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坂上田村麻呂は征夷大将軍になったのに幕府を開けませんでした
源頼朝は征夷大将軍となって幕府を開きました

この違いは何でしょうか?

A 回答 (5件)

>坂上田村麻呂は征夷大将軍になったのに幕府を開けませんでした


開けなかったのではなく開く気などサラサラなかったのでしょう。
田村麻呂の時代の「幕府」という言葉は近衛大将の異称というか、唐名と呼ばれる別称(雅称)でした。
近衛大将は正式な官職ですが、征夷大将軍は令外の官すなわち臨時職です。
田村麻呂は帰京して右近衛大将から大納言まで昇進しています。
遠く都を離れた草深い奥州でお天下様になってもどうしようもないでしょう。

>この違いは何でしょうか?
時代の違いです。

侍というのは元々朝廷の階の下で這いつくばっていた侍(さぶらふもの)です。
星霜を重ねてやがて武力がものをいう時代になり、ついに平氏が殿上人になりました。
挙句の果てに天皇の外戚にまで上り詰めました。

頼朝も右大将に任命されてはいますが、当時の朝廷に縛られるのを嫌って逃げ出しています。
朝廷内がなにかとキナ臭かった時代です。
この間に後白河の古狸と何やら密談を重ねています。
後に首尾よく征夷大将軍の称号を手に入れています。
令外官ですから自由に動けます。
それ以来征夷大将軍という称号が武家の棟梁として尊重されるようになりました。
その一方で、徳川一族も江戸時代を通じて正一位だの二位だの大納言だのという正式な官位を貰うためにセッセと運動していました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/07 13:48

2番の方の説明が詳しいです。



一つ補足として、頼朝が目指したのは武家の独立でした。

武家政権ですね。

すでに説明されていますが、清盛がそれを目指したとも言えますが、清盛は公家の権利を侵害してしまったのです。

おそらくそれを反面教師にして、皇室との距離を取る形として武家に命令する全権を掌握出来る役職として、征夷大将軍を受任したのでしょう。

そして武家政権の本質は、武家の収入確保にあります。

領地の領有権をなし崩し的に(無理やり?)武家の団結により、認めさせたわけです。

これで日本の勢力は大きく公家(京都)、寺院、武家の三つになりました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/07 13:48

頼朝の頃は、武家勢力というものがあり、それが日本を統治することも夢ではなかったから、と言えるでしょうね。

幕府を初めて開こうとしたのは、平清盛という説もあるほどです。源氏・平氏が武士の起こりですしね。
坂上田村麻呂は、単に朝廷の命令で、夷(豪族)を征するために征夷大将軍となったのです。頼朝や足利尊氏、徳川家康のように、権力で以て、朝廷に認めさせた(言いすぎか)のではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/07 13:48

征夷大将軍というのは、律令に明記のない臨時の官職で、軍事指揮権を委任した全権大使、という意味合いがありました。



つまり、坂上田村麻呂やその時代の征夷大将軍たちは、そもそもその役職をもらって「征夷(天皇に服従しない蛮族を平定する事)」そのものが目的だったからです。
征夷大将軍は都から遠く離れた最前線で、蛮族と交渉する全権委任と交渉が決裂して戦争に鳴った場合の最高指揮権の両方をもって、目的を達成しようとしたわけです。

ですから、その目的が達するか、何らかの理由で目的そのものがなくなってしまえば、臨時の官職ですから退任するのが普通だったわけで、それが軍人の規範でもありました。

しかし、源頼朝の目的は軍事司令官になることにあったわけでは有りません。平家に一旦滅ぼされた源家を再興し、誰にも脅かされないようにしようとしたのが基本にあります。

そしてその「誰にも脅かされない」という点において二つの違う例を参考にしたといえます。一つは自らが滅ぼした平家、そして奥州の地で事実上独立した国を作っていた平泉の藤原氏です。

このとき平家は天皇を意のままに動かそうとして、かえって他の公家達を刺激し宮中騒動になって滅んでいくことになり、源頼朝は「天皇家に近い存在としての武家」の有り方を考えたことでしょう。
逆に奥州藤原氏は、天皇より鎮守府将軍の称号をもらい、実質的な独立国を有していたと言えます。

なぜなら「将軍」にはその配下である将兵に対して指揮権とともに支配権をもち、軍政という形で政府を運営する権利が与えられていたからです。これは現代でも軍事国家という形で同じように機能してます。

そのため源頼朝は新しい武家の理想の独立の形として、朝廷の影響を排除する事と独立した軍事指揮権をえることの、二つを必要としたわけです。

この役職としてうってつけだったのが征夷大将軍の役職であり、このあたりの政治的な力学は、古代ローマのエンペラー(軍事指揮者)の成立と奇妙なほど似ています。

いずれにしても源頼朝は慎重に行動し、東国に独立した国をつくることを目的に征夷大将軍の地位につくわけです。

このように純粋な軍人であった坂上田村麻呂は軍事行動が終わった時点で自分の指揮権を天皇に返し、源頼朝はそもそも政府を作るお墨付きをえるために「征夷大将軍」の地位を欲したわけです。

この軍人としてのビジョンの違いが、二人の大きな違いになります。
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この回答へのお礼

まぁ確かに蝦夷を討伐する大将軍ですね
当時朝廷に従わない勢力の代表が蝦夷だったので作られた官位なのでしょう

ありがとうございます

お礼日時:2014/03/07 13:48

坂上田村麻呂は 征夷だけが目的で大将軍になったため、目的を果たした後はそれで終わりのためと思います。

 それ以外の部分では朝廷がほぼ掌握していたためその後の政治まで必要なかった。

頼朝の場合、平定後、武力で抑える為の体制維持が必要だった。
その違いと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/07 13:49

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