アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

一向一揆で対立していた事はよく聞きますが、その後どのように和解していったのでしょうか。

A 回答 (6件)

大谷派だって元々は真宗です


信長と戦うためには和解して共闘するのがベストと考えたんでしょう

この回答への補足

真宗大谷派ですから今も真宗です。ちなみに私真宗大谷派の門徒です。
信長と戦う為に和解したという史料か何かありますか。石山合戦に高田派が参加していたことは聞いていませんが?

補足日時:2014/02/11 01:47
    • good
    • 1

>一向一揆で対立していた事はよく聞きます



永正一揆・大小一揆・三河一向一揆などで、真宗専修寺派は本願寺派と戦っていますよね。

>その後どのように和解していったのでしょうか。

和解と言うより、江戸幕府側の宗教政策の結果でしようね。
キリスト教禁止に伴って、寺院が「(実質的に)住民の戸籍管理」をしていましたからね。
実質的に「幕府に管理」されるので、表向き!対立どころではありません。
幕府としても、(飴と鞭で)巨大な宗教団体を押さえ込む必要があります。
明治維新で、国家神道・神仏分離令など仏教会は大荒れ!
真宗各派も、大荒れ。
真宗高田派となったのは、「明治14年」です。
同様に、本願寺(西本願寺)派から興正寺派が分派独立しています。
明治になっても、真宗各派間は内々的に問題を抱えていたままですね。
結局、大正12年に真宗各派で「仲良くしよう会」が誕生。
昭和45年になって「真宗教団連合憲章に各派調印」と、真宗10派が大同団結しました。

この回答への補足

教えて欲しいのは、トップの教義とかでなく具体的に戦った各寺院や門信徒をどのように説得していったのかが知りたいと思いました。教義の違いを別にしても法名軸と位牌等は使用方法は同じなのに何故違うのかとか。
蓮如上人の時代に高田派以外の真宗は本願寺に吸収されたと聞いています。東西に本願寺が別れた時に現在の真宗十派の芽があったように思っています。詳しくは知りませんが。ただ、高田派(真宗高田派という名前が明治十四年かもしれませんが、江戸時代にも高田派の寺院はあったと思います。三河の一向一揆では家康側に付いたのは高田派だったと思います。)がどんな風に和解していいたのか知らないのかなー。

補足日時:2014/02/11 01:36
    • good
    • 1

石山合戦には一向宗門徒・真宗・本願寺勢力が一丸となって戦っています


顕如は「信長に反抗しない門徒は破門だ!」と呼びかけて宗派を超えた共闘を呼びかけています

本願寺がのちに東西に分かれた時
実は高田派が裏で色々画策したとか言う話もありますし
    • good
    • 0

具体的に戦った各寺院や門信徒をどのように説得していった



No2の方の回答通り「和解と言うより、江戸幕府側の宗教政策の結果」としか言いようがない。

対立の原因を考えるとわかりやすいかと。

なぜ高田派と本願寺派が争ったかというと、争う武装集団があったからです。
一向一揆の武装集団の中核が地侍であったことはよく語られます。
要は、地侍同士の土地争いの「旗」として高田派があったり、本願寺派があったわけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3% …
三河一向一揆で「中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏といった反家康勢力である。」(以上引用)というのが、如実に示しています。
反家康勢力が結集した「旗」が一向宗の寺院だった。
日本史の上でアナロジカルに言えば、南北朝時代に一族内の争いや隣接勢力同士の争いで、片方が北朝側ならもう片方は対抗上南朝につくというようなものです。

兵農分離で武装集団が城下に集められ、大名から所領を安堵され反抗する理由もなくなれば、争いはなくなります。
さらに、農村でも、檀家制度や寺請制度によって、一村一宗派となります。(寺が一つですから)

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …

「教義や宗論など宗門的なことよりもむしろ、座配争論や上寺との権力争いなど世俗的な事由によって改派する例が多かったようである。」
というように、中世のように直接武力闘争にならないのは、所領と関係ない話だからでしょう。
    • good
    • 0

こんにちは。


直接的な和解はなかったと思います。そのようなことをすれば宗派、特に真宗高田派にとって存続の危機にもなりかねない事態だった思います。明暦元年(1655)に南会津の九ケ寺帰参がありますが、まかり間違って下風に立つような和解をすれば、逆現象が起こりかねませんし、同じ浄土真宗だからこそより強い懸念があったと思います。その上、永正9年(1512)の中興と称されるほどの十世真慧の死去後、十一世応真と、後に越前熊坂専修寺に入る真智の継承争いが起こり、この決着がつく寛永十一年(1634)までの間、分裂・内紛が勃発し、教勢を弱めています。
さらに、初期の江戸幕府は強権的で、正保3年(1646)十五世堯朝は江戸に出府し、自刃に追い込まれています。峯の枝折と言われる事件で、引退した十四世堯秀が大僧正に任官した件で寛永21年(1644)幕府に叱責され、一年弱江戸抑留状態に置かれたことや、正保2年(1645)の一身田の専修寺の火災に関係するとも言われます。
ともかく、江戸初期は、どの仏教宗派も寺領も削減され、財政的にも厳しい状況に陥り、本願寺も東西に分裂した直後でもあり、他宗派との関係よりも、宗派内部の問題や、幕府との距離の取り方の問題の方に、関心が向けられていたのではないでしょうか。
寺請け制度・檀家制度が整備されると共に寺が幕府の出先機関化し、民衆管理の一翼を担い、世俗化し、信仰・教化が形骸化した反面、財政的には安定期を迎え、一揆の時代や戦国時代は過去のものになっていったのではないでしょうか。
和解状態に移行したきっかけは、安永3年(1774)に起こった「宗名一件」だと思います。下に公開されている研究論文のURLとウィキペディアのURLをコピーしておきましたので、詳細はお読みいただくとして、論文のP68に書いてある次の文が参考になると思います。
「蓮如時代の本願寺とそれ以外の真宗他宗派の対立、東西本願寺の分裂も、既に何世代も前の過去の事実となりこれらの協調体制も整い、必要に応じて浄土真宗連合ともいうべき形を取り得るようになっていたことから、この時期の請願に及んだのではなかろうかと思われる。」とあります。論文については現代法理が主線ですので、歴史の面で見ると、史実と合わない面もありますが、このような事件があったということが分かる資料です。
ご存じのように蓮如時代だけでなく、それ以降も本願寺と高田派は抗争し、三河一向一揆、越前一向一揆など敵味方に分かれて戦っていますし、協調体制も整いも疑問ですが、「既に何世代も前の過去の事実となり」ということはその通りであったのではないかと思います。さらに、問題が宗派の存立にも関する事柄でもあり、利害を共通しますので、真宗各派が結束しやすかったと思います。また、東西本願寺以外の各派にしても、一向宗の名称は本願寺・一揆との関連が強く、好ましい名称ではなかったこともあったと思います。
この論争は江戸時代には決着がつかず、明治になりますが、このことを通じて真宗各派が、大正時代の真宗各派協和会、現代の真宗教団連合の結成につながったのではないでしょうか。

専修寺の歩み
http://www.senjuji.or.jp/about/rekidai.php
寺請制度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%AB%8B% …
檀家制度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%AE%B6% …
「宗名一件」論文
http://www.jpaa.or.jp/activity/publication/paten …
一向宗(宗名論争)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91% …

以上、参考まで。

この回答への補足

江戸初期は、どの仏教宗派も寺領も削減され、財政的にも厳しい状況に陥り、本願寺も東西に分裂した直後でもあり、他宗派との関係よりも、宗派内部の問題や、幕府との距離の取り方の問題の方に、関心が向けられていたのではないでしょうか。
寺領が削減されたのはどんなお寺だったのでしょうか。戦後の農地解放で檀家の少ないお寺は壊滅的な影響が有ったことは有名ですが江戸初期の影響はどんなものだったのでしょうか。
曹洞宗や浄土宗は江戸期には相当多かったように思います。時宗は江戸時代に激減しています(戦国期のような気もしますが)。
高田派の本願寺化(血縁相続は何時からなのでしょうか)は和解のきっかけとしては十分な気もしていたのですが・・・

補足日時:2014/02/12 22:57
    • good
    • 2
この回答へのお礼

さまざまな情報ありがとうございます。高田派の寺院の本堂は本願寺派の本堂に似ています。(福井の寺院の場合です)高田派では、位牌を使うそうです。(本願寺派・大谷派では位牌は使用せず法名軸です。)
こんなことは、どうでもいいことです。ありがとうございます。

お礼日時:2014/02/12 23:22

こんにちは。

NO5で回答したfumkumです。お礼・補足ありがとうございます。もっと早く補足に回答すればよかったのですが、仕事の都合で遅くなりました。ごめんなさい。やっつけですが、わかる範囲で。

本願寺は血脈相承、専修寺は法灯相承と言われますが、専修寺も血統が何度か変わっていますが、血縁相続も多くなっています。
まず、二世上人の真仏は国香流平氏の椎尾氏の出自ですが、親鸞の高弟ともいうべき存在であり、親鸞の教えを広めるに功績のあった人物です。四世専空も同族の国香流平氏の大内氏の出自です。この両氏は親鸞の後援者でもあったので、ある意味後継となるのも当然ともいえます。さてそれ以降、四世専空の子息が五世定専、六世空仏として続きます。七世順証は四・五世の従兄弟。七世順証からは親から子という直系相続で十一世応真まで続きます。この内、十世真慧は、青年時代本願寺の蓮如と仲が良かったという話が残っています。
十二世堯慧は公卿の飛鳥井家の出自で、足利義晴の養子となった後に入室します。この血統が十三世堯真、十四世堯秀、十五世堯朝と直系相続します。
十五世堯朝の自刃で、公卿の花山院家から十六世堯円が入室し、十七世円猷が伏見宮家から、十八世円遵が有栖川宮家から、十九世円祥は同じく有栖川宮家から入室しますが、本当は摂関家の鷹司家の生まれです。二十世の円禧は十九世の子息ですが、一度有栖川宮家に養子に出ます。二十一世は摂関家の近衛家出身ですが、有栖川宮家に養子に出た後入室します。二十二世は二十一世の甥で近衛家出身で、そのまま入室します。
このように見ていくと、大内家の血統が途絶えた後、十二世堯慧を迎えたことは、寺格を上昇させ、天正二年(1574)の門跡(正式には准門跡)号勅許につながっていったと考えられます。十七世以降の宮家からの連続した入室、特に二十世のように実子でありながら宮家に一度養子に出た後入室している形式に、宗派のトップに皇族を戴くことの効果を見るような気がします。このような後継者のつくり方に、宗派の安定と保守的な傾向が覗えます。
横道にそれましたが、「高田派の本願寺化(血縁相続は何時からなのでしょうか)は和解のきっかけとしては十分な気もしていたのですが」とありますが、江戸時代中後期の上人の継承を見ると、伏見宮家・有栖川家・鷹司家・近衛家と移り、血縁相続とは言い難いのではないでしょうか。それよりは、養子入りを含め、宮家より上人を迎え、寺格の上昇・維持を図ったと考える方が良いのだと思います。門跡号の勅許によって本願寺と並び(浄土真宗五門跡の一つ)、宮門跡上人を戴くことにより、寺格をより上昇させようとしたのではないでしょうか。江戸時代には大名が江戸城での詰席・官位などによる家格の上昇に一喜一憂したことに似ているように思います。それは裏返せば、他宗派の門跡よりも少しでも寺格を上げたいという対抗意識にもなるのだと思います。
専修寺も四世~十一世までの大内氏、十二世から十五世までの飛鳥井(足利)氏の流れの方が、つまり江戸時代初期までの方が、より血縁相続と言えると思います。

さて、「寺領が削減されたのはどんなお寺だったのでしょうか。」とのことですが、これは、全国の寺院で、太閤検地によって起こったことを言っています。正確に言うと、江戸時代も断続的に検地が行われますが、江戸時代初期の検地も含まれます。公家・寺社領・荘園は、中世を通じて、武士による侵略・横領が行われ、蚕食されますが、太閤検地によりそれまでの権利が否定されることが多く、単一の土地に一領主・一作人の原則により、本所職・領家職・名主職・加地子名主職など重層的な権利関係が否定され、多くの寺領について削減の憂き目を見ます。また、寺領を没収されることもありました。これに関連して、下記に『福井県史』の一部のURLをコピーしましたが、その中で重要部分を下記の「 」内に引用します。
「太閤検地によって、越前・若狭の中世的寺社領はいったん没収されたが、有力寺社の屋敷地と若干の寺社領が検地の対象から除外されて免租地となった。このような土地を除地といい、寺社の特権として公認された。慶長三年段階の越前で屋敷地除地の特権を得たのは足羽郡の専照寺・寿岳院・心月寺、坂井郡の性海寺・滝谷寺、丹生郡の劒社・大谷寺・天王社、今立郡の長泉寺(西専坊)・水落神明社、大野郡の恵光寺、敦賀郡の西福寺などであった。また、北庄諸寺庵の屋敷地も検地のうえ地子免除とされた。その他の若干の寺院も徐々にではあるが、境内地・屋敷地除地の特権を獲得していった。」
一旦没収に近い処置をして、後に寄進の形で一部が還付されますが、それも以前とは比べようもないほどの狭い領地であり、寺院・僧侶の維持ができないところも多く、僧兵も最終的に姿を消す原因になったとされています。この様な寺社領への検地の対応は福井県(旧越前・若狭国)だけではなく、全国的な傾向です。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …

以上、参考まで。

この回答への補足

本願寺化という言い方は間違っていたかもしれません。世襲かといったほうが正しいのでしょう。直接血の継続は末寺の方が先だったのでしょうか。そういった傾向の中で対立が解消していったように思ったものでしたが違うのでしょう。そうでないと曹洞宗の両本山の対立のように北陸でもっと対立関係が見えてきていいような気がします。

補足日時:2014/02/15 16:19
    • good
    • 3
この回答へのお礼

重ね重ね詳細なご教授ありがとうございます。
年だけ重ねて無知の知りたがりでつくずく馬鹿だとお思いでしょう。
懇切丁寧な説明あれがとうございます。

お礼日時:2014/02/15 15:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!