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なぜ日本は満州国という独立国を建国したのですか?当時の国際事情や国内事情などを踏まえながら、建国の目的を教えて下さい。

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A 回答 (4件)

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。


これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされたブロック経済化により日本製品は欧米やその植民地の市場では高額の関税を課せられる事となったために、その重要性がかなり誇大に意識されるようになっていたのです。
誤解を恐れず敢えて言えば「戦後の日本における一時期の憲法9条」のように、その是非を議論すら許されないという風潮があったのでした。
しかしながら第一次大戦以降の世界的なナショナリズムの高まりにより、中国においても列強に奪われた利権を奪い返す国民運動である「「国権回復運動」が起こりました。
ただしこのようなナショナリズムに根ざす運動は、現在でもそうですがしばしば過激化し、外国勢力への排撃運動に近いものになる事もよくありました。
その結果、日本人の多くは中国で獲得した利権が危機にさらされており、それが日本という国家の生存すら危うくしかねないという(現在の視点からすれば)かなり大げさな意識がもたれていました。
これは戦後の日本でも「日米安保は戦争の道」「PKO活動で日本は軍国主義化する」とか後から見ると馬鹿馬鹿しい話が大きな政治問題になったことを考えれば、理解しやすいのではないかと思います。

ただし満州事変当時の日本政府はまだ国際協調路線を取って、交渉で穏便な事態解決を望んでいました。
ところがその前にロンドン軍縮条約で引き起こされた「統帥権干犯問題」のため、政府は軍の統制を取ることが出来ず、満州事変により日本軍は政府の不拡大方針を無視して満州の殆どを制圧し、一気に「特殊権益問題」の解決を図ったのでした。
この行為は現在では「軍の暴走」とされますが、当時の日本ではマスコミは拍手喝采して支持し、事態の不拡大を計った「政府の弱腰外交」を非難しています。
そしてこの国民世論の後押しを受けて建国された満州国について、欧米との対決を望まなかった当時の犬養毅首相は承認を渋りますが、五・一五事件で暗殺され(犬養は統帥権干犯問題を引き起こしてこの事態を招いた張本人のひとりであるので、自業自得の一面もあります)、日本政府は軍の暴走と国民世論に引きずられる形で満州国を承認、欧米との全面対決、そして国際連盟脱退へと向かってしまいます。

このように満州国の建国は決して日本が国家意思として行ったものではなく、当時の日本人の「満蒙の特殊権益」に対する過剰な意識と中国側の反発、そして軍の統制問題などが絡み合ったために、一部の暴走を国家が追認するという非常に危ういものでした。
しかしそれが当時は「大成功」を収め、国民からも高く評価されてしまった事で、その成功体験が後の日中戦争、そして太平洋戦争の遠因となり、大日本帝国を滅ぼしてしまうのです。

なお満州事変当時の日本国民の意識について論じた本で、簡単な書籍としては「日米もし戦わば―戦前戦中の「戦争論」を読む(光人社)」などがあります。
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この回答へのお礼

大変詳しい解説ありがとうございました。ご意見はとても参考になりました。

お礼日時:2014/02/18 07:38

回答


1:当時無法地帯となっていた中国の軍閥から満州地域の日本の権益を守る為。
2:大陸の日本人の保護
3:ソ連に対する防衛上の為。
以上については動画も参照

満州事変当時のアジア情勢についてですが、

最初に満州を【侵略】したのはロシアです。
日本が三国干渉による遼東半島返還後、ロシアが義和団事件に乗じて満州を占領→日露戦争。

日本は日露戦争の勝利により、ロシアから満州鉄道と、旅順、大連の租借権を得ました。
同時に、これらの防衛や現地邦人保護のため、満州へ軍隊を置く権利も得ています。
《当時の満州は無人地帯で(理由は後述)、モンゴルの領有権は中国とソ連も主張しており、日本は国防上の理由から満州を放置できませんでした。》

このように日本は、南満州の特殊権益は国際的に認められていました。
アメリカも1917年の「石井・ランシング協定」により、これを認めています。

一方で、当時の中国は清が滅亡し複数の政権(馬賊や地方軍閥など)が争っている内乱状態で、彼らは大陸の日本領内にも侵入して、破壊活動やテロなどの挑発を行っており、現地の緊張は極限状態に達していました。

当時の中国領には多くの国が投資しており、在中外国人(日本人も含む)も多かった為に、日本政府は彼等の保護を中国に要請してもいました。
当時の世界では、外国人の生命・財産の安全を保証できない国は、それにより被害にあった国が保護監督下におくのも仕方が無いと言う認識が持たれていました。

更に、共産党が勢力を伸ばしていたことも問題でした。
当時の世界では、共産主義はその掲げている理想に関わらず、結果的には国家そのものを滅ぼす思想であると思われていました。(今でもそうですが)
だとすると、当時の中国の状況は、異なるイデオロギー間の内戦ではなく、外敵の侵略に等しい状態です。
そのような国と国境を接し、現実に日本はその脅威を受けていました。

満州国の独立は、以上のように国防上の為のものでありましたが、同時に南満州鉄道を守る為でもありました。
満州事変以前の国境線のまま中国と接した場合、テロや破壊活動を阻止できません。


鉄道の爆破が軍部の独走であるという件については、ソ連共産党の工作説もあり、現在でも日本の謀略とは確定していません。
仮に、日本人によるものだとしても、事件発生当時、関東軍の参謀の中にも知らない者もいたことから、少数の有志(石原莞爾や板垣征四郎等)によるものとも考えられます。(=「軍」の謀略ではない)

以上から、満州事変は【日本軍(関東軍)】としての行動であったとは断定できません。

しかし、それが事実であっても、行動自体は、国内における過程の問題はあっても、国際的には何の問題もありません。
当時の大陸ですが、中村震太郎大尉殺害事件の他に、万宝事件(中国農民が朝鮮農民を襲撃)や、済南事件(中国人が日本人を虐殺)なども起っており、緊張した状態にありました。


満州国の建国について、短絡的に日本の侵略と思い込む意見がありますが、満州という地域の特殊性からはそうとはいえないと思います。

まず、以下の理由で満州という地域が「中国に含まれるのか?」と、
更に、中国内の軍閥政権は(中国人であるというだけで)中国を代表する政府としての資格があるのか?
いう疑問があります。

清国は、もともと満州地方の女真族が南下(万里の長城を越える)して、漢民族を征服して建国した王朝です。
その後、満州地域は、将来女真族が漢民族に追われた時に帰る為の土地として、漢民族の移住は禁止されていました。
以上から、清国の滅亡とは、

【中国(万里の長城以南)を中国人(漢民族)が奪還した=女真族の領土が満州のみに縮小しただけの事】

と考えられます。
これによれば、たとえ傀儡であっても(人間的にクズでも)女真族の皇帝が戴く満州国の方が国民党より正当性があることになります。

更に、これが正しいなら、満州=中国領ではない→満州事変は中国侵略ではない 事になります。
中国はこの事を隠すために、満州を中国東北部(当時はそう呼称されていない)と呼んでいます。


また、満州事変が日本の侵略であるという主張ですが、
その正当性の根拠を「リットン報告書」に拠っているよるものが多いようです。
しかし、報告の内容が正しいという証明や根拠が示されなければ、単なる権威主義による思考停止に過ぎないと思います。

【リットン調査団報告書】(全文)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/14.html

リットン報告書は以下の内容になっています。

第2章:満洲の発展は日本の努力による。
第3章:日本の満洲での合法的権利と満州国の特殊性、鉄道、商租権その他に関する諸争点、殊に事変勃発前数年間の重要問題・・・満州における朝鮮人の横暴問題、中村大尉殺害事件の詳報等を解説。
第4章:満州事変での日本の行動は自衛の為であるという仮説を排除し得ないと記述。
(→侵略とは言い難い、更に鉄道爆破を日本軍の工作と断定していない)
第6章:満州国は自発的独立国とは言えないが、整った政府システムは人々にメリットがある。
在満中国人は一般に現政府を支持しない。(根拠は不明)
第7章:日本が導入した行政や商業制度に対して、中国人が中華思想による優越感により、満州国の産業の育成阻止を図った不法行為を詳述。
第8章:満洲国の経済基盤(資源および開発)には、日中両国の親善回復が不可欠であると結論付けている。

↑までは、日本の満州の確保と統治を肯定していますが、
9章では日本によって維持されている満州の治安や統治を疑問視しています。
更に10章では、中国の権利も完全には肯定せず、満州の運営は、日中が協力するべきと語っています。

第10章:満州国は、その統治にあたり、諸外国による諮問会議を招集すべきこと、ならびに満洲自治政府には一般条約締結、外交関係設定、税関、郵便、塩 税、印紙税、 煙草税の管理、ならびに行政長官の任命権を与えず、これを中国政府に留保し、特別憲兵隊は外国人の協力を得て組織し、満洲における唯一の武装団体とするため呂国軍隊は全部撤退し、行政長官は外国人顧問を任命し、その大部分を日本人とすべし。

9章、10章ですが、欧米列強が満州の統治(利権)に介入する口実を確保する為のものだと思います。
(日本がインフラを整備して発展させた満州市場を日本から奪う為に、日中の協調と言う建前でトラブルの種を植え込む、)

アメリカは、それ以前から中国市場の世界への「開放」を主張していました。
これは、響きは美しいですが、日本見れば、自分達が血を流して育てた市場をタダで分け与えろという、虫の良い要求でしかありません。

当時の中国政府(蒋介石の国民党)にまともな統治能力が無い事は明らかでした。
国民党は清国が結んだ国際条約を拒否してもいます。
(=国際社会では清国の後継政権とは認められない→満州の領有権もない。)
中国内の他の軍閥政権も蒋介石の政府を認めていません。

私は、彼らとの共同統治などは不可能だったと思います。
また、6章で日本の統治が現地人に不評だったと言っていますが、馬賊や軍閥が圧政を施いていた他の地域と比べれば、治安や行政は比較にならない程良いものであってことは明らかです。
満州の発展は、その為に周囲から人口が流入したからです。
そして、蒋介石がそれをまた狙って、挑発やテロを繰り返した為に、日中戦争が起りました。
更にアメリカが日本を排除して中国市場を獲得しようとして、国民党に支援し日本には経済封鎖をした為に、大東亜戦争が起りました。


↑の当時の状況について、ヘレン・ミアーズ(元GHQメンバー)は著書「アメリカの鏡・日本」(1949年著)で↓のように述べています。
この本の日本での翻訳出版を(何故か)当時のGHQは禁じています。(日本語版は1995年に発刊)

【アジアにいる超大国にはそれぞれの勢力圏の「法と秩序」を維持する責任がある、日本は無法な中国軍をこの地域から追い出すことによって、その責任を果たしたのだ。】

そして、列強の日本への非難は↓の理由によるものであると語っています。
【非難の根拠は、中国国民に対する憂慮ではない。欧米列強は中国における自分たちの地位を心配しているのだ。】

【彼らはいままで日本の勢力圏と認めていた地域に、自分たちの支配を広げたいだけなのだ。】

【つい5年ほど前、米英両国の軍隊と砲艦が自国民の生命財産を守るために中国の「盗賊」を攻撃したとき、両国の世論は中国人を野蛮人と呼んで非難した。
イギリスとアメリカの国民は忘れているようだが、日本人はよく覚えている。ところが、日本が同じように中国の「盗賊」を攻撃すると、同じ国民が日本人を野蛮人と呼ぶのである。】

【国際連盟がリットン報告を受け入れ、連盟とアメリカが満州国を独立国として承認しなかったことから、日本は連盟を脱退した。】

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この回答へのお礼

大変詳しい解説ありがとうございました。ご意見はとても参考になりました。

お礼日時:2014/02/18 07:38

植民地に出来ればそれがベストでしたが、諸外国からストップの圧力がかかるし、その土地の住民感情も問題。


 独立国という形なら、中国内の政治情勢の混乱から一部が独立して国家になったのだから、西洋諸国のみなさん、内政干渉はしないでね。と正論を盾にして、日本のいいなりになる傀儡国家に出来るという考えでしょう。

当時はけっこう人口増えてましたから、農家の二男、三男のため、広い開拓地を確保、また鉱山などの資源もあてにしていたはずです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

お礼日時:2014/02/18 07:17

アジア大陸侵略の橋頭堡やろ。

まあ、戦力が足りなくてどうにもならなかっただけ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

お礼日時:2014/02/18 07:16

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なぜ大日本帝国は満州を植民地とはせずに満州国という国を建国したのですか?

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ロシアの南下を防ぎ、日本の権益を守ろうとしました
もともとは張作霖を傀儡として使っていこうとしてましたが、
張氏に満州をまとめる力が無いと見切って
満州国を建国にいたります
植民地にするには大義名分がないので、清国国王をかついで
新国を作ったわけです
国連脱退程度で済んでいるので、そこまでは まあうまくいってた
とも言えるでしょう

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む

Qなぜ日本は朝鮮・台湾の様に満州を併合しなかった?

日本は、朝鮮半島と台湾島を併合し、日本の領土としました。
一方、満州帝国は満州人である溥儀を皇帝とした日本による
傀儡政権の国家です。
どうしてこんなまわりくどい国会経営をしたのでしょう?
満州も、朝鮮や台湾と同じく「併合」でも良かったんじゃないでしょうか?

Aベストアンサー

 満州を、併合して日本の一部とすることは国益を侵害することになるから。
(もし、そうなれば、樺太以外にも、直接、日ソが大陸で長大な国境線を接し、安全保障上
大変なことになる\(^^;).. 

日露戦争後のポーツマス条約により日本は北満州からのソ連の影響を排除することには失敗した。石原莞爾石原は満州国という(一応)独立国をそこに作ることによりソ連との緩衝地帯を作りたかったのである。彼としては日露戦争後に日本がやり残した国防の一部を自らの手でやりたかったのであろう。

 
 石原が満州国を建国したこと自体は歴史上、かして誤りではなかった。明治から昭和にかけての人たちのロシア(ソ連)への恐怖は現在の北朝鮮の脅威よりもはるかに大きかった。それを取り除くために行ったはずの日露戦争にしても結局はあれだけの血を流しながら、世界情勢とのからみからロシアの勢力を満州全体から追い出すまでには至らなかった。

 したがってどうしても満州のあの地に緩衝地帯(ロシアからの防波堤)を作りたい、という思いは当時の日本人の共通したものであったと思う。

 本当は日露戦争後、日本が取得した満鉄を買収しにきた米国人の鉄道王ハリマンにさっさと満州なんか売っぱらってしまったらよかったのだ。そうすれば満州の防衛は必然的に米国が担当したであろうし、賠償金代わりの多額の資金が日本の手に入ったであろう。(いや、満鉄日米共同経営、満鉄付属地を帝国陸軍・米海兵隊共同警備というのもある)

 それにソ連の脅威よりは米国の傘に入っていた方がはるかにましであったろう。井上馨ら元老はそう考えてハリマンと交渉していたが、小村寿太郎はそれでは日露戦争の英霊にすまない、といってハリマンの提案を拒否した。それがまた日米関係悪化の原因の一つであったことは否めない)

 さらに経済の面から考えても、当時の日本としては満州国は必要であった。昭和の初期当時は日本への原料供給地として、あるいは輸出製品の市場として満州は不可欠であった。(”満蒙は日本の生命線”と言った松岡洋右の言葉はあながちうそではないのである)

 当時は第一次大戦後で世界経済はブロック化し、世界貿易が縮小していたために、後発国で植民地の少なかった日本は世界市場から締め出されていた。したがって欧米列強の手が届いていない海外市場の確保が至上命題であったのである。

 もしハリマンが満鉄を買収し、満州が米国の支配下となっていれば平和裡での貿易という形になっていたであろうが、如何せん小村がそれを拒否してしまったために満州は”無主の地”のままであった。(当時満州は軍閥の手にあり、まだ中国国民党政府の主権がおよんでいない。)
 したがって石原がこの地に満州国を建てたのはある意味で歴史の必然であったと言ってよかろう。日本は満州国と対等な関係で自由貿易を営むことにより必要な資源などを確保し、輸出市場なども確保できたはずだからである。

  石原自体は中国を侵略していくつもりはまったくなく、無主の地である満州に五族共栄のソ連防波堤政権ができれば国防面からも経済面からもよい、と考えていたわけである。

 一応、別の国だから緩衝地帯となるので、日本の一部としたらまずいのである。

 満州を、併合して日本の一部とすることは国益を侵害することになるから。
(もし、そうなれば、樺太以外にも、直接、日ソが大陸で長大な国境線を接し、安全保障上
大変なことになる\(^^;).. 

日露戦争後のポーツマス条約により日本は北満州からのソ連の影響を排除することには失敗した。石原莞爾石原は満州国という(一応)独立国をそこに作ることによりソ連との緩衝地帯を作りたかったのである。彼としては日露戦争後に日本がやり残した国防の一部を自らの手でやりたかったのであろう。

 
 石原が満州国...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qなぜ日本は植民地にされなかったのですか?

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに
なぜ日本は植民地にされなかったのですか?
日本の教育水準が高かったからですか?
それとも単に運がよかったからですか?

Aベストアンサー

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。
(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮)
これが砲台場、今の「お台場」です。
これにはペリーも驚いた。
あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで
「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。
こんな人他のアジアの国にはいなかった。

日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。

アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。
松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^

ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ
江川さんがいなかったら大変だったと思うよ
・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ
最後は大分大胆に物事運んだけど。
・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^
・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた
(ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。

兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。
最初、不平等条約だったのもしゃーない。
しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。
まぁ頑張りましたね、当時の日本^^

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Qなぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

Aベストアンサー

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良か...続きを読む

Qどうして南部仏印に進駐したのか?

僕は歴史の授業で、日本軍が南部仏印に進駐したことによって米国が態度を硬化させ、ハル・ノートに至ったと教わりました。
では、どうして日本は反発覚悟で南部仏印に進駐したのですか?

大東亜戦争は自衛のためだったとは思いますが、援蒋ルートを遮断するなら北部仏印まででよかったのではないでしょうか?

Aベストアンサー

↓の回答は、質問が求めるているものは、↓の南仏印進駐への理由とその経緯であって、それ自体やその後の事への評価や回答者の意見ではないということと、当時の日本の政府や軍人がどのように考えてしまったのか?ということであるという前提でのものです。

>では、どうして日本は反発覚悟で南部仏印に進駐したのですか?

回答:資源の確保と援蒋ルートの遮断の為で、ビルマルートよりは簡単だと判断されたからです。

南進論自体は、スパイ(尾崎秀実)の工作だと思いますが、その細部(南北仏印への進駐)は、それに乗せられた政府と軍人によるものだと思います。

日本は、ドイツのフランス占領を契機に外交交渉をして、1940年に北部仏印に進駐しました。
それが原因で、米国は屑鉄の対日輸出を全面的に止めました。

その3ヵ月後、タイと仏印との間で国境紛争が起こります。
日本は、間に立って調停を行い、1941年タイ・フランス平和条約が成立させます。
(この功績で日本の評価が上がった事に不満な米英は、オランダ領インドシナに日本への石油の禁輸の圧力をかけました。)
その為、日本は南方に資源を確保する必要に迫られました。

一方で、英国はビルマルートから中国に支援をしていました。
このビルマルートの遮断と、南方の資源確保の為に、日本は南部仏印にも進駐する必要がありました。

日本は仏印政府と交渉して1941年に南部仏印に進駐しました。
これは外交による平和的なものでしたが、アメリカはこれを南方への侵略準備と見なしました。

参謀本部の田中第一部長は手記に「仏印、タイを我が軍事的結合圏内にすみやかに編入するため、取りあえず、仏印南部に所要の兵力を進駐させる必要がある。
その目的は全仏印の実質的把握…更にタイに、にらみを利かせ…情勢に応じてはビルマに進駐する為の基地とするにある。
これによって対支封鎖の陣形は完成される」と書いています。

また御前会議の理由書にも
「…最近米国ヲ中心トスル英米蘭支ノ戦略態勢強化…若シ帝国トシテ速ヤカニ之ニ対抗スル措置ヲ執ルコトナク…日ヲ閲スルニ於テハ…支那事変ノ 解決ハ更ニ遷延スヘク…帝国トシテハ此ノ際仏印・タイ全域ニ渉リ帝国ノ軍事的地歩ヲ先制確保スル要極メテ緊切ナリ…」
とあります。

以上から、日本の真の目的は支那事変の解決であり、仏印進駐はその為の資源確保の必要からのものです。

その支那事変ですが、戦争を仕掛けているのは中国です。
英米蘭はそれを理解せずに、被害者である日本だけに制裁をし、加害者の中国には支援をしています。
(彼らはWWIIの終戦後、朝鮮戦争やベトナムでやっと中ソに騙されている事と共産主義の危険性を理解しましたが、既に後の祭りでした。)


スパイ(尾崎秀実)の工作ですが
欧州で独ソ戦が始まったとき、日本は↓の選択を迫られました。
北進論:ドイツを助けてソ連を攻撃する。
南進論:資源確保のために南方に進出する。

ソ連のスパイである尾崎の任務は、日本を南進論に導くことでソ連が日独に挟撃されることを阻止することでした。

日本は支那事変の和平を成立させる方向で動いていましたが、ナチスドイツの快進撃を材料に、近衛と尾崎が三国同盟を締結し南進に向かわせました。

http://www.youtube.com/watch?v=5aowyJM8Cpc

↓の回答は、質問が求めるているものは、↓の南仏印進駐への理由とその経緯であって、それ自体やその後の事への評価や回答者の意見ではないということと、当時の日本の政府や軍人がどのように考えてしまったのか?ということであるという前提でのものです。

>では、どうして日本は反発覚悟で南部仏印に進駐したのですか?

回答:資源の確保と援蒋ルートの遮断の為で、ビルマルートよりは簡単だと判断されたからです。

南進論自体は、スパイ(尾崎秀実)の工作だと思いますが、その細部(南北仏印への進駐)は、...続きを読む

Q日中戦争は何故おきたのですか?

世界史の授業などでは盧溝橋事件が発端であると習いましたが、
本当にたった一発の銃声で戦争が起きる物なんでしょうか?

最近も北朝鮮では韓国に対して砲撃や小規模な銃撃が起きていますが
それが大規模な戦闘に繫がる事はなく遺憾の意だけで終わってしまいま
すよね。

Aベストアンサー

質問1 日中戦争と言うのは誤りとおっしゃいますが教科書には「日中戦争」とはっきり書かれてますよ。

回答1 日中戦争という呼称は戦後、日教組が呼称したものです。そもそもシナ事変で日シ共に宣戦布告を起なっていないのは本当です。従って教科書の記載が誤りです。


質問2 停戦協定を守らなかったというのは日本が上海に入植、占領した事への中国人の抵抗であり正当防衛ではないでしょうか。

回答 2 質問の意味が解りません。
昭和12年7月7日が盧溝橋事件です。それから第二次上海事変に至る迄のシナ側の協定違反です。
7月13日、大紅門事件。支那兵が北平(北京)大紅門で移動中の日本軍トラック2台に手榴弾を投げ込み日本兵4人が死亡。
7月14日、中国兵が日本の騎馬兵を惨殺。
7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける。
7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける。
7月29日、日本人居留民約260名が虐殺される通州事件が発生。
8月9日、船津和平会談の日だったが、中国軍が日本兵2人を惨殺してぶち壊した。
8月13日、第二次上海事変。
となります。

質問3 私が知りたいのは帝国陸軍が何を考えて油田もボーキサイトもない華南、華中に攻め込んだのかです。占領した処で得るものもないし結局8年の時と資源を浪費しただけに終わった日中戦争の原因ときっかけは何だったのでしょうか?

回答3
原因はシナ人特有の「平気で約束をやぶる。嘘をつく。」等の協定違反です。
きっかけは、盧溝橋事件で例えますが、最初の砲撃は、コミンテルン共産党員が犯人です。シナに日本を釘付けさせたかったためです。しかしあくまでも盧溝橋事件は現地で停戦しておりますのでシナ事変に含んで考えるのは誤りです。

シナ事変の目的などありません。日本は本当にシナの土地など欲しくないのです。
泥沼化した原因は、近衛文麿氏のブレーンに尾崎秀実氏がおり北進させなかったためです。

質問1 日中戦争と言うのは誤りとおっしゃいますが教科書には「日中戦争」とはっきり書かれてますよ。

回答1 日中戦争という呼称は戦後、日教組が呼称したものです。そもそもシナ事変で日シ共に宣戦布告を起なっていないのは本当です。従って教科書の記載が誤りです。


質問2 停戦協定を守らなかったというのは日本が上海に入植、占領した事への中国人の抵抗であり正当防衛ではないでしょうか。

回答 2 質問の意味が解りません。
昭和12年7月7日が盧溝橋事件です。それから第二次上海事変に至る迄のシ...続きを読む


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