日本の歴史についての、疑問です。
情報メディアもインフラもある程度進歩した20世紀においては、例えば「××党の○○議員が
第○代の内閣総理大臣に任命された」となると、その情報は、日本全国にメディアを
通して広まり、名実ともに○○議員が総理になった、ということは民衆も知ることとなり、
歴史上も確定するでしょう。
それに対して、テレビもラジオも、新聞さえもない時代において、例えば、ある武将が
大きな戦いで勝利を収め、天下をとった、といっても、それはせいぜい、その地域、
もしくは周辺地域において広まることであり、例えば、田舎の民衆たちには全く感知されて
おらず、またその生活も変わるわけでもない。とすると、その天下統一というのは、
本当に文字通りのものなのだろうか。皆様はどうお考えでしょう?
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
>田舎の民衆たちには全く感知されておらず、またその生活も変わるわけでもない。
とすると、その天下統一というのは、本当に文字通りのものなのだろうか現在の価値観に基づいたお考えですので、価値観も社会制度も異なる時代の判断には不向きです。
情報の伝達がどうの、拡散伝播がどうのという考え方そのものが現代のものの考え方です。
当時の価値観からすれば、文字通りのものです。
秀吉は天下人とされたことに間違いも不都合もありません。
天下が云々と言われる際には「民衆」などというものの考え方は存在していませんでした。
田舎の民衆に感知される必用など一切ありません。
逆らう武力集団(武家)がいなくなって、全ての武力集団がその人の武力集団の意志に従うようになれば統一したと看做します。
庶民がその武力集団の長の名前を知っているかどうかなどということは無関係です。
そもそも庶民にとっては武力集団どうしのゴタゴタ(戦)は無関係です。
現在のように選挙民の顔色をうかがいながら法制度をきめている時代とはまったく違います。
決められたルールに従うだけです。
誰がどう決めているのかなどということに関与できる余地はありません。
どのような基準(法律)に基づいて治安を維持しているのか、労役に駆り出される基準は何か、税をとり立てる基準は何かなどということには一切関与できません。
不服があれば集団で武装蜂起するだけです。
北陸地方や大阪では一向宗の門徒が団結して信長軍と戦いました。
歴史小説家の使う言葉を頼りに史実を云々しても誤解を生じるだけです。
ご回答ありがとうございます。
>情報の伝達がどうの、拡散伝播がどうのという考え方そのものが現代のものの考え方です。
なるほど、「民衆」とか「情報」などという概念自体が、現代的なものなんですね。
No.8
- 回答日時:
「天下」には二つの意味があります。
一つは従来の一般的認識どおりの「空間領域」とのヨコの広がりを指し、もう一つは「身分秩序もしくは階層」とのタテの構造を指します。そして後者も二つに分かれ、一方は公法的縛りの通用する領域、もう片方は「それが通用しない世界」となります。
実際に日本の歴史的経緯からすれば、既に奈良末期そして平安期にかけての令外官が登場し始め、これは法規範としての律令からすれば「想定外の存在」となります。
一方で班田制も8世紀には崩壊も始めますから、律令制的ヒエラルヒーも同時に崩壊することになります。
この質問で一つ気になることとして、「それはせいぜい、その地域、もしくは周辺地域において広まることであり」との件であり、それは人間の移動を前提としていないとの話になります。けれども実際には古代の段階で既に人間の移動も存在し(浮浪逃亡輩)、商業経済も一つの荘園内から村落へと規模を広げてもいき、最終的には全国展開での移動も始まります。
「口づてに」との言葉がありますが、これは人の口から口へと話が広がっていく状態を示し、鎌倉時代の『一遍上人絵伝』では全国行脚する僧の姿を具体的に知ることも可能です。
古代の幹線道路が造られた背景として、中央から地方の行政機関への通達を出来うる限りのタイムロスを発生させずに全国に通達させるとの意味があります。
そして空間掌握の倒置的手法として、ヒエラルヒーの問題があります。古代ならば国司が中央からの指示に従いそれを郡司以下に伝え、更にその下の階層へと通達を文字と共に音声で伝えるとの方法です。
古代の人々は識字能力が高くありませんから、書いた文字では行政文書などの通達を徹底することも困難であり、そのために人々を村落の広場に集めそこで文書を読み上げる形となります。
そして「天下統一」といっても秀吉(サル)は実際に全ての権力を掌握してもいません。全てを自らの権力下に置くことができたのは徳川以後になります。それが何に基づくかといえば、法規範でしかありません。他の要素は全て法がなければ背景を失いもしますから、それを貫徹し得たのは徳川との話になります。
この場合の「天下」とは身分及び階層の秩序構造を指す言葉として、僕は使っております。
表の意味としての武将の功績などに目を向けても意味はありません。その様な本はサッサとゴミ箱に捨てましょう 笑
ご回答ありがとうございます。
>「天下」には二つの意味があります。一つは従来の一般的認識どおりの「空間領域」とのヨコの広がりを指し、もう一つは「身分秩序もしくは階層」とのタテの構造を指します。
そうなんですね。私は「天下」という言葉を、まさに「空間領域」とのヨコの広がりを指すもの、としか
捉えておりませんでした。おっしゃるように、そこにもうひとつの概念を加えると、考え方の
視界も広がり、すっきりと理解できるようになりました。
No.6
- 回答日時:
武将が功績を認められたのは、どの時代でもその当時の朝廷(江戸時代までは京都
の宮廷)に任官された時です。
たとえば、織田信長が京の都に上洛(正式に入京すること)した時の肩書は、「上総介」
でした。これは自称らしく、その後「正四位下弾正大弼」という官職(現在の東京におけ
る警視総監あたり)に任じられ、ついには右大臣(右府)となりました。
その後、豊臣秀吉が関白(大臣の上)、それから太閤、つまり引退した関白(もちろん
政治の実権は握っていました)という肩書を称しています。
つまり、朝廷から官位や肩書をもらわないかぎり、いくら領地を切り取って力を誇っても、
肩書のない地方の野蛮人に過ぎなかったのです。
徳川家康の「征夷大将軍」にしても、朝廷側にすれば、せいぜい「侍大将の頭」という
ほどの位置づけです。
しかし、「兵馬の権」と当時いわれたように、大軍を動員して地方の賊を退治できたわ
けですから、諸藩の大名から一般庶民にいたるまで、だれもさからえませんでした。
というわけで>田舎の民衆たちには全く感知されておらず、またその生活も変わるわけ
でもない_というわけにはいかなかったのです。
徳川家康によって幕府が開かれると、慶安の御触書などによって、庶民は武士にたい
して反抗できなくされました。
すでに秀吉の時代、いわゆる太閤検地と刀狩りによって、武士以外武器の携行がゆるさ
れず、それまで二公八民の年貢(上納が2割で、あとは自分たちのもの)が五公五民ま
で増やされました。
江戸時代前後から、慶安の御触書といった法令は、「高札」という木札によって市民たち
に知らされました。明治初期にも、「太政官符」(政権が朝廷にもどったので)という高札
が街角にかかげられ、たとえば「切支丹は邪教」と書かれたりしました。
その後、明治憲法、そして戦後の日本国憲法の時代になって、さすがに公文書による
周知がなされるようになったのですが、今でもお役所の前に官報が掲示されたりするの
は、江戸時代からのやり方が、かすかに名残りとして残ったともかんがえられます。
なお、現在の憲法でも、建前ですが、内閣総理大臣は天皇の任命を受けてその地位に
つくと規定してます。形式というのは、案外長いあいだ生き残るものかもしれません。
ご回答ありがとうございます。
>現在の憲法でも、建前ですが、内閣総理大臣は天皇の任命を受けてその地位に
つくと規定してます。形式というのは、案外長いあいだ生き残るものかもしれません。
この憲法の規定というものには、遡ること、大和朝廷の頃からの名残が残っている
ということですね。
No.5
- 回答日時:
日本の歴史において、天下統一は文字通り「天下を統一した」=日本を自分の支配下においた、ということになります。
なぜそうなるか、ということ歴史的には大和朝廷の成立までさかのぼることになります。
大和朝廷というのは、ご存知の通り「天皇家が日本を統一した」王朝のことです。この支配体型については色々な学説などがありますが、とりあえず「この列島の大部分を一つの国として統一支配し、日本という国を作った」ということが重要です。
つまり、それまで各地域の豪族などが群雄割拠して好きなように地域を支配していたものを、朝廷が一括管理するようになった、ということです。
このときに大和朝廷が導入したのが、まず氏姓制度です。これは各地域の豪族などのうち大和朝廷に協力的だったり、朝廷側と同盟する側だった人たちについて、朝廷から役職を与える制度です。
日本成立(大和朝廷成立)以前の日本は、各地に豪族が群雄割拠し、攻めたり攻められたり、滅ぼしたり滅ぼされたり、していました。卑弥呼の時代ですら、あまりにも紛争が多いので支配者を女性に変える事で紛争を減らす努力をしたぐらいですから、大和朝廷の成立は各地の豪族に「朝廷の力で、紛争が少なくなる」という印象を与え、だからこそ朝廷に協力もしますし、朝廷側も「朝廷が平和を維持するから、朝廷側の体制に貢献してくれ」と氏と姓を各地の豪族に送ることで、朝廷の体制を維持するようになったわけです。
この時点では、現在で言うところの超大国であるアメリカが日本などの国に「同盟国になってくれ」といって、周辺の平和を維持するのとあまりかわりはなかったわけです。
しかし、このような制度を何十年にも渡って維持している間に、各地から争いがなくなり安心して食料のの増産などに精進できるようになると、各地の豪族も自分達の権力を「朝廷の安定と平和の維持」という意義と同義にみるようになり、朝廷への忠誠心をもつようになります。
さらに時代が進むと、これらの豪族は各地方における朝廷の出先機関と同等の役割を担うようになり、490年ごろといわれる「ヤマト王権」の成立から646年の「大化の改新」までの間には、王朝の成立と民族統合の時代から、日本国家の成立と王権の朝廷化へと変化していったと思われます。
つまり「平和と安定、それに伴う冨の増加」を約束してくれる大和朝廷に次第に豪族たちが服従して、各地で朝廷のために役割を果たすようになっていったのがこの時代の「日本国家の成立」と言う過程になります。
そして「大化の改新」で朝廷はさらに支配を強めることになります。このときに行われたのは「律令制の導入」や班田法、・租庸調の税制度などですが、その直前にクーデターがあって実力者の権限が強化されていたこともあり、また豪族達の私有地はそのままだったこともあり、これらの制度は各地に浸透していき、さらに日本国家として統一感がましていくことになります。
ここから平安時代末期までかけ、大和朝廷は日本列島の支配力を強めていくことになるわけです。
長くなりましたが、この「大和朝廷における日本統一」という下地があったからこそ、鎌倉幕府からの幕府制度が有効になるわけです。
ただし、鎌倉幕府は基本的には「東国の武士階級を束ねる」ということですから、西国の朝廷を支持する武士達(これはつまり3世紀ぐらいからずっと朝廷と付き合ってきた古い豪族からの歴史があったりする)などは鎌倉幕府の意向に沿わなかったりもしたわけです。そして元弘の乱が起きて、鎌倉幕府は滅亡に向かいます。
つぎに出来た室町時代は、政府が京都に戻り、力を得つつある東国の武士階級と朝廷や西国の武士階級などの仲介を行うことで「日本の政治的安定」を取り戻そうと努力するのですが、それはかなわず南北朝へ分裂したり、応仁の乱が起きたりして、ついに朝廷と武士階級の亀裂は決定的になり、これが戦国時代へ突入するきっかけになっていきます。
ここで分かるのは「戦国時代」というのは、すでに「日本という国家システム」が出来上がったうえで「誰がこの国を運営する実力者なのか」を決める戦いであった、ということです。
そして戦国時代にまず頭角を現したのが織田信長です。元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京都から放逐し室町政権が事実上終わるわけですが、この際に「日本という国家システム」を動かしている幕府の官僚たちや朝廷の公家(これも官僚化しているものが多い)を自分の支配下におくわけです。
これで事実上、政治権力が織田信長に移ったことになります。
一般的な日本の方法としては、この後朝廷から「征夷大将軍」の勅許を得ることで「日本の国家システム」を自分で動かす権利を正当化していくのが「幕府成立」になるのですが、その準備をしている際に本能寺の変がおきて、信長は弑されることになります。
つぎにでてきたのは豊臣秀吉で、彼は山崎の戦いで光秀を殺し、 清洲会議で実権を手にします。この時点で「日本の国家システム」は秀吉の手に移り、そして秀吉は関白職を朝廷から拝領して、事実上としても手続き上も、正当な国家権力者となります。
この時点が「天下統一」の成し遂げられた時点だとすると、すべての戦国武将たちは、朝廷から「豊臣秀吉を関白に任命した、以後は彼の指示が朝廷の命令である」と連絡があった時点で秀吉を正当な天下人と認めることになります。
それは最初に説明したように、天下統一は大和朝廷がすでに行っており、幕府というのはその権限を代行している政治権力だからです。
この幕府が成立した時点で、すべての国家権力は豊臣秀吉が担うことになり、実際には国家システムとして各地の役所(昔なら国分寺などであり、鎌倉幕府以降は各地の領主たちの仕事:後の藩制度)が豊臣秀吉に服従するという形で機能するようになります。
これは豊臣秀吉が国家の人事権を握ったという意味でもあり、各領主たちが「いや朝廷が関白に任命しても俺は納得しない」と軍事行動を起こせば、それは「朝廷に対する裏切り」であって逆賊として、近隣の諸侯に討伐の命令を出せるということでもありましたし、各地の官僚としての役人には直接的間接的を問わず、人事権を握ったということです。
(日本は朝廷が権力を握り、各地が協力する事で平和を維持してきたという実績があるので、朝廷の決定に逆らうことは「日本の平和を乱すこと」と同じ意味になる、というのが基本原則としてこの時代には成立している)
これが天下統一の正体であり「田舎の民衆たちには全く感知されておらず、またその生活も変わるわけでもない」としても、税金の最終的な行き先は天下統一者になりますし、各種の民衆の生活に影響する制度変更も天下統一者の指示によることになります。
実際に豊臣秀吉は、刀狩によって農民と武士の階級を明確にしましたし、太閤検地で各地の税法をそろえたことにより、民衆の田畑に直接権限を及ぼしているわけです。
日本の国家システムというのは、実を言うと根本のところでは幕府も今の内閣制もまったく同じです。
それは「国家運営者は天皇の勅許を得る」ということについてです。
単にそれが戦国時代は「戦争で一番勝ったものが得られる」というもので、今は「選挙で勝った政党に権利がある」というだけの違いしかないといえます。
それだけ大和朝廷の成立は重要な出来事でありだからこそ「天下統一」というものが、当時の武士にとって命をかけてまで行うべき目標だったわけです。
他の国ではこうは行きません。ウクライナを見ても「国家としてのウクライナ」か「国家としてのロシア」という二つの国家システムのどちらに帰属するか、という問題が今の問題になっています。
またようやく落ち着きをみせているカンボジアなどは、内戦中にそれまであった国家システムを破壊しまくったので(ポルポト派が官僚や役人・教師・弁護士や裁判官などを殺しまくった)ので、最初からシステムを作り直すはめになり、そのためには各地の有力者の協力が必要なため、民主国家ではなく王国として再建しています。つまりヤマト王権成立時代と同様に、圧倒的な人徳を誇る王様に各地の有力者が個人的に協力する、ということが必要になっているからです。
日本は、異民族に支配されたことがないので、朝廷が天下統一した人物を認めれば、民衆に直接影響するレベルまで含めた、すべてのものがその人物の支配下に移るというシステムになっているのです。
ご回答ありがとうございます。
>朝廷が天下統一した人物を認めれば、民衆に直接影響するレベルまで含めた、すべてのものがその人物の支配下に移るというシステムになっているのです。
このようなシステムの前提には、過去に大和朝廷が形式的にも実質的にも、日本国を
支配した、ということが必要になるし、歴史事実的にもそうなっていた、ということですね。
No.4
- 回答日時:
日本史における一般的な天下統一の定義とは、一つの命令系統よって全ての勢力が統合された状態です。
この状態を作り出したのが日本では豊臣秀吉が最初でした。
それまでは寺社仏閣と朝廷勢力はそれぞれが独自の領土による経済力と軍事力を有しており、強力な「自治権」を強固に守っており、武士であっても命令は出来ませんでした。
これを武力のみを背景に命令できる事を証明したのが信長で、その後継である秀吉が日本全国でこれを完遂した為、秀吉で天下統一とされております。
つまり何処かの大名なり寺社なりの勢力で、誰も逆らえない状態を天下統一と呼びます。
>例えば「××党の○○議員が~
と言う話はインフラの整備と言うより、情報に対する個人の興味以上の価値は無いかと思います。
現代でも総理の名を知らない方はいらっしゃいますし、政治学を誰もが専門に理解している訳ではありません。
しかし法律を知らないからと言って、守らなくていいと言う理屈にはならない事が統治です。(あくまで一つの形ですが)
ご回答ありがとうございます。
>何処かの大名なり寺社なりの勢力で、誰も逆らえない状態を天下統一と呼びます。
なるほど、その時代時代の勢力を抑えたものが天下を統一した、というわけですね。
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