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今はそうでもないかもしれませんが、昔はなぜ長男が家を継ぐのが当たり前だと考えられていたのでしょうか?他国に比べ、日本は特にその傾向が強いように感じられます。

二男三男は、養子に出したり、戦国時代には人質に出したり・・・。
長男のみが特別扱いされていた(?)・・・。

また、名家などで長男ならではの継ぐ儀式(?)や、特別扱いの「参考例」のようなものがあれば教えて下さい。(※天皇家は除きます)

宜しくお願い致します。

A 回答 (9件)

江戸時代までは定まった相続法がなくお家騒動が頻発しました。


明治になって、争いや混乱を防ぐために民法で長子相続が推奨されたんだと思います。
華族・士族などお家騒動が起きやすい名家が、まず政府の方針に従って長子相続を採用したので、
庶民にも長子相続が広がったと聞いています。

戦国時代でも、必ずしも年長者が跡取りになったわけじゃないですよ。
年齢は上でも母親の出自が低いと、筋目正しい家の母に生まれた下の子が氏の長者になります。
徳川家康の長男は信長の命で切腹させられ、順番でいえば次男が跡取りになるはずですが、
次男は豊臣家に養子にだされ、三男の秀忠が徳川家を相続しています。
母親の出自(母方一族のバックアップが得られます)+ 跡取りとしての適性(生き残りに重要)が
戦国時代は重視されたのではないでしょうか。
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幕末ですが、私の曽曽祖父は四郎でありながら家督を継ぎ家老になっております。


慶応二年の俸禄帳では二郎の名前が見られ(中老)、上3人が早逝したからではなく四男が一番優秀だったから家督を継いだ模様です。

顛末は優秀過ぎた故に、倒幕派大弾圧の中心人物になってしまい明治維新と共に切腹、御家断絶になってしまいましたが…
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当たり前だったんじゃなくて、そう決めたのよ。


徳川吉宗(八代)が。
一番の目的は、家督争いを避けるためじゃない?
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    別に長男が家を継ぐとは決まっていません。

現に、僕の祖父は末っ子で、しかもその父が末っ子だったので、一族の一番古い家に住んでいます。正確には「いました」台風でやられまして、、、

    これは九州の話ですが、下記のように朝鮮や、モンゴル、東南アジアではめずらしくありません。
    http://kotobank.jp/word/%E6%9C%AB%E5%AD%90%E7%9B …

     僕が見たところ長男は、先に産まれたので、経済的独立も早い、したがって家を建てる能力も末っ子より早い、と言う理由からではないかと思います。

    性的な成熟も早いから、結婚も早い、新築の家に出て行けば、新婚生活も二人だけ、という利点があり、#2さんのおっしゃるように昔の日本人は合理的だったんですね。
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まず、大きく分けて、世襲制と能力制があります。



世襲制は安定しますが、活力に欠けます。
能力制は活力が出ますが、不安定になります。

安定を求める為には世襲制が優れています。
それで徳川時代の武家は世襲制になりました。

世襲制にすると安定しますが、それは能力制に
比較しての話です。
世襲制の中で能力制を採ると、兄弟間で権力闘争などが
発生し、不安定になります。
それで、長男なら長男と、次男なら次男と決めて
おけば安定します。

江戸時代は、長男世襲を定めた法はありませんでしたが、
家康と家光の故事に倣い、武家では長男世襲が通常のものと
なりました。

じゃあ、なぜ次男世襲にしなかったのだ、なぜ長男なのか
といえば、それは儒教でしょうし、そもそも長男だけしかいない
という家庭もある訳です。

能力の要求がそれほど強く無かった武家では、長男世襲に
なりましたが、商家では、能力主義が採られていた場合が
多かったのです。
これは、商家は安定よりも能力が求められたからです。
無能では倒産してしまいます。
そのため、娘に養子をもらう、ということまで盛んに
なりました。
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長男が家督を継ぐようになったのは、徳川家光が家康の一声で2代将軍秀忠の後継者に


決まったころからでは、ないでしょうか?

と言うのも嫡男は、長男と決まっていたわけではなく、
正室の息子が後を継ぐようになっているようです。
例えば、
・源頼朝(三男):長男は義平、次男は朝長
・織田信長(次男もしくは三男):庶兄は信広
・上杉謙信(次男):兄は長尾晴景
・伊達忠宗(次男):兄は秀宗
など、長男ではない人が後を継いでいます。

頼朝の場合、平治の乱で父や兄が亡くなったから後を継いだと思うかもしれませんが、
兄が健在のころから、頼朝の方が官位は上です。
忠宗の場合、兄秀宗は母が側室だったため、宇和島の領主となっています。

長男が家督を継ぐようになったのは、
・豊臣家が滅び平和な時代がやってくる
・家督争いがあると家の力が弱まる
と言うような理由があったからだと思います。

秀忠と妻の江は、家光より弟の忠長、政宗の母は政宗より弟の小次郎を溺愛することで
家臣の分裂を招きそうになってますから。
回答にはなっていませんが、参考に。
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歴史全体に明るいわけではないのですが……



戦国時代(安土桃山や、室町時代など)は、長子相続が特に定められていなかったようです。
そのせいで、兄弟が家督を巡って争い、疲弊して家自体衰退してしまうこともよくあったようで、
徳川家が三代目を選ぶ際、春日局(家光の乳母)が家康に「長子相続を定めなければ、徳川家は潰れてしまうでしょう」と進言し、以来長子相続が定められたのだとか。
九代(名前忘れました)も、八代吉宗の長子であったため、知的障害?のようなものがあり、かつ下に優秀な弟がいたにもかかわらず、家督を継いでいます。
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日本の古代は末子相続だったようです。


http://zipangu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/40 …

また鎌倉時代の相続も、必ずしも長子が選ばれたわけではないようです。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n425.htm

長子相続になったのは、中国の儒教の影響では?

参考URL:http://www.kokin.rr-livelife.net/goi/goi_si/goi_ …
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当時は寿命が短かったので先代が没した時一人前として見れる年齢が長男だけだったんじゃないでしょうか。

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