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第2次世界大戦でイギリスはソ連を疲弊させるために
西部戦線での反撃をわざと遅らせたのでしょうか?

A 回答 (4件)

意図的に戦争を遅らせることはできません



なぜなら総力戦となった大戦を早く終わらせないと国家自体の疲弊は免れないからです
イギリス、ソ連共にアメリカからのレンドリースがなければ戦争は継続できません

イギリスは前大戦でもアメリカから43億ドルも借款し、イギリスの軽減要請もにべもなく拒絶されました
今大戦では
史実では140億ドル借款(戦争が長引けばそれ以上借款せねばらない)
その上、ブレトンウッズで今まで世界経済の国際基軸通貨であったポンド・スターリング体制は崩壊しドルに基軸通貨の地位を奪われました

(ソ連もアメリカから輸送車両、鉄道機関車・貨車、食糧、衣料、発電機、アルミニウム等の支援がなければ継戦不能になります
特にアルミニウムの援助受けなければたちまち備蓄が枯渇し、木製航空機やアルミニウム・マグネシウム合金エンジンでない重くなった戦車で戦わざるを得なくなります)


テヘラン会談でスターリンがドイツ・ポーランドの新国境線としてオーデル・ナイセ川を要求した時
チャーチルはナイセ川を東ナイセ川と思い、受け入れましたが
それが実際は西ナイセ川と後に知り驚嘆したといいます
(東ナイセ川ならドイツ第2の工業地帯のシレジアの多くがドイツ側に残る)

またチャーチルはアイゼンハワーが45年になり、ベルリン攻略を諦めようとした時、強硬にベルリン攻略を要求しました
(もともと西側連合国の解放の遅れは英軍のモントゴメリーのグッドウッド、マーケットガーデンなど度重なる作戦での失策や傲慢な独り善がりが原因なのですが…)


もしイギリスがソ連を困らせようとするなら
ソ連向けレンドリースそのものをアメリカに遅らせるように要求するか
レンドリースの護衛からイギリス海軍の艦艇を出さないとかするでしょう
現実的にはできないと思いますが


戦争自体を遅らせることは忍耐強く我慢し続ける国民の士気が確実に落ちると思います
挙国一致内閣の首相であるとはいえチャーチルは独裁者ではない以上、国民からの不満でもっと早くに首相の座を追われることでしょう
(史実では大戦終了寸前に労働党内閣になったのですが)
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●遅らせたとは思いません。



1941年6月に独ソ戦が開始されます。

しかし、それより3カ月前に北アフリカにロンメル将軍が登場し、「砂漠のキツネ」と呼ばれるほどの大活躍をし、イギリス軍に大損害を与えていたのは有名な話です。
独ソ戦が開始された6月と言えば北アフリカの要衝トブルク要塞がロンメル指揮するドイツ軍に包囲され、その包囲を解こうと英軍がバトルクアクス作戦を行いますが失敗した時期です。

そうした北アフリカ戦線だけでも大変なのに、同年12月には日本の参戦です。
日本の快進撃で英領マレーとシンガポールは陥落、さらに英領ビルマも敗北し失いました。
しかも、日本の攻撃で英東洋艦隊は主力の戦艦2隻を撃沈され、後には空母も撃沈されています。

北アフリカ戦線とビルマ戦線を抱えて大変なのに、さらにはUボートの活躍があります。
1942年から1943年前半にはイギリスはUボートによる被害により、危機的状況に陥っています。
穀物等の輸入量が国内消費量より下回り、備蓄、在庫などでどうにか賄っている事態に陥ります。
商船用燃料は備蓄が2カ月分にまで減り危ない状況となりました。
北アフリカ戦線ではドイツ軍がエジプト国境にまで迫ります。

そうした状況になりながらも、イギリスはソ連へのレンドリース(軍事援助)を継続しています。
ソ連に送られたイギリスの戦車は5000両、航空機は7000機にもなります。
また、こうしたレンドリースを運ぶためにイギリスは北海航路を使用しましたが、終戦までに数十隻の輸送艦と護衛にあたっていた19隻の軍艦を失いました。軍艦のうち2隻は巡洋艦です。
もし、ソ連を疲弊させたいのなら、こんなにも大量の軍事援助はせず、もっと量を減らすか、援助をしない方がイギリスにとっても負担は少なかったでしょう。

幸いにも北アフリカ戦線は1943年5月にチュニジアが陥落して連合軍の勝利となります。
その5カ月前の1月にイギリスのチャーチル首相は英軍首脳と軍事会議を開いています。
その議題は「1943年における戦争指導」であり、攻撃の主力は地中海で行うものであり、その目標はシシリー島でした。
そのシシリー島攻撃の目的は、
1.地中海の連絡線の確保と強化。
2.ロシア戦線からドイツ軍の圧力を転換させる。
3.トルコが連合軍に参加できる状況を作り出す事。
こうした理由があげられています。ここではロシアを疲弊させるためどころか、助けようとの目的があります。

チュニジアのドイツ軍が降伏する少し前ですが、チャーチルはアメリカに行きルーズベルト大統領や米軍首脳と会談しています。
米軍の考えとしては、シシリー島の占領ではなくサルジニア島を占領し、その年の地中海での作戦を終了しようという考えがあったそうです。
それをシシリー島攻略、そしてイタリア本土上陸に導いたのがチャーチル首相です。
チャーチル首相は、
「ロシアの努力は異常なものであり、我々はそのお蔭を蒙っている。1943年にロシアの負担を軽くする最前の方法は、イタリアを戦争から離脱させるか、あるいは叩き出し、それによってドイツにバルカン諸国を押さえつけるために大部隊を移動せざるを得なくする事である」
と言い、このロシアの負担を軽くするためにドイツと交戦する事にルーズベルト大統領も賛成します。
そしてチュニジア制圧の2カ月後の7月にはシシリー島攻略作戦が開始され、9月にはイタリア本土上陸となります。
こうした推移を見ると、ここでもソ連を疲弊させるために反撃を遅らせるどころか、チャーチル首相が率先してソ連の負担を減らすためにドイツ軍との交戦を望んだ事がわかります。

1943年11月の終わりから12月にかけて「テヘラン会談」が行われます。
ここでスターリンは1944年中にヨーロッパ戦線に大きな変化が無ければ、ソ連は戦い続ける事が困難になるだろうと述べていますが、1944年6月にノルマンディー上陸作戦は実行されました。
このノルマンディー上陸作戦は5月に予定されていましたが、上陸用艦艇の数が揃わず、6月に延期となりました。後は、潮の満ち引きと天候の関係で何日か引き伸ばされましたが、6月6日に決行されています。
当初、ノルマンディー上陸作戦は5月か6月、遅くとも7月に決行する予定でいたので、それほど遅延したというわけではありません。
ソ連を疲弊させたいならノルマンディー上陸作戦をもっと遅らせてもいい筈です。

なお、チャーチル首相はトルコを連合軍に参加させようと力を尽くしていました。
これは、トルコ参戦によりドイツ軍兵力がバルカン方面に引っ張られる事と、イギリスからの軍事援助をトルコ領内を通じてソ連に届けるようにするためです。


◆イギリス自身が北アフリカ戦線とビルマ戦線を抱えていた事。さらにUボートの活躍による厳しい国内事情。
イギリス自身がUボートの活躍で苦しいにも関わらずソ連に送られた大量のレンドリース(軍事援助)の存在。
ソ連の負担を軽減するためにチャーチル首相が米国を説得して行ったシシリー島攻略とイタリア本土上陸。
新たなソ連への軍事援助ルートの確保と、ドイツ軍の兵力分散のためにトルコを連合軍に参加させようとした事実。

こうした事実から見ると、とてもソ連を疲弊させるために反撃を遅らせたと思えません。
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当時の連合国首脳の心理までは知りませんが。


独ソ戦末期にポーランドがわずか一ヶ月で占領されております。このソ連軍の勢いを見れば、犠牲を誘うとかより、共産勢力の拡大に焦りを感じるのが普通だと思います。
ソ連軍は、戦争中に人的犠牲を嫌うということは一度もなかったといわれています。金銭的な浪費にしても、通貨に対する価値観がアッチ側では違いますから。

質問者さんは、”連合国は”ではなく”イギリスは”、と書いているので、イギリス一国で独ソを手玉に取れたという風な思い違いをしているのだろうと思います。日本参戦を期に、欧州戦線に入ってきたアメリカの力が強かったのです。
興味があればですが、戦史を勉強すれば色々見えてくるんじゃないかな。
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詳しくはありませんが、そうだろうと思いますね。


元々共産主義は英米の敵でした。
たまたまヒットラーが出て来たので敵の敵は味方となりました。

自国がドイツ空軍の空襲に悩まされていたときはロシアは友邦でありましたが、ドイツの敗色が濃くなって英軍が空爆をするようになってからはむしろ本当の敵はロシアとなりました。
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