです。幕府領では。

幕府・藩も、検地後の経済成長・新産業に、「小物成り」という課税をしたり、専売制として安く買い上げて転売したり、検地を強行したり、本年貢を増加させたりして、何とか税収を増やそうとしましたが、一揆を起こされたりすると、責任者の出世に響き、藩内外の政敵に非難されたりするので、実施が容易ではありませんでした。

高名な歴史学者の網野善彦先生の調査には、「9公1民の村」がありました。検地のデータに90%もの年貢が、この村にかかっているのです。しかし、この村の新産業の果樹栽培と海運は非課税でした。また、「飢饉を訴える文書」の多くが偽物だったと書いてました。

しかし、実際に飢饉があったことも史実。
これは、農業の不安定さ、ギャンブル的体質によるものでしょう。ビニールハウスの発達した現代でも、野菜の値段は、1年間で数倍の振幅があります。科学的農法も農協も政府の補助金も無い時代の農業は、ギャンブル産業なのです。東北の飢饉の記録に「今年も豊作だと思って、備蓄した米を売り払って儲けたが、冷夏で全滅した。」とあります。米を食っていたんですよね。普段は。例年は米を食って人口が増えて、そして、油断した頃に冷夏になると、「米も人間も全滅」。

「農家の貧しさ」は、年貢よりも、不安定な農業の自営業によるところが大きいでしょう。今日で言えば、小企業の倒産。社長一家の悲惨な借金地獄。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>「農家の貧しさ」は、年貢よりも、不安定な農業の自営業によるところが大きいでしょう。
冷害の年は西国の米を無料で与えてやるなどの福祉政策があれば、東北の人たちも死なずに済んだでしょうに・・・
今般また、東日本大震災でも沢山の人が死ぬし、原発放射能で生まれた土地から駆逐されるし、ホントに不公平ですね。

お礼日時:2013/05/23 13:57

そんなもんじゃない。

「死ぬ瀬戸際」じゃなくて本当に死んでしまうのです。重税というのでもない。収穫0の大凶作でも年貢の量は変わらないからです。不作、凶作、大凶作と続いても年貢の量は変わらない。そして不作、凶作、大凶作と収穫が少なければ少ないほど米価は暴騰しますから、領主は余計に取り立てたがるんです。米価が10倍になって例年通り取り立てることができれば、収入は一挙に10倍になるわけですから。大名にすれば商人から借りた大借金を一挙に返済する大チャンスです。もっともそれは取らぬ狸の皮算用で、そうはうまくいかない訳ですが。年貢というのは物納ですから、米価が上がろうと下がろうと百姓が納める年貢の量は同じなんです。

稲という作物は、ハイリスク・ハイリターンです。あらゆる穀物の中で稲は最強の生産性を誇ります。しかし稲は水利・土壌・気象に求める条件が極めてハイレベルな作物でもある。ちょっとでも天候不順が続くとたちまち収穫は激減してしまう。まして冷害に強い品種などない。品種改良が進んだのは日本の長い歴史において戦後のわずか数十年のことなんです。

現代は農薬・肥料も向上し、機械化が進み、品種改良が進み、地球温暖化も進んで、元々温暖な気候を好む稲には好都合になっている。江戸時代散々冷害に苦しんだ東北地方は21世紀になってから毎年豊作続きで西日本よりも作況が良いぐらいだ。しかしこんな時代は日本の長い歴史において、つい最近のことに過ぎないんです。1960年代に実用化された田植機の技術革新が進んで普及するようになったのが1990年前後。まだたった20数年しか経っていないんです。

前述のように稲は気象条件に極めてデリケートです。しかし気象庁が設置されたのは戦後の1956年のことです。その前身は明治時代に設立されていたとはいえ、長期予報なんかできませんでした。台風の進路も予想できない低レベルなものだったのです。

百姓は馬鹿だから毎日お天道さまを見上げていたところで、今年は冷夏になりそうだなんて分かりません。分かったところで例年と同じようなことしかできない。だから手間暇かけたけど、結局収穫が無かったなんてことが起きた訳です。あれほどの重労働で1年働き続けて収穫が無い。年貢の取り立ては容赦ない。

気が利く領主は、春先に今年は冷夏になりそうだと察知して、領民に対して、「今年は稲は採れそうもないから、稲作は休んでじゃがいもを栽培せよ」と適切な指示を出して大凶作・大飢饉を防ぎました。しかし、そういうのは極めて稀で、冷害ならぬ例外であったのです。

重税だの専制社会だの7公3民だの全然的外れです。そんなことは全然どうでも良い話です。

税率なんかゴミみたいな話に過ぎない。領主の農業政策が全てです。

・稲作一辺倒でなく、作物の多角化を推進したかどうか。
・防風林・堤防などの防災対策を推進したかどうか。
・不作・凶作・大凶作に備えて備蓄政策を推進したかどうか。
・最新技術の普及に務めたかどうか。

そういったことが何よりも重要だった。農業は土木事業でもあった。それは百姓にできないことです。

税率の上っ面の数字に囚われず、そうしたことにも関心を持って貰いたい。幕末に薩長が天下を取ったのは、そうしたことが他藩と違っていたからなのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>7公3民だの全然的外れです
年貢の公民の割合は余り意味がなさそうですね。
皆が皆、薩長のように賢明な藩主に恵まれていれば良かったのですがね。

お礼日時:2013/05/23 14:03

マルクス史観が盛んだった頃は、百姓の生活は


困窮を極めていた、という説が主流でした。
しかし、最近は調査が進み、百姓は結構楽な
生活をしていたことが明らかになっております。

例えば、年貢ですが、当初は5公5民が一般的
だったのですが、生産性が上がり、また隠し田
などを開発していき、実際の年貢が4公6民
から3公7民、ところによっては2公8民などと
いうのまで現れました。
現代の租税負担率は40%を超えていますから、
これは実質現在よりも低いということになります。

このように、百姓の生活が向上しますから、物価が上がります。
しかし、武士の収入は固定されていますので、
据え置きです。
それで武士がどんどん相対的に貧しくなり、遂に
黒船到来がきっかけになって武家社会が崩壊したの
です。

なら、なぜ年貢を上げなかったのか。
年貢を上げようとすると、百姓が一揆などで抵抗します。
平和な時代が続き、武士も軟弱になり、こういう百姓
一揆を押さえる力が、無くなってきたのです。


(以下 NHK 高校講座 日本史より抜粋)
百姓が日常生活を規制されていたことは間違いありません。
だからといって休みなく働かされたといたわけではないのです。
酒を飲み、タバコを吸い、あるいは余暇を楽しんでいた、
これが百姓の暮しでした。
そして百姓は「領主には百姓の暮らしを保障する義務がある」
という主張を掲げていろいろな要求を出しました。
法令などに完全に縛られていたわけではないのです。

そのため、有名な慶安の御触書には、
「年貢さえ納めれば百姓ほど気楽なものはない」
との記述まで見られるようになりました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
農民=貧しいというのがマルクス史観であることをしりませんでした。
農民の生活と言っても地域差が著しいようですね。東北地方の農民は最初から最後まで苦労したのではないでしょうか?

お礼日時:2013/05/23 14:14

「六公四民」は普通のようでした。


租税として稲作の総収穫から,村役がお上に納めるのが6割とすると,当時の稲作技術から見て,相当に苛酷であったと言えるでしょう。
村役は,納税の役目を担うことで特権化し,公定以上の徴税をして一部を私物化するのが習わしでしたから,下層民ほど生活の困窮は酷いものだったと思います。
租の他に庸(力役)と調(貢ぎ=特産物の貢納義務)が課せられていました。
農民にも諸階層があって,水呑百姓が最貧,高持ち百姓はそれなりに豊であったかと思われます。
もっとも,平安以前の古代社会と,生産力が進んだ武家社会とでは,社会構造が一変していますから,容易に比較は出来ませんが。
災害時の不時の出役も無償,豊作不作に拘わらず納付は定量という時代も有ったようですから,不作の年には多数の餓死者も出たり,「間引き」と称する嬰児殺しも珍しくなかったと言われています。
「口減らし」の為に娘を身売りするなどは,昭和の時代まで通常の出来事でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>不作の年には多数の餓死者も出たり,「間引き」と称する嬰児殺しも珍しくなかったと言われています。
「口減らし」の為に娘を身売りするなどは,昭和の時代まで通常の出来事でした。

今、戦前の映画を連続して見ているのですが、昭和10年くらいの社会が背景ですが、娘の身売りの話は普通によく出てきます。

やっぱり田舎の人たちの生活はラクではなかったと思います。 

お礼日時:2013/05/23 14:21

農民は一揆をおこさないように生かさず殺さずだった、と言われてますからね。


紀州藩は年貢が9割近くだったそうです。
文化を楽しんでたのはやはりごく一部で、江戸も治安が悪かったようですよ。

平安や奈良は正直知らないです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
百姓一揆なども調べてみたくなりました。

お礼日時:2013/05/23 14:22

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