私たちは、手紙などで、「ご健康とご発展をお祈りしています」などと、挨拶を述べることがありますが、実際、あなたは、(1)日常的に「祈る」ことがありますか?
そして、(2)「祈る」方は、どんな場面で、どんな神仏に対して、どんな内容で祈りますか?
(3)祈らない方は、その理由を教えて下さい。
最後に、仏教を信じる方へ、(4)仏教では「神」よりも「仏」が上位にいますが、「読経」をすることが「祈る」ことに相当するのでしょうか?(一寸イメージを浮かべにくいのですが・・・。)
私は、最近、多くの日本人が、「祈り」というものを日常的にイメージできていないのではないか? と感じるようになりました。
いや、そんなことないよ。私は、お正月の初詣からはじまり、年中、寺や神社に参拝すると頭を下げ、手を合わせているよ、という方も多いかもしれません。
けれども、それは、寺や神社、そしてそこに祀られている仏像や神像、そしてそこに漂っている「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と歌われた「神仏の気配」に対して頭を下げ、手を合わせているだけで、果たして「祈っている」のか?という疑問があります。
果たして、目の前にそのような祈る(或いは「拝む」)対象がない時、例えば、自宅や職場や学校で、どの程度、ひとり心の中で「祈る」という習慣をお持ちなのか疑問に感じ、この質問を致します。
その点、長年カトリック信者であった私は、教会の聖堂で毎日曜日にミサの中で祈るほか、いつ、どんなところでも、自然に「祈る」習慣がついています。祈ることによって、自分の願望はきっと成就すると信じています。
祈る内容・対象は、
・自分や家族や友人・知人の健康(特に病気からの回復など)や幸せのため、
・或いは、今やっている仕事やプロジェクトがうまくいきますように、
・・・といった「御利益」を願うこともありますし、
・自分の心の清浄を願うこともありますし、
・世界や社会の平穏を願うこともありますし、
・感謝を捧げることもあります。
多くの皆さんからのご回答をお待ちしています。
回答に添えて、年齢・性別・あなたの宗教(仏教・神道・キリスト教・その他宗教・特定の宗教の信者ではないいわゆる「無宗教」・明確に宗教を否定する「無神論」など)を併記して下さい。
No.5
- 回答日時:
君の様な祈りの姿勢と内容は、ご利益神様と言われて江戸時代位には明白に軽蔑されていた。
現在でも宗教が嫌いな人はあんたみたいなのを軽蔑する。
無を信じることは無言である事でもある。
君の様な祈り方とは、自らの欲望にいたたまれなくて、神に八つ当たりする浅ましい祈りだ。
君はすでに日本人でないよ。
奴隷として西洋に魂を売り飛ばしたのだ。
お言葉ですが、人の信仰のあり方についてとやかく言いっこなしだと思いますよ。
ご利益とおっしゃいますが、キリスト教の「祈り」の中心は、まず、自分の心のありかたをよくするように祈る、ことであって、「御利益」一辺倒は当たらないと思います。
むしろ、自分や家族や友人・知人や社会に対して、よかれ、と祈りを捧げることは、何ら責められることではありません。たとえ「御利益」のためであっても、それが神の意向に沿うことであれば、何らやましいことはありません。キリストが言われた有名な言葉にもありますよね。「求めよ、さらば与えられん」と。
勿論、願いが全てかなえられるわけではなく、病気が治らず死に至ることもあれば、大災害で命を落としたりすることもあります。ですから、出来れば、このようになってほしい、と祈るにしても、(神様の)「みこころのままになりますように。」という文句を足すようにしています。
又、仏教では、「無」や「空」の境地を重んじ、「欲」を少なくし、人間も仏のように達観した気持ちになるように勧めます。それはそれで、立派な教えだと思います。
最後にくぎを刺しておきますが、信仰には洋の東西もありません。何教であろうと、いいものはいい、私は、何度も言いますが、キリスト教も仏教も神道も夫々崇高な教えだと考えています。
一方、宗教や神仏をないがしろにする人間とは、正直距離を置きたいと思っています。
No.4
- 回答日時:
個人情報のすべては答えないが、団塊世代の男性、家の宗教として日蓮宗。
神社によく参拝。自宅に仏壇と神棚あり。私の信仰行為の説明から回答を読み取ってもらいたい。日常的に祈りと拝む行為があり、その時々で両手と片手で区別しています。仏壇と神棚は両手ですが、通リすがりのお地蔵さんや托鉢僧には片手拝みます。意識するのは仏様の教えで人生の行動指針です。神様への気持ちは持って生まれたものです。
仏様と神様の関係はX軸とY軸のようです。仏様は釈尊であり、神様は神ではありません。神様と称するのはもともと人間であった神様です。遠い先祖だと思っています。その意味で○○教という神教には関心がありません。従って創造主のような神の存在は信じておりません。お寺よりも神社によく行きます。お寺も宗派にはこだわりません。××学会は○○教のようで興味がありません。教えと言えるのは仏様の仏教で、信仰と言えるのは神様の神道です。
普段の祈りは感謝の心です。家族の病の時などは病回復を願いと自分の努力を誓います。世界平和を祈るような社会的なものは一切ありません。自分の心は祈ってもどうにもなりません。すべてが家族のことばかりです。社会的なこと宗教と区別しています。この点は日蓮と異なるが、浄土より現世が大事との点で日蓮に異論はありません。仏教宗派にもこだわらないのは釈尊に関心があるからです。日本の宗派の開祖の教えも興味深いものがあります。現代訳のお経や仏教の本はよく読みます。
神道については神社由緒に関心があります。お寺と神社は各総本山や神宮・大社クラスは全部参拝しています。地鎮祭の神様が神棚の神様でもあるのですが、毎月の参拝と正月の祈祷に行きます。前述のように創造主のような神は私の中には居ません。したがってキリストやイスラムはまったく関心がありません。
ご丁寧に色々教えて頂き、有難うございました。
「祈る」と「拝む」とは異なり、その時々で両手と片手で区別されているのですね。
実は、そのあたりの微妙な違いについて、以前質問したことがあります。↓
祈る?拝む?手を合わせる?http://okwave.jp/qa/q7997765.html
仏様は「行動指針」で、「教え」に相当し、神様への気持ちは「持って生まれたもの」、つまり自分と縁つながりの先祖に対する崇拝であり、「信仰」と言えるのですね。
仏教と神道が、昔から神仏習合の影響もあり、仏様と神様が縦軸と横軸のような関係にあるという感覚はわかります。
一方で、キリスト教の祈りの中心である、自分の心のありかたや社会・世界に対する祈りそ創造主である神に捧げるというものではなく、家族の幸せと感謝に終始するというのは、大きな違いです。
大変勉強になりました。
No.3
- 回答日時:
一度書いたのですが
>回答に添えて、年齢・性別・あなたの宗教(仏教・神道・キリスト教・その他宗教・特定の宗教の信者ではないいわゆる「無宗教」・明確に宗教を否定する「無神論」など)を併記して下さい。
の個人情報公開に個人的興味の充足意外に意味があると思えないので、一旦キャンセルしました。
学術的な統計などなら、こんな所には書かないでしょうし。
(1)日常的に「祈る」ことがありますか?
なし
(2)「祈る」方は、どんな場面で、どんな神仏に対して、どんな内容で祈りますか?
今は神仏には祈りません
(3)祈らない方は、その理由を教えて下さい。
自分が必要としていないから
祈りではないですが、人の幸せを強く信じることはします。
それで十分だと言うことを理解したので、祈りの対象は持たなくなりました。
感謝はします。
対象は個から全てまで、気が向くままに。
No.2
- 回答日時:
別に誰に、でなくていいんですよ。
「ありがとう」「もうしわけない」と言えば祈りです。空に向かってもいいし、太陽や月や星に向かってもいい。壁に向かっても構わない。誰にとかどの神仏にではないんです。
風呂に入ったときに「今日も一日有難うございました」でもいいし「無事に夜を迎えられて良かった」でもいい。誰にではなく「お休み」「おはよう」「いただきます」「行って来ます・ただいま」これ全て『いのり』です。
私は祈りは声に出すべきだと考えています。カトリックだって声に出しますよね。
神道でも本来願いは声に出さねばいけないんです。声という形にするわけです。
「祈り」というのは「意」「法り(のり)」です。法るとは声に出すことを言います。つまり心の中の意を声に出すから「祈り」です。
神道の祝詞」も「法り」「吐」声に出して吐くなんだそうですよ。
つまり心の中で念じて、人に言ってはいけない・・なんて嘘なんです。
声に出し、形にすることで願いは叶うんです。
この回答への補足
お礼欄に
「自然などの森羅万象と一体になりたいという気持ちと、それらを想像した神を崇拝する気持ちは、はっきりと一線を画するべきものと思っています。そこらへんが、キリスト教徒としての「矜持」かもしれません。」
と書きましたが、これは、私がキリスト教徒になってから学んだ、いわば「後付け」の思想であり、根っこの所では、東洋的ともいえる、「自然や大宇宙と一体になりたい」或いは「崇拝したい」という気持ちはよく理解できます。神道の「天照皇大神」も太陽の象徴ですよね。
回答者さんのご意見を、私は今まで随分共感をもって伺っていました。
しかし、今回は、随分隔たった印象を抱かざるを得ません。
私も、宗教信仰の背景には、森羅万象に対する感謝の気持ちや挨拶があると思うんです。
しかし、自然などの森羅万象と一体になりたいという気持ちと、それらを想像した神を崇拝する気持ちは、はっきりと一線を画するべきものと思っています。そこらへんが、キリスト教徒としての「矜持」かもしれません。
又、祈りは必ずしも声に出して言う必要はないと、むしろ声に出す必要はないと思います。
ただ、教会のミサでは、ご承知の通り、皆で声を上げて祈りを捧げ、聖歌を歌います。その方が、お互いに共鳴しやすく、分かりやすいからではないでしょうか? それでも、信徒は、そうしたミサの典礼の間に、個々にひざまずき、黙って祈りを捧げます。
No.1
- 回答日時:
まず最初に、一言。
「回答に添えて、年齢・性別・あなたの宗教(仏教・神道・キリスト教・その他宗教・特定の宗教の信者ではないいわゆる「無宗教」・明確に宗教を否定する「無神論」など)を併記して下さい。」
は、個人情報を開示しろと言っているのですから、すこし問題があるのではないですかね。
質問者さんのプロフィールを拝見いたしましたが、ご自身の年齢は秘していらっしゃるのに、回答者にはそれを明かせというのは、如何なものでしょうか?
実家の宗教が真言宗(檀家です)なので、わたしも、一応、真言宗徒ということになるのでしょうね。
と同時に、わたしは、神社の氏子でもあります。
―――わたしの実家のある集落に神社があり、この集落で神社を管理しているので、好むと好まざるとに関わらず、生まれたら氏子になってしまう。そして、この神社の修繕などが行なわれるとき、寄進のお願いが来る―――
☆(1)日常的に「祈る」ことがありますか?
◇いわゆる宗教的な「祈り」をすることはありません。
☆(2)「祈る」方は、どんな場面で、どんな神仏に対して、どんな内容で祈りますか?
◇「祈る」とすれば、お不動さまとお地蔵さん、そして、お大師さま。
実家の目の前には「不動堂」があり、すぐ横には「お地蔵さん」が祀られていて、
私にとっては非常に近しい存在であり、ごくごく素朴な信仰、慣れ親しみを持っています。
ですが、手を合わせたりはしません。
☆(3)祈らない方は、その理由を教えて下さい。
◇神仏の像に祈っても無駄だから、願いがかなえられることがないから。
☆(4)仏教では「神」よりも「仏」が上位にいますが、「読経」をすることが「祈る」ことに相当するのでしょうか?
◇基本的に、「読経」は「祈り」にならない。
読経は、聖書を音読するようなものですよ。
☆私は、最近、多くの日本人が、「祈り」というものを日常的にイメージできていないのではないか? と感じるようになりました。
◇まず、質問者さんが、「祈り」をどのようにとらえているのか、それを明らかになさるべきだと思います。
もし、この「祈り」が神さまへの「お願い」ならば、日本人はしていると思います。
☆けれども、それは、寺や神社、そしてそこに祀られている仏像や神像、そしてそこに漂っている「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と歌われた「神仏の気配」に対して頭を下げ、手を合わせているだけで、果たして「祈っている」のか?
◇「祈り」ではありませんが、祈りよりもはるかに深い宗教体験だと思います。
☆果たして、目の前にそのような祈る(或いは「拝む」)対象がない時、例えば、自宅や職場や学校で、どの程度、ひとり心の中で「祈る」という習慣をお持ちなのか疑問に感じ、この質問を致します。
◇これは「偶像崇拝」なのではないですか?
イエスは、教会に飾られている十字架ですか?
それとも、神は天(国)にいるのですか?
☆その点、長年カトリック信者であった私は、教会の聖堂で毎日曜日にミサの中で祈るほか、いつ、どんなところでも、自然に「祈る」習慣がついています。祈ることによって、自分の願望はきっと成就すると信じています。
◇ほ~、それはそれは、ご立派なことです。
~~~~~~
・自分や家族や友人・知人の健康(特に病気からの回復など)や幸せのため、
・或いは、今やっている仕事やプロジェクトがうまくいきますように、
・・・といった「御利益」を願うこともありますし、
・自分の心の清浄を願うこともありますし、
・世界や社会の平穏を願うこともありますし、
・感謝を捧げることもあります。
~~~~~~
これらのことは、誰もが心の中で願っていると思いますが…。
また、ご飯を食べる前に手を合わせて「いただきます」と、そして、食べ終わった後に「ごちそうさまでした」と言うのは、
それを作った人や、ご飯やオカズになった他の生き物、そして、自然への感謝の念を表わすものですよ。
ひょっとしたら、
質問者さんよりも、三度三度、こうしたことする人の方が《(神の)恵み》について知っているかもしれませんよ。
と言うことでよろしいですか。
にしても、何故、それほど信仰の形にこだわるのですかね~。
待ち焦がれた回答でしたが、いきなりこのカテの大御所の眠り猫にゃさんが来られてびっくりしました。
個人情報の件については、確かにおっしゃる通りで、直接必須な情報ではありませんね。管理人さんに削除をお願いしようかと思いましたが、2日経つうちに9つも回答を頂いたので、今更削除出来なくなり、すみません。
回答者様にとって、
(1)お不動さまとお地蔵さん、そして、お大師さまは、大変近しい存在であるようですが、「祈る」対象ではないとのこと、
(2)祈らない理由は、祈っても願いがかなえられることがないから、と初めから冷めておられること、
(3)「読経」は「祈り」にはならず、聖書を音読するようなものだとのこと。
・・・とここまで読んでも、私や周りのカトリック信者とは、大きな感覚の相違があることに気づきました。
私やカトリックをはじめとするキリスト教信者にとって、「祈り」は「信仰」の骨格をなすものであり、絶対神である「神」(「ヤーウェ」などの呼び名もあるにはあるが、通常は単に「神」あるいは「主」と呼びます。)を賛美し、自分の罪を告白し、より良い人間になれるように祈願し、家族や友人や社会の人々の健康や平安を祈り、感謝の言葉も述べ(その他質問文に書いた通り)、心から神(「神の子」として人間に生まれたキリストや「聖霊」も含める)との人格的な交流を目指すものです。
尚、「偶像崇拝」の意味を多くの方はよく理解しておられないと思うのですが(私も完全にはわかりません)、神でないもの(例えば、人間や動物や自然物など)を「神」として拝むな、ということと、文字通り、彫像などをそのまま祈りの対象とするな、と言うことと思います。まあ、それを文字通り取ると、仏像やキリスト教の十字架に掛かったキリスト像やマリア像などもそれに当たるということになってしまうかもしれません。しかし、我々は、そうした彫像自体を祈りの対象にしている訳ではなく、その背後にある仏様やキリスト・マリアを祈りの対象にしている訳であり、あまり「偶像崇拝」について厳密に捉えることはばかげたことだと、私は思っています。この点に関しては、私の以下過去問への回答No.1をご覧下さい。
信仰を目的とする,道具的存在としての偶像についてhttp://okwave.jp/qa/q7298873.html
これに対して、回答者様の「神」への接し方は、「友達」のような「素朴な慣れ親しみ」の対象ではあっても通常、私どもが「神」に対して抱くような「崇拝」ないしは「信仰」の対象ではないのでは?と思えてきてしまいます。
尚、三度の食事ごとに手を合わせたり、「お天道様が見ているから悪いことは出来ない」といった日本人に身に着いた感謝や見えない力に対する畏敬の心もまた、「宗教心」の表れであるとは、私も承知しているところです。
私は、このサイトで何回も述べている通り、カトリック信者でありながら、仏教や神道はじめとした宗教や日本の伝統文化にも深い敬愛を抱いており、坐禅や読経の経験もあり、かつて、家族の無事を「祈る」ために、寺で読経を挙げてもらったこともあります。(以下、過去問ご参照)
法事以外で寺にお経を上げてもらったことありますか? http://okwave.jp/qa/q6969735.html
又、私の祖母は、夫々の宗教における神の呼び名は違っても、頂点は同じ神であり呼び名が違うだけと信じ、夫々の宗教の神を平等に崇敬し、「祈って」いました。
私にとって、神仏は、間に介在する宗教にかかわらず「祈る」対象であり、それ以外の関係は想定しにくいという事情があります。この辺については、最後に以下の私の過去問をご覧下さい。
「普通名詞としての神」に祈ること http://okwave.jp/qa/q7321056.html
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