あなたの「必」の書き順を教えてください

猜疑心があります。
誰も信用できないという気持ちになることもあります。
なぜそうなるのか?
どうしたらそれを解除できるのか?
猜疑心を抱えて生きていればそれでいいのか?
難しい課題です。
幼いころに虐待を受けたり、いじめを受けた人はびくびくして生きていく
という話はマジですか?
スターリンの名言
「愛や友情は1日で終わるが、恐怖は長く続く」らしい。
これは本当なのか。ptsd、トラウマ、人間不信という話しはよく聞く。
ニュースでコワイ報道を見たら、それが長く人の記憶に残る。
人をまったく信用できなければ、恩師やいい人ですら疑い、人生損することに?
無駄にびくびくして過ごすのは精神衛生上よくない感じも。

まとまりませんが、
猜疑心、人間不信、人を信用できない
ということについて皆さんなりのご意見を賜りたく思います。^^;

A 回答 (5件)

その人の他者に対する要求が強すぎれば、他者はその人の要望に応えることが難しくなり、関係が破綻しやすくなる。

この経験が繰り返されると、その人にとって他者は信用に足るものでは無いとされ、裏切りを予測する猜疑心が強くなります。その猜疑心はその人にとって、他者との関係維持の為の有意な作用をもたらさないから、その人はこれを早く手放したい。そして、猜疑心を否定する根拠を他者に求めて、さらに他者に対する要求が強くなる。さらに要望に応える他者の困難さが増して、関係の破綻が加速する。
他者に対する要求を小さくすればいいんです。そうすれば、他者がその要求に応える難しさも減り、その人の期待に応えることも比較的安易になります。その人自身が満たされる経験も多くなります。関係の破綻も回避されます。
しかし、要求を小さくすることは、簡単ではない。その人にとっては、猜疑心を否定する根拠が早急に必要だからです。
でも、難しくても、試してみませんか?私は試している最中です。
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まったく問題ないと思います。



人なんて、信用できないものです。

親友でもない限り。

人は悪いという意味ではありません。

期待通りに動かないということです。

たとえば、「なんで、メールの返信が来ないんだよ」とイライラするのは、
他人に期待しているからです。

他人は、自分に害を及ぼすことは少ないが、
なにかしてもらうこともまずない。

当然です。

みな、自分がいちばんかわいいのだから。

人間不信でいることで、無意味な人間関係で悩むことはなくなります。

あなたの状況、なんの問題もありませんね。
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私が思うのは信じるというのは、相手を信じた自分自身を信じるのだと思います。



相手ありきではなく全ては自分なんです。

自分を信じていれば例え裏切られても壊れることはありません。

この人になら裏切られても構わないという思い。

自分がした決断に自信と責任を持つのです。


猜疑心に囚われていたり誰も信用できないという人は、ようは自分に自信がない人、自分自身を認めきれてない人、自分自身を信用してない人だと思います。


過去のトラウマに縛られ苦しむのはわかるのですが、全ては自分自身の中にある問題だと思いますよ。


最後に・・責任持てないことでは、その人のためにも信用してはいけないこともありますね。
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私自身の経験ですが


元々かなり素直で(自分で言うのもなんですが)
人を疑わない性格の子どもでした。

ところがその性格が裏目に出たのか小学校時代教師と生徒からいじめに合いました。
(それぞれ別の時期です)

いじめが終わった中学以降は友達も沢山出来ましたし
人からすると「いじめを受けた様には見えない」といわれるぐらい図々しくもなりましたが(笑)

ふとしたところで「猜疑心強いな~」と思う時はあります。

例えば「先生」と言う人達。
どこかで「先生・教師」を信用していないフシはありました。
勿論良い先生はとてもしたっていましたが
そう思えない先生は常に「この先生だって別にいつも生徒の事を考えているわけじゃない」と疑っている感じはありました。

あと興味の持てない他人に対してはいちいち仲良くしない、信用しないと風になりました。

仲が良かった友人に対しても ふとした事で「嫌われちゃうかも」とか 自分が想像していた事と違う事をやると極端にガッカリしたりもしました。

とはいえ元々やたらと人を信用する人間だったので
プラマイゼロって感じで然程困る事もありません。

自分がした体験を別の人がなっていると 言いようの無い怒りが爆発する事はありますが、なんとかなってます。


極端に嫌な人間に早いうちにあったおかげで
「嫌な人が居る事も分かったけれど、いい人も居る」というのを体験的に知っているので
奥底にはトラウマと呼べるような恐怖心は今も残っていますが
自分が注意深く生きていれば、人を信用しても問題が無いと今は結論づけています。


誰も信用出来ない、と言うのは裏を返せば
「誰かを心から信用したい、でもどうすれば出来るか分からないから怖い」って事だとも思うんです。

小さいレベルで人を信用してそれが積み重なれば
恐怖心が無くなる事は無くても、多少生きづらさは減るんじゃないかなと私は思います。
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まぁ、そういう人は必ずしもいるでしょうね。



幼いころに虐待・いじめを受けたから信じられないことはあるかもしれませんが、

大事なのはその恐怖が一定以上続いた場合ですね。


いじめに関しても一時のいじめだったら大抵の人は耐えられると思いますが、

いじめ⇒間を置く⇒いじめ⇒間を置く・・・・というふうに常に人間不信の解消の場を与えないと

そうなる可能性がありますね。


実際、私は中学生の時2人不登校がいましたが、いじめられていたのでそういう気持ちが少しわかります。
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この回答へのお礼

皆さん、ありがとうございます。
猜疑心の程度に関する総括は難しいですね。1冊の本ができそうで、それすら論者によって異なる意見となる。性善説にたち生きる人。性悪説にたち生きる人。スターリンが「恐怖は長く続く」というのは名言だと思います。彼はすべて学校を主席で卒業した天才なのだとか。好きな人は少ないだろうが、僕らと器が違うw恐怖を分散し、適度な危機感として起爆剤として生きて生きたいものです^-^

お礼日時:2013/05/17 15:02

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