ひとはなぜ、カウンターのキリ番(キリのいい番号・例えば2000とか777など)に当たると喜ぶのでしょう? また、外国にもこのような習慣はあるのでしょうか? 
よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

人が意味を読み取ろうとするのは目の前に現れた事象を認識するためです。

ではなぜ認識しようとするか?それはその事象が自分にとって好ましいか不愉快か見極めるためです。なぜ見極めるかというと好ましいことを欲し、不愉快なことは避けたいというのが人の本能だからです。なぜそんな本能があるかというと人も動物であり、生き残って子孫を残すためです。
順を追って説明します。もともと人類も自然のなかで生きる動物種の一種であり、たえず自然界の脅威にさらされていました。それに対抗して生き残っていくためには自分の生存を脅かすものは不愉快なこととして認識し、それを避けていく必要があったわけです。例えば嵐がやってくる、猛獣が近くにいるといったことは一刻もはやく認識してどこかへ逃げ込むなり食料を蓄えたりしたほうがよく、実際そのような状況を早く認識した者がより多く生き残って子孫を残してきたわけです。ではどうやって認識したかというと、たとえば嵐が近いということを知るのに有効な手段のひとつは雲の様子を観察することだと思います。ここで雲の様子というものを思い浮かべてください。明るい部分もあれば暗い部分もあり、白い部分もあれば鉛色の部分もあります。それ自体はただの雲であって人が観察していようといまいとそこに存在しています。雲の様子というのも明るさや色のただの配置にすぎません。もし雲を写真にとり、その写真を例えば100*100の碁盤目状に区切ってそれぞれの区画の明るさを10段階で表したとすれば100*100の碁盤目に1から10の数字がただ並んでいるだけにすぎません。それを認識して意味付けするのは人です。だからだれでも朝空を見上げれば今にも雨が降りそうだとか無意識のうちに判断できるわけです。
まとめると
1.空模様(雲)という事象が目の前にある
2.それを人が(例えば嵐が近いといったふうに)認識する
3.認識すればそれが自分にとって好ましいか不愉快かがわかる
4.対策を打つなりできる
ということになります。自分にとって不愉快かどうかわかるためにはまず認識することが必要で必然的に認識したいという願望が発生します。では見たこともない事象にぶつかったときはどうでしょうか。意味が読み取れませんから認識もあやふやで好ましいか不愉快かの判断が出来ません。判断のつかないものは安全サイドに立てば不愉快なものとして処理したほうが賢明です。なぜなら見たこともない事象を避けてかかわりをもたないということは少なくともそれまでの生き方と変わりませんが手を出すということはひょっとしたら自分の身を危険にさらすかもしれないというリスクをおかすことになるからです。認識のうまくいくものは判断も簡単ですから安堵感が得られます。だから人にとって好ましい順番は
(認識できて好ましいもの)->(認識できて無害なもの)->(認識できて不愉快なもの、認識できないもの)
となります。ランダムな数字の羅列は認識できないもの、キリのいい数字は認識できて無害なものといえるでしょう。ただ、経験的に数字の羅列というものは意味のわからないものという先入観がありますから、キリのいい数字は意味のわからないはずの数字が認識できるという快感を与えることになります。
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この回答へのお礼

熱弁をふるっていただき、ありがとうございます。
とはいえ、なんだか分かったような分からなかったような話です。
快・不快の認識が本能なのは分かるのですが、数字の意味付けとの結び付けがよく理解できませんでした。何でキリのいい数字は認識できて無害なのか? 人間の好奇心や冒険をどうやって説明するのか? 気象などの具象の認識と、数字のような抽象の認識は同じなのか? そもそも対象を認識する以前に忘却することの方が多いのではないか? 謎は深まるばかりです………。
円周率のように、無意味な数字の連続をゴロあわせして何桁も記憶するような人もいますよね。キリのいい数字に限らず、人間はそこに意味をこじつけてしまう生きもののようです。
これ以上話が進むと、ただのキリ番の話から認識論になってしまうので、ここでやめておきます。
すいませんでした。

お礼日時:2001/06/05 04:47

人は無意味なものにたいしても何らかの解釈をして意味を読み取ろうという心理があります。

天井の木目をじっと見ていると人の顔に見えたりするあれです。(心霊写真もほとんどがこれで説明できます。)数字について同じでランダムな数字の羅列を見たときにも人は無意識に何らかの意味付けをしようとします。これがキリのいい番号であれば意味付けが簡単なわけで、「意味付け不可能」のストレスとは逆に「意味付け成功」というある種の快感を得られるわけです。外国にもあります。ちなみに映画で有名なアポロ13号の打ち上げは13時13分でした。

この回答への補足

さっそくの回答、どうもありがとうございます。
さらに突っ込んで、なぜ人間は無意味なものに意味を読み取ろうとする心理があるのでしょうか? どうしても意味づけしなければ不安になるから? だとすると、どうして不安になるのでしょうか? 
どうかよろしくお願いします。

補足日時:2001/05/27 03:57
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Q性格って習慣付いた考え方の癖ですか?

自己啓発本をいくつか読んでいて頭に残っている事があります。

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人間は安定を求めるようにできているので、自分の行動をパターン化しようとする。
さまざまな局面にぶつかった時、一から対処法を考えていては疲れる為「こういう場合にはこうする」と自分なりのパターンを決めてしまう。
性格を直す事がなかなかできないのは、人格の問題というよりも習慣化した考え方のパターンを断ち切る事に不安を感じるから。
自分の性格を直したいと思うのなら、考え方の癖、その習慣を変えればよいのだと考えれば気が楽になる。
何をするにも慣れる為には時間がかかるが、いったん慣れてしまえば今度はそれが当たり前になる。
転校や転勤により生活環境ががらりと変わる場合、人は誰でも不安を感じる。
しかし、それも一時的なものでやがて新しい環境に順応していく。
性格も同じで、新しい性格に慣れるまでの我慢なのです。

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だいぶ前に読んだ本ですがなるほどと思い何冊も読んだ中でもとてもよく覚えています。
人間の性格って習慣付いた考え方の癖なんでしょうか。
人間関係の基礎は両親との関係から学んだ(習慣付いた)癖があったりとか。

もし自分に変えたい(向上させたい)部分がある時には、その向上させたいと思っている行動・考え方に慣れるよう日々習慣付けしていけば変わっていくのでしょうか。どう思いますか?

自己啓発本をいくつか読んでいて頭に残っている事があります。

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人間は安定を求めるようにできているので、自分の行動をパターン化しようとする。
さまざまな局面にぶつかった時、一から対処法を考えていては疲れる為「こういう場合にはこうする」と自分なりのパターンを決めてしまう。
性格を直す事がなかなかできないのは、人格の問題というよりも習慣化した考え方のパターンを断ち切る事に不安を感じるから。
自分の性格を直したいと思うのなら、考え方の癖、その習慣を変...続きを読む

Aベストアンサー

>(1) 私が変えたいところはマイナス思考です
⇒ プラス思考の習慣を身につけることは可能です。自己訓練で身につけることも可能です。
>(2) 自分が間違っているんじゃないか?私がダメなのかな?とすぐ自己嫌悪しがちなところです。
⇒ 反省しない、自己愛性、尊大な自己イメージから揺らがない習慣を身につけることは可能です。自己訓練で身につけることも可能です。
>(3) 高圧的な人が苦手です
⇒ 日々習慣付けの自己訓練で苦手を克服するのは難しいかもしれません。
 
一般論ですが、極端なマイナス思考も、極端なプラス思考も、周りからすると困るものです。周りからすると、マイナス思考もプラス思考も適度な範囲で収まっていて欲しいです。
あなたのマイナス思考の実際を想像する手立てもないので、コメントが難しいです。
本人は自分で「自尊心が低くて自分が間違っているんじゃないか?私がダメなのかな?とすぐ自己嫌悪しがち」というヒトの中には、時々、周りからはそうは見えないこともあります。「自分が間違っているんじゃないか?私がダメなのかな?とすぐ自己嫌悪しがち」であっても、それで周りに迷惑を掛けておらず、自分を傷つけるほどの悪影響が出ていないのなら、そのヒトの個性の範囲だと思います。無理して修正することはないと思います。本人が強く修正したいのならやむ得ません。その場合は、周りからみれば特に修正の必要があるとは思えない状態ですから、お好きにどうぞということになります。
あなたの状況を知らないので何とも言えませんが、一般論で言えば、プラス思考や尊大な自己イメージをあえて造ろうとするのは、あまりお薦めできません。
事実を知りませんが、超世界的な芸能人でも不安感と日常的に戦っているそうです。現状じゃまだダメだという思いも強いそうです。もう私は限界じゃないかという思いもかなり感じていると何かで読んだ記憶があります。何かのことをした後で、大丈夫だろうか、失敗したんじゃないかという不安をまったく感じないのも、平均的人物像からはずれているように思います。
 
一般論ですが、高圧的なヒトを苦手とするのはそれほど特別なことではありません。中には例外的に平気なヒトもいますが、高圧的威圧的な相手を不得手としたり嫌うヒトは多いと思います。それを直すのは難しいと思います。
高圧的、威圧的な態度に平然としていられるようになるのは、なかなか難しいです。それは、いわゆる訓練が難しいからです。
平然としていられる訓練をするためには、高圧的、威圧的な態度をとってくれる相手が必要です。それを確保し、自分の都合に合わせて高圧的、威圧的な態度をとってくれるように依頼するのが難しいです。仮にそれができても、高圧的、威圧的な態度に頻繁に接した場合、慣れて平気になる可能性もあります。(馴化し条件応答を抑止する。減感作療法と言います) しかし逆にますます敏感になり不安から恐怖へと症状が悪化する可能性もあります。パニック障害を起こすケースでは、あるヒトが特に高圧的・威圧的というほどではないのに、そのヒトにあう度に恐ろしさや嫌悪感が募るということもあります。 そのような場合の一般的な対策はそのヒトにあわないようにすることです。
 
☆★ ~~~ ★☆
> 仕事でよく関わる相手だったり自分の母親だったり離れたくても離れられない相手に何を言っても必ず高圧的な態度を取られる場合・・・辛いです。 だからそういう相手に対して自分が変わりたいんです。
⇒ 他人から干渉されたと感じたために、自分が否定される/馬鹿にされる/プライドが傷つけられるのではないかという予期恐怖がおきて、辛い感じが高まっているのかもしれません。
背景に、過去高圧的威圧的なヒトに徹底的に痛めつけられた経験があったのかもしれませんし、逆に高圧的威圧的な態度のヒトにあった経験があまりなかったのかもしれません。 しかし、過去の経験を造り直すことはできません。 
「他人の高圧的・威嚇的な態度や発言」を「干渉される/否定される/馬鹿にされる」と「受け取る」のでなければ、辛いと感じることは激減すると想像できます。
「他人の高圧的・威嚇的な態度や発言」は相変わらずイヤだし、できれば避けたいと思ったとしても、「自分の全存在が否定される」のでなければ、つらさは減るのではないでしょうか。
例えば、学校の成績やスポーツの成績、仕事の成果など、優劣をつけやすいことについて考えると、平均以下のヒトは半分いますし、平均から大幅に低いヒトも相当な人数がいます。一つ一つのことについて見れば、全部のことをパーフェクトにやれるヒトはいません。ドジをしたり、なぜかうまく行かずに失敗することは多く、わかりにくい言い方をしたり、うっかり誤字、勘違いは誰にでも起きます。他人がそうしたことをしたりしたとき、あるいはドジや失敗が多い他人を見て、「あいつは馬鹿だ」「どうしようもない」と言う人は少なくありません。 そうした評価や発言をしているヒトは、「あいつは馬鹿だ/どうしようもない」と決めつけた人物(B)と、そういう決めつけをしなかった人物(N)と、どういう場合にどれだけ扱いを変えているでしょうか。 「あいつは馬鹿だ」「どうしようもない」などの決めつけ発言をしなくても、ドジや失敗が多い人物(B')とドジや失敗が多くない人物(N')は、場面によって扱いを変えていると思います。
言い方や態度が、高圧的・威嚇的か、穏やかでやさしいかは、表現の差だけです。 
言い方や態度が高圧的・威嚇的で、相手の存在を根本から否定し、徹底的に馬鹿にしているとしても、そのような表現になっているだけです。 そのヒトの癖や習慣でしかありません。
相手の表現や態度に惑わされるのではなくて、自分のよかったこと、悪かったこと、不十分だったことを考えるきっかけや材料として受け取ることがポイントでしょう。
具体的には、【自分の存在が】「干渉される/否定される/馬鹿にされる」と「受け取る」のでなはく、【あのやり方が、このことが】「確かにまずかった(拙かった)」と「受け取る」ようにするのが良いのではないかと思います。
 
出来事や状況を受け止め理解するスタイルを今までとは変えていくのです。
他人から高圧的・威嚇的・断定的な言い方をされ、全人格を否定されたような言葉を聞いた場合でも、言葉を額面通り「自分の全存在の審判裁定」と受け止めるスタイルから、「拙かったポイントを考えるきっかけ」をあのような与えてくれていると受け止めるスタイルに変わるように努めるのです。
 
高圧的・威嚇的・断定的な言い方をされた場合だけでなくて、冷静な言い方、穏やかな言い方、やさしく支えてくれる言い方、褒め称えてくれる言い方をされた場合でも、自分の味方か敵か、やさしいかきついかというの理解の仕方はできるだけ止めて、「部分的で具体的な事実の分析と今後の対策検討」に自分の頭の中で理解し直す習慣付けをコツコツするのが、効果があるように思います。
 
他人がどのような言い方をしてきても「最終評価は○か×か」はできるだけ考えないで、「このことを今後はこうしよう」というような視点で考えることです。
「自分が間違っているんじゃないか?」「私がダメなのかな?」ではなくて、「あそこが拙かった/あそこでミスった」「この点が不十分だった」というように、自分の頭の中での思考のスタイルを変更するように、思考を変え、その習慣を身につけるのが良いと思います。

>(1) 私が変えたいところはマイナス思考です
⇒ プラス思考の習慣を身につけることは可能です。自己訓練で身につけることも可能です。
>(2) 自分が間違っているんじゃないか?私がダメなのかな?とすぐ自己嫌悪しがちなところです。
⇒ 反省しない、自己愛性、尊大な自己イメージから揺らがない習慣を身につけることは可能です。自己訓練で身につけることも可能です。
>(3) 高圧的な人が苦手です
⇒ 日々習慣付けの自己訓練で苦手を克服するのは難しいかもしれません。
 
一般論ですが、極端なマイナス思考も...続きを読む

Qカウンターバランスについて

例えば認知心理学の実験をした方ならお分かりかと思いますが、2つの条件を2つのグループに分けて試行したとき、条件2つを各グループ同士で順序を逆にして試行しますよね?この「カウンターバランス」は「課題遂行の順序による影響を相殺するために、被験者の半数で順序を逆に」するそうですが、なぜ「順序による影響があるのか」が、いまいちよくわかりません。

参考まで、以下はストループ効果と逆ストループの実験の例です。

Aグループ・・・CH条件(色文字読み)⇒CO条件(色文字命名)
Bグループ・・・CO条件(色文字命名)⇒CH条件(色文字読み)

Aベストアンサー

再度こんばんは。


frauさんの状況がよくわからないのですが、どこかの分野の心理学実験を行なって、それにもとづいてレポートを書いているのですか? だとしたら、

> カウンターバランスを行っても先行研究(仮説)と同じになるなら
> 仮説はより真実性に近くなる、ということなのでよいのでしょうか?
> (お分かりになる範囲で結構です)

私の意見としては、
 「カウンターバランスをとることで、実験手続きはより妥当な(独立変数の影響を検証でき得る)ものとなった」
 「今回の実験結果は、先行研究の主張や仮説を支持する結果であると言える」
ということは言えるかもしれませんが、

私自信はその実験について詳しく知らないので(その実験や仮説に関する研究が何かわからないので、そして実験の隅々まで確認のしようがないので)、本当に真実に近くなったかどうかはアドバイスできません。なので、わかる範囲でできる範囲のアドバイス。


心理学実験では、独立変数と呼ばれるものを操作することによって、その変数が、知覚や記憶のような人間の特性にどのような影響を与えるかについて検討します。その際に、独立変数の他に実験結果に影響すると考えられる変数を、影響しないように統制するのが、実験を組み立てる際に重要となってきます。その統制方法のひとつがカウンターバランスです。

たとえば先行研究でカウンターバランスをとっていなかったとしたら、「その実験結果は、独立変数以外の変数の影響なんじゃないの?」という批判がでてくるでしょう。そこで次の実験で、独立変数以外の変数について影響がでなくなるようにカウンターバランスをとってみて、それでもやはり課題の成績や反応時間などに条件間で差がでたなら、さて、どう考えればよいでしょうか?

先行研究の結果と同じになった場合でも、論文やレポートの考察で述べるべきは多くあります。「先行研究と同じになりました、仮説が支持されました、めでたしめでたし」として何も書かないのはマズいということ。

○先行研究と違った結果になった場合
 →今回の実験状況に何らかの問題があった、新たに設定した操作が影響してしまった可能性がある、カウンターバランスの操作は意味がなかったのか、あるいはその操作が逆に影響してしまった?

○先行研究と同じ結果になった場合
まず「今回の実験結果は、先行研究の主張や仮説を支持する結果であると考えられる」などと、今回の結果について、序論や実験目的の部分で提案した仮説が支持されたかどうかを、まず確認する必要があります。
そのうえで、

1)今回カウンターバランスをとった他に、「実験結果に影響すると考えられる変数」が存在するかどうか、そしてその変数がまだ統制されていなくて、それを統制したら実験結果は変わるのかどうか
2)今回の実験結果は、あくまでも先行研究や今回の実験での条件下での結果であるため、もう少し実験条件が違った場合にはどうなるだろうか
3)今回の独立変数の効果以外に、検討した人間の特性や実験課題に影響する重要な変数はあるだろうか、それを独立変数として操作すると結果はどうなるだろうか
      ↓
上記の内容について考察した後で、それを確認できる(仮説が正しいかどうかをさらに確認できる)ような新たな実験を提案してみる

単に実験の追試をするだけではなく、そういう多くの実験を積み重ねていくことで(そしてやはり仮説が支持されることで)ようやく、より「真実に近づいた」と言えるのではないでしょうか。

再度こんばんは。


frauさんの状況がよくわからないのですが、どこかの分野の心理学実験を行なって、それにもとづいてレポートを書いているのですか? だとしたら、

> カウンターバランスを行っても先行研究(仮説)と同じになるなら
> 仮説はより真実性に近くなる、ということなのでよいのでしょうか?
> (お分かりになる範囲で結構です)

私の意見としては、
 「カウンターバランスをとることで、実験手続きはより妥当な(独立変数の影響を検証でき得る)ものとなった」
 「今回の実験結果は...続きを読む

Q習慣と癖の違い

お世話になります。
どなたか「習慣」と「癖」の違いを教えていただけませんでしょうか。双方重なる部分もあるのではないかと思いますが、明確に言葉にできません。
私の勝手な解釈は、習慣は意識的にやることで、やらないと(またはやると)気分が悪いこと、で癖は無意識に知らず知らずにやること、といった所かと思いますが、必ずしもそうとは言えないような気もします。
もしかしたらこのカテゴリーで質問するべきことでは無いのかも知れませんが、心理学的な内容でもあるかと思いまして質問をさせていただきました。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
「習慣」とは反復学習によって獲得された「一定の行動パターン」であり、「癖」というのは、そのような行動や行動の選択などに見られる「個体の特徴」だと思います。
「習慣」にしましても「癖」にしましても、どちらも同様に「個体差・個人差」というものがあります。ですが、このふたつには、その「個体差」というものを決定している要因に大きな違いがあります。それは、「習慣行動における個体差」、即ちそれぞれの個体の「行動パターンの違い」を決定しているのは「環境や目的」といった「外的要因」であるのに対しまして、「癖」としてそれを特徴付けているのが「個体独自の反応や判断」といった「内的要因」であるということです。

習慣行動として我々の行動パターンを決定しているのは、そこに与えられた環境や目的といった「外的要因」です。動物でしたら巣から餌場までの距離や範囲、人間でしたら通っている会社や学校の場所などによって習慣行動のパターンが決定されますよね。
このように、我々が日常の習慣としている行動のパターンというのは、元々は自分に与えられた環境や条件に基づいて繰り返し選択され、必然的に組み立てられたものです。ですから、全く同じ環境や条件が与えられるならば、目的を達成するための行動選択に個体差というものは必要ありません。この場合、与えられた条件が個体ごとに異なるために行動パターンの違いが発生するわけですが、飽くまでそれは個体の内的性質が反映した結果ではなく、与えられた環境によって外から決定されたものですから、「個体差」ではあっても「個性」ではありません。

これに対しまして、「癖」というのは環境や目的といった外的要因ではなく、個体・個人がそれぞれに持ち合わせる「価値判断」や「反応様式」といった「内的要因」が行動の特徴や行動選択の基準に反映したものです。この「内的要因」が「癖の正体」です。このため、仮に与えられた環境や目的が全く同じものであったとしても、それに対して選択される「反応や行動」には少なからず個体差というものが出てきます。これは、哺乳類や鳥類など、他の高等動物でも全く同じです。つまり、同じことをするにしても、ひとそれぞれに、また個体それぞれに「個性」というものがあるわけです。
例えば、仮に双子の兄弟であったとしましても、勤めている会社が違うのであれば、それに伴う行動パターンが同じになることはありませんよね。逆に赤の他人でも同じ社宅に住み、同じ会社に通うのであれば、自ずと同様の習慣行動が形成されます。ところが、与えられた環境や目的はふたりとも同じですし、行動パターンに違いの発生する要素は何処にもないのですが、にも拘わらず、Aさんは毎朝始業30分前に出勤するのに対しまして、Bさんに至っては何時も遅刻ぎりぎりというのであれば、それは明らかに「個性」であり、価値観や性質といった個体に特有の内的要因がそれぞれの「行動の特徴」として表れ出たものです。
従いまして、我々動物にとって「習慣行動」とは、与えられた外的要因によって必然的に決定される「一定の行動パターン」であり、そして「癖」といいますのは、そこに表れ出る「行動の特徴」であり、それは個体に特有の内的要因が、行動様式や行動選択の基準に反映したものということになると思います。

回答は以上なのですが、質問者さんは「習慣行動」と「意識行動」の関係にまだ何となく疑問をお持ちのようですので、お役に立つかどうかは分かりませんが、ここから先はそれに就いて私の考えを述べさせて頂きます。但し、たいへん長いので、この先は暇なときにお読み下さい。

最初に申し上げました通り、習慣行動というのは与えられた環境や目的に従って選択された複数の行動が反復学習されることによってパターン化されたものです。ですから、そこには達成すべき目的というものがあるのですから、それは本来「計画行動」であり、状況に応じて適切な判断を行なわなければ正しい結果は得られないわけです。ですが、それが習慣行動になってしまいますと、パターンを形成するひとつひとつの行動は既に熟練運動として体得されており、我々はその順番を間違えるということもありません。
例えば、我々は朝起きて顔を洗い、歯を磨きます。これは自らの健康維持や社会的なマナーといった目的に従って選択される行動ですよね。ですが、このような単純作業であるならば、我々は別に何も意識はしませんし、特にその理由を考える必要もありません。
つまり、本来ならばそれは歴とした目的のある計画行動であり意識行動ではあるはずなのですが、我々はほぼ無意識のうちに難なくそれを達成してしまうというわけです。そして何よりも奇妙なことは、我々は本来の目的というものを全く意識していないのにも拘わらず、歯を磨くという行動を毎日せっせと選択してしまうということです。

とはいえ、いくら無意識と言いましても、朝家を出て、ふと気が付いたら何時も通り会社に出勤していたなんていうのもちょっと極端な話ですよね。家を出たならば通りに向かい、バスに乗ったら幾つ目で降りて会社まで歩く。習慣行動というのはこのように複数の行動の組み合わせですから、当然その中には意識行動も無意識行動も混ざっていますし、無意識である日もあればそうでないときもあるはずです。ですから、ひとによっても様々な習慣行動というものを意識行動か無意識行動かのどちらにきちんと分類するということはできませんし、それは然して意味のあることではありません。注目すべきことは、習慣行動の場合、我々は特に目的を意識することなくそれを実行してしまういうことです。
「さあ、今日も右の奥歯から磨くぞ!」
「ネクタイは締めたからこれから会社に向かえばいい」
果たして我々は、常にこのような目的を意識して習慣行動を実行しているのでしょうか。本来ならば、それは目的を達成するための計画行動です。ですが、逆に考えますならば、理由など考えずともできるようになってしまったものを習慣行動と言うのではないでしょうか。つまり、習慣行動というのは、パターン化された行動を選択することによって結果的にその目的が達成されてしまう計画行動ということになるのではないかと思います。ですから、特に意識しなくとも毎日の目的が自然に消化されてしまうというわけですね。
では、理由など考えなくても実行できてしまうというのはたいへん便利で結構なことなのですが、本来の目的を意識せずに、我々は毎日、どうやってその行動を選択しているのでしょうか。

厳密に言いますならば、動物の脳内で行動の選択に必要なのは「目的」ではなく「動機」です。「欲求」と言った方が手っ取り早いかもしれませんが、何れにしましても、それは大脳皮質で扱われるものではありません。
「本能行動」を除く我々哺乳動物の行動とは、大脳辺縁系で発生する「情動」に伴って選択されるものであり、大脳皮質には行動選択に関する権厳は一切ありません。ですから、大脳辺縁系における情動の発生とは「モチベーション」、即ち「行動の動機」、もしくは「欲求の発生」を意味します。そして、大脳辺縁系とは脳内では「無意識」の領域です。
つまり、普段我々は大脳皮質の論理的な判断によって有意識の元で知的に目的を達成していると思いがちなのですが、実は、実際には感覚情報を元に大脳辺縁系に発生した「情動」に従って無意識のうちに行動を選択させられているだけというのが、ぶっちゃけた話舞台裏ということになります。これが、我々哺乳動物が大脳皮質で目的というものを認識しなくとも「学習行動」を選択することのできる理由です。
このようなものを「情動行動」というのですが、だからといって我々が無闇やたらと感情行動に走ってしまうことがないのは、それは脳の年齢が成人に達しているならば理性的な判断を扱う大脳皮質のサポートがそれなりにしっかりとしているからです。
このように、我々哺乳動物が行動選択に必要なのは目的ではなく、情動に伴って発生する「モチベーション(行動の動機)」です。では、「目的」とはいったい何かと言いますならば、それは行動選択のサポートがしやすくなるように、特に人間の大脳皮質によって後から付け足される「概念」ということになると思います。敢えて人間と申しましたが、計画行動のできる知能の高い動物であるならば、その結果を目的として捉えることは幾らでも可能だと思います。

ではここで、癖というものに就いても少し考えておきたいと思います。
「癖」というのは「無目的」であるから「習慣」とは違うという考え方があります。ですが、ただいま申し上げました通り、動物の行動選択に必要なのは大脳皮質内で論理的な概念として扱われる「目的」ではなく、大脳辺縁系の情動反応や本能行動を司る生命中枢による生得的な価値判断に従う「モチベーション(行動の動機)」です。
我々哺乳動物の脳内で「学習行動」の動機とは「情動の発生」であり、癖という行動にも情動という動機があります。何故ならば、癖には個体差・個人差というものがあるからです。本来、癖というのはそういうものですよね。
習慣行動ももちろんそうなのですが、このように個体差・個人差のあるものは生得的な本能行動ではなく、遺伝的な体質を除いては全てが生後の体験によって獲得された「学習行動」です。そして、哺乳動物の学習行動とは大脳辺縁系に発生する情動に伴って選択されるものです。従いまして、一見「無目的」であるように思われます「癖」ですが、それが学習行動である以上、脳内では情動という、歴としたモチベーションが発生しているということになります。

良く、女のひとが髪の毛を耳の後ろに掻くという仕草をしますよね。薬指でやるひともいますが、小指でやるひともいます。これも個性ですね。私は、小指で何気なくやるのが色っぽくて好きです。
大脳辺縁系内で情動を発生させているのは「扁桃体」という神経核です。ここには身体内外のあらゆる感覚情報が入力されており、それに対する「価値判断」が下されることによって「快情動」か「不快情動」のどちらかが発生します。これにより、我々動物は「接近行動」か「回避行動」かの選択が可能になります。
髪の毛が前に垂れてくれば邪魔ですから、それに関しては不快情動が発生しますので、これを耳の後ろに掻くという行動は、発生した嫌悪刺激に対する「回避行動」ということになります。このような選択を行なう扁桃体の反応というのは、自分にとっての利益・不利益に基づく「価値判断」です。従いまして、これによって問題が解決するならば、髪の毛を掻くという行動を選択することによって、脳はひとつの「利益」を獲得したということになります。このように、髪の毛を耳の後ろに掻くという行動には、顔の皮膚の表在感覚によって発生した嫌悪刺激に伴う回避行動という「モチベーション(行動選択の動機)」が存在し、それは扁桃体に入力された感覚刺激に価値判断が下されることによって生み出されるというわけですね。

では、その女のひとは、実際に髪の毛が前に垂れてきてもいないのに、どうして無目的な癖を繰り返すのでしょうか。それは、髪の毛が邪魔だという表在感覚以外の感覚刺激に対しても脳内では同じモチベーションが発生するために、同じ行動が選択されてしまうということが考えられます。では、どうして異なる感覚刺激であるにも拘わらず同じ反応が起こるのか、ということになりますが、実は、逆に動物には同じ刺激であってもそのたびに違う反応が表れることさえ幾らでもあるわけなのですが、この辺りのメカニズムに就いてはまだはっきりとは分かっていません。
何れにしましても、ひとつはっきりとしていることは、モチベーションが発生するということは情動反応が発生しており、選択される行動は快情動か不快情動のどちらかに準ずるものであるということです。これがどういうことかと申しますと、それに伴って接近行動か、あるいは回避行動が選択されるということは、発生した情動に対する問題の解決という「利益」が獲得されるということです。
つまり、髪の毛が邪魔でもないのに髪を掻くというのは全くの無目的な行動ではあるのですが、それには何らかの感覚刺激に対して発生した情動に伴うモチベーション、即ち行動選択の歴とした動機・理由かあるということですね。加えて、行動が選択されるということは価値判断が成されているということなのですから、脳の方の立場にしてみれば、全く何の利益もない行動を無闇やたらと選択しているというわけでは決してないということになるわけなんです。
他の回答者さんが仰います、癖というのは無目的な行動であるというのは常識的に見て間違いのないことだと思います。ですが、先に申し上げました通り、習慣行動には確かに目的というものはありますが、必ずしもそれが意識される必要はないというのもまた事実です。では、目的のあるなしによって習慣行動と癖の区別を付けることができないということでありますならば、こちらのモチベーションというのは、習慣行動ではどのような意味を持つのでしょうか。途中から癖の話になり、先送りして参りました結論は以下のようになります。

我々が目的を意識しなくとも習慣行動を選択できるのは、大脳辺縁系の情動反応に伴うモチベーション(行動選択の動機)が発生するからです。これにより、我々は朝顔を洗うために洗面所に狩り立てられ、何も考えなくともせっせと会社や学校へと出掛けて行きます。一度パターンが選択されてしまうならば、あとは車に弾かれない限り無意識行動でも一向に構いませんし、何か特別な問題でもなければ、今日はこのまま引き返してサボってしまおうということにもならないはずです。
つまり、質問者さんは「習慣となっているものはやらないと気分悪い」と仰いますが、実はその不快感が正に情動であり、これが習慣行動を実現するためのモチベーションそのものであるわけなんです。「気分が悪い」というのは、例えば不安状態といった不快情動です。このため、発生した不快情動に基づく回避行動として、我々は日々の習慣となっている行動を無意識のうちに選択してしまうということになります。そして、癖も全く同様で、何らかの理由で抑止されるならば不快情動が発生し、それはストレスになります。つまり、このようなモチベーションの役割に就きましても、習慣行動と癖の間には主だった違いは見当らないということですね。

ということなものですから、それは無意識行動であるのか意識行動であるのか、はたまた合目的であるのか無目的であるのか、いったいどのようなモチベーションによってその行動は選択されるているのか、自分なりに色々と検討を致しましたが、結局、どれを使いましても習慣と癖の違いを明確にすることはできません。このような理由から、習慣とは行動パターン、癖とは行動の特徴であり、各々は個体差を決定する要因が異なるというのが、私の回答ということになりました。

こんにちは。
「習慣」とは反復学習によって獲得された「一定の行動パターン」であり、「癖」というのは、そのような行動や行動の選択などに見られる「個体の特徴」だと思います。
「習慣」にしましても「癖」にしましても、どちらも同様に「個体差・個人差」というものがあります。ですが、このふたつには、その「個体差」というものを決定している要因に大きな違いがあります。それは、「習慣行動における個体差」、即ちそれぞれの個体の「行動パターンの違い」を決定しているのは「環境や目的」といった「外...続きを読む

Qなぜ人の幸せは喜んでもらえない

私は男です。
自分の幸せや成功、上手く行ったことは、
人には喜んでもらえないという気がしています。

家族や、かなり立場のことなる親友であれば、喜んでもらえることはあります。

しかしほとんどは喜んでもらえません。
他人や知り合いなら当たり前ですし、
通常の友人や、親友であっても、立場や目指しているものが近いと、
喜んでもらえません。

もちろんみんな口ではよかったねとは言うこともありますが
本当に喜ぶことはなく、どちらかというと怪訝に思うことが多いと思います。

そして私自身、人の成功を本心で喜べるのは
家族や恋人、立場の全然違う親友、などのみです。

これは人間の資質だと思うのですが
私が質問したいのは、どうして人間は人幸せを喜べないようになっているのか、
その仕組みを知りたいです。

もちろん
修行して人格が高まった人や、
特別に人にかわいがられる性格を持っていて、心から喜ばれるタイプの人は
例外として除外します。

また、
人の成功を喜んだほうが回りまわって自分に帰ってくるといったような
自己啓発的な観点も除外させていただきます。

あくまで一般的な人間の性質として
どうして人間は人幸せを喜べないようになっているのか、
その仕組みを、心理学的な見地から知りたいです。

詳しい方や考えのある方がいらっしゃいましたら、
何卒ご教授よろしくお願いいたします。

私は男です。
自分の幸せや成功、上手く行ったことは、
人には喜んでもらえないという気がしています。

家族や、かなり立場のことなる親友であれば、喜んでもらえることはあります。

しかしほとんどは喜んでもらえません。
他人や知り合いなら当たり前ですし、
通常の友人や、親友であっても、立場や目指しているものが近いと、
喜んでもらえません。

もちろんみんな口ではよかったねとは言うこともありますが
本当に喜ぶことはなく、どちらかというと怪訝に思うことが多いと思います。

そして私自身、人の成...続きを読む

Aベストアンサー

私見ですが、生物進化の過程からアプローチしてみます。

進化は環境に適応することで生き延びることをひたすら
目的にしてきましたが、個体の機能向上と同時に群として
一個の生命体のように活動することで滅びずに生き残る
戦略をもとって来ました。
特に、牙や爪などのフィジカルな戦闘能力に劣る生命体は
自然に数を増やすことで淘汰を逃れる戦略を獲って来たの
です。

だから、ライオンやサメなどの強者と違い、サルやシマウマは
弱さゆえに群として生き延びる・・・社会を形成するように最初から
出来ています。

さて、何故ご質問の「他人の幸せを何故喜べないか」に対して
こんな話から始めたかと言いますと、単なる群であったものが
個体の能力差による階級や得手不得手による役割分業が
進むと先ほど申し上げたように全体で非常に生存能力が
発達した生き物のようなシステムとして進化が続きます。

そして、高度な社会を形成するに至って各々の個体の絶対性が
損なわれていきます。

人間社会の話に戻して考えてみると、美貌や優秀な頭脳に
恵まれたり、才能があったり、生まれた時から社会の階層の
上層部にいるなど、明確に社会の中で識別できる個体は、
自然に対比として、それらの優越的な特異性を持たない
大半の人々に憧れと失望という二つの感情を発生させます。

憧れは、模倣を生みます。 スターの真似をし、スターの
持ち物を欲しがり、結果的にそのスターのコピーを沢山
生み出します。
流行というムーブメントも含めて、個体の特異性は益々
失われていきます。

ここでも、力が無い、特別な才能や容姿に恵まれない
人々は、力のあるものを真似て、沢山寄り集まって
群を形成することで幸福感を見出そうとしますが、
その仕組みの遠い原型は、アジの群れが固まって
大魚のように振舞うことで生き残りを図る遺伝子の
命令がそのまま生きています。

そして憧れのほかにもう一つ、自分には特異性が
何一つない、という失望も感じるのですが、これは
個体としての生命である自分には生き延びる強さが
無い、容易く殺され、滅び去ってしまうという不安を
感じることに繋がっていきます。

どんなにスターを模倣し、ファンクラブのように群を
成しても、アジのように四六時中その群体に包まれて
いる訳にも行きません。

それらの群から離れて単独で生活している時間の
方が遥かに長いのですから、自分が弱いという
不安と向き合わなければならないストレスが蓄積
してきます。

痛みというものが、重大な危機を回避するための
生命体の必須機能であることに加えて、サルや
人間のような「笑う」という機能が付加されたのは、
社会がその内部で殺しあって自滅してしまうことを
避けるための生命維持のためです。

個体が増えてくれば、同じ種族でも餌やメスの
奪い合い、生存環境の奪い合いで必ず殺し合い
ます。
それは、個体が日々生命を維持し、種族が進化
するためには弱肉強食というシステム無しには
ありえなかった中で、同族内で殺しあって全滅する
前に、勝敗を決し、支配と隷属という階層分けが
絶対に必要になりますが、更に弱い階層が滅びずに
生き延びるためには、闘うことなく支配を受け入れ
最初から相手に隷属することで生き延びるという
戦略も、同時に発達してきたのです。

最初から白旗を揚げて降参していることを相手に
はっきり伝えるために卑屈という行動が生み出され、
「笑い」という機能が生まれました。
だから、余り他の生き物で笑うものはいません。

尤も、その笑いの根源にある感情の表出は、親が
幼い赤ん坊を保護して育てる本能が、そのルーツに
あります。

絶対的な親の庇護を求める赤ん坊に対して、
それを育てることを全てに優先する母性本能。
(親子に関しては、絶対的な弱者である赤ん坊に
絶対的な強者である親が支配される、一般的な
生物界の支配形態の逆転という現象が起きますが、
長くなるのでここでは割愛します。)

その深い根っこから進化した「笑い」という表情は
それを発動させる感情に様々なものがあります。

相手の攻撃を予防しようとする「卑屈」。
赤ん坊を泣き止ませようとする「愛情」。
弱者に敗者の烙印を押して更に弱めようとする「軽蔑」。
自分が強い個体であることを周囲に知らせたい「喜び」。

笑いというものの中に含まれている様々な感情は、
高度な社会を形成するに至った巨大な群の中で、
個体としての生存本能に根ざしています。

人間は動物と違って、もっと高尚な精神を持つ、と
言いたがる人もいますが、人間を神聖視したがる
感情自体が上に書いた個体の生存本能を言葉に
置き換えただけのものです。

随分長い説明になってしまいましたが、他人の
幸せ、というのは他人が強い個体である、という
アピールですから、言わば、自分という個体に対する
攻撃でもあります。

先に書いたように、群は自動的に階級を生み、
弱者はより弱者に、強者はより強者にという抗い難い
巨大な流れを生みます。

アジの群れで言えば、中心部と外縁部では大型魚に
襲われた時に生き延びる確率にかなりの差がある筈
です。
中心部には弱い固体が逃げ込んでいて、肩を寄せ合って
いるから密度が高く、襲われた時に逃げようがありません。
弱いものより外敵に近い外縁部にいる個体は、より
強い個体のように思うのですが、襲われた時に容易く
逃げることが出来るでしょう。

(これは全くの私見ですが、もしそうなら、強者が弱者を
包み込むリスクをとることで逆に生き延びる戦略になって
いることは興味深いですが。)

他人の幸せな笑顔を見せつけられていると感じることは、
その時点で幸福感を感じていない大半の人にとっては
自らを生物としての劣性個体であることを想起させる
ストレスになります。

特に、ストレスは経年蓄積されて慢性化するものなので
幸福感は累積するストレスで益々遠ざかり、反比例して
他人の幸福感が増大して見えます。

くたびれて腰をかがめ、座り込んでしまうに従って
立っている他の人々が大きく見えるのと同じことです。

つまり、人間も又、アジと同じように群の中で必死で
自分という個体の生存の安定性を希求し、皮肉な
ことですが、不安や恐怖や怒りを感じるという、強者からの
逃避のための生存本能が、同時に自分の弱さを
自覚させ、益々不安になり、恐怖や怒りを感じて
ストレスが増大する、という循環を生みます。

生きていくことは、それだけで辛いことだと誰かが
言いましたが、正しく、言い得て妙なことな訳です。
生き延びたい、死にたくない、なのに何で自分は
こんなにも弱くて脆いのだろう、と辛いのです。

だから、他人の幸福は自分のストレス源になります。
それは、ストレスを抱えている人間から見れば
理不尽な攻撃、とも受け取れるでしょう。
何せ痛みを伴うのですから。

ご質問の文中にある、人に可愛がられる性格、
心から喜ばれるタイプの人、とはそういう「戦略」を
生存のために選んだ、乃至はそういう機能を
身に着けた人、とも言えるでしょう。

全ての生命が死の恐怖から逃れられないという
生存本能に突き動かされて・・・遺伝子に操られてと
言ったほうが正確かも知れませんが、すなわち
あくまで個体に単独の意識がある限り、他人の
幸せを喜ぶためには、自分が属する群の強さが
自分の生命維持を裏付けている、という認識が
あって始めて成しえる「戦略」でしょうね。

だから、中途半端な「カワイ子ぶりっ子」が
庇護を求める赤ん坊を演じて良い目を見ようと
している戦略だと見抜かれて、攻撃の対象に
なるわけです。

修行して人格が高まった人、というのは少なからず
居るはずですが、その誰にも共通して言えるのは
自分を苦しめる単独個体としての自分、という認識、
「我」を捨てる努力を続けている人、と言うことが
出来ます。

生物界に圧倒的な勝者として君臨しているかに
見える人類ですが、もしこの先更なる進化という
ものがあるのならば、高僧よりも更に我を捨てて
全体で一個の生命体として活動できる・・・
そう、例えば、電脳で繋がり、個体の意識が変容し
融合して解けてしまったような精神世界の構造体の
姿をしているかも知れません。

遠い遠い昔に単細胞生物が群を超えて融合し、
多細胞生物として進化したように。

生きているからこそ、他人の幸せを喜べない。

私は、そのように考えています。

ご参考までに。

私見ですが、生物進化の過程からアプローチしてみます。

進化は環境に適応することで生き延びることをひたすら
目的にしてきましたが、個体の機能向上と同時に群として
一個の生命体のように活動することで滅びずに生き残る
戦略をもとって来ました。
特に、牙や爪などのフィジカルな戦闘能力に劣る生命体は
自然に数を増やすことで淘汰を逃れる戦略を獲って来たの
です。

だから、ライオンやサメなどの強者と違い、サルやシマウマは
弱さゆえに群として生き延びる・・・社会を形成するように最初から
出来てい...続きを読む

Q物事を書き残す習慣があります。何故なのか知りたいです。

自分が感じた事をPCのメモ帳やノートに事細かく書き残す癖があります。
死んだら見られて恥ずかしいので止めたいし捨てたいですが勿体ない衝動に駆られて難しいです。

「ふと同級生の○○を思い出した。思い出は~」
「友人Aが、あの時ああ言ったのはきっとこういう心境だったからだ」とか
本当にどうでもいいような過去の話や思ったこと感じたことを書いています。詩なども書いています。

小説を書く予定もなく読み返すにしても量が膨大で…。
どういう心理が働いて書き残してしまうのでしょうか?
またこの癖をやめる方法はあるでしょうか?
アドバイス・回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

私はブログの中身もそんなものだし
家置きようの大きな1冊のノートも、
持ち歩きようの手帳(中身フリーページ)もそんな感じですよ。

絵も描きますし、思いついたことは特に制限なく書いてます。
最近、そういう手帳の使い方はやってるんですよ?
少しオシャレな雑貨屋さんや、百貨店の文具コーナーなどに行くと
フリー手帳の見本に、わざわざ手書きイラストなど見本例が書き込まれています。

私の場合は、誰かから電話がかかったときも、そのノートを手元に置き
必要があればメモを書き付けますし
家計簿も書いて、カフェで夫とお金の相談もするし
勉強もするし、本の参考になるフレーズはあまり考えずに写します。
地図や名刺、切り抜きも貼っていきます。

そんなところへ「すべての情報は1冊の手帳にまとめなさい」
など、各種のベストセラーが登場したようです。
街の図書館では100人待ち。
ぱらっと読みましたが、私のノートの使い方とほぼ同じでした。

私も質問者さんと同じ、癖でやっていたのですが
「下らないことを書いて無駄」とか「何のために」と否定的ではなく
抑制しないようになったら
利点がたくさんあるなと思い当たり
常に手帳に書き付けることを、逆に強化しました。

それなりに厚い手帳ですが、2ヶ月程度あれば使い切ります。

これを見ていた家族や友人達まで、4、5人が真似し始めました。

脳の開発という意味では、意味を考えずにノートに書き付ける癖や
本を多読していくというのは
頭を使わないからダメという側面だけではなく
創造性の源である右脳を発達させる側面があるのだそうです。

よく言われることですが
言語化して論理的に認識できる情報は1割に対し
論理的に認識できない無意識の情報は9割以上だそうですね。
ノートに書き付ける という部分では、意識の行動ですけど
あまり考えすぎずに表現したり、素直に書き記していくという意味では
ある意味、意識のがんじがらめから解き放たれ
ふと、その中から、新しい創造の芽が育ちやすいのだそうです。

これ以外にも、いろいろな切り口で考えられるでしょう。

いずれにせよ、何ごとも肯定的な発想は吉だと思います。

私はブログの中身もそんなものだし
家置きようの大きな1冊のノートも、
持ち歩きようの手帳(中身フリーページ)もそんな感じですよ。

絵も描きますし、思いついたことは特に制限なく書いてます。
最近、そういう手帳の使い方はやってるんですよ?
少しオシャレな雑貨屋さんや、百貨店の文具コーナーなどに行くと
フリー手帳の見本に、わざわざ手書きイラストなど見本例が書き込まれています。

私の場合は、誰かから電話がかかったときも、そのノートを手元に置き
必要があればメモを書き付けますし
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