いちばん失敗した人決定戦

 
ある現役の文学部哲学科の学生さんがこのカテで相談してた。
哲学科に進学したことをとても後悔しているとか、日本における哲学に対するネガティブなイメージが強いとか、授業は語学の学習ばかりやらされてるとか、哲学科であると言うと周囲から変な目で見られるとか、それで学校辞めるべきかどーすべきか悩んでるみたいな、およそそーゆー内容の相談であった。
もー1名同類の相談をしているのもおった。
哲学に対する彼の失望感はよく分かる気がする。
確かにこの学問には人を失望させるどーしよーもないところがあるのである。
実際この哲学カテに投げられる質問や回答の内容を眺めていてもそのことはよく表れていると思う。
大学の哲学専攻ともなればその失望感はなおさらのこと大きいであろー。
彼の場合は諦めて出直す以外ないんではないかな。
私もそろそろここから消え去ろー思うが、最後に果たして哲学を取り巻くこのよーな状況を生み出すのは一体何なのか一度皆さんの考えを訊いてみたい。
 
 

A 回答 (8件)

 結局その人が何を期待して哲学科に行ったか、だと思います。



 以下、人から聞いた話です。


 小さい頃から夜空と星座が好きな女の子がいた。普通は綺麗だねぇ~で終わるところだが、その子は綺麗な星々の正体が気になりだし、綺麗な夜空の成り立ちを知りたくなり、理科を頑張った。長じて大学の天文分野に入る。研究室での成績は、もちろん優秀。それどころか極めて厳しい倍率を突破して、某国立天文台の研究職さえゲットする。

 夢に見た職場に、将来を嘱望される新人(女の子だし(^^;))として入った彼女だったが、わずか3か月で辞めてしまった。

 何より熱意があり、抜きんでて優秀。しかも、天文分野のような極めて狭い専門領域の公務員研究職という、めったにありつけないものまでゲットするのだから、研究職には欠かせない半端でない根性まで持っている。落ち度はないはずだった。

 恐らく彼女は、反射望遠鏡などで毎夜の夜空を観測する生活をイメージしてたのだと思う。また現実には、そうやってばかりはいられない事も、わかっていたと思う。しかし彼女が配属されたのは、電波望遠鏡だった。理由は優秀だから。

 そこでは、Excelにグラフ化された観測データの訳わからん波形のギザギザの、突起一つに狂喜乱舞するような世界になる。少し離れて見れば、確かに異常な世界と言えなくもない(^^;)。

 彼女はそこに、満天の星空の絶景を体感できなかった訳です。逆に、突起一つで宇宙を手に取ったかのような気分になり、鬼の首でも取ったかのように舞い上がる奴だっている。彼女には、そういう(異常な?)能力だけが欠けていた(普通の女の子だったんだね(^^))。これはもう、感覚や感性の問題だと思う。


 人にはどうしても得手不得手がありますが、致命傷になる不得手は、自分でも(周囲も)気づけぬところに隠れている気はします。
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この回答へのお礼

 
>人にはどうしても得手不得手がありますが、致命傷になる不得手は、自分でも(周囲も)気づけぬところに隠れている気はします。

なるほどね。

これはポイントをついていると思います。

ddtddtddtさん、あなたの回答は抜きん出て素晴らしいね。

ありがとうございます。。
 

お礼日時:2013/08/31 11:46

 日本ではともすれば「哲学の扱い方」を何か神棚に祭り上げる様なありがたい存在としてとらえているのではなかろーか、と僕は勝手に考えています。


 でも本来の筋からすれば、ソクラテスやカントそしてニーチェが問うたように、根本は簡単な問題に行き着くはずです。「わしら人間て何じゃ?」「なぜ生きているのじゃ?」傍から見れば暇人が禅問答を繰り返しているようにも見えますが、「なぜ~」と問うことから全てが始まるならば、宗教のように初めから結論ありきとの姿勢と対決するために「哲学」があるのではなかろーか。
 もし「実効性のあるもの」が哲学ならば、それは最早「哲学としての存立基盤」を失したとしか僕には思えません。「実効性がある」を答とするなら、答を求めて思索するとの哲学が本来的に持つポリシーとは逆のベクトルになってしまうからとの理由です。
 「哲学科」に在籍するなら、当然の様に原書講読が必要であり、そのためにはドイツ語をはじめギリシア語やら時にはラテン語といったツールも必要です。
 京都学派が誤読したハイデガーの『存在と時間』も“In-Der Welt-SEIN”を手掛かりとして
“DAS EXISTENZ”へと橋渡しされるはずですが、それをどこでどう読み間違ったのか、あの連中はとんでもないことをしでかして、その後は頬かむりしていただけです。ちゃんと読めば、あの様なへんな解釈などどこからも出て来ないはずですがね。恐らくはそうしたトラウマがあるのかもしまれませんね、哲学科の教員には。
 でもヘンですね、日本の大学にある「哲学科」の講座ではフッサールやメルロ・ポンティといった「現象学」をはじめニーチェやハイデガーそしてキルケゴールといった「実存哲学」領域も扱っているはずですが。

 
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哲学を特別なものと捉えているからでないでしょうか。



哲学は単なる思考。明日の朝飯は何がよいか、も哲学。

中小企業のワンマン社長が気持ちよさそうに語る人生哲学もまた哲学。

と私見ですが思います。
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他人の考えのみを習得しても、そこから新天地が切り開けなければ


ただのウンチクでしかないわな。まあ、消えると言いつつ粘着している
投稿者も居るぐらいだから、そんな汚物よりは遙かにマシだと思われる。

ただ、日本の大学でまともに研究している者は全体から見ると僅かでしかない。

持論をキチガイのように展開して落書きするしか脳のない者には、
自分のやっていることが哲学だと信じているようだが、それは断じて哲学では
ないのです。キチガイの落書きでしかないのです。

そんな愚行に絶望しても、それは哲学そのものとは無関係です。
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質問内容表題は目立つので このように恥ずかしいなどと書くと悪い印象を受ける人も多くなるでしょう。


大学は学問と研究の場であり 哲学は重要な学問です。
こういう学問と真剣に取り組んでいる人を私はすごく尊敬してます。
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大学課程で扱う所のカント、ヘーゲルからベルグソンに至るまで、


現代社会においては、実効性を失っている為と推察します。
過去の遺跡を穿っては、無駄飯を食ってる連中と誤解、揶揄される傾向が顕著です。
翻って時代の要請は実践哲学であり、この系譜は寧ろ創価学会を筆頭とする、
仏教団体において広く民衆救済哲学として普及してきているのが現状でしょう。
旧態然とした学府で、身に付く事は余りにも瑣末でしかなくなっているのです。
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この回答へのお礼

  
>翻って時代の要請は実践哲学であり、この系譜は寧ろ創価学会を筆頭とする、
仏教団体において広く民衆救済哲学として普及してきているのが現状でしょう。

創価学会と哲学、最も無縁な間柄と思っておったが。
 

お礼日時:2013/09/02 02:24

>哲学を取り巻くこのよーな状況を生み出すのは一体何なのか一度皆さんの考えを訊いてみたい。



昔々、哲学はすべての学問を含んでおった。哲学が学問そのものと言ってよかったのじゃよ。

しかし、天文学が独立し、医学が独立し、物理学が独立し、法学が独立し、政治学が独立し、心理学が独立し、国際関係論が独立し、国家財政論が独立し、その結果、独立するほどの価値がないゴミのような領域だけが哲学に残った。

>文学部哲学科って恥ずかしい学部なのかい

哲学が文学部の一部になっていること自体、恥ずかしいことじゃ。
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 今の時代は何かなりたい職業を決めて勉強する時代ではないと思います。


哲学科いいじゃないですか、世の中の物事を哲学的に分析できれば世の中の役に立つと思います。
 何の学科でも間違いではありませんしっかり勉強してクラスで一番になれば必ず就職はできます。
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