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戦は兵の数では無いと言います
山での戦いの場合山頂をとって駆け下りる方が下にいるより俄然有利です(勢いが付くので)

天王山はよく「天下分け目」と言います
しかし実際天王山を占拠していたのは光秀軍、秀吉はそこを山を駆け上がるようにして明智方と戦わなければならなかった…
明智光秀は決して戦下手ではない…織田家にあって信長からその軍略を認められた天才である

秀吉が超高速で畿内に戻ってきたという動揺と驚きが光秀にあったとしても
そして軍勢に大差があったとしても やはり利は光秀にあったと思われる

しかし秀吉が天王山で勝てた理由は何でしょうか?

A 回答 (3件)

兵士の志気と言うものが関係すると思います。



秀吉軍は、親方様である信長公を謀叛した悪漢として光秀を成敗すると言うわかりやすい理由を臣下に伝えられますが、

光秀軍としては、正義を立てにくいことがあります。これから、私が天下人になるから
私に従ってくれでは、信長公を頼どころとしていた臣下達にとって、不信感が芽生えます。

秀吉は将来の天下取りの布石のための合戦ではあるのですが、自分が天下を取ることは明言せず、信長公の仇討ちとすれば
軍団はまとまります。

光秀は、臣下に信長公を討ちとったことを内密にしていたとは言え信長公から借りてきた軍団ですから、そのことが秀吉軍との合戦で明らかになれば、光秀に味方はしないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/07/14 05:21

光秀の経験不足



71 比叡山焼き討ち実行部隊
73 槙島城の戦い 総指揮信長
75 高屋 
75 黒井城(丹波) 主将
77 信貴山
78^79 有岡城
79 黒井城 主将
81 京都馬揃え

実は、大規模な野戦・遭遇戦を光秀は経験したことがない
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/07/14 05:21

>秀吉が天王山で勝てた理由は何でしょうか?



先ず、信長・秀吉の時代は「下克上の風潮が残っている」状態です。
事実、「光秀悪人論(主殺し)」は「徳川幕府が政治的に世論統制」したものです。
最近、南朝鮮・韓国でも反日政策で世論統制を行っていますよね。
民主主義が未熟な国・封建社会では、時の為政者が自分の都合の良い様に世論統制をを行います。
足利尊氏一族は、江戸時代を通して名家として尊敬されていましたよね。
が、明治政府によって一転。朝敵扱いが1945年まで続きます。尊氏直系の阿波公方は無位無官です。
※尊氏の弟を祖とする喜連川家は、子爵です。
京都時代祭りでも、最近まで室町時代はありませんでした。
話がそれましたが、当時では上司殺害は何ら不思議な事ではありません。
信長の父親も、親族の上司を殺害して尾張を統一していますよね。
じゃ、何故か?
光秀側に協力する武将が、いなかった事でしようね。
光秀は「各地で戦っている信長の敵方・近畿地域にいる武将に味方になって!」と書状を出していますよね。
が、多くの武将は「中立・日和見」を決め込みます。
光秀には、大義名分がありません。
もし、「朝廷の権威を守る為に立ち上がった!」と宣言すれば変わっていたかも?
こういう事は、内緒にしていても「部下・下っ端にまで、伝わる」ものです。
結局、「信長の弔い合戦」という大義名分を持った秀吉との士気の差は明らかです。
いつの時代も「勝ち馬に乗る」のが、生き延びる基本です。
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この回答へのお礼

ありがとうございーました

お礼日時:2014/07/14 05:21

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