No.1
- 回答日時:
>わだかまりは一切なかったのでしょうか?
ないわきゃないです。秀忠のあほさ加減に「あ~ぁ、信康が生きてたらなァ」と死ぬまで愚痴ってたとかどうとかといわれていますからね。脚色されているかもしれませんが、そういう話が残っているということは、火のない所に煙は立たないと思いますよ。
>チャンスがあれば織田家を裏切ろう、といった野心はあったのでしょうか?
最終的に天下を取ったんですから、野心というのは人一倍あったに決まっています。そうじゃないと天下は取れなかったでしょうからね。しかし、そういう野心がちょっとでも見えてしまったらどういう目に遭うかということも知り尽くしている人でもあったので、そんなことは側近中の側近にも見せなかったのだと思いますよ。
明快なご回答ありがとうさまです。色々な歴史人物像に付き物の古書の改ざんや噂混じりの伝記なども、全く根拠がないのではなく「火のない所に煙はたたない」的な感じ、自分も同感です。
実際は本人の腹をわってみないと解らないところも多々ありますが、そういったのも込みで歴史は面白くて興味深いです。
No.2
- 回答日時:
>徳川家康の織田信長に対する思い
全ては想像という事で、御容赦を・・。
毀誉褒貶が常である戦国大名の中でも、徳川家康ほど辛い憂き目を見た武将はそう多くはないでしょう。
ところがその彼をして、生涯の痛恨事と死の間際まで言わせせしめたのが、長男信康と築山殿を死へと追いやった、件の事件です。
武勇が優れていると評判であった信康を家康は当然愛していた、築山殿にしましても、疎ましい存在ながら憎んでまでいた訳ではなく、何とか知恵を絞って助命しようと画策した形跡が窺えるほど。
ただ信長の命令は絶対でして、御指摘の通り当時の徳川は名前のみの同盟関係、その実織田家の傘下にあり、その武将達よりも追い使われる存在でした。
家康としては当然悩んだでしょう、無論信玄存命の頃の武田家であれば、躊躇する事無くいとも簡単に織田家を見限り、武田西上の先兵となったはずです。
ところで当時家康が蟠踞した三河・遠江を取り巻く勢力図・位置関係を俯瞰しますと、織田を裏切る上での新たな同盟先として、甲斐の武田・越後の上杉・相模の北条、当然その三家という事になるのでしょう。
但し代替わりし・長篠の戦いで敗れた武田かつての武田に非ず、加えて緊急時の後ろ盾として越後は余りにも遠い、更には老大国北条は兵数ばかり多いが、優柔不断で頼りにならない、つまりは帯に短し襷に長しという状況でした。
信長の命令を無視する事は、即ち徳川家の滅亡を意味する、家康としてはそう冷静な回答を出さざるを得ず、そこで徳川家の存亡と親子・夫婦としての情を秤に掛けて、悩みに悩んだ末に出した答えが、広く歴史に知られている顛末、恐らくそういう事なのでしょう。
いえいえ、こういった想像論?の方が色々な方々の参考意見を聞けて自分としては嬉しいです!
やはり小国の従属関係にあったその立場からしてみれば苦渋の決断、致し方なかったのでしょうけれどそんな恨みを抱かせたまま仕えさせる信長も信長だと思いました。
信長としては自分に対する忠誠を試す天秤にも似た行為も含まれていたのでしょうが試される側はたまったものじゃないですもんね。
妻子を処断しなければならない・・・そう聞かされた時の家康の胸中、そしてそれからの実際の心の変化を知りたく質問した次第です。
当時の勢力解説と人間関係を交えたご回答、非常に楽しく読ませて頂きました。ありがとうございます!
No.3
- 回答日時:
信長から家康への手紙では、「先だっての信康の処断の相談事について、徳川家の事であるから、家康の思い通り行えば良いのではないか」との内容です。
私は家康が人情家で家族思いであったとは思っていません。
何故なら次男の結城秀康への対応や、六男の松平忠輝等に対する態度には問題があると思います。
第一世話になった今川家に対する態度も、後足で砂を掛ける行為ですからね。(義元が死んだ時点で、当たり前と言えば当たり前ですが)
また家臣でもない徳川家の長子を織田家が切腹させるのも、計算が成り立ちません。
そんな命令を聞く位の力関係なら、優秀な武将の方が後々使い勝手がいい筈です。
使えない位に盆暗なら、却って乗っ取れると言う物ですし。
切腹を命じる理由とメリットが全く、辻褄が合わないのです。
こう言うと、殺せる内に殺せと考えたのではないか?と言う方がいるかもしれませんが、力関係に差が有れば、そもそも領土の割譲も信長の胸先三寸です。
何も危険だと判断した徳川家に、嫡男の命さえ自由に出来る信長が領地の優遇をする必要もないのですから、脅威には成り得ない計算が成り立ちます。
以上から考えて、自分で息子を殺したと考えるのが無理が無いかと思います。
“松平忠輝は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残している。「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」(『藩翰譜』)。この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが伺える。”
との情報もあり、事実と状況の整合性を取ると、親子不仲説が一番しっくり来ると私は考えます。
チャンスがあれば織田家を裏切るかどうかは、今川家に対して行った通りの事をしたでしょうね。
別に冷酷だからではなく、それが普通だからですけど。
ご回答ありがとうさまです。先日、東京江戸博物館に行って改めて徳川幕府、そして江戸時代の内情を客観的に考えることができました。ちょうど家康公の像があったのでジッと見ていたら像とはいえ、やはりなんというか目の力が半端なく感じました。
時として非情なまでに冷たい判断や義に背く裏切り・・・自らのお家を守り永続させるため、ただその一点を追求しなければならなかった当時の大名の立場、心労というものが伺え見えるようでした。
自分の中で家康は伊達政宗などと違い血気盛んな武将、というよりやはりタヌキ、というか決して腹を割らず虎視眈々と着実に基盤を固め天下を狙う稀有な大名の1人だったように思えます。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
ちょっと違います
家康が信康と築山殿を斬られて恨んだのは信長ではなく家臣の酒井忠次ですよ
息子と妻が盟主に嫌疑を掛けられて切腹させられたのは 確かに理不尽とは言え
事実上信長の従属下にあった家康は仕方ないことだと 有る程度諦めをつけています
しかし名代として信長に申し開きに行った酒井忠次は何の弁解もせずに帰還
家康は大久保某から信康が切腹した事を聞かされると「斬ったと言ってどこかに逃がしてやれば良かったものを…」と悔やんだそうです
その後 酒井忠次の子 家次がわずか10万石に抑えられていた事に不満を持った忠次は家康に
「息子の石高を加増してほしい」と頼んだところ 家康は「お前でも息子はかわいいのか?」と言い放ったと言います
あの時 信康を救わなかった酒井に対する恨み のようなものがあったのでしょう
あるいは信長に向けたくてもどうしょうもないうらみを酒井に向けた可能性もあります
信長を裏切ろうとは思わなかったでしょう
徳川家が存続し得たのは間違いなく信長との同盟があったからです
まぁ一説には本能寺の変の黒幕が家康で この信康の件の恨みでの犯行という説もありますが
家康自身光秀に命を狙われてるわけですから それはありえないでしょう
この回答への補足
アズキさんこんにちわ!なるほど、ありがとうございます。丁寧な回答読んでるうちにさっそく疑問が沸いてきたので補足質問とさせて頂きます。
酒井忠次が名代として信長に申し開き、とありましたがお家の最も大切な事案(妻と子の命もそうですが何より疑いを払拭させる為にも)であるこの件になぜ家康本人が申し開きに行かなかったのか気になります。
それよりも大事な用件でどうしても行けなかったのか、主である家康の身を案じた酒井が自ら志願したのか、当時、どんな重大な案件でも側近の家臣が申し開きに行くことが当たり前だったのでしょうか?
酒井にしても、もはやそうなることはある程度予測して行ったかと思うと「漢」を感じます。
補足の質問ですみませんが解る範囲で教えて頂ければ嬉しいです!
No.6
- 回答日時:
信長の命で信康に切腹を命じたというのはそもそも三河物語の記載ですよね?
これは徳川を称えるための物語なので、NO3さん同様やはり私も信用していません。
人質に取ることは可能であったかもしれませんが、いくらなんでも他国の嫡男に切腹を命じるのはいきすぎでしょう。
素直に考えるなら家康が信長に忠誠を示すために自分の判断で切腹を命じた、あるいは後継ぎに相応しくないと判断して信長にかこつけて切腹させたといったところでしょう。
あるいは家康と歳が近すぎるためにお家争いが起きないようチャンスを見て殺す機会をうかがっていたのかもしれません。
1543年うまれの家康と1559年生まれの信康では年齢が近すぎます。今川の血などどうでもいい時代ですし。
なるほど。こういった陰謀説もあるのですね。人間の想う心ですから様々な思惑が交差したことは自分としても否めないと思います。
15歳ほどの年齢差は当時としてはそう珍しくなかったようですがどうなんでしょうね。皆様の色々な意見が聞けてまたひとつ勉強になりました。ありがとうございました!!
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