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初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。

超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。

私の今の考えでは、
判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。
一方でその統一機能を、直観における表象間の結合に即して考えた場合、それは対象とのかかわりを持つために、超越論的論理学に属する。
したがって、超越論的論理学についての議論においては、悟性の統一機能の場を、概念間から直観における表象間へと”次元の繰り下げ”をしなくてはならなかった。

ということが理由なのかなと思っています。
とはいえ、なぜ表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は、対象とかかわりあうようになるのか、などという点で全く疑問が解消されません。

どなたか、純粋理性批判のこの箇所について、理解のための助言をいただけませんか?
お願いします!!

A 回答 (3件)

カントの手法は、作用(判断表)と要素(カテゴリー表)を整理して


厳密化する事で、日常的な認識のあいまいさを排除し、新たな
切り口による構成的な概念構造を構築しようとする努力である。
しかし残念ながら、その批判の対象となっている「観察者がいて
対象を認識する」とか「絶対時間・絶対空間が先入して存在が
定位される」といった古典的な決定論的世界像は、もはや量子
論的世界像の前に、素朴唯物論として議論の対象ではなくなっ
ているのだ。

時間と空間は、不確定性原理の「位置(S)と運動量(St)、時点(T)
と質量(Ts)の2対の値の不確定性の一方を確定しようとすると
他方が無限不確定に発散する」という相補性に発し、「自我仮説
(記憶(時間の流れ)=過去=超光速)と時空仮説(予測(空間の
広がり)=未来=光速下)の相補分化」に由来するものとして、
認識の外なる独立した存在についての決定論的探求は、歴史的
な知的成果でしかない。
カントの研究は、もはや哲学ではなく、歴史学の対象に過ぎない。
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あまりカントに詳しくないので、間違っているかもしれませんが、「カントが判断表でなく、カテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味を把握しかねています」という場合の、判断表とかカテゴリー表というのは何なのでしょうか?


判断表というのは形式論理学の判断形式だと思いますが、カントはそれをカテゴリーに流用して、それを純粋悟性概念といいました。

古代ギリシャのアリストテレスにとって、カデゴリーとは述語のこと、それに対して主語がヒュポケイメノンといわれるもの、実体とか基体という意味でした。
アリストテレスは10個のカデゴリーを挙げていました。

実体、量、質、関係、場所、時間、状況、所有、能動、受動

このうち、実体は主語であって述語ではなかったので、アリストテレスは苦し紛れに、それを第一実体といい、残りを第二実体といいました。
だけどアリステテレスのカテゴリーは、どちらかといえば恣意的で、カテゴリー同士、重複するところがありました。
アリストテレスにとってカテゴリーとは論理学上の分類でしたが、カントにとってカテゴリーは認識の客観性を保証するものです。
つまり主観的な知覚判断を客観的なものにすること、対象を感覚器官を経由した感覚データを直観の形式である時間・空間で整理・整頓することで、それに形式論理学の判断形式を当てはめて、カテゴリーと総合統一することで認識を客観的なものとして作り上げます。

したがってカントのカテゴリー表は形式論理学の判断形式を流用したものです。
「カントが判断表でなく、わざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったのか」ではなく、形式論理学の判断形式をそのままカテゴリー表として使ったのです。
形式論理学の判断形式とカントのカテゴリー表は同じものだと思います。
その違いは形式論理学の判断形式が、論理的な分類なのに反し、カントの場合、認識の形式、主観的な知覚判断を客観的なものに作り変えるための分類だというだけです。

「したがって、超越論的論理学についての議論においては悟性の統一機能の場を概念間から直観における表象間へと、次元の繰り下げをしなくてはならなかった」

・・・・・と、おっしゃいますが、カントにおいてカテゴリーはアリストテレスとは違って論理学上の区分・分類ではなく、認識論上の分類なので、最初から知覚判断に適用してそれを客観的なものとして作り上げるためのもので、「次元の繰り下げ」などというものではなかったと思います。

カントの哲学は超越論的哲学と言われ、その場合の超越論的とはフッサールとは違い、認識の成立している可能性の条件を遡行して、それを探究するもののこと。
どのような条件があれば、認識の客観性が成立するか、その答えが純粋悟性概念であるカテゴリーでした。
カントはそのカテゴリーの超越論的演繹を行ない、それが対象に適用できることを証明しました。
もっとも、カントは「純粋理性批判」をほとんど書き上げていたのに、その演繹の章を書き上げるのに10年の歳月を要したと言っています。

「なぜ、表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は対象とかかわりあうようになるのか」

・・・・・と、おっしゃいますが、考え方が逆です。
表象ではなく、現象。
外界を感覚器官で感覚データとして受容し、その現象を直観の形式である時間・空間で、整理するだけでは認識は成立せず、それを悟性の形式であるカテゴリーによって総合統一することで初めて、認識が客観的なものとして出来上がります。
そして現に認識が成立している以上、悟性は対象と関わりあわなければならないものですから、なぜ? といって疑問に思うようなものではありません。
認識が成立している以上、そのようになっていると思うしかありません。

カントにとって、カテゴリーは実在ではなく、フィクション、構造主義でいう「構造」のようなもの、あると言えばあるけど、ないと言えばないもの。
それにカントは4×3の12個しかカテゴリーを挙げていないけど、それは形式論理学の判断形式を流用したからで、その12個以外にも、まだあります。

最後にステファン・ケルナーの「カント」より、引用して終わります。

「カントにとって、カテゴリーを適用するとは、純粋直観における多様なものを統一することによって客観的関係を与えることである。客観性の担い手、主観的な印象の単なる集積とは対立する対象が直観において算出されないなら、判断によって客観性を与えることは不可能である。カテゴリーの適用によって客観性を与えるのではないとすれば、直観の内には何らの対象も存在しない。われわれが純粋な多様なものを統一することにより、直観において対象を産出するのでなければ、客観性の何らの徴表も存在しない。そればかりか、直観における対象の産出とカテゴリーの適用とは、同一の過程の二つの側面なのである」
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カントを分析するより、カントと同じ立ち位置に立って


眺めてみれば、よく分かるように思います。

カントを理解しようとするより、カントが観たものを
自分の中で見出した方が、正確に理解できるのではないかと思います。
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