![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/pc/qa/question_title.png?8acaa2e)
生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。
ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか?
つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。
これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。
苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。
足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。
《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。
これを問います。
No.19
- 回答日時:
>☆ どのレベルでしょう?
☆ 理解できません。
私は何処までも付き合うつもりはあります。
しかし、他を卑下する発言に同意するつもりはありません。
何故なら理解を出来れば、卑下する必要は無い事が判るからです。
>《聞いた方》も けっきょくはゴータマを神格化するまでになりました。その問題もあります。
・・・・・・・・貴方はその一人にならないという根拠はなんなのでしょう・・・・・・・・・・
>まづ問うたのは やはり《言った方》です。
私で言えば確かに発言を控えています。
資格が無いからではなく、意味が無いからです。
この無意味に泳ぎ続けた釈尊はすばらしいとしか言いようがありません。
ご回答をありがとうございます。
★ しかし、他を卑下する発言に同意するつもりはありません。
☆ 不動産の物件が 駅から十分ではなく一時間もかかるところにあったという詐欺ではなく そうではなくゴータマの場合は 不動産がどこにもなかった・そこへ到る道だけは述べてあるにもかかわらず 何にもなかったというたぐいのペテンです。
ペテンをペテンと言い その頭脳は阿呆だと言わないなら それこそ自己蔑視であり自己をそのペテン師に隷属させるわざであるしかありません。
議論をしっかりとつかんでください。
★ 何故なら理解を出来れば、卑下する必要は無い事が判るからです。
☆ 理解できないから 問題が発生しています。
それとも 0ふーる0さんは 理解出来ておられるのですか? なら どうして みなさんのためにも明らかにしてくれないのでしょう?
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
>《聞いた方》も けっきょくはゴータマを神格化するまでになりました。その問題もあります。
・・・・・・・・貴方はその一人にならないという根拠はなんなのでしょう・・・・・・・・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ こうやって ゴータマの業績は 無い――つまり 足場は饒舌なほどに語っていて築いたかも知れないけれど 家の本体はまったく築かれていない 空っぽである――と言って その内実をも少しづつにでも明らかにしています。きちんと批判が出来ているからには イカレポンチにはなりません。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>まづ問うたのは やはり《言った方》です。
私で言えば確かに発言を控えています。
資格が無いからではなく、意味が無いからです。
この無意味に泳ぎ続けた釈尊はすばらしいとしか言いようがありません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 分かりました。
いくらでも巻き上げられればよいわけです。わたしの知ったことではありません。どうぞ。
No.18
- 回答日時:
あまり、このレベルの議論はしたくないのですが・・・
頭が空っぽなのは「言った方?」「聞いた方?」なのです・・・
理解して頂きたい・・・
ご回答をありがとうございます。
★ あまり、このレベルの議論はしたくないのですが・・・
☆ どのレベルでしょう?
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
頭が空っぽなのは「言った方?」「聞いた方?」なのです・・・
理解して頂きたい・・・
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 理解できません。
《聞いた方》も けっきょくはゴータマを神格化するまでになりました。その問題もあります。
まづ問うたのは やはり《言った方》です。
この上なき智慧のさとりを得たと宣言した。にもかかわらず――そこに到る手段や道筋については 明らかにしましたが―― そのさとりの中身は 一向に説明がありません。ついぞ説明されませんでした。
これは 《空っぽ》のあたまであり 阿呆と言います。
こういう問いです。
No.17
- 回答日時:
反応無くてもいいです。
メモ書きですみません。
家が出来なくても、かまわない。
むしろ出家というライフスタイルを提案した。というのは無理があるか。
しかし出家して生産量の高い場所で乞食をするより、
山で自給自足の修行をする人が多いようだ。
あまり海は出てこないようだ。
禅定などの主観的な経験。
経典に書いてある客観的な理論。
経験と理論の一致。
主観と客観の一致。
このうち、経典をめぐって何が覚りなのかわからない。
主観と客観が一致しなくなる。
主観と客観の一致が真理という考えをどうするかという問題。
なぜか禅定は何を根拠にか、野狐禅とか批判可能らしい。
とは何か?
覚りとは何か?
何かを問う問いは仏教については失敗だったのではないか?
~であると表現できる、本質があることになるから。
無我の考えに反する。
無我がゴータマの考えかどうかはわからない。
あるとかないとかの対立。
もしくは、わからない、という立場。
わからないという立場は浄土門だろうが、評判がいまいちらしい。
ご回答をありがとうございます。
★ むしろ出家というライフスタイルを提案した。というのは無理があるか。
☆ 《出家》は もともとインドでは何でしたっけ 人生の一時期として森に住む期間として決まったナラワシがあったのではないですか? もしそうなら 取り立ててあたらしいライフスタイルを提案したとも思えないのですが。
★ なぜか禅定は何を根拠にか、野狐禅とか批判可能らしい。
☆ そういう見方というのは すでに一定のオシエが決まっていてその物差しで良し悪しを判定するものですよね。
問題は オシエの中身にある。と考えますし そういう物言いです。じっさいその中身は 説明されていない。のではないかという問題です。
(もしニルワーナの修行については その内容が語られていて共有されているというときには その内容が 一般の人びとにとって どういう意味があるか? これについて明らかにしないならば ただの呼吸法のスポーツであるとなると考えます)。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
覚りとは何か?
何かを問う問いは仏教については失敗だったのではないか?
~であると表現できる、本質があることになるから。
無我の考えに反する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ええっとですね。この趣旨を加味してあらためて物言いとしての問いを表わすなら こうです。
○ (ここでの問いの内容)~~~~~~~~
アートマンといった霊我とさえ訳され得る《非思考》の或る状態(または ハタラキ) これが《本質》のことだとした場合:
・ 本質がない――アン-アートマン説――と説く限りで 《目覚め または この上なき智慧の境地》が何であるか その中身を説明せよと言われても 説明できない。そんなものは無いと言っているのだから。
といった回答が寄せられうるとするのならば 次のように問い直します。:
・ 霊我なるアートマンは否定された。否定されてある。という説明で示すよりほかの表現がない状態を わが身と心とに体現していること。これが さとりである。
と説明したでしょうね。ところが こういった説明はなかったのではないだろうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なお
★ ~~~~~~~~~~~~
もしくは、わからない、という立場。
わからないという立場は浄土門だろうが、評判がいまいちらしい。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《分からない》と分かった場合は 《不可知》という分類になります。それは 経験事象に属します。
ところが 浄土門の《浄土 あるいは そこへの往生》は 《非知》と我れとのかかわりであって 《分かるか分からないかが分からないナゾ》を受け容れた状態(また 信仰は 動態)のことであると考えられます。
また同じくなお 《アン-アートマン説》は 《無いアートマン》としてのやはり霊我が《非思考の庭》にやどるというかたちの――つまりは 無神論としての――やはり信仰である。と捉えられると考えます。そういう説明がないということは 信仰論についてなお問い求めるべき余地が残されていた。と言うべきなのだと考えます。
早し話が ゴータマのオシエは ブラフマニズムの梵我一如の信仰論に吸収されて行きます。
No.16
- 回答日時:
人の意識は、肉体に付属した感覚器官に依存して発生
するがゆえに、自己中心的・短絡的利己主義に陥り易い。
ところが、組織化や分業化において、社会的行動=協調性
や利他的行動(社会的繁栄を通じた利己)が求められるに
つれ、そうした利己を抑制する社会性が必要になった。
キリスト教やイスラム教、仏教といった世界宗教が、ほぼ
同時期に広まったのも、体制側がそれを必要としたからで
ある。
そもそも宗教は、社会性を強要するために短絡的衝動の
発露を抑える機能を期待されている以上、ある種の「苦」を
正当化するのも当然である。
苦だからこそ悟り(短絡的利己の抑制)によって救われる
必要がある、ていう。
ご回答をありがとうございます。
★ 人の意識は、肉体に付属した感覚器官に依存して発生 / するがゆえに、自己中心的・短絡的利己主義に陥り易い。
☆ と高い視点からそのような風景について 誰もに共通の普遍的な見方ができるほどには 片寄りのない目を持っているとも言わねばならないでしょうね。
ですから
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
ところが、組織化や分業化において、社会的行動=協調性
や利他的行動(社会的繁栄を通じた利己)が求められるに
つれ、そうした利己を抑制する社会性が必要になった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というその順序は どうなのでしょう?
つまり 初めは・まだ社会経験のない若い頃には その落ち入りやすい《自己中心的・短絡的利己主義》なる感覚と思いと考えであったのか?
ちがうでしょう。生まれつきそなわった自然本性において 潜在的な能力としてでも 片寄りなく普遍的な見方のできる目を持っていた。のではないでしょうか。
そもそも
★ 組織化
☆ は 個々の人びとのチカラをよりよく 成果をよりいっそう合理的に得ようとしておこなうものです。
★ 分業
☆ とは それに一歩踏み込むということは それによってすでに全体として協業というかたちを採るということにほかなりません。
なんで
★ 社会的行動=協調性
☆ といった一面的な規定をするのでしょう。非協調的な社会的行動も いくらでもあるのではないですか?
★ 利他的行動(社会的繁栄を通じた利己)
☆ たとえば 現代にあってもアダム・スミスの考えを それが結論として決まっているわけではないですから ともに参考にすべきでしょう。
▲ (A.スミス:博愛心と利己心) ~~~~~~~~~~
文明社会では 人間がいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに 全生涯をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。・・・人間は 仲間の助けをほとんどいつも必要としている。
だが その助けを仲間の博愛心( benevolence )にのみ期待してみても無駄である。
むしろそれよりも もしかれが 自分に有利となるように仲間の自愛心( self-love )を刺激することができ そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが 仲間自身の利益になるのだということを仲間に示すことができるなら そのほうがずっと目的を達しやすい。
(A.スミス:国富論 1・2 大河内一男訳)
▼ (訳者註) それは 個人の貪欲さや営利心は それが自由に発揮できる状態におかれている場合には 結局 社会全体の分配を適正で合理的なものにする というスミスの信念である。・・・
たとえ現実は 《私悪》が公共の福祉にむすびつかないようなことがあっても それは一時的な現象であり 結局 消費財の分配は次第に均等化されるであろう というのがスミスの信念であった。
スミス的な理神論からすれば 現在あるところの事物の秩序から逆に万能の神の存在を類推することが強調されていたのだから 個人の利己的本能――《自愛心》や《利己心》――は 資本投下の仕方についても 個人の消費生活の態様についても 結局 個人的な本能におわることなく 社会公共の福祉にむすびつかなければならないはずのものだったのである。(前掲書 当該箇所)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つまり
▲ (A.スミス:利己心) ~~~~~~~~~~~
社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも 自分自身の利益を追求するほうが はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。
社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が 社会の福祉を真に増進したというような話は いまだかつて聞いたことがない。(国富論 第四篇第二章)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ とまで言うその見方は なお検討・検証すべき課題であるように思われます。
博愛心や自愛心あるいは利己心や利他の心 これらを全体として捉えて片寄りのない見方をする目を ひとは自然本性としてすでに持っている。のではないかとも わたしとしては考えます。そういったところへと議論をみちびいて行くことは 大事ではないかと考えます。
★ ~~~~~~~~~~~~~
キリスト教やイスラム教、仏教といった世界宗教が、ほぼ
同時期に広まったのも、体制側がそれを必要としたからで
ある。
そもそも宗教は、社会性を強要するために短絡的衝動の
発露を抑える機能を期待されている以上、ある種の「苦」を
正当化するのも当然である。
苦だからこそ悟り(短絡的利己の抑制)によって救われる
必要がある、ていう。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ おそらく《さとり》は 《短絡的利己》を増長することからも《抑制》することからも自由である状態にあるでしょうね。
あ_ほなさんによると 《六波羅蜜》としてのさとりは
○ 人智を超えた境地
○ 二項対立的判断を超越した彼岸に到達すること
だそうです。(回答No.8)。
この図式にあてはめるなら とうぜん《利己および利他なる対立する二項をめぐる思考を超えたところにあって 現実におのれの判断をくだす意志行為》 これが 問い求められている。と言わねばならないでしょうね。
しかもそのような図式を説くオシエとしてのシュウキョウは いっさいお呼びではないはずです。オシエの問題ではないはずです。オシエを説くことが問題ではないはずです。
○ 短絡的衝動も 社会性のもとにある。
○ 利己も 社会的行動である。
とでも発想を変えてからのわれわれの模索が始まるのではないでしょうか。
それには 《苦》を・つまり特には《生としての苦》を 初めに――この初めにという大前提が もんだいです――措定したこと これが われわれにとっての《苦》となっていると見るべきではないのでしょうか。
No.15
- 回答日時:
ウダヤさんが、尋ねた。
中略。無明を破ること、正しい理解による解脱、を説いてください。ブッダは答えた。
ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持を除くこと、悔恨をやめること、平静な心構えと念いの清らかさ、(それらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、)これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。
つまりは、人を引きずる何某を捨てたりやめたりすることで、心を清く平らかに保全していること、を、苦しみからの解脱と言うようです。
一見簡単そうですが、答えの冒頭一行目からして難しいですね。愛欲と憂いの両方を捨て去るというのは。
参考まで。
ブッダのことばという本が、岩波文庫から出ています。中村元氏の訳です。仏教を知るには良い本だと思います。批判をするにしても、先ずは経典の一冊程度は読んでおいても良いかと思います。参考まで。
因みに、真理に関する思索というのは、思索を超えた思索、観のことだと思われます。
ご回答をありがとうございます。
▼ スッタニパータ <14、学生ウダヤの質問> 1105-1111
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …
からだと分かりました。
★ つまりは、人を引きずる何某を捨てたりやめたりすることで、心を清く平らかに保全していること、を、苦しみからの解脱と言うようです。
☆ ええっと にゅうとらるさんが言っていました。
◆(回答No.10:いくらかヰキぺからの引用文を補足しています)~~~~
>▲ (ヰキぺ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」。
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
:ああこれはちょっとムカつくわ。
ひとりひとりが五感をフル稼働させつつ
喜びや悲しみを表現したりしつつ
譲ってもらったり譲ったりして共存している、
というのが「生きている状態」で「生の連鎖」
なんぢゃないかとおいらは思ってます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 議論・思索は まだ終えられていませんね。まだなお《必要条件が達せられる》段階だとも――ちょっとワケが分からなくなるのですが―― 言っています。
★ 一見簡単そうですが、答えの冒頭一行目からして難しいですね。愛欲と憂いの両方を捨て去るというのは。
☆ つまりは これでは《六波羅蜜》の内容としての
★★(回答No.8)(あ)人智を超えた境地 二項対立的判断を超越した彼岸に到達すること
☆ にはまだ達していない段階なのではないかと見られます。善悪・聖俗・正邪・欲無欲などなどの双対なる概念思考をまだ抜け出ていないのではないでしょうか。このスッタニパータの頃には。初期のゴータマです。あとになって どうなったかは知りませんが。
★ 因みに、真理に関する思索というのは、思索を超えた思索、観のことだと思われます。
☆ これは そうでしょうね。
直前の回答へのお礼欄にも引きましたが ここにも掲げます。非思考の庭をとおしての思索です。
A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
無梵:空・シューナター・ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如
仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
No.14
- 回答日時:
>「要するに ゴータマ氏の思想で よいところを明らかにしてください。
それではっきりしますよ。」「一利無し」と言われるのが、判ったような気がします。
「よい」とは「善い」でしょうから。
ご回答をありがとうございます。
まぁ そうですね。よく解釈すれば ゴータマも けっきょく無神論としての信仰を持った(または 模索した)と言えるのでしょうね。
A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
無梵:空・シューナター・ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如
仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
No.13
- 回答日時:
釈迦のいう「苦」とは「思うようにならないもの」という意味ですので、貴方の主張は根本的に誤っています。
ご回答をありがとうございます。
☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
《同時に苦の滅を観る》というのは おそらく――わたしの推理では―― 例のブッダターの宿り・つまりは《自性清浄心》を観ることによってなのでしょう。もしくは その清浄心なるブッダターのハタラキによるということなのでしょう。
だったら そうであるなら 《思うようにならない無明≒煩悩》も 決して克服し得ない《苦》なのではないと初めに言っていなければウソである。となりませんか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち
《思うようにならない無明≒煩悩》
と言っています。よ。
苦の消滅とは 《生なら生が 思うようになる》ということでしょうね。
No.12
- 回答日時:
>「☆ ならば 見るべき思想を ブディズムから取り出してみてください。
ブッダターや親鸞のほかにありますか?」
おそらく、B様一流の「ブディズム」についての固定観念の、為せる業でしょう。
「あれ!」とは、思わないことです。
ご回答ありがとうございます。
この質問もどの質問も ゴータマにかんしては みな
★ 固定観念
☆ を多くの人が持っているのを見て それについて問うているのですよ。つまり 無くしましょうと言っています。
要するに ゴータマ氏の思想で よいところを明らかにしてください。それではっきりしますよ。
No.11
- 回答日時:
B様、こんばんは。
>「百害あって一利無し。ではないか。」
誰が?
>「生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。」
なるほど。
>「《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。」
これは、暴論です。
(「言いがかり」に近いシロモノでしょう)
ご回答をありがとうございます。
☆☆(趣旨説明欄) ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
>「《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。」
これは、暴論です。
(「言いがかり」に近いシロモノでしょう)
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ならば 見るべき思想を ブディズムから取り出してみてください。
ブッダターや親鸞のほかにありますか?
No.10
- 回答日時:
ぶらじゅろんぬさん、ご返事ありがとう。
分かってないのにあれこれしゃべるもんぢゃないなあ。
↑あ、おいらのことね。
あんまり突っ込むところ無いからこれでおしまい。たぶん。
> 《さとりとは 苦の消滅した状態である》。
《苦とは さとりを妨げるものである》。《さとりは・・・》
:ん?「苦の消滅した状態」で生きている?
というのはそもそもありうるのん?
「苦が消滅」するのは まだ生まれていないときか
すでに死んでるときなんぢゃないのん?
あ、そういうことぢゃなくて、
なにゆえわざわざ【生が苦】だと設定するのかってこと?
さとりのために【苦】が邪魔だから
【苦(≒生)】をなくしましょうって言ってるの?その人。
何を言ってるのかやっぱりよく分からんです。
めちゃくちゃ大雑把にとらえると、
「死んでいる状態」を保って生きましょう、
って言われてるような気がしてくるなあ。
「死ぬのがいやぢゃ!生きるのは苦しい!
オレはどっちでもないところに辿り着いた!」
みたいなこと言われてるようにも思えるんだなあ。
小学生の感想文みたいだけど。
四苦八苦、他にもいろいろあるのかな、苦。
そういうの、生とは切り離せないし
別に切り離さなくてもいいんぢゃないのん?
遠ざけようとしつつ、引き寄せたりしつつ生きてる、
それでいいんぢゃないのん?
買ってまで苦労しようとは思わんけど。
>一切の苦の消滅である安穏
:この状態で生きてると
「時間」にはあんまり意味がないんぢゃないかなあ。
>《根本的な生存欲》という説明です。
これは 一生なくなりませんから。
:「真理を知りたいという欲」も一生なくならない。
ウィキペ見ました。
業自性正見とか正精進は、へえ、そうなんだー、
うん、そうかもしらん、と思いました。
>喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」
:ああこれはちょっとムカつくわ。
ひとりひとりが五感をフル稼働させつつ
喜びや悲しみを表現したりしつつ
譲ってもらったり譲ったりして共存している、
というのが「生きている状態」で「生の連鎖」
なんぢゃないかとおいらは思ってます。
そう思うだけです、正しいかどうかは分からんし、
正しいかどうか決めなくてもいいんぢゃないかしらん。
あきらかにマチガイだって言われたらなおすけど。
>おのれについても相手の人についても・果てはあらゆる人について
その心・その意志を知るということ。・・・・・。・・・・・・。
:賛成します。
戦争(というたとえ)はちょっとまずかったですね。
宇宙の(?)均衡のこと考えてて、マちがえた。
自分のムラの平和や繁栄を求めての戦争でも
殺し合いぢゃなくて話し合いでしたね、
ひとり残らずひとりひとりが意見を出し切る話し合い。
まとまってないけどパツパツっと感想文書きました。
どうもお邪魔しました。
ご回答をありがとうございます。
★ ~~~~~~~~~~~~~
:ん?「苦の消滅した状態」で生きている?
というのはそもそもありうるのん?
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そこをツッコマレても わたしとしては。・・・
あぁ ですから初めに《苦》を措いたのですから あくまでその苦をめぐって さとりの定義もおこなわれて行く。こういうことではないですかね。
あっ 次のご指摘を先取りしてしまいました。
★ ~~~~~~~~~~~~~
あ、そういうことぢゃなくて、
なにゆえわざわざ【生が苦】だと設定するのかってこと?
さとりのために【苦】が邪魔だから
【苦(≒生)】をなくしましょうって言ってるの?その人。
何を言ってるのかやっぱりよく分からんです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
★ ~~~~~~~~~~~
めちゃくちゃ大雑把にとらえると、
「死んでいる状態」を保って生きましょう、
って言われてるような気がしてくるなあ。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ええ そうですよ。例のニルワーナという場合には そうですよ。
呼吸が止まるのだそうです。でも その涅槃について解説したサイトには――ちょっとそのページを忘れてしまっていますが―― そういった呼吸法にかんするヨーガのごときニルワーナ修行は 解脱には必要があるとは言えないとか何とか。・・・
★ ~~~~~~~~~~~~
四苦八苦、他にもいろいろあるのかな、苦。
そういうの、生とは切り離せないし
別に切り離さなくてもいいんぢゃないのん?
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ やっぱし 生の苦でしょうね 問題になるのは。初めに病老死とともに生についても苦だと見たというのなら どうもネクラであるように思えて来ます。
ですから
★ ~~~~~~~~~~~~
>一切の苦の消滅である安穏
:この状態で生きてると
「時間」にはあんまり意味がないんぢゃないかなあ。
~~~~~~~~~~~~~
☆ というとき おかしいと思えるのは やはり生という苦についてなのだろうと思うのです。生という苦が消滅した生とは何ぞや? となりますから。初めにもどって 生は苦ではないと言い直しただけではないかとも考えられます。
★ :「真理を知りたいという欲」も一生なくならない。
☆ これは分からないまま言うのですが 真理を知りたいという欲は 根本的な生存欲から自由である。かも知れない。すでに初めに解脱しているのかも知れない。真理欲は すでに自性清浄心であるかも知れない。・・・いえ 保証はありません。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>▲ (ヰキぺ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」。
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
:ああこれはちょっとムカつくわ。
ひとりひとりが五感をフル稼働させつつ
喜びや悲しみを表現したりしつつ
譲ってもらったり譲ったりして共存している、
というのが「生きている状態」で「生の連鎖」
なんぢゃないかとおいらは思ってます。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうなんですかね。
▲ 結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。
☆ と言っていますね。だったら 《心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けること〔という〕「正見」》は まだ 《如実知見》ではないのだろうか? と疑われてしまいます。
はっきりしてくれぇと言いたい。
▲ この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。
☆ とさえ言うのにです。
あいまいである。と考えます。
あらゆる人の心を知るということ ならびに 戦争を回避するということについて 賛成してくれてありがたいです。
この質問は 意外とラリーがつづきます。。
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